2023.10.19
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.10.19
冬季オリンピックに「日本」が登場するのは1928年の第2回サンモリッツ大会。そこから日本人選手が表彰台に立つまで28年の時が流れた。1956年の第7回コルチナ・ダンペッツォ大会アルペンスキー回転で猪谷千春が獲得した銀メダルは、欧米以外の選手が初めて手にした歴史的なメダルであった。
「もう65年以上も昔の話ですからねえ……」
しみじみと話す猪谷は91歳、まだ矍鑠としてスポーツ関係の集まりに顔を出し、頼まれれば講演も執筆もこなす。
「この歳を迎えても、とりあえず元気に日々を楽しく暮らしていられるのは、2歳からスキーを履いて、ずっとスポーツに親しんできたからです。その意味ではほんとうに親に感謝していますね」
猪谷千春(左)と父・六合雄(1950年)
猪谷の父、六合雄は草創期の日本スキーの草分け的な存在であり、雪を求めて各地を移り住んだ“自由人”だった。
1890年、群馬・赤城神社神官の息子として生まれた六合雄は若くして赤城山の麓、大沼湖畔で猪谷旅館を営む母を助け、主人となる。旅館の客だった志賀直哉や高村光太郎らと交流、絵を描き、写真に親しむ生活をしていた六合雄がスキーと出会うのは1914年1月のようだと高田宏の名作『猪谷六合雄』は綴る。
前橋から続く雪道に2本のシュプールをみつけ、それが何の跡かわからず、家の前まできたら2本の長い板が立てかけられてあった。猪谷旅館に泊まりに来た学生が履いていたスキーらしく、関心をもった六合雄がスキーを自作する話が自著『雪に生きる』にある。
スキーに魅せられた六合雄はほぼ独学で滑走技術を研究し、1924年にはひとり「スキー行脚」と称した旅に出る。五色温泉などに立ち寄り、青森・大鰐へ。さらに北海道に渡って札幌、小樽で滑り、稚内から樺太にまで行くなど気ままな“放浪”の旅だった。
翌1925年冬、赤城山の自宅前のスロープで練習中、ジャンプのおもしろさを知った。斜面途中に積んでいた薪の上に雪が積もり、自然のジャンプ台になっていたことに気づかずに滑走、体が空に浮いたことがきっかけだ。以来、いくつも雪の台をつくっては飛ぶ生活が始まった。
飛んでは転び、転んではまた飛ぶ。目を突いて失明寸前になり、捻挫や打撲を繰り返す。『ジャンプ台を幾度飛び降り傷つきし猪谷六合雄かもわれは尊ぶ』と詠われたのはこの頃のことか。
18歳年下のサダと結婚したのは1926年、すぐに新妻をジャンプ台のそばに立たせた。空中姿勢の写真撮影と、ジャンプの失敗で負傷し動けなくなって凍死することを防ぐ目的である。やがてサダもまた小さなジャンプ台を飛び始めた。日本初の女性ジャンパーの誕生だった。
ふたりが雪を求めた長い旅に出るのは1929年5月。まず前年のサンモリッツ冬季オリンピックに出場した麻生武治を伴い、立山弥陀ヶ原にジャンプ台をつくって半月ほど飛び、高田に出て妙高高原へ。麻生と別れて栃尾岐に逗留。そこから秋田、青森を経て北海道に渡る。駒ヶ岳から小樽、札幌を経て釧路。斜里から網走を経て雌阿寒岳、雄阿寒岳に登り、摩周湖あたりで体を整えて根室から千島列島の国後島に渡った。目的は択捉島だったが、古丹消の村が気に入り、小屋を借りてベッドやテーブルなどを自作し、暮らし始めた。その間、六合雄は一度、赤城山に戻って旅館を姉に任せ、大工道具やお気に入りの蓄音機や写真撮影機を携えて戻る。自分たちの小屋を建て、本格的な北の暮らしを始めた。
雪が降ると、ゲレンデやジャンプ台をつくり、村の若者や子どもたちにスキーの楽しさを教える。春になると畑を耕し自給自足。必要なものは自作する。1931年5月、その国後島古丹消でふたりに長男が生まれた。「千島の春」に生まれたことから千春と命名された。
千春は2歳からスキー板を履いた。猪谷は話している。「両親が日本のスキーの草分けだったから、自然に……」と。確かに両親には自分たちが親しんだスキーを早く経験させたい思いがあったろう。
丸木橋を渡る千春少年
小屋から岩に渡した1本の丸木橋を少年がバランスを取りながら歩いている。小学6年生の猪谷千春の写真(左)だ。
猪谷一家は1935年9月、永住を決意していた国後島を引き揚げた。六合雄の膝の古傷が悪化し回復後もジャンプは難しいとされたこと、子どもの教育も念頭にあった。
10月、1933年夏に生まれた弟の千夏が亡くなった。一家は悲しみを忘れるかのように山スキーの練習に励む。赤城山を中心に万座や鹿沢、熊の湯、発哺に霧ヶ峰、菅平、そして乗鞍や立山……。スキーをしながら、千春の小学校入学に向けて引っ越し先を探した。
