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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

冬季オリンピック・パラリンピック
第123回
挑戦し続けることで切り拓かれた未来

黒岩 彰

 日本が誇るスプリンターとして世界の舞台で活躍したスピードスケート元日本代表の黒岩彰さん。大学1年時で日本一、3年時には世界の頂点に立ちました。冬季オリンピックには1984年サラエボ大会(ユーゴスラビア<現・ボスニアヘルツェゴビナ>)、1988年カルガリー大会(カナダ)と2大会連続で出場。カルガリー大会では男子500mで銅メダルを獲得しました。数々の輝かしい実績の持ち主ですが、子どものころはスケートが苦手だったと言います。どのようにして世界トップクラスのアスリートとなったのか、氷が張った“田んぼスケート”から始まったスケート人生について、さらに指導者としてのあるべき姿などについてお話を伺いました。

聞き手/佐野慎輔 文/斎藤寿子 写真/フォート・キシモト、黒岩彰 取材日/2023年1月26日

目標クリアの楽しさから始まった競技人生

―― 黒岩さんのご出身地はスケートが盛んな群馬県嬬恋(つまごい)村ですが、黒岩さんご自身はいつごろ、何をきっかけにしてスケートを始めたのでしょうか?

嬬恋村は今では“スケート王国”と言われていますが、私が子どものころはまだ特にスケート文化が根強い地域というわけではありませんでした。私が一番最初に触れたのは“田んぼスケート”でした。寒くなると、稲刈りをした後の田んぼに氷が張るのですが、それを子どもたちできれいなリンクにするのが楽しみでした。毎日のように「○○くんの家のリンクで滑ろう」とか「○○ちゃんの家のリンク貸して」と言って、“田んぼスケート”をするのが、冬恒例の遊びでした。ちなみに“田んぼスケート”は、宮崎守*1)先生が広めたものですが、競技スポーツではなく、あくまでも娯楽の一環でした。“田んぼリンク”のなかには、夜に明かりを灯してナイターで滑ることができるリンクもあって、そこでは子どもからお年寄りまで、村民みんなが楽しんで滑っていました。それが嬬恋村のスケート文化でした。ただ私は、はじめスケートが嫌いでした。初めて“田んぼスケート”をした時、みんながスイスイと上手に滑っているので「こんなの簡単だろう」と思って、借りたスケート靴を履いて氷が張った田んぼに立ったんです。そしたら滑るどころか一歩も前に進むこともできませんでした。それで嫌になってしまい、小学校低学年のころは体育の授業でスケートとなると、いつもずる休みをしていました。それでも前述したように嬬恋村の“田んぼスケート”は、決して上手い下手ではなかったので、はじめは滑るのを躊躇していた私も、だんだんと楽しいと感じるようになり、小学校中学年のころには友だちと楽しく滑れるようになっていました。それでも決して得意ではなかったんです。

*1)宮崎守:嬬恋村出身で、小学校に勤務していた際に田んぼスケートを考案し、子どもたちの指導を行った人物。群馬県スケート連盟副会長、群馬県スケート連盟嬬恋支部長、嬬恋スケートクラブ会長を歴任

黒岩彰氏(当日のインタビュー風景)

黒岩彰氏(当日のインタビュー風景)

―― スケート以外のスポーツはどうだったのでしょうか?

“田んぼスケート”は寒くなって氷が張らないとできませんので、当然冬限定の遊びでした。暖かい時期にはいろいろなスポーツをしました。それこそ陸上競技では足が速かったですし、野球をやっても上手かったんです。ところがスケートだけは苦手でした。スポーツのなかで最も不得意だったんです。

―― 最も苦手としていたスケートの選手になったのは、どのような経緯からだったのですか?

中学校に入学した際、部活はどこに入るか、アンケートがありました。その時に「唯一、スポーツのなかで女子に勝てないスケートで勝てるようになりたい」と思って、スケート部に入ることに決めました。

―― 世界で活躍した黒岩さんが男子ではなく、女子よりも遅かったというのは驚きです。

私の遅さは女子もあきれ返るほどで、練習ではよく同級生の女子から「彰は遅いんだから、私たちの後ろを滑ってよ。彰が前から離されると、私たちまで遅れてしまうのだから」と言われていました。遅いのは事実で言い返すことができませんので「うん、わかった」と言って女子の後ろにつくのですが、それでもその女子たちからも離されてしまうほど遅かったんです。ただ当時から目標を立てて、それに向かって努力することには長けていました。中学1年生の時の目標は「女子に勝つこと」。そうしたところ、1年間、女子に邪険に扱われながらも練習を続けた結果、1年生最後の2月の試合、500mで初めて女子のタイムを上回ることができました。それが48秒20でした。次に中学2年生の時に目標としたのが、学年ごとに分かれてレースが行われる軽井沢大会の2年生の部で優勝することでした。実際、その大会ではほかの中学校の選手と同タイムの45秒00で優勝しました。中学3年生の時には「群馬県の中学生新記録を樹立」を目標にしたところ、42秒80で県の記録を更新したんです。高校でもスケート部に入り、1年生の時の目標は「全日本選手権に出場するための標準記録を突破する」でした。結果的に40秒50を出して全日本選手権に出場する資格を取得しました。その翌年、高校2年生の時には「インターハイ(全国高等学校総合体育大会)出場」という目標も達成しました。

―― 中学生からは順調に記録を伸ばし続けたわけですね。

目標を立てて、それを一段一段、階段を上がるようにしてクリアしていくのが楽しかったんです。そうやって競技を続けていたら、いつの間にかスピードスケートの世界から抜け出せなくなっていました。高校3年生の時にはいくつもの大学から声をかけていただくような選手になっていました。中学生の時からずっと練習日誌をつけていましたが、高校3年生の時に使っていたノートは、それまでとはまったく違う高価なものでした。それだけスピードスケートに対して高い意識を持っていて、そのころには将来の目標として明確に世界を見据えていたように思います。

王道から外れた独自路線のトレーニングで日本の頂点へ

―― 多くの強豪大学から勧誘を受けるなかで、専修大学(以下、専大)を選ばれたのは何が決め手となったんですか?

