佐野 慎輔
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
佐野 慎輔
男子はマルセル・フグ選手、女子はマニュエラ・シャー選手が優勝(クラスT34/53/54)
大分国際車いすマラソン大会 スタート地点
ことしも大分の街を駆ける『大分国際車いすマラソン大会』が秋晴れの11月17日に開かれた。大分県庁前をスタート、大分市営陸上競技場をゴールとするコースに日本を含む19カ国から236選手がエントリー。沿道の観客から暑い声援をうけた。
もし、中村裕がこの光景を見ていたら、なんと思うだろう。レースを見守りながらそう考えていた。
大会はすっかり晩秋を彩る風物詩として定着、ことし39回を数える。ハーフマラソンには14歳で初出場した福岡の中学生から、徳島の93歳になる最年長ランナーまで幅広い年齢の人たちが出場。39回連続出場の3人も含め、車いすランナーの目標となって久しい。東京マラソンのように市民マラソン大会と併設して開かれている大会が多いなか、車いすレース単独としてこれだけ長く続いている大会は世界に類を見ない。
エリート選手が集まるマラソンT34/53/54で実に8度目の優勝を飾ったスイスのマルセル・フグ選手はこう話す。
「ここは特別なところです。大分はとても大切なレースで毎年、大分に来ることを楽しみにしています」
15日に閉会したパラ陸上の世界選手権から転戦、疲れもあったはずなのに、レース後の笑顔とともに力強い走りを披露した。
まさに奇跡のような大会と言っていい。大会事務局の渕野勇事務局長は「大会を創られた先人たちの努力、その思いを受け継ぎながらいい大会にしていきたいという責任感ですね」と話す。事務局は県障害者社会参加推進室長でもある渕野さん以下17人、8月末に県庁内に事務局を立ち上げ、大会準備に追われてきた。「いえ事務局だけではなく、県民、市民、そして2,000名を超えるボランティアのみなさま方と一緒になって意識を共有してきた結晶です。多くの方々の協力があってここまで続いてきたのです」
大分車いすマラソンの参加選手たちが商店街をパレード
世界パラ陸上競技連盟公認大会として、世界のトップ大会のひとつに数えられる。しかし、権威めいたところはなく、手作り感は満載。大会前日の開会式は大分の繁華街、アーケードの入り口にあるガレリア竹町ドーム広場で開かれた。買い物や食事に訪れた人たちが立ち止まり、選手たちの会見に聞き入る。地元の高校ブラスバンドに先導されて車いすの選手たちが街なかをパレードすると、あちらこちらから声がかかる。「がんばって」「あした楽しみにしているよ」
フグ選手の語る「ここに来るのが楽しみ」な交歓風景だ。鈴木大地スポーツ庁長官に同行したスポーツ庁健康スポーツ課の矢野直香さんは隣の別府市出身。「毎年楽しみに見に来ていました。季節感といってもいいかもしれませんね」
「日本パラリンピックの父」中村裕
photo:社会福祉法人 太陽の家
大分の街並みは段差がなく、歩道が広く取られ、余計な障害物がないから車いすで走りやすい。矢野さんによれば、「車いすで走っているひとはあたりまえの風景、ごく自然なこととして目にしてきた」という。
思えば1981年、国際障害者年に合わせてこの世界初の車いす単独大会が始まった。呼びかけたのは「日本パラリンピックの父」と呼ばれた医師、中村裕である。
「先生、僕らもマラソン大会に出たい」
中村は開催に尽力した1964年東京パラリンピックの翌年、別府に障害者の社会復帰を支援する福祉法人『太陽の家』を創設。スポーツによるリハビリに力をいれていた。その『太陽の家』入所者である車いすランナーからかけられた言葉がきっかけとなった。
スポーツをする楽しさに目覚めていた彼らの一人が、1975年からボストンマラソンに車いす選手も参加していることを聞きこんできた。大分には戦後間もない頃から開かれている日本有数の『別府大分毎日マラソン』がある。ちょうど別府の折り返し地点が『太陽の家』のそばだったこともあって、「出てみたい」となったようだ。
しかし、県陸上競技協会の回答は「マラソンとは二本の脚で走る」という定義に従い、「NO」だった。ただ「単独開催ならば…」との言葉を引き出し、中村は開催にむけて走り出した。それがこの大会である。
