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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

孤高の長距離走者
-村社講平

【オリンピック・パラリンピック アスリート物語】

2020.02.19

レンズ越しに女流監督、レニ・リーフェンシュタールの冷静な目が捉えているのはゼッケン377。胸に日の丸をつけたユニホームの村社講平がフィンランドの3選手を従え、少しうつむき加減に黙々と走っている。

ベルリン大会の奇跡

1936年8月2日、12万人の大観衆を集めたベルリンのオリンピックスタジアムでは第11回ベルリンオリンピック10000m決勝が行われていた。スタートから200m、身長162cmの村社が先頭に立った。1周400mを平均72秒のペースでラップを刻んでいく。後ろについたのが当時長距離王国を誇ったフィンランドの3選手。191cmのイルマイ・サルミネンはひときわ目立つが、ほかの2人も185cmを超える長身だ。

体の小さなものが大きな相手に立ち向かっていく。コントラストがおもしろいのか。「ヤーパン、ヤーパン」-大観衆から声援が起こり、波のようにスタンドに広がった。

1936年ベルリン大会10000m

1936年ベルリン大会10000m

10周を過ぎて、先頭争いは4人に絞られた。村社は6000mを過ぎても先頭を譲らない。7000m、スピードをあげたフィンランド勢に抜かれた。すると大観客は「ムラコソ、ムラコソ」とレース前には知りもしなかった名前を叫ぶ。スタンドの熱狂にこたえるように村社は8000mで再びトップを奪い返す。日本長距離界の奇跡といっていい。

貴賓席に陣取るナチス総統アドルフ・ヒトラーは興奮を隠さず、ヒトラーにオリンピックの"広告効果"を説いて開催を決意させた宣伝相のヨーゼフ・ゲッペルスは立ち上がり柵をたたいて絶叫した。公式映画を撮るカメラは抑えた調子でレースとスタンドの様子を記録していく。レニの演出である。

最後の1周にかかり、再びスピードをあげたフィンランド勢が一人、また一人と抜いていく。スタンドの喚声は悲鳴に変わり、力尽きた村社は4位に終わった。3位ボルマリ・イソホロとは10000m走って、わずか10mの差だった。

レニ・リーフェンシュタール監督のベルリン大会公式記録映画『オリンピア』は2部作で構成され、10000mの村社は『民族の祭典』(もうひとつは『美の祭典』)で陸上100mを制した黒人選手ジェシー・オーエンスと並ぶ主人公のような地位を占める。大男を向こうに回し、黙々と走る小さな勇姿がレニの感性をいたく刺激したのかもしれない。

「満足した走りではあったが結果は四位。部屋に帰り泣くだけ泣く…」

村社はその日の日記にそう書いた。60年たった1996年、村社にあのレースの感想を聞いたことがある。91歳になった電話口から静かな声が聞こえてきた。

「いいレースでした。フィンランドの3人は正々堂々、戦いましたし、僕もよくやったと思います」

黙々と先頭を走る"オレ流"

1936年ベルリン大会5000m

1936年ベルリン大会5000m

10000m決勝から5日後の5000m決勝。村社は3周目あたりで先頭に立つと、いつものように黙々と走る。この日はフィンランド3人にスウェーデン、アメリカの選手が加わり、先頭争いを繰り返す。村社がトップに立つと、スタンドの歓声がひときわあがる。10000mの果敢なレースが観客の心をわしづかみにしたようだ……。

しかし、北欧勢は強かった。1、2位をフィンランドのグンナー・ヘッケルトとラウリ・レーティネンが占め、3位はスウェーデンのヘンリー・ヨンソン。村社は最後に力尽きて、また4位に終わった。再びメダルはするりと手からこぼれた。

31歳。27歳で入学した中央大学在学中である。序盤から飛び出して先頭に立ち、レースを引っ張るのが常の"戦法"だった。

「ペース配分を考えた作戦を立てなさい」

1928年第9回アムステルダム大会で日本初のオリンピック金メダルを獲得し、すでに指導する立場にあった織田幹雄からアドバイスされた。しかし、村社が「自分のやり方を変えることはなかった」と女婿の吉田齋氏から聞いた。吉田氏は当時アシックス常勤顧問、中央大学陸上部で村社の薫陶をうけた。ちなみに織田は同じ1905年生まれ、同い年だから助言を受け入れなかったわけではない。あのスタイルこそ、後に『走即人生』を座右の銘とした村社の生き方そのものであった。吉田氏によれば「自身の走法を指導する学生に強いることはなかった」という。

ただ黙々と先頭に立って走る。独自のスタイルへのこだわりに、孤高の長距離走者としての姿が立ち上がってくる。

仕事の手伝いが日課に……

村社講平は1905(明治38)年8月29日、宮崎県宮崎郡赤江村(現・宮崎市赤江町)に生まれた。父の国平は酒造業を営んでいたが、知人の借金の保証人になって破産。一家は耐乏生活を強いられた。

