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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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古関裕而
軍歌とオリンピック・マーチ

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2018.10.31

昭和を代表する国民的作曲家・古関裕而

昭和を代表する国民的作曲家・古関裕而

1964年10月10日午後2時、東京・国立競技場に集まった7万3,000人の観客、そしてテレビを通した世界中の視線が見つめるなか、第18回オリンピック東京大会の入場行進がはじまった。先頭はオリンピック発祥の地ギリシャ選手団。競技場に響き渡ったのは『オリンピック・マーチ』である。観客と視聴者は、初めて聞くマーチのメロディに軽い驚きを覚えたが、すぐに慣れた。そして、その軽快なリズムと入場してくる各国の選手の明るい表情に、これから始まる世紀の祭典へ大きな期待を寄せながら、心を躍らせた。この壮大なる行進曲『オリンピック・マーチ』を作曲したのが古関裕而である。

1909(明治42)年8月11日、福島の呉服店に生まれた古関は、蓄音機が奏でるレコードの音色を聴いて育った。当時としては珍しかった蓄音機は、音楽好きだった父親が買ったものだった。楽しそうに聴いている息子の姿を見た母親が、小さなピアノを購入した。喜んだ古関は夢中になってピアノに向かう。適当に弾いているうちに音符の意味がわかるようになり、小学校を卒業する頃には、楽譜が読めるようになっていた。

1929(昭和4)年、古関が作曲した管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』が、ロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールで2位に入賞。これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞であった。翌年、21歳になった古関は結婚し、著名な音楽家である山田耕筰の推薦によって日本コロムビアに入社した。はじめてのレコードは『福島行進曲』。そして2年後の1931(昭和6)年に作曲したのが、早稲田大学応援歌『紺碧の空』だった。だが、この年の満州事変をきっかけにして、古関の明るく勇壮な曲とはうらはらに、日本は暗い雲に覆われていく。

会社から古関のもとに軍歌(軍国歌謡、戦時歌謡)の作曲が依頼されるようになる。「『紺碧の空』を手がけた男だから、勢いの上がる曲は得意だろうというのである。私は仕事なのだとわり切って引き受け、時勢の流れにまかせていた」(「鐘よ鳴り響け」古関裕而)。

1936(昭和11)年、古関は『大阪(阪神)タイガースの歌/通称・六甲おろし』を作曲。これは現在のプロ野球12球団のなかで最も古い球団歌だ。ドイツではベルリンオリンピックが開催された。日本は金6、銀4、銅8、合計18個のメダルを獲得。この年に、東京はオリンピック1940年大会の招致に成功している。だが、日中戦争に突入する1937年には、政治家や軍部からオリンピックの開催に対して異論が出はじめる。そして翌年、戦争の長期化にともない物資が不足してきたことから、反対意見が噴出。海外からもボイコットを示唆する声が上がった。これらの状況をみて、政府は東京オリンピックの返上を決定。ここから日本は戦争への道を突き進んでいく。

「若鷲の歌」のレコード

「若鷲の歌」のレコード

軍歌の作曲依頼が相次ぐようになる。そして1937(昭和12)年に発表された古関裕而作曲の『露営の歌』は、60万枚を記録した。

1938(昭和13)年、古関は中支派遣軍報道部の依頼により、従軍音楽部隊として上海、南京を訪れる。1940(昭和15)年には『暁に祈る』を発表。古関が作曲した軍歌で最もヒットした曲だ。翌1941(昭和16)年に発表されたのは『海の進軍』。その翌年は南方慰問団派遣員として、シンガポール、ビルマ(現在のミャンマー)で慰問に従事。1943(昭和18)年の『若鷲の歌』は映画でも歌われ大ヒット。1944(昭和19)年に『ラバウル海軍航空隊』を発表。さらにビルマへ赴き『ビルマ派遣軍の歌』を作曲した。

古関の作曲した軍歌は、軍の委嘱による師団歌や連隊歌ではなく、軍国歌謡、戦時歌謡、銃後歌謡だったが、その曲数は100近くにのぼった(戦後GHQによって廃棄させられた楽譜もあるため、正確な数は不明)。

1945(昭和20)年8月15日、戦争が終わった。

古関が音楽を作り続けた約45年のうちで暗かった7年間。その間、古関に軍歌を作らせたのは、いや、古関が断れなかった、あるいは断る気にもなれなかった原因は、当時の日本を覆っていた「空気」だった。

