2018.11.28
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2018.11.28
島根県松江出身の岸清一
岸清一という人をご存じだろうか。スポーツ好きを自認する人でも、その名を聞いただけでは像を描けないのではないだろうか。
嘉納治五郎に続く大日本体育協会(日本体育協会を経て、現・日本スポーツ協会)第2代会長、日本2人目の国際オリンピック委員会(IOC)委員にして、日本漕艇協会(現・日本ボート協会)初代会長である。しかし、その存在の大きさの割には、人々に知られていないのが残念でならない。
岸は江戸が明治に変わる前年、1867(慶応3)年8月3日、いまの島根県松江市に生まれた。父の伴平は松江藩の下級武士。明治の御一新でご多分に漏れず貧乏暮らしとなるのだが、父が大切にしていた家宝の兜を売って学費をつくるなど、周囲の協力もあって県立松江中学(現・松江北高校)を卒業、さらに学問を志して上京するのである。上京2年目、1884(明治17)年、編入試験に合格して東京大学予備門に入学。ここで巡り合うのがフレデリック・ウィリアム・ストレンジ。明治期の「進取の精神」という良質な部分を象徴する「お雇い外国人」英語教師である。
イギリス伝統のパブリックスクールの名門イートン校に学んだストレンジは、日本に来てもスポーツを楽しむ生活を求めた。学生たちにスポーツを教え、その楽しさを伝授する。水泳、クリケット、フットボール、トラック・アンド・フィールド(陸上競技)とイートン校伝来の技術を指導した。なかでも陸上競技と並んで、ボートは自身が選手だったから、とりわけ熱心な指導ぶりだったという。
東京・青山霊園にあるストレンジの墓
岸はその愛弟子である。ストレンジ先生の指導よろしく、予備門そして東京大学とオールを操る腕前をめきめき上げていった。予備門時代はライバル体操伝習所と、東京大学法科大学(現在の東京大学法学部)時代には分科大学(学部)対抗や東京高等商業(現在の一橋大学)との対抗戦、いまも続く東商戦に闘志を燃やした。
闘志を燃やすといえば、時に、エキサイトしすぎることもある。何しろ血気盛んな年頃である。そのとき、ストレンジ先生はこう諭すのだ。「ボートは心で走るのだ。ボートレースにおいては勝つことに意味があるのではない。紳士としてのマナーと教養を養うのが目的だ。勝ったからといって、おごってはいけない。敗者には『よく漕いだ』とねぎらいなさい。それがオアーズマンシップだ」
創生期の日本スポーツ界に「スポーツマンシップ」を教えた人らしい言葉だろう。そして、どこかで聞いたことのある言葉に気づかせられる。そう、オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンが大切にした「スポーツマンシップ」である。クーベルタンもまた、イギリスのパブリックスクールでのスポーツをとりいれた教育に激しく反応して近代オリンピックを創ったのである。
法科に学んだ岸は官僚ではなく、代言人(弁護士)の道に進む。松江監獄の司獄官(いまでいう松江刑務所の監督官)となり、よろずもめ事相談の解決役となっていた父の影響だったろう。困っている人を助けたいという思いからの職業選択である。
1889(明治22)年、大学卒業と同時に代言人の免許を得て岸法律事務所を京橋に開いた。最初は苦労したが、やがて仕事は軌道に乗っていく。代言人は1893年に制度改正で弁護士となり、事務所には外国人からの依頼も来るようになる。
英法科出身だが、英会話が苦手な岸は思い立って1897年2月から翌1898年4月まで1年2カ月、アメリカそしてイギリスに渡る。サンフランシスコで法律事務所に所属して法律実務と英会話を学んでいたころ、浅野財閥を一代で造りあげた浅野総一郎と知り合う。経営する東洋汽船の横浜―サンフランシスコの航路権獲得のための交渉に向かう浅野を手伝い、信頼を得て、帰国後、浅野が関わる大阪瓦斯(現在の大阪ガス)取締役となった。
1904年、大阪瓦斯再建に向けて外国資本導入をはかる浅野の頼みで岸は渡米、交渉にあたった。おりから第3回セントルイス・オリンピックが開催されている。スポーツ好きの岸が見ていないはずはない。オリンピックとの距離が近づき、岸は次の1908年のロンドン大会も視察した。
ボートとオリンピック、弁護士と財界。この環境から、岸は嘉納が尽力した大日本体育協会(体協)の基礎を固めていく。
1911年、東京帝国大学や早稲田大学、慶應義塾大学を中心に創設された体協の悩みの種は資金である。大学が集まった組織。まだスポーツに金を出すものも少なく、アマチュアということで競技会の入場料収入など考えもしなかった時代だ。翼賛員という財界やスポーツ界OBによって財源は支えられていた。名簿によると政界の大立者・西園寺公望に渋沢栄一、岩崎小弥太、古河虎之助、井上準之助といった財界人が顔をそろえ、嘉納治五郎、永井道明、平沼亮三らスポーツ関係者がならぶ。そこに、岸清一の名もあった。創設当初から体協に関わっていたことがわかる。