私は明治大学(以下、明大)への進学を希望していましたが、高校の監督は「専大に行け」の一点張りでした。めざしていた明大への道が断たれた瞬間から、それまでずっとあった目標が失われました。一時は「もうスピードスケートを辞めようかな」と考えたこともあったんです。そんな時、ある大学から勧誘を受けたのがバレーボールでした。私はもともと前述したように、スケートは苦手でしたが、ほかのスポーツは得意でした。バレーボールはサージャントジャンプ(垂直跳び)では1m10くらい跳べて、相手コートのバックアタックライン付近に角度あるスパイクを打つことができたんです。大学からバレーボール部への勧誘が来ていることを知り、スピードスケートで明大に行けないのならそれもいいかなと思いました。でも結局、監督命令で専大以外の選択肢はありませんでした。当時の専大スピードスケート部は弱小で、インカレ(インターカレッジの略。全日本学生選手権大会)でも2部でした。正直、私には専大にスピードスケート部があるという認識がなかったぐらいなんです。その監督が高校の監督との関係があったとはいえ私を勧誘にきたことが不思議でした。とりあえず入学はしましたが、2、3カ月経ったら大学を辞めて、実家に戻り農家を継ごうと思っていたので、入学して1カ月は、一度も練習に行きませんでした。5月の連休明けに、専大スケート部の当時監督を務めていた前嶋孝*2)先生とじっくりと話す機会がありました。私は前嶋先生に「今の僕には目標がありません。この弱いチームで何のためにスピードスケートをやるのかその意味が見出せないので、僕は実家に帰って農家を継ごうと思っています」と正直な気持ちを伝えました。すると前嶋先生が「彰、お前は世界をどう思っている?」と言うので「僕はスケートをやるなら世界をめざすこと以外、やる意味がないと思っています」と答えたんです。そしたら前嶋先生が「だったら、オレと一緒に本気で世界をめざそう」と言われました。私が「それは本当ですか?僕は中途半端なことはできない人間です。真剣に世界のトップをめざすということであれば、僕はスケートを続けます」と再確認すると、前嶋先生は「本気だ」と言ってくれました。それでまたスピードスケートをやろうと決心し、本気で世界をめざし始めたのはそれからでした。

*2)前嶋孝:運動生理学を専門とし、スピードスケートにおけるイメージトレーニング中の生理的反応を研究し、実践に応用。1978年に専大スピードスケート部監督に就任し、多くのオリンピック選手を輩出した

―― 現役時代には全日本のチャンピオンになったこともある前嶋先生との二人三脚で世界をめざし始めたのですね。

まずは、日本スピードスケート界が世界で勝てない要因を2人で話し合いました。それまで日本では、スピードスケートで最先端を行くオランダやノルウェーからトレーニングメニューを取り入れて真似をしていたんです。もちろん、それも進歩にはつながっていたと思います。ただ、それでは永遠にオランダやノルウェーの後ろについて行くだけで、日本で新しくトレーニングメニューを導入した時には、すでにオランダやノルウェーではさらに新しいトレーニングをやっているというような状況でした。つまり同じ線路上を走っていては、いつまで経っても日本が先頭に行くことはできません。世界に勝とうとするなら、やはり日本が世界をリードするような独自の路線をつくっていかなければならないだろうと思いました。そこで前嶋先生と、日本で行われている常識とされてきた練習を一変させようということになりました。周囲からすれば突拍子もない練習を、私と前嶋先生は大学1年生のころからしていたんです。周囲は「専大は何をやっているんだろう?」と関心を寄せはするものの、それはすべて「あんな変な練習したってダメに決まっている」と否定的な反応でしかありませんでした。ところが、1年間練習を積んだ結果、その年の全日本選抜スピードスケート競技会(以下、全日本選抜)ですべてのレースで勝ったんです。

1984年サラエボオリンピック、男子500m

1984年サラエボオリンピック、男子500m

―― 前嶋先生との練習は、間違っていなかったということが証明されたわけですね。

そうです。その時の全日本選抜では500m、1500mの初戦、2戦目とあわせて4レースで勝ちました。ところが、その年12月のアジア冬季競技大会の選考会で落選したんです。これが当時の日本スケート連盟の実態でした。私は前嶋先生に「専大のスピードスケート部の存在なんて、こんなものです。いくら勝ったって、アジア大会にも選んでもらえません」と悔しさをぶつけました。すると前嶋先生は、こう檄を飛ばしてくれました。「彰、そんなことはない。勝ち続けるんだ。そうすれば、世論が許さないから。世論を味方にするくらい勝って、勝って、勝ち続けるんだ」と。実際、その後も私はあらゆるレースで勝ち続け、全日本スプリントスピードスケート選手権(以下、全日本スプリント)でも総合優勝しました。それでようやくその年の世界スプリント選手権(以下、世界スプリント)の日本代表に選んでもらうことができました。

―― 前嶋先生と取り組まれた、一風変わった練習メニューとはどんなものだったのでしょうか?