「障害者だからといって特別扱いすることはない。ただ、彼らに機会を与えてほしい」-中村の信念がこの共生社会のモデルのような大会を生んだ。
中村は国立別府病院整形外科医長だった1960年、九州大学医局の恩師、天児民和教授の勧めで英国ストークマンデビル病院を視察、「パラリンピックの父」ルートヴィヒ・グットマン博士のもとで身体障害者のリハビリにスポーツが効果的だと学んだ。日本ではまだ、障害者は病院や家の中でひっそりと暮らしていた時代、ましてスポーツするなど考えもつかなかった頃である。
周囲の冷たい反応にもめげず、1961年には大分県身体障害者スポーツ大会を創設、64年の東京パラリンピック開催に道を開いた。75年にはアジア、太平洋地域の障害者によるスポーツ大会「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」通称フェスピックを創設し、別府で第1回大会を開催した。現アジア・パラリンピック競技大会の前身である。同時に社会福祉法人『太陽の家』とオムロン(当時は立石電機)やソニー、ホンダ、そして三菱商事や富士通、デンソーといった日本を代表する企業と一緒に合弁会社を創り、障害者の雇用を進めたことはつとに知られる。
中村はそうした活動をしっかり根付かせて1984年7月、57歳の若さで風のように逝った。しかし、その精神はいまに残る。
「No Charity, but a Chance!」
いまや、中村の思いに賛同したトップ企業が『大分国際車いすマラソン』のよき理解者となり、毎年応援団を編成して声援を送り続けている。三菱商事などは社員ボランティアを募り、会場整備や選手の受付など運営に大きな役割を果たしている。中村の撒いた種が実り、渕野さんの言う「意識の共有の高まり」となっていった証明ともいえよう。
2020年東京パラリンピック開催に向けて、国内の障害者への意識の高まりを感じることは少なくない。しかし一方で、これは今に限られた現象であって、いわゆる"パラリンピック・バブル"ではないかと思うこともある。2020年、大会が終わるとともに次第に人々の盛り上がりは冷めていき、膨らんだ風船はしぼんでしまうかもしれない。
不躾に渕野さんに聞いた。「39回も続いてきた理由はどこにあるのか」と…。
「大分には障害者スポーツの先進県としての自負があります。自分たちが育ててきた大会だからと毎年毎年、地道にかかわってきました。そうした意識とともに、変えるべきところは変えてきました。これからも時代に合わせて変えていきたいと思います」
チャールズ・ダーウィンの進化論は、「生き残るものは強いものではなく、変化できるものだ」と説く。この大会をモデルに新たな機会創出を考えている自治体の視察が相次いでいる。「やはり、時間がかかりますよ」と話す渕野さんの言葉に39年の歳月の重さを思う。各自治体が心すべきことであろう。
男女マラソンT34/53/54の優勝者には「中村裕賞」が贈られている。
2020年は東京パラリンピック開催とともに、『大分国際車いすマラソン』は40回の節目を迎える。渕野さんは言う。
「やはり情報発信が重要ですね。この大会も知られているようで、まだ隅々にまで知られているわけではありません。どう周知していくか、みなさんの協力を仰ぎながら、理解を広めていきたいと考えています」
笹川スポーツ財団も今年から後援に名を連ねた。スポーツ・シンクタンクとして何ができるのか考え、実践していく必要があろう。
願わくば、大会にもう少し創設者中村裕の功績を語る場面があってほしい。男女マラソンT34/53/54の優勝者には「中村裕賞」が贈られている。ことしも『太陽の家』の山下達夫理事長がフグ選手、そして女子の部で自らの世界記録を更新し4度目の優勝を飾ったスイスのマニュエラ・シャー選手に記念の盾を授与した。
しかし、そうした顕彰だけではなく、なにか未来に中村の存在を語り継ぐ
障害の有無に関係なく誰もがスポーツを楽しめる共生社会の実現、障害者スポーツの日常化に向けた調査・研究活動を行っています。国内に障害者を受け入れる施設はどの程度存在するのか?利用者数は?障害者が施設を積極的に利用するために必要なことは?調査データ、外部組織との共同実践研究、得られた結果からの提言を通し、障害者のスポーツ環境の充実に向けた調査・研究活動です。