当時、極東選手権という大会があった。その第3回大会は1917年に東京・芝浦で開催予定だったが、嘉納をはじめ体協幹部の態度は冷たい。しかし、これを説得、帝国ホテル支配人の林愛作や三越呉服店専務の朝吹常吉ら財界人の協力を得て152人という大選手団を編成し、成功に導いたのが、1916年から体協副会長になっていた岸である。弁護士としての交渉力、財界人との縁による寄付金調達で、岸は体協内で重きを成していく。
1919年マニラでの第4回は「1920年のオリンピックが控えているから」と体協が不参加を決定。現地の在留邦人が資金を提供し、日本青年運動倶楽部という組織を急遽つくり、16選手(現地の3選手を加えて計19選手)を派遣した。そこで、また問題が起きる。日本青年運動倶楽部は大会終了後、解散する予定になっていたが、体協に反発した極東体育協会はこの団体を日本の代表団体に認定、代表権をめぐって騒動になった。これを粘り強く交渉して解決していったのも岸である。
1921年、そうした岸を嘉納は千葉・我孫子の別荘に招いた。そして、「岸さん、大日本体育協会をよろしく頼む」と頭を下げるのだ。第2代体協会長就任はこの年3月。その前年、岸は日本漕艇協会を創設、初代会長に就いている。競技団体としてはもっとも早い創設だった。
体協会長の初仕事は上海で開く第5回極東選手権。岸は財界をあげた支援を引き出し、じつに102選手を派遣した。ただ、成績は思わしくなく批判も起きた。弁護士・岸はしかし、これを奇貨として、「大国・日本の惨敗は政府の関心のなさにある」と説き、補助金の認可を取りやすくするために財団法人化を実現、財政基盤改善に乗り出している。この結果、政府から選手派遣費、強化費の補助を実現したのは最大の手柄だといっていい。
1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災を乗り越え、10月には翌1924年のパリオリンピックへの意思を表明。19選手を送りこみ、その後の大会での日本選手活躍の基礎を形づくった。また、オリンピック開幕を前に、嘉納に続くIOC委員に就任。体協を国際陸上競技連盟、国際水泳連盟に加盟させた。体協の方針に反対する一部の有志でつくった団体が国際陸連に加盟申請する"暴挙"に出たが、持ち前の交渉力で冷静に騒ぎを収めた。
1928年アムステルダムオリンピック開会式の日本選手団
選手団長として乗り込んだ1928年アムステルダム大会、織田幹雄が日本選手初の金メダルを獲得し、日本国内にオリンピック招致ムードがわき起こる。東京市が紀元2600年を記念行事として1940年大会の招致を計画するが、岸は冷静に反対した。
「いまの日本にそれだけの体力があるのか、時期尚早である。戦火の拡大も影響しよう」
後から考えれば、岸の洞察力に恐れ入るが、嘉納を担ぎ出しての説得に折れざるをえなかった。一度、態度を決めると信念を曲げないのが、岸の性格でもある。1932年ロサンゼルス大会では自費でIOC委員らを招いたパーティーを開催、「東京開催」を強くアピールした。その成功の報が届くのをまたず、1933年10月29日、66歳の生涯を閉じた。
今でも財源は競技団体にとって悩みの種だが、思えば、岸がいなければ誕生したばかりの体協はどうなっていたことか。岸の本質は「日本の近代スポーツの父」ストレンジ譲りのスポーツマインドに満ちた人である。そこに国際弁護士として知った世界と経験が加わって、現実的な対応が可能になったと思われる。それが日本のスポーツ創生期を救った。だからこそ岸を知ってほしいのだ。
岸記念体育会館(2018年現在)
岸の名はいま、体協の後身である日本スポーツ協会と日本オリンピック委員会、水泳や体操、スキーなど数々の競技団体の本部が入る東京・原宿の「岸記念体育会館」として残る。もとは岸の遺族からの寄付金80万円(約23億円)をもとに、JR御茶ノ水駅前、いまは「御茶ノ水ソラシティ」となっている場所に建てられたスポーツの総本山である。1964年東京オリンピックのときに、いまの国立代々木競技場やJR原宿駅にほど近い場所に移った。それも50年が過ぎ、耐震構造の問題など老朽化が進み、いままた、2020年東京オリンピックを前に、新宿区霞ヶ丘町に再移転する。
次第にその骨格がみえてきた新国立競技場の南側、東京メトロ外苑前寄りに新しいビルの建設が進む。2019年完成予定の地上14階、地下1階建ての新ビルは、「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」と名付けられた。「岸」の名は「岸清一メモリアル・ルーム」として館内に残される。