最大の違いはどこだったかと言うと「スピードスケートのための練習をした」ということに尽きます。それまでのトレーニングは、例えば「とにかく走れ」とか「とにかくウエイトトレーニングをしろ」といった、滑ることと連動していないものばかりでした。「スピードスケートを滑るために」とか「氷上でこういう動きをするために」というものがまったくなかったんです。そこで、私は現在も主流であるローラースケート(インラインスケート)や自転車でのトレーニングを取り入れました。なかでもローラースケートを導入したのは、日本では私たちが初めてだったと思います。現在はリンクが屋内ですので、夏場から氷上を滑ることができますが、当時のリンクは屋外でしたので、滑ることができた期間は11月から2月と限られていました。そのために春から秋にかけての間、どうしたら意味のある練習をすることができるだろうか、ということからローラースケートを導入しました。ただ当時のローラースケートは今のように精度が高くはなく、少しスリップするとすぐに転倒するので、よく膝に擦り傷をつくっていました。ようやく瘡蓋(かさぶた)ができたかと思ったらまた転ぶということを繰り返し、年中擦り傷が絶えない状態でした。

―― ローラースケートは、下半身の筋力強化や重心のバランスなどに効果があるオフシーズンのトレーニングとして有効とされていますね。

当時の前嶋先生の考えは「スケート競技は下半身が最も重要で、上半身は特に鍛える必要はない」というものでしたので、下半身を徹底的に強化しました。ただ上半身は細くて、今思うと下半身ばかりが太く、アンバランスな体をしていました。1年生の時にはそれでも勝つことができましたが、2年生になるとタイムが伸び悩み始めたんです。1年生の時に出していたタイムさえも出せなくなっていました。それで前嶋先生にこう相談しました。「自分の感覚として、体のバランスが悪いような気がします。確かに脚力には自信がありますが、滑っている時にその脚力を生かしきれていない感じがあるんです。それは上半身が弱いからではないでしょうか。上半身も鍛えれば、下半身の力をさらに大きなパワーに変えられるような気がします」と。上半身のなかでも背筋は強かったものの、翻って腹筋は弱かったので、上下、前後、左右といずれもバランスが取れていませんでした。そこを改善しなければ、これ以上は伸びていかないように感じていました。前嶋先生も「それも一理あるかもしれないな」とおっしゃって、そこで練習メニューを変えることにしたんです。さらに技術的なスキルアップも図ろうと考えました。

オランダ、ロシア、ノルウェー、アメリカと当時の強豪選手は、みんな身長が185cm、190cmといった長身ばかりでした。翻って私はというと、175cm。脚の長さを考えても、パワーに頼っていては同じひと蹴りでの出力、距離はかないません。では、どうすれば彼らに勝てるのかと考えた時に、テクニックを磨くという結論に至りました。当時のスピードスケートは、力任せに氷を砕きながら滑っていました。そこで私は、力任せに砕くのではなく、少しでもスケート靴を返し内側に切り込むような滑り方ができれば、遠心力を使ってスピードを出せるのではないかと考えました。自分の上半身を倒しながら滑るなかで、遠心力に負けて足が体から離れて外に流れてしまうとロスが生まれるので、常に足が体の真下にあるような動きができれば、それが推進力になるのではないかと考えたんです。だから力任せに氷をガリガリと砕きながら滑っていた海外の選手とは違い、ストロークで距離を稼ぐ私の滑りはまるでスローモーションを見ているかのようにゆったりとした滑らかさがありました。

―― さらに記録を伸ばすことができたのは、体のバランスを整えるトレーニングに変えたことと、新しいスケーティング技術を身に付けたことの成果だったのですね。

大学3年生の時の世界スプリントでは、日本人で初めて総合優勝に輝きました。

本命レースで惨敗に終わった初めての冬季オリンピック

―― そのころにはオリンピックも視野に入っていたのではないでしょうか。

まだ年齢的に物事を安易に考えているところがあり、「世界一のトレーニングプラン技術を手に入れたのだから、このまま同じように続ければ、来年のオリンピックでも勝てる」と信じて疑いませんでした。実際、翌年4年生の時にも前年と同じ練習メニューをこなして1984年サラエボ大会に臨みました。結果は、金メダルの本命とされながら男子500mで10位と惨敗に終わりました。

多くの報道陣から取材を受ける
(1984年サラエボオリンピック)

多くの報道陣から取材を受ける(1984年サラエボオリンピック)