7歳になると、父が新たに始めた材木商の仕事を手伝うようになった。材木を積んだ荷車を引くため、牛の飼い主にその日の運び先を伝えるのが仕事だ。毎朝、赤江小学校に通う前に飼い主の家まで走る。往復7kmの道のりを走ることが日課となった。日本のマラソンの父、金栗四三は熊本で小学校に通うため、毎日往復12kmの道のりを走った。どこか通じるものがあると思いたい。

素質を見込んだのだろう。父は苦しい家計のなかから講平少年を県下の名門、宮崎中学(現・県立宮崎大宮高)に通わせてくれた。

宮崎中学は当時、テニスブームのただ中にあった。1920年アントワープ大会に先輩の熊谷一弥がテニスで出場。シングルスとダブルス、2つの銀メダルを獲得して日本初のオリンピックメダリストとなった。

「みんな熊谷さんに憧れましてね。テニス部が大人気で、それで僕も入部しました」

余談ながら、熊谷は宮崎中学では野球部に所属、陸上中距離の選手としても活躍した。テニスは慶應義塾大学進学後に始めた。

憧れの熊谷の陸上選手としての活躍を聞くにつれ、村社は走ることに目を向けていく。後押ししたのは6000mの距離を走る校内ロードレース大会。レース経験のない悲しさで、ペース配分など考えもつかない。ひたすら前を向き、全速力で走り続けた。

「あんなに無茶苦茶に飛ばすといつかへばるぞ」との周囲のささやきをよそ眼に、村社のスピードは衰えない。そのまま誰よりも早くゴールに飛び込んだ。

「父の手伝いで毎朝7kmほど走っていたし、休みの日には木材の買い付けで山道を40kmは歩いていましたから、知らず知らずに持久力が鍛えられていたんでしょうね」

そんな村社に教師が声をかけた。「鍛えていけばオリンピックに出られるぞ」―ときに15歳、長距離走者としての芽生えである。

赤江村の自宅から宮崎中学までは片道6km。走って通うことに決めた。往復すると12km。ひとりぼっちの長距離練習は卒業まで課題として続けた。その間、1923年の第1回宮崎県中等学校陸上競技大会1500mに優勝、翌年も連覇した。

長距離走者に目覚めた村社は、1925(大正14)年3月に宮崎中学を卒業すると、運動具店でアルバイトをしながら11月の第2回明治神宮競技大会を目指した。全国から脚力自慢が集まる大会で実力を試したい。世界記録を目標ペースに練習に明け暮れた。

宮崎県代表として10000mに初出場した大会は、しかしさんざんな結果に終わった。練習と同様に世界記録のペースで飛び出した。先頭に立ち、「ヨシッ」と思った3周目、突然目の前が真っ暗になって倒れこんだ。失神して途中棄権。鼻っ柱がへし折られた。だが、くじけたわけではない。「もっと練習、走らなければ」との思いが頭をもたげた。

孤独の練習で培ったスタイル

その頃の様子を村社はベルリン大会後の『中央公論』1936年11月号にこう綴っている。「大正より昭和にかけての二年近くの兵営生活にも、引き続き五年余りの宮崎図書館就職中にもスパイクを手離すことなく」走り続けたのだと…。

練習漬けのある日、「人間はどのくらい走れるものか」と疑問を抱き、宮崎県庁から青島を経由して日南海岸の鵜戸神宮まで走ってみた。片道42km、往復84km。マラソン2回分を1日で走ったわけだ。さすがに自宅に戻ると意識を失い、2日間寝込んだ。

懲りたのかと思ったら、月に1度は鵜戸神宮往復走を行い、耐寒・耐暑練習やインターバル走も取り入れ、練習を工夫した。もちろんコーチもトレーナーも、伴走者すらいない孤独な練習である。オリンピックを目指した頃の金栗四三を彷彿させる練習だった。

その甲斐あって1929年に開かれた第6回明治神宮大会10000mで3位に入った。そうして意気揚々と1932年ロサンゼルスオリンピック予選会に挑むのだった。

南九州予選10000mに快勝。自信をもって東京の最終予選会に臨んだ。しかし、結果は3位。ロサンゼルスへの道は断たれた。中央の大学でもまれた学生選手たちの実力を見せつけられ、ひとりだけの練習に限界を感じた。前掲の『中央公論』に書いている。

「少なく共、伯林(ベルリン)大会を目指すならば学生選手たることを痛感」

1933年7月、県立宮崎図書館を退職、9月に中央大学に入学した。27歳の大学新入生誕生である。村社の失意を知る中央大学陸上部マネジャー、島村清男(衆院議員、島村一郎の長男)の誘いを受け入れたのだ。

中央大学陸上部で初めて組織的な練習に触れた。集団で走り、互いに声をかけながら教え、競い合う。それはそれで望んだ姿ではあったが、孤独な練習を続けてきた名残か集団のペースに合わせて走ることは苦手だった。

