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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

北京オリンピックがボランティアに遺したもの

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2017.12.19

エリート意識を捨てて

世界中のプレスが集まるメインスタジアムのプレス席

世界中のプレスが集まるメインスタジアムのプレス席

北京オリンピックのボランティアは10万人。そのほとんどは市内の大学の学生たちだった。中国では学生は原則として学内の寮住まいなので、彼らは大学から担当する競技会場まで毎日通っていた。中には片道1時間半もかけて通う学生もいた。

私は、北京市政府の直轄機関である組織委の関連会社の部長として、北京の放送センター(IBC)やプレスセンター(MPC)で働くボランティアの事前研修を担当した。IBCやMPCは2万人近い外国メディアが働く情報発信の拠点であり、一種の「租界」でもあった。ここで働くボランティアが英語の能力が低かったり何か失敗すれば中国の恥を世界に報道されることになるのではないかと組織委は恐れていた。そこで胡錦濤前総書記が卒業した清華大学という中国で最高峰といわれる大学の学生たちを充てることにし、その中でも学業優秀かつ英語のよくできる者しか採用しないという厳しい選抜を行った。

中国国旗の下で直立不動の姿勢を取るスタッフ。水泳会場にて

中国国旗の下で直立不動の姿勢を取るスタッフ。水泳会場にて

中国では学生はエリートであり知識人としての階級意識が強い。特に清華大学の学生たちは卒業すればすぐに政府や党の幹部になっていくため、中国13億人のトップ中のトップだと思っている。従って彼らは普段は肉体労働などはやらないしアルバイトもしない。そういう学生たちに私が伝えたのは次のようなことだ。

まず、中国で一番のエリートだという意識を捨てなければボランティアはできないということである。雨の中で交通整理をしたり、農村からの出稼ぎ労働者と一緒に重い荷物を運んだり、床が汚れていたら拭いたりするのもボランティアの仕事だ。「私は清華大学の学生ですから、そんなことはやりませんできませんという人がいれば、今すぐ辞めてください」と言うと学生たちは静まり返ってしまった。

中国の組織では、「ほかの国ではこういうやり方をしているから、これをやってみよう」と言っても、「いや、ここは中国だから、そんなことはできない」という答えが返ってくることが多い。北京市や組織委員会の会議でも、「ここは中国だから」という理由で何度も私の提案がすげなく却下された。こういう点は日本の組織以上に保守的だとも言えるが、翻ってみれば数千年も東アジアの文化の中心だった国だけに、常に自らがオリジナルなものをまず生み出すべきだという矜持きょうじもその背景にあると思う。

これを防ぐために学生たちにはサッカーの国際試合を例えに挙げて説明した。オリンピックを自分の国で開くということは、つまり国際ルールにのっとって試合をするのと同じだ。線審せんしんがオフサイドを宣言した時に、ここは中国だから今のはオフサイドではないと言ってはいけない。そう言うくらいなら、そもそも中国でオリンピックを開催すべきではないという原則論から始めた。

次は時間の観念だ。中国では待ち合わせに遅れるのはごく当たり前で、よく言えば寛容なのだが時間にルーズなところがある。学生には、放送や新聞は時には1分を争って時間との勝負で仕事をしており、世の中には1分の遅れでも意味がなくなってしまう仕事もあるのだという事を伝えた。

中国人と日本人に共通するのは、白人の外国人に対して一歩引いてしまうところだ。これについては、自らがルールをよく理解し、外国人からそれに反することを求められても物おじせずに対応するよう求めた。プレスセンターでは外国の記者のサポートをするのがボランティアの仕事だ。できる限り助けてあげることは必要だが、ルールに反する要求は相手の肌の色や態度にかかわらず妥協せずに断ること、ただその時には丁寧ににこやかに断るよう伝えた。

一糸乱れぬ足並みでメインスタジアム周辺を行進するスタッフボランティア

一糸乱れぬ足並みでメインスタジアム周辺を行進するスタッフボランティア

また、この仕事は自分がやるべきか、誰か他の人がやってくれるだろうかと迷った時には、1歩下がるのではなくて1歩前へ出ること。オリンピックの運営では誰の責任範囲ともいえないいわばグレーゾーンの仕事が山のように残ってゆく。責任分担が明確でない手つかずの仕事といつも向き合っていることになる。そういう時には1歩前へ出て自らがそれを処理することが最も大切だと教えた。

2008年8月8日にオリンピックが始まると、清華大学の学生たちはそれぞれの持ち場へ散って行った。彼らはプレスセンターで重い段ボール箱を運び、雨の中で入館検査をし、手間のかかる競技結果の分類や配布などの作業をこなした。屋外で仕事をする学生たちは日焼けするにつれてたくましくなっていった。もともと選り抜きの学生だけに仕事を覚えるのは速い。要領をつかむと警察官や他の係員にそれを教えるようになった。清華大学というエリート意識ゆえではなく、オリンピックを現場で支える一員として働いたことによって人間が磨かれたと感じた。閉会式が終わり深夜に内輪の打ち上げ会に集まった彼らの笑顔を見て私は本当に嬉しかった。

