2021.03.02
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2021.03.02
ラジオの誕生を1895年、イタリアのマルコーニによる無線通信の発明から考えるとすれば、世界に開かれるラジオ放送への道は、近代オリンピックのタイムラインとほぼ並行になっている。しかしこの両者の歩み寄りにはそれなりの年月を必要とした。
今日のラジオ放送に相当する試みは1920年、アメリカピッツバーグから放送された大統領選挙の結果報道に始まるとされる。時はまさにアントワープ大会の年であった。とはいえこの大会にラジオが登場した様子は見られない。欧州でのラジオ放送開始が、フランスで1921年、ベルギーもドイツも1923年とわずかにあとからスタートするからだ。
1924年パリ大会のマラソン、スタジアム内の機器と技術者
この時代、イベントの主催者はラジオが入ってくることに警戒感が強い。入場券の売れ行きが落ちるのを心配するのと、ニュース価値の下がるのを嫌がる活字メディアの抵抗が目立つのはどうやら万国共通だ。日本でもラジオ放送が始まって間もなく、甲子園の中等学校優勝野球大会や大相撲の実況中継に際して似たような動きがあったことが知られている。
夏のオリンピックのラジオ放送は、1924年パリ大会に初めて記録としてお目見えする。この大会のラジオについてフランスのスポーツ史家ピエール・ラグルーは、「エドモン・ドゥオルテールというアナウンサーが、係留された気球に乗ってサッカーの試合を実況した」と記している。一方でパリ大会の公式報告書には、ドゥオルテールに関する指摘はなく、あるのはコロンブのスタジアム内に設置された大きな機器を前にした技術者の写真だ。当時は“無線電話”という表現が使われ、マラソンレースの途中経過に新鋭のシステムが稼働したとされるが、これが果たして現在のラジオ放送に該当するかと言えば、そこに示された説明だけで判断するのは難しい。当時のラジオは音質も悪ければ、移動しながらの中継にも使えない。それでも報告書に写る男達からは、放送技術者のチャレンジ精神が伝わってくる。
続く1928年のアムステルダム大会ではイギリスのBBCが、「初めて英国でオリンピックニュースを放送した」としている。アムステルダムからロンドンまでの距離は直線でおよそ360㎞。間に遮る山などなく、電波は当時であっても問題なく届いたことだろう。ここでいうオリンピックニュースが実況放送だったのかどうか。アムステルダム大会の公式記録は、それについて触れた様子はない。
日本のラジオ放送開始は1925年3月。となれば放送開始からすでに3年を経過したあとに行われているアムステルダム大会だが、当時の新聞でラジオ番組欄を確認してもオリンピックを現地から伝えているそぶりがない。かろうじて、大会が終わったあとの9月4日から関連番組に現地を踏んだ人見絹枝など3人が月に一度の割合で出演し、体験談を伝えているに過ぎない。それまで東京、大阪、名古屋と地域ごとのエリアの放送にとどまっていたラジオがこの年11月になってようやく全国の放送網につながる時代だから、メディアとしてはまだまだ幼少期に該当すると言っていいだろう。
放送局が日本から要員を派遣してオリンピックに本格的に取り組んだのは1932年のロサンゼルス大会。当時国営放送の日本放送協会は、アナウンサー3人と報道課長を現地に派遣して実況中継をする手はずだった。日本の新聞は早い段階でこの取り組みをニュースとして報道しているが、現地アメリカの放送局NBCが放送権をめぐる交渉で大会組織委員会となかなか折り合えず苦しんでいる様子も合わせて伝えている。放送局員が日本を出発するのは6月30日。選手団の渡米に準じるようなアナウンサー派遣の記事は、国内の盛り上がりを背景にしたものだったのか、それとも対米関係の悪化の中で国民一丸となって世界にぶつかる気概を示そうとしたのか。
結局、現地での試合会場からの実況中継は大会組織委員会の認めるところとならず、「ニュース放送を行ふ事に方針を一決」(読売新聞.1932/7/25)となった。世に言う“実感放送”に切り替わったのだ。現地に派遣されたアナウンサーには、会場での試合取材は許されていたから、それぞれの担当に従って現場でレースや試合を観戦し、それをメモにとって会場から車を飛ばしてNBCの系列局KSI局に赴く。スタジオ内のマイクを前にメモを参考に見てきたことを情感込めてナマ放送するのだ。当時の“実感放送”コメントが新聞などに残されているが、どれをとっても優れた描写でいまの時代にも堂々通用するものがある。その一部を、日本スポーツ放送史を書いた橋本一夫の著書から書き出してみよう。
1932年ロサンゼルス大会の男子三段跳び、左からスウェーデンのエリック・スベンソン(銀)、南部忠平(金)、大島鎌吉(銅)
再びスタンドから万歳の声が起こりました。国旗が掲揚されるのです。山々はくっきりと、日は燃え立っています。今や粛として声なき観衆十万の大スタジアム、わき起こる荘厳な君が代裡に我が日章旗は空高くメーンマストに掲揚されました。‥‥南部を中央、大島、スベンソンの三人が立っています。南部は泣いているようです。橋本一夫「日本スポーツ放送史」(1992)