1938年4月、小学校入学。11月に乗鞍の麓の番所に居を定めた。村の斜面を整備しゲレンデを創った。猪谷はここで技を磨いて各地の競技会に出場していく。
そして1943年、11歳の猪谷は日光で開かれた明治神宮国民錬成大会で前走を務め、大人の優勝者をうわまわる記録で滑って周囲を驚かせた。「天才少年現る」の表現とともに、その名が知られていく始まりだった。
雪が積もった屋根をスキーで滑る猪谷千春
六合雄は独特のトレーニングを考案、千春を鍛えた。学校のある日は帰宅後に練習。冬の月明かりの深夜に滑ることもあった。学校のない日の練習は朝9時から夕方、日が落ちるまで。柴刈りに薪割り、薪を背負って20㎞あまりの山道を登り降りした。さらに旗門をみるための目が大切だと読書する本との距離をはかり、両手を均等に使えるよう箸を交互の手で使わせた。次第に競技スキーにのめり込んでいく六合雄には鬼気迫るものがある。一度気になったら、とことんやってみなければ気が済まない。その気質の現れだったか。
「子どもらしい遊びもさせてもらえなかったし、楽しい思い出はなかった」
と猪谷は言う。しかし、雪を求める旅は終わらない。
1943年、夏に群馬県土樽、秋には青森の浅虫温泉に引っ越した。翌年、旧制青森中学(現・青森高)に入学したが、終戦間際に空襲で校舎が全焼。食糧難も手伝い、1946年に一家はみたび赤城山に戻ってきた。1948年10月に志賀高原に越すまで、猪谷は独学で英語を勉強、六合雄の勧めで東京・代々木のワシントン・ハイツにあった進駐軍の将校宅に住み込み、ベビーシッターを務めたこともある。将来、欧米でスキーを学ぶためだった。
そんな千春を支え、人前に出ても恥ずかしくないようにと厳しくしつけたのがサダである。サダはまた、若い人たちにスキーを教えた。猪谷夫人の芳江も若い頃、サダから手ほどきをうけた。
「いつもお菓子を用意してくださり、優しく折り目正しい教えでした」
1952年オスロ冬季大会に出場した猪谷
やがて、猪谷は六合雄のスキーを通した友人でありスポーツ用品メーカー美津濃(のちミズノ)のマネジャーだった田島一男の勧めで高校に復学。田島の家に寄宿し、都立大泉高に通学する。そして1951年、新潟・妙高高原で行われた第6回国民体育大会で優勝し、1952年第6回オスロ冬季オリンピックの日本代表に選ばれた。
猪谷のその後の人生は、まさにそのオスロ大会が転機となった。
1951年11月30日、高校3年生の猪谷は神田に参考書を買いに出た帰り、ふと思い立って田島がマネジャーを務める数寄屋橋にある美津濃のショップに立ち寄った。店に入ると、田島と長身の外国人男性が話し込んでいた。猪谷の姿をみつけた田島が手招きし、その外国人男性に向かってこう告げた。
「彼が来年2月にオスロで開催されるオリンピックの日本代表の猪谷くんです」
彼は笑顔で猪谷に握手を求めた。話によると、美津濃に注文したスキー板を受け取りにきて、性能を確かめようと板の上部を大きく曲げていたら接着面がはがれてしまった。状況を聞いた田島が謝罪し、新しく作り直すことで話が済んだあと、スキー談義となってオスロ大会の話をしていたという。
その外国人は、日本が予定する1月中旬でのオスロ入りでは遅すぎる、国際大会では早く現地入りしてコンディションを整えなければならないと強く言った。しかし田島は、日本には早く選手をオスロに送って練習させるだけの資金がないと説明するしかなかった。第二次世界大戦の終戦から7年足らず。日本は国際連合に加盟前で、ようやくIOC加盟を果たしたばかり。何もかもが準備不足だった。
翌日、その外国人から連絡があった。
「自分が費用を出すから、すぐに出発してアメリカ代表と一緒に練習すればいい」
と。そして田島の尽力もあって話は進み、彼と親しかった連合軍最高司令官マシュー・リッジウェイの配慮で当時外交関係のなかったオーストリアのビザを取得。同じ代表の水上久とふたり12月20日、アメリカチームが合宿するオーストリア・サンアントンに旅立った。
彼の名は、コーネリアス・バンダー・スター。世界的な保険会社AIUの創業者で、ストー・スキー場も保有するスキー愛好家である。中国・上海で保険事業を起こし、アジア人に対する強い思い入れもあり、非凡な才能をもつ若者を経済的に支援していた。