―― 周囲からやマスコミからのプレッシャーも相当あったのではないでしょうか。

ありました。特にマスコミは、どのオリンピックもそうですが、開幕直前になるとあおるわけです。なかでも全国紙の取材攻勢は凄まじく、毎日のようにマスコミ各社が練習場所に来てはコメントを求めてきました。当時の大学は広報の体制も今のようにしっかりとあったわけではありませんので、管理してくれる人がいませんでした。ひどい時には朝起きたら寮のなかでテレビカメラがまわっていたこともありました。そして練習後には必ず「黒岩選手、今日の練習はどうでしたか?」「オリンピックでのメダルはどうでしょうか?」と同じような質問を繰り返して、「金メダル」という言葉を言わせるように仕向けてくるんです。でも、日本スプリントや世界スプリントで優勝しても、小さな記事にしかならなかったスピードスケートをどうにか新聞の一面に載るような世界にしたい、ということも目標のひとつにしていましたので、取材攻勢は自分が希望していたことでもありました。それでも記者の質問は正直ひどいものでした。サラエボ大会の開幕直前に現地で行われた共同記者会見の時でも、最初の質問が「身長と体重を教えてください」だったんです。「この場に及んで、その質問?」と思いましたが、「まあ、身長と体重は変わるから」と思って答えました。そしたら次に「生年月日を教えてください」と来たんです。調べればすぐにわかることですよね。そんなことを1時間以上やったわけです。スピードスケートや選手のことを知らない記者が全員とは言いませんが、大半でした。

500mレース後(1984年サラエボオリンピック)

500mレース後 (1984年サラエボオリンピック)

―― マスコミからのプレッシャーに加えて、当時はリンクが屋外にあり、レース当日は大雪の最悪な天気だったこともさらにプレッシャーとなっていたのではないでしょうか。

サラエボ大会のレース時は降雪量が1mにもなるような大雪で、レース前のトレーニング中もずっと雪が降り続いていました。何度も雪かきをしなければ滑れない状態で、雪かきの合間にトレーニングをするような状況でした。そのためにレースが2時間、4時間、6時間とどんどん遅れていき、時間が経つにつれて「こんななかではレースはできないな」と緊張感が緩んでいる自分がいました。それが結果に表れたのだと思います。オリンピック直後に行われた世界スプリントでは500mで2位となり、それで大学での競技生活を終えました。卒業と同時に前嶋先生の元を離れて4月から国土計画で仕事を始めました。でも、その時は友人や、大学時代にお世話になった人たちと顔を合わせるのも嫌で、家族にも会いたいと思えず、サラエボ大会から帰国後、一度も実家に戻りませんでした。というのも、あれだけみんなが応援してくれたのに、惨敗して帰ってきたなんて、会わせる顔がなかったんです。

―― 同じ500mで法政大学3年生の北沢欣浩選手が銀メダルを獲ったこともショックだったんじゃないですか?

それもあったかもしれません。ただ、何よりも自分の実力を出し切れなかったことに対して「何でだったのだろう?」という気持ちが一番にありました。それでも天候のことなど言い訳にするつもりはありませんでした。同じ条件で勝った選手がいるわけですからね。とにかく「どうしてなのだろう?」ということが頭から離れませんでした。

サラエボと同じ轍を踏まないために海外武者修行へ

―― 大学卒業後、国土計画に入社してからの練習はどのようにされていたのですか?

まず会社には「私のことを誰も知らないところで、ひとりで仕事をさせてください」とお願いしました。最初の配属先では半年間ほど、東京や箱根のプリンスホテル、苗場のスキー場、軽井沢のゴルフ場などで仕事をしながら、ひとりでトレーニングをしていました。でも9月くらいになって東京に戻ってきた時に前嶋先生の元を訪れて「もう一度、僕と一緒にスケートをやってくれませんか」とお願いをしたんです。その時に前嶋先生は「オリンピックから戻って来て、苦しんでいる彰の姿を見て、何か手助けができないかなと考えたんだよ。でも、言葉が見つからなかった。あの時、僕がいくら何かを言っても、彰の気持ちが変わらない限り、おそらく解決できない問題だろうと。だから声をかけなかった」と胸の内を伝えてくださったんです。その時に「この半年間は、前嶋先生の無言の助言をいただいていたんだな」と思いました。

また、マスコミ対応についても前嶋先生とじっくり話し合いました。前嶋先生は「マスコミって怖いよな。開幕前はあれだけ持ち上げておきながら、いざ結果が出ないと辛らつな言葉を書き連ねるんだから」とおっしゃっていたのですが、私はこう言いました。「トレーニングメニューも、足を返して遠心力を利用して推進力を生み出すというスケーティングの技術も、未だ誰もなしえていない世界一のものであることは間違いありません。それらが僕の大きな柱となっています。ただ、その2本の柱を支えるための、もうひとつ柱が必要なのだと思います。そして、それが精神面ではないかと。ですので、自分の心をコントロールできるようにイメージトレーニングにトライしてみたいと考えています」と。

―― 当時はまだ日本スポーツ界では、イメージトレーニングを取り入れている選手はほとんどいなかったと思いますが、誰か専門家から学んだのでしょうか?

心理学の先生から学びました。それまではよく試合の時には「肩の力を抜いて」と言われても、「肩の力を抜いた状態とは?」と疑問を持っていました。そこで1年間、リラクゼーションについて追究しました。心理学の先生からは、頭のてっぺんや肩に精神を集中させ、そこから力を抜くなどさまざまな方法を教えていただきました。

―― 再び自信を取り戻したのは、いつごろでしたか?