学生たちを驚かせた外国メディアの取材

陸上競技を撮影する世界から集まったフォトグラファー

陸上競技を撮影する世界から集まったフォトグラファー

北京オリンピックでボランティアの学生たちが一番驚いたのは外国メディアの取材のやり方だった。中国では、国や政府に対する批判が自由にできるわけではない。「領導」と呼ばれる指導者層の言うことには黙って従うのが掟であり、人々はそれが万国共通のルールだと信じてきた。
実際には外国人記者はストレートに質問する。「組織委員会の約束違反ではないか、見解を聞かせろ」というような発言が、北京市や組織委員会の幹部に対して記者会見で飛び出す。会見室の人の整理などのためにその場にいるボランティアの学生たちは、「幹部や要人に対して単刀直入にものを尋ねてもいいのか。」と非常にショックを受けた様子だった。

中国ではメディアの活動は、原則は全て禁止で許可されたものだけを取材するというのが実情だ。街頭で撮影しようとして警官に制止されるのは当たり前だし、軍事施設を撮影したとして逮捕者も出ている。そのようなトラブルがオリンピックのひと月前から毎日のように起きていた。またインターネットの監視も厳しく、2008年4月に行われたIOC調整委員会では、IOCがインターネット閲覧の自由化を北京組織委に対し正式に要求した。温厚なIOCのフェリ統括部長が会議で珍しく声を荒げたのを覚えている。

インターネット検閲システムは、中国政府に敵対的とみなしたページに閲覧規制をかけてるものである。例えば英国放送協会(BBC)のニュースサイトには数年間アクセスができなかったが、2008年から英語版だけが何の前触れもなしに見られるようになった。BBCはオリンピック・メディアの有力な一員だけに中国政府も妥協せざるを得なかったのだろう。まだ見られないサイトは他にも沢山あったが、オリンピックに向けて規制緩和は確実に進んだ。

開会式のパブリックビューイングに集まった若者。北京最大の繁華街“王府井”にて

開会式のパブリックビューイングに集まった若者。北京最大の繁華街“王府井”にて

そしてオリンピックの大会期間中は世界各国の記者から苦情が来ないように、中国政府はインターネット規制をさらに緩め、IBCやMPCで働いた中国人学生は、普段見られない外国のサイトを閲覧できる結果となった。彼らは暇さえあれば夢中で世界のニュースを読み音楽を聞いていた。

ただ、「メディアの春」はここまでだった。オリンピックが終わったとたんにネット規制が復活した。外国のソーシャルメディアも次々に接続できなくなり、YouTubeは2009年3月に、次にフェイスブックが切断された。ツイッターも接続できなくなった。しかしながら「上有政策、下有対策」(上に政策があるなら、下には対策がある)としぶといのが中国人だ。切られた外国のSNSの代わりに作られたのが「微博ウェイボー」という、いわば中国版ツイッターだった。中国語は漢字だけなので微博の120字程度でも日本語にすれば400字分くらいの内容を書くことができる。微博は急成長し3年後には使用者が5億人に達した。

2011年に浙江省の温州で高速鉄道の大事故があったが、中国の国営テレビやメディアはこういう政府の面子が潰れるニュースは報道しない。しかし微博を通じて事故の写真が拡散し、新幹線型の車両が高架橋から落ちる大惨事があったことを多くの中国人が知ることになった。

オリンピックが終わり10年近く経つ今でも中国政府はメディア規制に躍起になっている。国家機密の開示規制が強化され、記者が所属団体の事前承認を得ずに批判報道することも禁じられた。2017年からはVPNという、多くの外国企業が使っている仮想専用回線の仕組みまで規制された。この仮想回線を使って中国人が政府に対する不満を外国のSNSなどに書き込むことを恐れたのだ。

このような規制は繰り返し出されながらも効果を上げていない。その背景は北京オリンピックの時学生ボランティアの経験に端を発していると私は考えている。外国人の行動様式や自由なものの考え方に多少なりとも影響された10万人ものボランティアの経験が国民全体に広がったのではないだろうか。鉄道事故の場合にも当然の「知る権利」として情報を広めてしまったのではないだろうか。オリンピック当時22歳だった清華大学の学生は今はもう30歳を越え党や政府の中級幹部くらいにはなっているはずだ。知る権利や発言の自由をめぐる彼らの意識はその上の世代とは全く違っている。中国では北京オリンピックが発想の大きな転換点になり、言論についての考え方の異なる世代を生んだのだと思う。

オリンピックのレガシーとは競技施設や技術革新という形のあるものだけではない。若者に発想の転換をもたらし社会の形を変える原動力となった精神的なものを最大のレガシーと呼びたいと私は思っている。

スポーツ歴史の検証
  • 藤原 庸介 流通経済大学スポーツ健康科学部准教授

    東京都世田谷区出身、東京大学経済学部卒業 日本放送協会(NHK)に入社し報道局外信部記者 ローマ支局長 アトランタ支局長、報道局スポーツ・チーフプロデューサーなどを歴任。NHK在職中に国際オリンピック委員会(IOC)ラジオ・テレビ委員を8年間務めオリンピック映像のネット配信の基本ルール作りに携わる。2005年NHKを早期退職し中国北京市政府の外郭団体「北京奥林匹克轉播有限公司」(北京オリンピック放送機構)放送情報部長に就任、北京オリンピック後の2009年から10年間日本オリンピック委員会(JOC)理事を務めたほか、2013年に暴力問題で揺れた全日本柔道連盟の理事となり組織改革を実施した。