競技大会でも走るスタイルは変えてはいない。相変わらずスタートから先頭に立ち、全速力で突っ走る。そしてレース後半になると失速、抜かれてしまう。それでも自己流走法にこだわり続けた。不思議なことにだんだんトップで走る距離が伸びてきた。人の何倍も走る豊富な練習量に裏打ちされて、最後までスピードが続くようになった。今日では希少価値となった、ひとつのスタイルを貫く潔さ、勁さが村社の持ち味といえよう。

戦争が奪った夢

1934年10月、兵庫県の南甲子園競技場で開かれた日本陸上競技選手権の5000mと10000mで優勝。ついに日本一に。以来、国内では負けない選手に育っていく。海外遠征の国際大会でも体の大きな外国人選手相手に善戦、上位入賞を果たした。そして、金栗が東京高等師範学校同僚の野口源三郎や明治大学の沢田英一と創始した箱根駅伝でも母校のために快走を繰り返した。

そして悲願のベルリン大会に続く。10000mは30分25秒0、5000mが14分30秒0。いずれも自己記録を更新する日本新記録、その後20年も破られなかった記録だ。それでも外国勢の壁は高くて、両種目とも4位。しかし、それもまた今もなお残る日本の長距離トラック種目のオリンピック最高位に違いない。村社講平という存在の大きさがわかる話ではないか。

村社はもちろん、次のオリンピックを目指した。1936年の国際オリンピック委員会(IOC)ベルリン総会で決定した1940年東京大会。34歳で迎えるが、不安はない。実際に当時の記録を調べていくと、順位の欄には「1」が並んでいた。中距離の1500mをのぞけば、まず負けることはなかった。

しかし、オリンピックで勝つ夢はついに果たし得なかった。戦禍の拡大で東京大会は返上、代替のヘルシンキも返上して1940年大会は中止。続く1944年ロンドン大会も中止された。戦争のあおりをうけて選手生活を終えざるをえなかった村社もまた"悲劇のオリンピアン"にほかならないと思う。

戦後は大阪毎日新聞運動部記者としてスポーツ記事の執筆にあたる傍ら、後輩の指導にあたった。1952年ヘルシンキ、1956年メルボルン両大会の代表チームのコーチ、1964年東京大会もコーチとして参加した。ヘルシンキ出場の井上治、メルボルンの川島義明やローマの廣島庫夫、東京の寺澤徹、円谷幸吉、横溝三郎は代表的な教え子である。

レニとザトペック

1952年ヘルシンキ大会のザトペック(先頭)

1952年ヘルシンキ大会のザトペック(先頭)

目を外に転じれば、ヘルシンキ大会で前人未踏、いやその後も誰ひとりとして達成していない5000m、10000m、マラソンの長距離オリンピック3冠を成し遂げたチェコスロバキア(当時、現チェコ)のエミール・ザトペックもまた、「ムラコソの弟子」だといっていい。「人間機関車」と称された超人はまだ中学生だった頃、映画館でオリンピックの記録映画をみた。スクリーンに大写しされたのは大きな体のフィンランド勢を従えて走る小さな日本人。村社講平である。映画は封切られたばかりのレニ・リーフェンシュタール監督作品『民族の祭典』であった。

「自分もあんな選手になりたい」

ザトペック少年は「ムラコソ」に憧れ、その豊富な練習量を学び、先頭にこだわり続けるランニングスタイルをまねた。その結果があの3冠に結実したことはいうまでもない。

言ってしまえば、村社のスタイルがひとりの中学生のその後の生き方に影響を与え、オリンピック史に残る偉業に結ぶ。スポーツの伝播の形として称賛されていいと思う。

閑話休題。後年、ザトペックは日本の関係者に長年の夢を語った。「私の英雄と一緒に走りたい」―その思いが実現したのは1981年4月。多摩ロードレースにゲストとして招かれた超人は多くの市民ランナーに囲まれて、「心の師」とともに5kmの道のりをゆっくりと駆けた。ザトペック58歳、村社75歳の春、ふたりがそのとき平和の時を甘受していたか、それは知らない。

レニ・リーフェンシュタール

レニ・リーフェンシュタール

ふたりを結んだ映画『民族の祭典』『美の祭典』の監督レニ・リーフェンシュタールと村社は1972年ミュンヘン大会の際に再会している。若い頃、村社とレニとの間には心の交流があったと聞いた。いたずら心が高じて思い切って質問をぶつけた。「お互いに恋愛感情みたいなものはありましたか」と……。

すると電話口の村社は「うふふっ」と笑って静かに受け流した。

「レニさんはほんとうに美しい人でした」

村社は1998年7月8日、92歳の生涯を閉じた。前日まで日課のジョギングを欠かさなかったと聞く。あれから20年を超える歳月が流れ、金栗四三はNHKの大河ドラマ『いだてん』で復活を遂げた。もうひとり、黙々と走り続けた日本長距離界の功労者のことはあまり人口に膾炙かいしゃされなくなっている。どうか、孤高の長距離走者の偉業もまた、後世に語り継いでもらいたい。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。