かつて大学野球の早慶戦で「カラスが一羽二羽、三羽四羽」と伝えたので知られた松内則三の“実感放送”、陸上競技男子三段跳びの表彰式の様子だ。スタンド、国旗掲揚台、遠くの山、大観衆、掲揚台の中央の日の丸、表彰台の三人、南部の顔。まるでテレビカメラが切り替わるように情景描写の対象が変化していく。メモに従っての放送だったはずだが、それぞれが描くカットの組み合わせの妙は、いまの映像編集に通じるものがある。
この大会では、開幕直前の特番(7月28日)から現地での前日特番(7月29日)、それに大会期間中は日本時間の正午から毎日一時間の定時放送。更に帰国時の横浜港での一次(9月3日)、二次(9月8日)にわたる船の到着シーンの船内からの第一声中継など、大変なエネルギーと労力を使って放送が組まれている。オリンピックに対する日本人の親近感はラジオを通じて一気に高まっていった。
戦争の影が更に濃くなる1936年のベルリン大会。日本はここにも放送スタッフを送り込んだ。ロサンゼルスでは、海外からの放送局が日本だけに限られていたのに対して、ベルリンでは41の外国放送局が合わせて105人のラジオリポーターを送り込んだとされる。16日間にわたる競技期間中に放送された外国向けのリポートの数2328。まさにメディアオリンピックというにふさわしい大会だった。
1936年ベルリン大会競泳女子200m平泳ぎ決勝、先頭の白いキャップが前畑秀子
ラジオのスポーツ実況を日本で一躍有名にしたのはなんと言っても、河西三省による水泳女子200m平泳ぎ決勝の中継だろう。国民の期待を一身に背負った前畑秀子は、4年前のロサンゼルス大会にも200m平泳ぎに出場し、オーストラリアのクレア・デニスに10分の1秒差で敗れて銀メダル。その差が「わずか一かき」(朝日新聞.1932/8/11)だっただけに、本人はもとより日本人の落胆も大きかったとされる。その前畑が更に厳しい練習を重ねて臨んだベルリンのオリンピックプール。待ち構えていたのは、ヒットラー総統の期待を満身に浴びたライバル、地元ドイツのゲネンゲルだった。よく知られているのは、終盤の残り25mからの声ではないだろうか。「あと25、あと25、あと25。わずかにリード、わずかにリード。わずかにリード。前畑、前畑がんばれ、がんばれ、がんばれ」。同じことばを繰り返しながら、興奮が徐々に度を高めていく実況には、あまり知られていないがスタート直前からの音源が残されている。そこには、いまに受け継がれるスポーツ実況の原型を聞き取ることができる。
このレース河西は序盤で「これはわが前畑とゲネンゲルの競泳でございます」と伝えながら、視野を広くとって前畑を脅かしそうな選手の描写を続ける。前畑に何度も何度も「わが」と付けるところに河西の胸の内が透けて見える。日の丸を背にしていることが無意識のうちにこぼれ出てくる。今時の放送なら、全てのコースの選手名を一度ぐらいは伝えるはずだが、河西のコメントにそれほど多くの選手名は登場しない。なぜだろうか。ここで伝える側の論理ばかりでなく放送を聞く側の状況にも目を配ってみよう。この時代、国民の受け取る情報量はいまに比べるとはるかに少ない。一般市民に十分な知識や認識がないだけでなく海外の情報が極端に少ない。しかも①ルールや用語に関しての認知度が低い、②選手名を聞き慣れない上に外国人名に親近感がない、③選手やチームの相対的力量が分からない、④記録の表現に限界がある。ないないづくしだが、この状況下で映像を伴わない音声だけの実況中継では伝えられることに限度があった。アナウンサーが口にするのはどうしても日本の選手名中心、そこに国名ベースのライバル紹介ということになる。
河西は序盤50mにかかる手前で、「だいぶ各選手が並んでおります」と一言発したあと続けて「非常に心配であります。非常に心配であります」と二度にわたって伝えている。期待をしながらもどこかにおぼつかない不安を感じながらマイクを握る。心情は現代のオリンピックに臨むアナウンサーと変わるところがない。このあと河西は最後のターンを終えたところから「がんばれ」が極度に増えてくる。口をついて出る単語は種類が限られ、繰り返しの頻度が高まり、音程が上がり、ことばが完結しなくなる。
ラジオの実況放送は長い間、即時描写を大事にしてきた。選手やボール、競技用具の動きに視点を定め、方向を転じたり終息したりすると同時にことばを発して伝えるのがそれだ。即時描写を大切にしてきたのは、勝負の瞬間を逃さないという気持ちの表れではあるが、むしろ即時描写によってこそ、高いレベルのスポーツが持つ優れたリズムを伝えられるという信念がある。
河西の実況はその即時描写を旨としながら、次第次第に前畑とゲネンゲルの二人だけの画角に絞り込まれていく。残りの25mを超えてからはまさに一騎打ちを描写する実況中継だ。「がんばれ」「前畑リード」「あと5メーター」。繰り返す単語はますます限定されながら、ことばのレンズは二人だけをぐんぐん追っていく。そしてゴールは、突然やってきた。
「勝った勝った勝った、勝った勝った」三連呼、二連呼と繰り出したフィニッシュのフレーズに、河西は「勝った」のことばを20回近くたたみかけた。まるで爆竹が至るところで音を立てるような興奮の声は、短波に乗って深夜の日本に届いていた。
ソウルの鈴木大地、アテネの北島康介。映像があってもなお声裏返してまで伝えるアナウンサーの実況に身体震わせる私たち。なじみのメダルシーンと同じ構図が1936年のベルリンのプールサイドにあった。ベルリン大会の河西三省に思いをはせる度に、オリンピックの舞台こそがラジオに始まるいまのスポーツ実況を育てたのだと教えてくれる。