本命レースで惨敗に終わった初めての冬季オリンピック
―― そのころにはオリンピックも視野に入っていたのではないでしょうか。
まだ年齢的に物事を安易に考えているところがあり、「世界一のトレーニングプラン技術を手に入れたのだから、このまま同じように続ければ、来年のオリンピックでも勝てる」と信じて疑いませんでした。実際、翌年4年生の時にも前年と同じ練習メニューをこなして1984年サラエボ大会に臨みました。結果は、金メダルの本命とされながら男子500mで10位と惨敗に終わりました。
多くの報道陣から取材を受ける(1984年サラエボオリンピック)
―― 周囲からやマスコミからのプレッシャーも相当あったのではないでしょうか。
ありました。特にマスコミは、どのオリンピックもそうですが、開幕直前になるとあおるわけです。なかでも全国紙の取材攻勢は凄まじく、毎日のようにマスコミ各社が練習場所に来てはコメントを求めてきました。当時の大学は広報の体制も今のようにしっかりとあったわけではありませんので、管理してくれる人がいませんでした。ひどい時には朝起きたら寮のなかでテレビカメラがまわっていたこともありました。そして練習後には必ず「黒岩選手、今日の練習はどうでしたか?」「オリンピックでのメダルはどうでしょうか?」と同じような質問を繰り返して、「金メダル」という言葉を言わせるように仕向けてくるんです。でも、日本スプリントや世界スプリントで優勝しても、小さな記事にしかならなかったスピードスケートをどうにか新聞の一面に載るような世界にしたい、ということも目標のひとつにしていましたので、取材攻勢は自分が希望していたことでもありました。それでも記者の質問は正直ひどいものでした。サラエボ大会の開幕直前に現地で行われた共同記者会見の時でも、最初の質問が「身長と体重を教えてください」だったんです。「この場に及んで、その質問?」と思いましたが、「まあ、身長と体重は変わるから」と思って答えました。そしたら次に「生年月日を教えてください」と来たんです。調べればすぐにわかることですよね。そんなことを1時間以上やったわけです。スピードスケートや選手のことを知らない記者が全員とは言いませんが、大半でした。
500mレース後
(1984年サラエボオリンピック)
―― マスコミからのプレッシャーに加えて、当時はリンクが屋外にあり、レース当日は大雪の最悪な天気だったこともさらにプレッシャーとなっていたのではないでしょうか。
サラエボ大会のレース時は降雪量が1mにもなるような大雪で、レース前のトレーニング中もずっと雪が降り続いていました。何度も雪かきをしなければ滑れない状態で、雪かきの合間にトレーニングをするような状況でした。そのためにレースが2時間、4時間、6時間とどんどん遅れていき、時間が経つにつれて「こんななかではレースはできないな」と緊張感が緩んでいる自分がいました。それが結果に表れたのだと思います。オリンピック直後に行われた世界スプリントでは500mで2位となり、それで大学での競技生活を終えました。卒業と同時に前嶋先生の元を離れて4月から国土計画で仕事を始めました。でも、その時は友人や、大学時代にお世話になった人たちと顔を合わせるのも嫌で、家族にも会いたいと思えず、サラエボ大会から帰国後、一度も実家に戻りませんでした。というのも、あれだけみんなが応援してくれたのに、惨敗して帰ってきたなんて、会わせる顔がなかったんです。
―― 同じ500mで法政大学3年生の北沢欣浩選手が銀メダルを獲ったこともショックだったんじゃないですか?
それもあったかもしれません。ただ、何よりも自分の実力を出し切れなかったことに対して「何でだったのだろう?」という気持ちが一番にありました。それでも天候のことなど言い訳にするつもりはありませんでした。同じ条件で勝った選手がいるわけですからね。とにかく「どうしてなのだろう?」ということが頭から離れませんでした。
サラエボと同じ轍を踏まないために海外武者修行へ
―― 大学卒業後、国土計画に入社してからの練習はどのようにされていたのですか?
