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オリンピック柔道史上最多メダルへの流れの中で見た井上康生の人間味

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.09.20

1. 勝つ条件は整っていた東京2020オリンピック

133年間の蓄積

 今回の大会がどれほど恵まれた環境の中で展開されたのか。比較する意味で1988年のソウルオリンピックを振り返る。

 このソウル大会から女子柔道が公開種目として導入された。私は女子強化スタッフとして参加した。

 大会前の調整のために用意された練習会場は、コンクリートの上に固い畳一枚が敷かれた狭い体育館であった。しかも、入場できるのは選手と監督、コーチのみで、帯同した補欠選手、付き添い者は入場できなかった。そのため、試合前の打ち込み、投げ込みなどはすべてコーチが受けることになった。選手たちは全力を出して投げるが、コンクリートの上に固い畳一枚という悪条件だ。それを受けるコーチの腕、脚は内出血で黒く腫れていた。劣悪な環境で、選手の調整がうまくいったのか不安であった。

 大会会場のソウル市奨忠(チャンチュン)体育館は満員の観客で、地元韓国選手の試合が近くなると太鼓や鐘を持ったチアガールが会場の要所に立ち、会場が割れんばかりの応援を繰り広げた。そしてそのとき、信じられないことが起きた。日本選手が登場すると同じようにチアガールが登場し、日本選手と対戦する相手選手に応援を始めたのだ。それに観衆も同調した。会場のいたるところに紙製の破られた日の丸が散乱し、まるで絨毯のようになっていた。明らかに日本を敵視した応援だ。金メダルが確実視されている日本選手陣であったが最終日前日まで金メダル数はゼロであった。柔道関係者は肩を落として、会場から宿舎までの坂道を無言で歩いた。

1988年ソウルオリンピック柔道男子95㎏超級で優勝し、表彰台で涙を流す斉藤仁

1988年ソウルオリンピック柔道男子95㎏超級で優勝し、表彰台で涙を流す斉藤仁

 だが、最終日に95㎏超級の斉藤仁が優勝し、金メダルを首にかけた。関係者は皆泣いた。

 日本柔道界にとってこの屈辱的な結果をそのままにしておくわけにはいかない。男子監督であった上村春樹は改革のため、次の考えを示した。

〈電気学会誌200511125巻〉『…(コーチスタッフで)喧々諤々の議論の末行き着いたのが日本人に合った柔道、日本人の特性を生かした戦いのできる選手づくり、すなわち「技術に立脚した柔道」(…中略…)具体的に言えば、きちんとした「組み手」、じぶんの体を自由にコントロールする「体さばき」、確実に一本をとれる強力な「得意技」を身に着けさせることであった。これは先人たちが説いてきた本来の柔道そのものの姿であることは言うまでもない。(…中略…)選手の強化は技術と精神論だけでなしえるものではない。強豪選手対策のためのビデオ、パソコンを駆使した情報・戦略分析、選手の怪我対策、体調管理、栄養指導、メンタルとレーニング等最新最強の専門家の協力を得た科学的根拠のあるサポート体制を組んで初めて世界と戦えるものだと思っている。』(…中略…)『今のやり方が本当にベストなのかを常に確認し、「なぜ」「どうして」という疑問を持つ姿勢を忘れず、「熱い情熱」と「鉄の意志」それと「柔らかい頭」を持ち、コーチと選手が共有した目標のもと一体感を持ち選手強化にあたっていくつもりである。』

 あの屈辱的なソウルオリンピックから33年、日本柔道強化のレガシーともいえるこの考え方はその時代、その時代の監督に引き継がれていった。そして井上康生で大きく開花したのである。

 東京2020大会、柔道個人で日本は男子金メダル5個、女子金メダル4個・銀メダル1個・銅メダル1個を獲得した。史上最多の快挙である。とくにこの大会を最後に任期を終える男子監督の井上康生が注目された。

 男子の金メダル5個は日本柔道界の集大成である。しかし、これは決して井上だけの手柄ではない。多くのスタッフの尽力があった。それは、本人も謙虚に自覚しているはずである。逆説的ではあるが、だから井上は愛される。

井上康生(2017 年、ナショナルトレーニングセンターで)

井上康生(2017 年、ナショナルトレーニングセンターで)

2)地元開催がすべて有利か

 コロナ禍の中での開催が危ぶまれた東京2020オリンピックであったが、チームは黙々と、淡々と試合に向けての準備を行った。地元開催での試合は海外で戦う試合とは条件で大きな相違がある。遠征のための日程調整は必要ない、時差のための体調管理も必要ではない、食事も不自由がない。そして、調整練習する場所として、今回はナショナルトレーニングセンターが確保され自由に使用ができた。練習相手にも不自由しない、メンタル面でのプレッシャーは大きくなる可能性もあるが、海外からくる選手よりも有利であることは歴然としている。逆に海外からくる選手には大きなハンディが生じる。その中での大会であった。

 しかし、条件が良ければ簡単に勝つことができるのかというと、それは違う。そのハンディをものともしないハングリーな選手は海外に多数いる。国際柔道連盟加盟204の国と地域から選ばれた精鋭が出場するのがオリンピック。スポーツは結果として現れる勝敗が不確定でなければならない。最初から勝敗が決まっていればそれは競技とは言わない。お互いが納得したルールの中で、同じ条件で戦うことがフェアプレーである。

 それではなぜ勝つことができたのか。それは、井上康生のリーダーシップに選手が従い、選手が井上に惚れた、そして命がけになり、接戦を制した。決して地元開催、練習環境の優位さだけで試合に勝ったわけではない。