社会人2年目の1986年に軽井沢(長野)で行われた世界スプリントの男子500mで優勝し、総合3位となりました。あの大会が終わった時に「前回と同じようにオリンピック前まで順風満帆でありながら、本番で落とし穴に落ちる。今回もその第一歩を踏み出しているな」と思いました。その落とし穴に入る一歩手前で踏みとどまるには、何をすべきかを考えた時に、海外に行こうと思いました。というのも、悔しくて情けないという気持ちを味わったサラエボ大会よりもさらに苦しい環境に身を置くなかでスケートと向き合わなければいけないと思ったんです。そこでもっとどん底の気持ちになるというのはどういう状況なのだろうかと考えた時に、海外だなと思いました。英語もろくに話せない、ドイツ語もわからない自分が海外にひとりで行って、そこでレースで勝つという経験が今の自分に最も必要なのではないかと思い、10月にドイツに単身で渡りました。

―― 実際にドイツではどのような環境でしたか?

まずドイツに行くまでがすでに大変でした。というのは、日本スケート連盟に「10月からひとりでドイツで生活をして、海外のワールドカップを転戦します」という話をしたところ、「今の連盟には海外での強化という文言はない。それに従わず、連盟に所属している身で勝手に海外に行くのなら除名される覚悟でいなさい」と言われたんです。連盟から除名されてしまっては、日本代表選手にはなれないのでオリンピックの道が閉ざされてしまいます。それでは元も子もありませんので、会社に戻り、堤義明*3)会長にそのことを報告しました。そしたら堤さんが「君のような日本のエースを連盟が除名できるわけがないのだから、気にせず行ってきなさい」と言ってくれたので、連盟の許可を得ないままドイツに渡りました。インツェルという街を拠点としながらワールドカップを転戦した結果、その年(1987年)の世界スプリントで総合優勝しました。それが再び自信を取り戻す大きな起点になったように思います。ちなみに帰国したら日本スケート連盟からは「良ければ、今年もまた海外での合宿をしてくださいね」と恩着せがましく言われました。内心では「言われなくても行きます」と思っていました(笑)

*3)堤義明:昭和後期から平成の時代を代表する経営者。国土計画を中核とした西武鉄道やプリンスホテルなど70社以上からなる西武鉄道グループのトップとして、不動産、ホテル、スポーツ・レジャー施設などの事業を展開。日本スポーツ界の重鎮でもあり、プロ野球・西武ライオンズの球団オーナーや、日本オリンピック委員会初代会長を務めた

銅メダル以上の価値に思えた4年間の道のり

1988年カルガリーオリンピック男子500m

1988年カルガリーオリンピック男子500m

―― 翌年は、どこを拠点にされたのでしょうか?

その年は、1988年カルガリー大会のシーズンでしたので、そこに向けてカルガリーを拠点にしました。またひとりでの海外生活が始まりましたが、日本でいる時のように友だちとご飯を食べたりすることもできず、「そんな楽しい時間はもう二度と戻ってこないのかもしれない」と思い詰めることもありました。練習の合間に昼寝をしていて、友だちと遊ぶ夢を見たこともありました。そんな時、ふっと目覚めてひとりだということがわかった瞬間の寂しさといったらありませんでした。ワールドカップの現地でほかの日本選手と一緒になるのですが、終われば日本に帰国するみんなと分かれて、自分ひとりだけほかの便に乗る時も孤独感がありました。今思うと、とても貴重な時間だったなと思うのですが、当時は寂しくて仕方なかったです。まさに武者修行でした。

―― そうしたなかで迎えた2度目の冬季オリンピック、1988年カルガリー大会では男子500mで銅メダルを獲得しました。「オリンピックの借りはオリンピックで返すしかない」とよく言われますが、ようやくサラエボ大会の借りを返せたわけですね。

レースの2週間前には選手村に入村しましたが、徐々に日本のマスコミも現地入りしてきて報道合戦が始まっていました。ただサラエボ大会の時と同じ轍は踏みたくはありませんでしたので、共同記者会見の日程は私のほうで決めさせてもらいました。レースの1週間前、3日前、前日と3回設けるかわりに、1回の質疑応答の時間は10分といった具合に指定しました。それだけ短い時間しかないとなると、記者たちも勉強してどういう質問をしたら効率的なインタビューができるかを考えなければならないと思ったんです。ただ、やはり最後には必ず「金メダルについて」の質問が来ました。でも、私はいつもこう答えていました。「レースまで残された時間にやるべきことがありますので、それに集中します」と。

―― ひとりだけの武者修行を経て、カルガリー大会での黒岩さんは、4年前のサラエボ大会とは違う境地にいらっしゃったのではないでしょうか。

そう思います。だからこそ、たとえレースで負けてメダルを獲れなかったとしても、「ここまでやってきたんだから、それで負けたら仕方ない」と納得できたように思います。それだけの時間を4年間過ごしてきたんだと思っていました。

1988年カルガリーオリンピック、
男子 500mスタート(左が本人、右が西ドイツのマイ)

1988年カルガリーオリンピック、男子 500mスタート(左が本人、右が西ドイツのマイ)