まず会社には「私のことを誰も知らないところで、ひとりで仕事をさせてください」とお願いしました。最初の配属先では半年間ほど、東京や箱根のプリンスホテル、苗場のスキー場、軽井沢のゴルフ場などで仕事をしながら、ひとりでトレーニングをしていました。でも9月くらいになって東京に戻ってきた時に前嶋先生の元を訪れて「もう一度、僕と一緒にスケートをやってくれませんか」とお願いをしたんです。その時に前嶋先生は「オリンピックから戻って来て、苦しんでいる彰の姿を見て、何か手助けができないかなと考えたんだよ。でも、言葉が見つからなかった。あの時、僕がいくら何かを言っても、彰の気持ちが変わらない限り、おそらく解決できない問題だろうと。だから声をかけなかった」と胸の内を伝えてくださったんです。その時に「この半年間は、前嶋先生の無言の助言をいただいていたんだな」と思いました。
また、マスコミ対応についても前嶋先生とじっくり話し合いました。前嶋先生は「マスコミって怖いよな。開幕前はあれだけ持ち上げておきながら、いざ結果が出ないと辛らつな言葉を書き連ねるんだから」とおっしゃっていたのですが、私はこう言いました。「トレーニングメニューも、足を返して遠心力を利用して推進力を生み出すというスケーティングの技術も、未だ誰もなしえていない世界一のものであることは間違いありません。それらが僕の大きな柱となっています。ただ、その2本の柱を支えるための、もうひとつ柱が必要なのだと思います。そして、それが精神面ではないかと。ですので、自分の心をコントロールできるようにイメージトレーニングにトライしてみたいと考えています」と。
―― 当時はまだ日本スポーツ界では、イメージトレーニングを取り入れている選手はほとんどいなかったと思いますが、誰か専門家から学んだのでしょうか?
心理学の先生から学びました。それまではよく試合の時には「肩の力を抜いて」と言われても、「肩の力を抜いた状態とは?」と疑問を持っていました。そこで1年間、リラクゼーションについて追究しました。心理学の先生からは、頭のてっぺんや肩に精神を集中させ、そこから力を抜くなどさまざまな方法を教えていただきました。
―― 再び自信を取り戻したのは、いつごろでしたか?
社会人2年目の1986年に軽井沢(長野)で行われた世界スプリントの男子500mで優勝し、総合3位となりました。あの大会が終わった時に「前回と同じようにオリンピック前まで順風満帆でありながら、本番で落とし穴に落ちる。今回もその第一歩を踏み出しているな」と思いました。その落とし穴に入る一歩手前で踏みとどまるには、何をすべきかを考えた時に、海外に行こうと思いました。というのも、悔しくて情けないという気持ちを味わったサラエボ大会よりもさらに苦しい環境に身を置くなかでスケートと向き合わなければいけないと思ったんです。そこでもっとどん底の気持ちになるというのはどういう状況なのだろうかと考えた時に、海外だなと思いました。英語もろくに話せない、ドイツ語もわからない自分が海外にひとりで行って、そこでレースで勝つという経験が今の自分に最も必要なのではないかと思い、10月にドイツに単身で渡りました。
―― 実際にドイツではどのような環境でしたか?
まずドイツに行くまでがすでに大変でした。というのは、日本スケート連盟に「10月からひとりでドイツで生活をして、海外のワールドカップを転戦します」という話をしたところ、「今の連盟には海外での強化という文言はない。それに従わず、連盟に所属している身で勝手に海外に行くのなら除名される覚悟でいなさい」と言われたんです。連盟から除名されてしまっては、日本代表選手にはなれないのでオリンピックの道が閉ざされてしまいます。それでは元も子もありませんので、会社に戻り、堤義明*3)会長にそのことを報告しました。そしたら堤さんが「君のような日本のエースを連盟が除名できるわけがないのだから、気にせず行ってきなさい」と言ってくれたので、連盟の許可を得ないままドイツに渡りました。インツェルという街を拠点としながらワールドカップを転戦した結果、その年(1987年)の世界スプリントで総合優勝しました。それが再び自信を取り戻す大きな起点になったように思います。ちなみに帰国したら日本スケート連盟からは「良ければ、今年もまた海外での合宿をしてくださいね」と恩着せがましく言われました。内心では「言われなくても行きます」と思っていました(笑)
*3)堤義明:昭和後期から平成の時代を代表する経営者。国土計画を中核とした西武鉄道やプリンスホテルなど70社以上からなる西武鉄道グループのトップとして、不動産、ホテル、スポーツ・レジャー施設などの事業を展開。日本スポーツ界の重鎮でもあり、プロ野球・西武ライオンズの球団オーナーや、日本オリンピック委員会初代会長を務めた
銅メダル以上の価値に思えた4年間の道のり
1988年カルガリーオリンピック男子500m
―― 翌年は、どこを拠点にされたのでしょうか?