評論家で作家の山本七平によると、「空気」とは大きな絶対権をもった妖怪であり、専門家の判断の正しさが明白な事実であっても、「空気」に沿った行動を強行させる力があるということである。「空気」には、統計も資料も分析も、それに類する科学的手段や論理的論証も一切無駄であり、それらを精緻に組み立てておいても、いざというときは、それらが一切消し飛んで、支配されてしまうような存在なのだ。とりわけ戦時中の日本は、この「空気」の圧倒的な支配下にあった。相対化が排除され、ひとつの命題が絶対化したときにおきる「空気」の支配(「『空気』の研究」山本七平)。1人の音楽家である古関が、その「空気」のもつ圧倒的な力に抗うことなどできるはずもなかったのだ。

終戦の翌年、古関は盛り場の賑わいの傍で、戦争のために手足を失った傷痍軍人が、義手や義足をはめ、眼帯をしながらアコーディオンの伴奏にのせて『露営の歌』や『暁に祈る』を歌っているのを見た。

「自ら作曲した歌で祖国のために命を捧げ、たとえ生き残ったとしても五体満足な姿でなくなったことを思うと悲痛な気持ちになった。古関は戦争責任追及を覚悟したのである」(「評伝古関裕而」菊池清麿)。

古関が作曲した軍歌は、短調の曲が多かった。『露営の歌』と『暁に祈る』はハ短調、『若鷲の歌』はロ短調である。全体に勇壮というよりも悲哀が感じられる曲が多く、なかには悲愴感にあふれる鎮魂歌のような曲もあった。実際に戦地に足を運び、多くの悲惨さや過酷さを見てきた古関には、元気なマーチばかりを作ることはできなかったのだ。最悪の結果に終わったインパール作戦に従軍を命じられ、辞退を申し出たが通るわけもなく、途中ビルマ(ミャンマー)ではサソリが何匹もいるなかで食事をとったり、デング熱にかかり高熱にうなされたりと、古関自身も苦しみを味わった。

現在の甲子園球場

現在の甲子園球場

その反作用は、戦争が終わると同時に、一気に噴き出すことになる。

戦後、明るい歌が次々と誕生した。古関は水を得た魚のように、希望にみちた曲、国民を元気にする曲を作りはじめた。大ヒットしたのは1947(昭和22)年のNHK連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌『とんがり帽子』だった。ドラマは、1人の青年が戦災孤児たちとともに力を合わせて家を建てるというヒューマンストーリーだ。その翌年には、全国高等学校野球歌『栄冠は君に輝く』を作曲する。現在でも毎年8月に聴く「夏の甲子園」のテーマソングである。1949(昭和24)年に発表された『長崎の鐘』は、原爆がもたらした戦争の悲惨さを訴え、平和の尊さを願って歌われた。

次から次へと古関の"明るい曲" "元気な曲" "勇壮な曲"が発表され、日本中を席巻してゆく。戦時中という「音楽創作においては悪夢の時代」(「評伝古関裕而」菊池清麿)に、数多くの軍歌を世に送り出してしまった、その罪を償うかのように、古関は人々の心に潤いを与え、勇気づける曲を作った。その集大成ともいえるのが、1964(昭和39)年東京オリンピックの開会式で演奏された『オリンピック・マーチ』であった。

「平和と若人の祭典ということを念頭に置き、溌剌とした躍動感をテーマに、華やかな檜舞台を盛り上げるにふさわしい楽想をイメージした。それは、長きにわたる音楽人生の中で精魂を傾けた一世一代の音楽創造であった」(「評伝古関裕而」菊池清麿)。

1964年東京オリンピック、日本選手団の入場

1964年東京オリンピック、日本選手団の入場

古関の『オリンピック・マーチ』は、1964年の東京オリンピックを見た人にとっては永遠の思い出であり、聴くたびにあのときの開会式が瞼に浮かぶノスタルジックな曲である。だが、その後の世代が聴いても心に響く、珠玉のマーチである。

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スポーツ歴史の検証
  • 大野 益弘 日本オリンピック・アカデミー 理事。筑波大学 芸術系非常勤講師。ライター・編集者。株式会社ジャニス代表。
    福武書店(現ベネッセ)などを経て編集プロダクションを設立。オリンピック関連書籍・写真集の編集および監修多数。筑波大学大学院人間総合科学研究科修了(修士)。単著に「オリンピック ヒーローたちの物語」(ポプラ社)、「クーベルタン」「人見絹枝」(ともに小峰書店)、「きみに応援歌<エール>を 古関裕而物語」「ミスター・オリンピックと呼ばれた男 田畑政治」(ともに講談社)など、共著に「2020+1 東京大会を考える」(メディアパル)など。