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冬季オリンピック・パラリンピック
第116回
紆余曲折あった自分らしい競技人生

原田 雅彦

 長きにわたって日本スキージャンプ界の顔として活躍された原田雅彦さん。オリンピックには1992年アルベールビルから2006年トリノまで5大会連続で出場し、あわせて3つのメダルを獲得しました。なかでも1998年長野大会の団体で、原田さんが2回目で大ジャンプを見せ、4位からの逆転で獲得した悲願の金メダルは、今も語り草となっています。

 現在は雪印メグミルクスキー部総監督、全日本スキー連盟(SAJ)副会長を務めるなど、普及や強化に奔走している原田さんに、現役時代のこと、今後のスキー界についてお話を伺いました。

聞き手/佐野 慎輔  文/斎藤 寿子  写真/フォート・キシモト、原田 雅彦  取材日/2022年12月13日

“遠くに飛びたい”が競技人生の原動力に

幼稚園のころ

幼稚園のころ

―― ジャンプの原田は、どんな環境から生まれたのでしょうか?

私は北海道旭川市の北にある上川町の出身で、スキージャンプの現役選手でいえば女子の高梨沙羅選手が同郷になります。大雪山を眺めることができるなど大自然に恵まれた土地ですくすくと大らかに育ちました。友だちと山や川に行って自然と触れ合いながら遊んでいました。自宅の裏には徒歩3分のところに小さなスキー場がありましたので、スキーは物心ついた時から滑っていました。冬になると学校の帰りに友だちとスキー場に行って、夜遅くまでがたがた寒さに震えながらも楽しくスキーを滑っていたという思い出があります。また学校のグラウンドに水をまけば自然と氷がはってスケート場ができていましたので、スケートもやっていました。

―― スキー競技のなかでもジャンプの道に進んだきっかけは何だったのですか?

手前みそになりますが、近所ではちょっとした有名なスポーツが得意な子どもで、野球やサッカー、スケートなど、どんなスポーツも上達が早かったんです。それで小学校3年生になるとスキーも普通にゲレンデで滑るのは飽きてしまいまして、「もっと何か刺激が欲しいな」と思っていました。ちょうどそのころに、スキー場で私たちが滑っている隣でジャンプをしている人たちを見て興味がわきました。「あんな高い所からジャンプするんだ。自分もちょっとやってみたいな」と思ったのが最初のきっかけでした。

1972年札幌オリンピック開会式・日本選手団入場

1972年札幌オリンピック開会式・日本選手団入場

―― 上川町にはスポーツ少年団がありましたよね。これは古い歴史を持っている組織だと伺っています。

私が小学3年生で入った時には、中学生も含めて14~15人の選手がいました。アジア初の冬季オリンピックだった1972年札幌大会を機に、強化の一環として子どものための施設がつくられて、そのひとつが上川町のジャンプ台でした。そこに子どもたちが集まるようになり、スポーツ少年団の活動が始まりました。

 

―― 初めて飛んだ時は、恐怖心はなかったのでしょうか?

怖かったです。いよいよ飛ぶとなった時に、一番上まで行って下を見たとたんに恐怖心が出て躊躇しました。「あそこから飛び出したら、いったいどんなことが起こるのだろうか」とまったく想像がつきませんでしたので、非常に怖かったことを覚えています。結局、先輩に押されるようにしてスタートしたのですが、もう行くしかないので、サーッと滑っていって飛びました。
とは言っても、ただ勢いで飛び降りたというだけで飛距離は7mくらいだったと思います。でも自分にとっては「体がふわっと浮いて飛んだ!」という感覚があり、その時の感動が、その後のジャンプ人生を支えるものとなりました。

中学3年生で世界ジュニア選手権に出場。右から二人目。
(1984年。ノルウェー)

中学3年生で世界ジュニア選手権に出場。右から二人目。(1984年。ノルウェー)

―― 中学校時代には、1、2年生の時に全国大会で連覇し、3年生の時にはジュニア世界選手権にも出場されています。

ジャンプを始めてからはずっと「遠くに飛びたい」という一心で練習に励み、そのおかげで中学校では全国大会で優勝し、周囲からも「オマエは世界で戦う選手になるんだよ」ということを言われていました。ただそのころの私はジャンプ競技自体の魅力のほうが強くて、世界を意識するとか、一番になりたいというよりも、楽しんでジャンプをしていました。また、大会を通して全国にどんどんライバルが増えていって彼らと競い合ったり、試合が終わると仲良くなってしゃべったりと、そういうことが非常に楽しいと感じていました。

西片仁也氏(1994年リレハンメルオリンピック

西片仁也氏(1994年リレハンメルオリンピック)

―― 同学年の西方仁也*1) さんは「当時から遠くに飛ぶことに関しては、原田さんは天才的だった」とおっしゃっていました。

才能というよりも、上川町の大自然で生まれ育った私の体が、ジャンプにマッチしたというのが一番大きかったように思います。瞬発力や跳躍というものを、自然と身につけていて、それを最大限に生かすことのできる競技に巡り合えたのかな。それは本当に奇跡だったと思います。

―― 中学、高校時代にスランプや挫折を味わったことはありましたか?