その年は、1988年カルガリー大会のシーズンでしたので、そこに向けてカルガリーを拠点にしました。またひとりでの海外生活が始まりましたが、日本でいる時のように友だちとご飯を食べたりすることもできず、「そんな楽しい時間はもう二度と戻ってこないのかもしれない」と思い詰めることもありました。練習の合間に昼寝をしていて、友だちと遊ぶ夢を見たこともありました。そんな時、ふっと目覚めてひとりだということがわかった瞬間の寂しさといったらありませんでした。ワールドカップの現地でほかの日本選手と一緒になるのですが、終われば日本に帰国するみんなと分かれて、自分ひとりだけほかの便に乗る時も孤独感がありました。今思うと、とても貴重な時間だったなと思うのですが、当時は寂しくて仕方なかったです。まさに武者修行でした。
―― そうしたなかで迎えた2度目の冬季オリンピック、1988年カルガリー大会では男子500mで銅メダルを獲得しました。「オリンピックの借りはオリンピックで返すしかない」とよく言われますが、ようやくサラエボ大会の借りを返せたわけですね。
レースの2週間前には選手村に入村しましたが、徐々に日本のマスコミも現地入りしてきて報道合戦が始まっていました。ただサラエボ大会の時と同じ轍は踏みたくはありませんでしたので、共同記者会見の日程は私のほうで決めさせてもらいました。レースの1週間前、3日前、前日と3回設けるかわりに、1回の質疑応答の時間は10分といった具合に指定しました。それだけ短い時間しかないとなると、記者たちも勉強してどういう質問をしたら効率的なインタビューができるかを考えなければならないと思ったんです。ただ、やはり最後には必ず「金メダルについて」の質問が来ました。でも、私はいつもこう答えていました。「レースまで残された時間にやるべきことがありますので、それに集中します」と。
―― ひとりだけの武者修行を経て、カルガリー大会での黒岩さんは、4年前のサラエボ大会とは違う境地にいらっしゃったのではないでしょうか。
そう思います。だからこそ、たとえレースで負けてメダルを獲れなかったとしても、「ここまでやってきたんだから、それで負けたら仕方ない」と納得できたように思います。それだけの時間を4年間過ごしてきたんだと思っていました。
1988年カルガリーオリンピック、男子 500mスタート(左が本人、右が西ドイツのマイ)
―― レースは、金メダルに輝いたウーベ・イェンス・マイ(東ドイツ)と同走でした。
奇しくも4年前と同じ4組のアウトコースでした。私はサラエボ大会で負けて以来、国内大会でも「4組のアウトコース」となると「何か起きるんじゃないか」と心の引っかかりが取れずにいました。そのため、イメージトレーニングの時には常に「500m4組アウトコース」でのレースをイメージしていました。カルガリー大会レース前日に組み合わせ抽選会があったのですが、すでに終わっているだろうという時間になっても何の連絡もなかったんです。それで自分から前嶋先生のところに行って「明日の組は決まりましたか?」と聞いたら、とうとう伝える時がきたなというような顔をされて「まだ伝えてなかったのだけれど、4組のアウトだったよ」とおっしゃたんです。正直、そう言われた瞬間は動揺しました。でも、すぐに気持ちを切り替えました。「この時のために、オレは4年間ずっと“4組アウト”でイメージトレーニングしてきたんだから、逆に想定通りの最高の組かもしれない」と思ったんです。前嶋先生にも「明日の4組アウトのレース、僕はしっかりと滑り切りますから」と宣言をして部屋に戻りました。500mはたしか現地時間の夕方5時15分スタートだったと思いますが、その時間にあわせて当日はウォーミングアップをしたわけですが、お昼の12時に一度リンクで氷上アップをしました。その際、体重を測ったら起床時には77.0kgだったのが、76.5kgになっていました。その後、レース前の最後の食事としてお昼2時ごろにご飯を食べたのですが、その前に測ったら76.0kgとベスト体重でした。4年前のサラエボ大会の時は、大雪でレースが遅れていくたびにほっとした気持ちになって、最後には「このままレースが中止になればいいのに」と思っていましたが、カルガリー大会では「今すぐにでも滑りたい」とレースに対して前向きな気持ちになっていました。
1988年カルガリーオリンピック男子500mで銅メダルを獲得した
―― レースを振り返ってみて、いかがでしたか?