―― レースは、金メダルに輝いたウーベ・イェンス・マイ(東ドイツ)と同走でした。

奇しくも4年前と同じ4組のアウトコースでした。私はサラエボ大会で負けて以来、国内大会でも「4組のアウトコース」となると「何か起きるんじゃないか」と心の引っかかりが取れずにいました。そのため、イメージトレーニングの時には常に「500m4組アウトコース」でのレースをイメージしていました。カルガリー大会レース前日に組み合わせ抽選会があったのですが、すでに終わっているだろうという時間になっても何の連絡もなかったんです。それで自分から前嶋先生のところに行って「明日の組は決まりましたか?」と聞いたら、とうとう伝える時がきたなというような顔をされて「まだ伝えてなかったのだけれど、4組のアウトだったよ」とおっしゃたんです。正直、そう言われた瞬間は動揺しました。でも、すぐに気持ちを切り替えました。「この時のために、オレは4年間ずっと“4組アウト”でイメージトレーニングしてきたんだから、逆に想定通りの最高の組かもしれない」と思ったんです。前嶋先生にも「明日の4組アウトのレース、僕はしっかりと滑り切りますから」と宣言をして部屋に戻りました。500mはたしか現地時間の夕方5時15分スタートだったと思いますが、その時間にあわせて当日はウォーミングアップをしたわけですが、お昼の12時に一度リンクで氷上アップをしました。その際、体重を測ったら起床時には77.0kgだったのが、76.5kgになっていました。その後、レース前の最後の食事としてお昼2時ごろにご飯を食べたのですが、その前に測ったら76.0kgとベスト体重でした。4年前のサラエボ大会の時は、大雪でレースが遅れていくたびにほっとした気持ちになって、最後には「このままレースが中止になればいいのに」と思っていましたが、カルガリー大会では「今すぐにでも滑りたい」とレースに対して前向きな気持ちになっていました。

1988年カルガリーオリンピック男子
500m で銅メダルを獲得した

1988年カルガリーオリンピック男子500mで銅メダルを獲得した

―― レースを振り返ってみて、いかがでしたか?

あの時スターターがドイツ・インツェル出身のベックという人でした。私はカルガリー大会の直前、1月の頭くらいにインツェルで行われた大会に出場していたのですが、500m、1000mとあわせて4レース滑って、スターターのベックにいずれもフライングを取られたんです。「Go to the start」でスタートラインについて「Ready」で腰を下ろして構えるのですが、私は「Ready」と言われてから1.5~2秒で腰を下ろすのに、隣のソ連(現・ロシア)選手は2秒も3秒もかけて構えるんです。それで私は我慢できなくて一歩踏み込んでしまってフライングを取られました。しかも4レース連続で同走がソ連の選手で、すべて同じようにしてフライングを取られたんです。それで最後の1000mのレース後、すでに次の組がスタートライン付近で待機していましたが、構わず私はスターターのベックに詰め寄り「あなたのコールがあった時、相手の選手は止まっていなかったが俺は2秒も3秒も止まっているんだぞ!オレのスタートが悪いのか?」と訴えました。周囲はみんな驚いて海外のコーチからはあわてて「彰、やめろ」と制止されましたが、私は怒りがおさまらなくて気持ちを落ち着かせようと荷物も持たずにホテル引き上げたんです。そしたらISU(国際スケート連盟)の副会長が荷物を持ってホテルに来てくれ、「彰のスタートに問題はまったくない。あれは『Go to the start』の合図をかけたにもかかわらず腰を下ろさない相手がフライングだから」と言ってくれました。そんなことがあった1カ月後のカルガリー大会で、またもスターターが同じベックだったんです。しかも同走のウーベ・イェンス・マイもスタートの構えをするのが遅い選手でした。それでやはり「Ready」という合図がかかっても相手がゆっくりと下ろす間に、私が一歩出てしまったんです。その瞬間にホイッスルが鳴り、最初は私が滑る「アウトコースのフライング」という意味の赤旗を揚げられたのですが、ベックが「No, no」と言って、「Inner Lane.」と。つまり、インコースの選手のフライングだと訂正してくれたんです。それで気持ちを楽にして次のスタートを切ることができました。そしてスタートラインについた時には「やるべきことはすべてやってきた。そんな自分を上回る選手がいたら、心から祝福したい」という気持ちでいましたので、良い意味でゆとりがありました。結果は銅メダルでしたが、電光掲示板を見たら同走のウーベ・イェンス・マイが世界新記録を出していたので、ゴールしてすぐに彼のところに行って「おめでとう!世界新記録なんてすごいじゃないか!」と声をかけたら、彼も嬉しそうに「彰、ありがとう!」と。そんなふうに自然に相手を祝福することができました。

500mのレース後、マイと健闘を讃え合う
(1988年カルガリーオリンピック)

500mのレース後、マイと健闘を讃え合う(1988年カルガリーオリンピック)

―― 念願のメダルを獲得したレースを終えて、その日はどんな夜を過ごしましたか?

カルガリー大会でのレースの夜、みんなに「銅メダルのお祝いに行こう」と食事に誘われたのですが、私は「メダルを獲れたからと言ってお祝いしたいという気持ちではなく、今夜はひとりで、世界を本気でめざしてきたこれまでの8年間をじっくりと振り返りたい」と言って、ひとりで部屋に残りました。するとゼレゾフスキー(ベラルーシ)が部屋に入って来て、自分は6位とメダルを逃したにもかかわらず、「彰、良かったな。メダルの写真撮らせてくれよ」と言ってくれました。さらにその後にはサラエボ大会金メダリストのセルゲイ・フォキチェフ(ソ連)も、4位とメダルを逃していましたが「彰、良かったな。おめでとう」と言いに来てくれました。当時は彼らを含めて8人ほどが金メダルの有力候補としてしのぎを削り合っていましたが、どの選手もみんな4年間絶え間ない努力をして、なおかつ他人のことも認めてあげられる人間性を兼ね備えたアスリートばかりでした。だから彼らとは“ライバル”というよりも“仲間”だなと。もちろん銅メダルを獲れたことは形として残すことができたのは良かったなと思いましたが、それよりもサラエボ大会からカルガリー大会までの4年間という時間こそが自分にとってメダル以上の価値がある財産のように感じました。

問われる指導者としてのあり方とスポーツ界の危機管理

本人(左)と伊藤みどり

本人(左)と伊藤みどり

―― 1988年カルガリー大会後に現役を引退されました。まだやれると思いましたが、決断の理由は、何だったんですか?