恩人に導かれて出場した初の国際試合、オスロ大会の成績は大回転20位で滑降が24位、回転は11位と予想以上の成績だった。何より日本のスキー界では異端視されていた体重移動が世界のトップ選手と同じだとわかり、大きな自信を得た。そしてオスロから米国へ、ストー・スキー場で開催された全米選手権で2位に入り、自信を深めるのだった。
それにしても、もし猪谷が美津濃に立ち寄らなければ、スキーを破損したストーがそこに居合わせなければ、また田島が猪谷を紹介してくれなければ……、運命の糸はどのような絵柄を織り上げただろう。
「あの出会いが人生を変えました」
と猪谷は感慨深く話す。猪谷はやがてスターの勧めで1953年9月、入学した立教大学を辞めてアメリカ東部の名門ダートマス大学に入学。1957年に卒業後、1959年春からAIUに勤務し、後に日本法人の社長として実業界で活躍する。それらはみな、1956年コルチナ・ダンペッツォ大会の後の話である。
1956年コルチナ・ダンペッツォ冬季大会で銀メダルを獲得した猪谷
1956年1月31日、アルペンスキー回転コースは霧が深く、視界が悪かった。気温も低く、足がすぐ冷たくなる猪谷はウエアを幾重にも着込み、覚えた旗門設定を頭で復誦しながら足を動かし続けてスタートを待った。
「1回目は慎重に、2回目で勝負」
代表監督の野崎彊と猪谷との間で作戦はできていた。スタートは第1シード7番目。高い姿勢から力強いリズムで滑り1分30秒2、この時点で2番目だ。結局6位に落ちたが、1回目トップの優勝候補オーストリアのトニー・ザイラーから2秒9差、悪くはない。
猪谷は前年11月初頭、足腰の強化と肺活量アップのために取り入れたサッカーの練習中に左足首を捻挫した。完治まで腕立て伏せなどで鍛えながらフォームの写真や映像をみるイメージトレーニングを実行。治るや否や予定より2週間早くヨーロッパ入り、他の選手たちとは離れて実践練習を繰り返した。
回転に先立つ大回転で11位に入った。そしてこの日も1回目6位。ダートマス大学で練習を重ねて主将として活躍、その実戦経験から第1シードになったことで弾みがついた。
勝負の2回目、旗門は78から92に増えたが猪谷は躊躇せず突っ込んだ。ところが、第4旗門を猛烈な勢いで滑って第5旗門を通過したとき、スキーの先端が浮いた。体勢を立て直す間もなく左回転で第6旗門へ、ここで右側のスキーが外側ポールの外に出た。とっさに右側スキーの先端を180度開いて後ろ向きにし、外に出たスキーを旗門内に引き込み、左側のスキーに乗ったまま旗門を通過した。野崎が「サーカス・プレー」と大会報告書に記した瞬間動作だ。そのときポールが倒れた。
「もしかしたら“片足反則”をとられるかもしれないと思った」
と猪谷は言う。片足反則とは当時のルールで、片方のスキーだけで旗門を通過した場合はタイムに5秒加算される。これはその後、両足通過でなければ不通過とするルールに改変された。このときの猪谷がきっかけであった。
ともあれ「あとはガムシャラに滑って」1分48秒5、この時点で2回の合計タイムでは3分18秒7で1位。その後ザイラーに4秒抜かれて2位になったが、メダル圏内だ。しかし第6旗門が左側の片スキー通過と判断されれば、5秒加算されて5位まで落ちる。
猪谷は疲れ果てたように脱力していた。メダルにからむ4位アメリカや3位スウェーデンからクレームが出され、決定まで30分は悠に待たされた。最後はイタリア人審判の「通過」判定が決めてとなった。まるで4時間から5時間は待たされたように感じ、やきもきしていた日本の報道陣は、銀メダル決定の瞬間、大騒ぎになって弾けたと毎日新聞記者で全日本スキー連盟理事だった堀浩は書いた。
猪谷六合雄は朗報を志賀高原で知った。
「千春が銀メダルを獲った。オリンピック・メダリストになった」
「私たち親子の生活と歳月は、まさにこのためにあったといっても、けっしていいすぎではない」
と書くとともに、
「多くの方々の暖かい好意と助力、そして幸運が、このしあわせをもたらしてくれた」
と続けた。父親らしい感慨である。
表彰式はその夜、山塊を背景に、小雪がちらつくなかを日の丸が高くあがっていった。照明がそれをあかあかと照らした。
「日の丸はいいものだ――と思った」
猪谷はそのとき初めて、片足反則をとられなくてよかったと思ったという。
このコルチナ・ダンペッツォの銀メダルは日本の冬季オリンピック史上に燦然と輝く。アルペンスキーに限れば、2006年トリノ大会回転で皆川賢太郎が4位と近づいた以外、未だにだれも表彰台にはあがっていない。
そして猪谷は1982年にIOC委員に就任、2度の理事、副会長歴任。自分を育ててくれたオリンピック運動に今もなお携わっている。