2008年全日本柔道選手権で観衆に手を振る

2008年全日本柔道選手権で観衆に手を振る

2. 選手に命がけの戦いをさせた井上康生とは

1)「康生ありがとうー」

 2008年全日本柔道選手権が日本武道館で開催された。過去、井上はこの大会で3連覇を達成している。けがのため2度の出場を見送り、再起をかけた2007年は第3位、2008年のこの大会では4回戦で若手選手に「合せ技」の一本負けを喫した。

〈雑誌柔道〉(2008)「時間切れが迫り、場内が騒然とする中、井上が思い切りよく右内股を放てば、高井これを待っていたとばかりにすかせば「技あり」、そのまま横四方固めに固めれば、井上万事休して全く動けず「合せ技」となって「一本」、620秒。超満員の館内は興奮の渦に包まれ(…中略…)最後まで得意の右内股で勝負した井上の北京への戦いはこれで終わり、井上は深々と一礼し、感慨深げに試合場を後にした。」

 閉会式が終わり選手一人ずつ試合場を降段する、井上が降りようとしたその時、会場のどこかから「康生ありがとうー」という大きな声が聞こえた。立ち止まり両手を挙げて観衆に答える井上に、本大会一番の大きな拍手と「康生、康生」の入り乱れた声、涙声の絶叫もあった。

2)自分の経験を若い選手に知的に指導

 2004年アテネオリンピック後の再起戦をかけた大会の決勝で、井上康生は大きなけがをした。「右大胸筋腱断裂」である。その治療のため2年近くのブランクを経験した。そして2008年北京オリンピックの代表を逃した。

 頂点を目指す選手たちはけがとの戦いもしなければならない。ただ、そのけがが、選手生活にピリオドを打つこともある。2008年に引退し、2012年のロンドンオリンピック後全日本男子の監督になった井上は、33年前の上村春樹が提唱した改革案と同様に、そして、さらに自分の経験に基づき現代の選手の状況にマッチした指導を行った。

 そして2016年のリオジャネイロオリンピックを経て監督在任9年間の集大成である2021年の東京2020オリンピックに臨んだ。選手たちが「心・技・体」整えて晴れの舞台ではばたけるように人間味あふれる監督業を展開した。選手がけがをしないように、海外の選手に力負けをしないように積極的に合理的なウェイトトレーニングを多く導入、乱取り練習の時間を減らし技の研究の時間を増やした。個々の選手とのコミュニケーションを図るためのミーティングにも時間をかけた。徐々に、井上ファミリーチームが構築されていったのだ。それは間違いなく今回の結果を生んだ。

表彰台で母の遺影を掲げる井上康生

表彰台で母の遺影を掲げる井上康生

3)井上康生の涙

 井上の涙は人の涙も誘う。そしてファンが増える。「親が死んだとき以外は泣くな」「喜怒哀楽を表に出すな」と言われて育った年代からすると少々心もとない。なぜ泣くのか。

 2000年シドニーオリンピック男子100㎏級の表彰式で、前年に急死した母親の遺影をもって表彰台に立ち、井上は観客の涙を誘った。

 東京2020オリンピック代表内定会見の時、選考落ちした選手のことを思い、声を詰まらせ涙を浮かべていた。そして言った。

「ぎりぎりで落ちた選手の顔しか浮かびません」「選手たちは死に物狂いで人生をかけて戦っています。勝っても負けてもがんばった選手たちに温かいまなざしと声援をいただければ嬉しいです」

 オリンピック大会中、井上は選手席から大きな声で激励し、選手を奮い立たせた。そして「メダルを取れなかった向、原沢に対しては、非常に申し訳なかったという気持ちです」という言葉も発した。監督の立場でなく同じ目標に対して戦うチームの一員として謙虚に、人間的に、素直に感情を表現する。だから井上は皆を癒し、幸せな気持ちにする。自分とも精一杯戦っているから泣くのである。そして、人々は井上の涙を見て涙する。

3. まとめにかえて

「勝った負けたは試合終了の瞬間に終わり、また次のステージが始まる」東京オリンピック柔道競技は個人戦だけではなかった。最終日に男女混合団体戦が実施された。男女14階級中、9個の金メダルを獲得した日本チームであったが、決勝戦で次回開催国のフランスに敗れた。そして、個人戦で金メダルを取った4人も敗戦している。この結果こそが東京オリンピックの結果と考えなければならない。最後の試合で負けているのである。負けてよかったと思うのは私だけであろうか。なぜ負けてよかったのか、それはチャレンジャーとしてまた歩み始めることができるからである。試合は結果が出た瞬間に終わるのである。

 史上最多の金メダル数に導いた井上康生の監督としての任期は終了した。次の2024年パリオリンピックでは、強いフランス相手に日本は苦戦を強いられるであろう。次の監督・鈴木桂治、井上の後はやりにくいかもしれないが、私は期待したい。

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スポーツ歴史の検証
  • 鮫島 元成 公益財団法人講道館道場指導部部長、講道館八段。1950年鹿児島県生まれ。東京教育大学武道学科卒業後、東京教育大学附属高等学校(現・筑波大学附属高等学校)で保健体育教師として39年間勤務。その間、文部省(現・文部科学省)実技指導者研修会中央講師、全日本柔道連盟強化コーチ、委員としてソウルオリンピック、バルセロナオリンピック、世界選手権などでナショナルチームを指導。講道館指導員として海外20か国で講道館柔道の普及発展のために巡回指導。2014年から現職。著書として「競技柔道の国際化」(不眛堂出版)、「柔道の視点」(道和書院)、「新しい柔道の授業つくり」(大修館)、「中学校体育男女必修『武道』指導の手引き」(学研)ほか。