正直、カルガリー大会が終わった後「この先も日本代表として海外に行くことはできるだろう」と思っていました。ただ「オリンピックで金メダル」という部分では厳しいなと。それなのに目標を下げてまで選手を続けたいとは思いませんでした。それで「これから自分がやるべきことは何だろうか」と考えて、前嶋先生に相談したところ「監督をやってみたらどうだ」と言われました。

―― 実際に指導者の道を歩み始めるわけですが、指導するにあたって、それまで二人三脚でやってこられた前嶋先生がお手本だったわけですね。

そうですね。私は指導をするにあたっては、まず自分はスケートするのを辞めようと思いました。指導者の私が選手と一緒に滑って感覚的に教えるのではなく、何のためのトレーニングなのかという細かい説明も含めて、言葉でしっかりと伝えられるような指導者になろうと思いました。また、当時からスポーツ界では指導者からの暴力行為がありましたが、私は絶対に暴力・暴言のない指導者になろうと。未だにいますが、例えば選手に「これは何のためのトレーニングですか?」と聞かれても、説明できないものだから「いいからとりあえずやりなさい」と言う指導者が非常に多くいました。私はそういうふうに無理やりにさせるのではなく、きちんと言葉で説明をして、選手が理解をしたうえでのトレーニングではないと身にならないということは、自分の実体験からもわかっていました。

―― 指導者からの暴力・暴言は、未だに根強く残っています。指導者とはどうあるべきだと思われますか?

私は現在、日本スケート連盟のインティグリティ(経営者や管理職に求められる資質で、「誠実」や「高潔」を意味する)を担当しているのですが、その底辺にはコンプライアンス(法令順守)が絶対的にあります。ルールというものは厳守です。つまり、暴力などは言語道断です。

―― 少子化が進み、エンターテインメントがあふれている時代においては、子どもたちにスポーツの魅力を感じてもらうことが日本スポーツ界全体において非常に重要な課題です。ところが、指導者の暴力でスポーツから離れてしまう子どもたちがたくさんいます。旧態依然とした日本スポーツ界の解決策はどこにあると思われますか?

選手の育成・強化の前に、まずは指導者の教育を徹底しなければいけないと思います。そして「これでいいだろう」という独断での指導をまかり通らせないためにもライセンス制が必要です。インティグリティの分野で活躍されている専門家の先生のなかで私がいいなと思っている方は「とにかくルールは守ってください。そしてSNSの“親指くん”、最後の最後に投稿文の送信ボタンを押す指には気を付けてください」というリスク管理について口を酸っぱくおっしゃるんです。ところが、最近になってその先生が「スポーツの魅力とは」「スポーツの持つ力」というようなことを言うようになってしまいました。それを聞いて私は「国民に対してまるでスポーツの押し売りだな」と。それで先生に直接お電話をして「私は危機管理についておっしゃってくださる方だと思ったからこそお願いをしているのですから、ぜひこれまで通り危機管理を前面的に押し出した講義をしてください」とはっきりと申し伝えました。すると先生からは「黒岩さんはいつも危機管理のことをおっしゃって、ネガティブですね」と言われたので、こう答えました。「当然ネガティブです。なぜなら最悪な事態を考えておかなければ、起きてしまってからではスポーツ界というのはおしまいなんです。ですから、必ず危機管理をメインにしてください」と。

―― これまでの日本スポーツ界は危機管理ができていなかったからこそ、東京2020大会では汚職事件が発覚し、さらには2030年の開催をめざす札幌オリンピック・パラリンピックにまで影響を及ぼしています。

まさに東京2020大会で明るみになったブラックな部分をしっかりと排除しなければ、「スポーツの価値」や「オリンピック・パラリンピックの魅力」は伝えられないと思います。札幌に対しても「どうせまた誰かが裏で不正を働いているんでしょ?」と、思っている人のほうが多いのではないでしょうか。ですので、私は札幌の招致活動を一度ストップさせたことは正しかったと思っています。東京2020大会の問題が解決しないまま札幌招致を唱えても、国民は逆にもっとオリンピック・パラリンピックから気持ちが離れていったと思います。

ソチ大会での惨敗を胸に刻み、導入したナショナルチーム制

1998年長野オリンピックではスピードスケートのコーチを務める

1998年長野オリンピックではスピードスケートのコーチを務める

―― 1998年長野大会ではスピードスケートのコーチとして日本選手団に帯同し、日本選手の活躍に寄与されました。その後は、スケート界から離れてコクド(2006年にグループ再編でプリンスホテルに吸収合併されて解散)に戻られました。