あの時スターターがドイツ・インツェル出身のベックという人でした。私はカルガリー大会の直前、1月の頭くらいにインツェルで行われた大会に出場していたのですが、500m、1000mとあわせて4レース滑って、スターターのベックにいずれもフライングを取られたんです。「Go to the start」でスタートラインについて「Ready」で腰を下ろして構えるのですが、私は「Ready」と言われてから1.5~2秒で腰を下ろすのに、隣のソ連(現・ロシア)選手は2秒も3秒もかけて構えるんです。それで私は我慢できなくて一歩踏み込んでしまってフライングを取られました。しかも4レース連続で同走がソ連の選手で、すべて同じようにしてフライングを取られたんです。それで最後の1000mのレース後、すでに次の組がスタートライン付近で待機していましたが、構わず私はスターターのベックに詰め寄り「あなたのコールがあった時、相手の選手は止まっていなかったが俺は2秒も3秒も止まっているんだぞ!オレのスタートが悪いのか?」と訴えました。周囲はみんな驚いて海外のコーチからはあわてて「彰、やめろ」と制止されましたが、私は怒りがおさまらなくて気持ちを落ち着かせようと荷物も持たずにホテル引き上げたんです。そしたらISU(国際スケート連盟)の副会長が荷物を持ってホテルに来てくれ、「彰のスタートに問題はまったくない。あれは『Go to the start』の合図をかけたにもかかわらず腰を下ろさない相手がフライングだから」と言ってくれました。そんなことがあった1カ月後のカルガリー大会で、またもスターターが同じベックだったんです。しかも同走のウーベ・イェンス・マイもスタートの構えをするのが遅い選手でした。それでやはり「Ready」という合図がかかっても相手がゆっくりと下ろす間に、私が一歩出てしまったんです。その瞬間にホイッスルが鳴り、最初は私が滑る「アウトコースのフライング」という意味の赤旗を揚げられたのですが、ベックが「No, no」と言って、「Inner Lane.」と。つまり、インコースの選手のフライングだと訂正してくれたんです。それで気持ちを楽にして次のスタートを切ることができました。そしてスタートラインについた時には「やるべきことはすべてやってきた。そんな自分を上回る選手がいたら、心から祝福したい」という気持ちでいましたので、良い意味でゆとりがありました。結果は銅メダルでしたが、電光掲示板を見たら同走のウーベ・イェンス・マイが世界新記録を出していたので、ゴールしてすぐに彼のところに行って「おめでとう!世界新記録なんてすごいじゃないか!」と声をかけたら、彼も嬉しそうに「彰、ありがとう!」と。そんなふうに自然に相手を祝福することができました。
500mのレース後、マイと健闘を讃え合う(1988年カルガリーオリンピック)
―― 念願のメダルを獲得したレースを終えて、その日はどんな夜を過ごしましたか?
カルガリー大会でのレースの夜、みんなに「銅メダルのお祝いに行こう」と食事に誘われたのですが、私は「メダルを獲れたからと言ってお祝いしたいという気持ちではなく、今夜はひとりで、世界を本気でめざしてきたこれまでの8年間をじっくりと振り返りたい」と言って、ひとりで部屋に残りました。するとゼレゾフスキー(ベラルーシ)が部屋に入って来て、自分は6位とメダルを逃したにもかかわらず、「彰、良かったな。メダルの写真撮らせてくれよ」と言ってくれました。さらにその後にはサラエボ大会金メダリストのセルゲイ・フォキチェフ(ソ連)も、4位とメダルを逃していましたが「彰、良かったな。おめでとう」と言いに来てくれました。当時は彼らを含めて8人ほどが金メダルの有力候補としてしのぎを削り合っていましたが、どの選手もみんな4年間絶え間ない努力をして、なおかつ他人のことも認めてあげられる人間性を兼ね備えたアスリートばかりでした。だから彼らとは“ライバル”というよりも“仲間”だなと。もちろん銅メダルを獲れたことは形として残すことができたのは良かったなと思いましたが、それよりもサラエボ大会からカルガリー大会までの4年間という時間こそが自分にとってメダル以上の価値がある財産のように感じました。