選手時代と同じように、指導者もいつまでも惰性で続けるつもりはありませんでした。指導者になって長野大会でちょうど10年が経っていて、「やるべきことはやった」という気持ちになっていたので、スピードスケートから一度離れて、社員としてコクドに戻りました。当時会長だった堤さんから「これから何をしたいのか?」と聞かれ、私は「広報の仕事がしたいです」と答えました。すると堤さんから松坂大輔*4)選手の専属広報に任命されました。言えないことが多いのですが、とにかく大変でした。常に携帯を2台持っていて、寝る時にもパジャマのポケットに入れていました。夜中だろうと朝方だろうと、おかまいなく電話がかかってきたので、24時間電話に出られるようにしておかなければいけなかったんです。いろいろな意味で鍛えていただきました。

*4)松坂大輔:“平成の怪物”の異名をとった大エース。高校3年生時にはエースとして甲子園春夏連覇を果たし、1999年ドラフト1位で西武ライオンズに入団。1年目から16勝を挙げて最多勝、新人王を獲得し、8年間の在籍で2ケタ勝利を7度達成した。2006年オフにメジャーリーグのレッドソックスに移籍。13年にメッツに移籍した後、17年には日本球界に復帰。ソフトバンク、中日、西武でプレーし、2021年限りで引退。現在は解説者、評論家として活動している

―― その後、西武ライオンズの球団代表や新高輪プリンスホテル営業支配人を歴任した後、2008年に富士急行スケート部の監督に就任し、スケート界に復帰されました。冬季オリンピックにおいても、2014年ソチ大会、(ロシア)、2018年平昌大会(韓国)、2022年北京大会(中国)と、日本代表の活動に携わってこられました。

2014年ソチ大会にはコーチとして帯同したのですが、スピードスケートは男女いずれもメダルゼロと惨敗に終わりました。その時の気持ちを忘れないようにと、今日も着てきたのですが、インタビューなどオリンピック関連の仕事の時には必ずソチ大会で日本選手団が着用したオフィシャルウェアを着るようにしています。ソチ大会後、日本スピードスケート界ではより一層の強化を図るためにナショナルチーム制を敷きました。私も2015年からナショナルチームに携わるようになりました。これまでと同じ国内だけでの強化ではオリンピックでメダルを獲ることは難しいということで、ソチ大会で男子は500m、5000m、10000m、女子1500mと4種目で表彰台を独占するなど圧倒的な強さを誇るオランダの指導法を導入しようと考え、まずはオランダからのコーチ招聘に動きました。なぜオランダがこれほどまでに強いのか、そこを徹底的に洗い出したいと思ったんです。私自身は選手の間を取り持つなど、招聘したコーチが指導しやすい環境をつくるコーディネーターという立場で、2022年北京大会までの8年間を過ごしてきました。

2014年ソチオリンピック。中央が本人。
右は橋本聖子日本選手団団長

2014年ソチオリンピック。中央が本人。右は橋本聖子日本選手団団長

―― 日本スポーツ界全体を見ますと、黒岩さんのように改革を推進していく力を持っている方は各競技団体に1人2人はいるように思いますが、いずれにしても個の力に頼らざるを得ず、その人だけに大きな負担がかかっている状態が未だに続いているように感じられます。だからこそ、日本スケート連盟がナショナルチームという制度をつくり、結果を出したというのは、非常に大きな成果として、他競技のお手本になるように思います。

ナショナルチーム制でやってきた8年間というのは、とても有意義なことだったと思います。何より良かったのは、オランダ人のコーチや強化部長など、チームに関わったスタッフ陣がスピードスケートしか知らない人間ではなかったことです。世のなかでもまれてきた人間の集まりだったからこそ、全体のバランスが取れて良かったと思います。これが、スピードスケートだけに携わってきたような人たちが、その延長で強化の部分に入ってきてしまうと、どこかでひずみが出てきていたと思います。

2022年北京オリンピック

2022年北京オリンピック

―― 最後に、次世代に伝えたいこととは何でしょうか?

前述した通り、私の青春時代は失敗の連続でした。日本の将来を担う子どもたちにぜひ言いたいのは、若いうちに経験する失敗、挫折などは、のちに必ず大きな財産になるということです。ですから何ごとにも失敗を恐れずに挑戦してもらいたいと思います。

  • 黒岩 彰氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

  • 1961黒岩 彰氏、群馬県に生まれる
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1983黒岩 彰氏、世界スピードスケートスプリント選手権大会で日本人初の総合優勝
    黒岩 彰氏、国土計画株式会社へ入社
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1984黒岩 彰氏、サラエボオリンピックでスピードスケート500m 10位、スピードスケート1000m 9位
  • 1986黒岩 彰氏、 世界スピードスケートスプリント選手権大会で総合3位
  • 1987黒岩 彰氏、世界スピードスケートスプリント選手権大会2度目の総合優勝
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1988黒岩 彰氏、カルガリーオリンピックでスピードスケート500m 銅メダルを獲得
    黒岩 彰氏、現役を引退し、日本チームの監督に就任
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)


  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998黒岩 彰氏、長野オリンピックでスピードスケートコーチとして参画
  • 1999黒岩 彰氏、西武ライオンズに出向
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

  • 2004黒岩 彰氏、西武ライオンズ球団代表に就任
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

  • 2007黒岩 彰氏、新高輪プリンスホテル営業支配人に就任
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008黒岩 彰氏、富士急行スケート部監督に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014黒岩 彰氏、ソチオリンピック スピードスケートコーチに就任
  • 2015黒岩 彰氏、日本スケート連盟スピードスケート強化副部長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2018黒岩 彰氏、平昌オリンピックよりJOCスケート種目アシスタントナショナルコーチを兼任
2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)