中学、高校時代はわりと順調にいっていましたが、つまずいたのは高校卒業後、社会人になったばかりのころでした。将来を嘱望されて、18歳で名門の雪印乳業(現・雪印メグミルク)スキー部に入ったのですが、高校までよりジャンプ台の形状が大きくなっていましたし、大人への体になる移行時期でもあったので、なかなかうまくいきませんでした。それで本当に世界レベルの選手をめざすのか、それとも一般的な競技人生で終わるのか、という葛藤もあり、精神的にブレが生じた時期でした。

 
1972年札幌オリンピック 70m級銅メダルを獲得した青地清二氏

1972年札幌オリンピック 70m級 銅メダルを獲得した青地清二氏

―― 雪印乳業スキー部といえば、菊地定夫*2) さん、青地清二*3) さんといった大先輩がいらっしゃいます。

そうした偉大な先輩方がいらっしゃった雪印乳業スキー部は、私にとっては大変な憧れで、その名門スキー部に入れたことをとても光栄に思っていました。私が入部した時は、菊地さんも青地さんもスキー部からは離れていて、普通に社員として仕事をされていたのですが、社会人として大事なことをたくさん教えていただきました。実は、スキー選手はクロスカントリーもアルペンも個人でスポンサーを集めて活動していることがほとんどで、企業スポーツとしての形態をとっているのはスキー界ではジャンプだけなんです。そのなかで雪印のスキー部は歴史が古く、70年以上続いています。その間、スキー部からはメダリストが数多く生まれてきました。会社はスキー部とともに成長してきたという風潮があり、実際に社員の皆さんがすごく応援してくれているんです。そういう企業スポーツとして発展してきたという点が、ジャンプの魅力でもあると思います。

*1)西方仁也:元スキージャンプ日本代表。1994年リレハンメル大会<ノルウェー>では団体で銀メダルを獲得した

*2)菊地定夫:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1960年スコーバレー大会<アメリカ>、1964年インスブルック大会<オーストリア>に出場。インスブルック大会では日本選手団の旗手も務めた

*3)青地清二:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1968年グルノーブル大会<フランス>、1972年札幌大会に出場し、札幌大会では70m級で銅メダル。金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次と表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた

―― 名門スキー部の練習というのは、どんなものだったのでしょうか?

想像をはるかに超えた練習量で、青地さんからは「これくらいやらないと、スピードには耐えられない」と教わりました。ですので、1年目から本当に一生懸命に練習したのを覚えています。

好転のきっかけは「V字ジャンプ」の登場

―― 社会人1年目は環境の変化もあって苦労されたということですが、好転したのはいつごろのことだったのでしょうか?

良い方向に進み始めたきっかけは、スキー板を開いて飛ぶ「V字ジャンプ」が登場したことにありました。1987年に雪印乳業に入社しましたが、4年目の1990年シーズンに「V字ジャンプ」が世界に広まり、私もいち早く取り組みました。そこからどんどん成績が上がり、ジャンプの技術を追求していくことが楽しいと思えるようになったのはそのころからでした。

――「V字ジャンプ」への転向を躊躇した選手もいたと思いますが、原田さんがいち早く取り入れようと思った理由は何だったのでしょう?

当然、競技者としてトップになりたい、試合で勝ちたいという思いがありましたので、うまくいっていないこの状況をどうやって抜け出そうか、どうすればもう一段レベルアップできるだろうか、と悩んでいました。そんな状態でしたので、V字ジャンプに転向したのは「少しでも勝つ可能性があるものならやってみよう」とある意味、捨て身の気持ちからでした。もちろん周囲からは反対の声もありました。「なんとか今のままいけば、上位に行ける可能性は十分にあるんだぞ」ということも言われましたが、上位ではなく頂点をめざしていましたので、V字ジャンプで勝てるんだったらと思ってわりと早く決断しました。

―― もともと完成されていた形を変えるというのは、競技者にとって大変な冒険だったと思います。

おっしゃる通りです。さらに言えば、V字ジャンプには教科書がありませんでしたので、誰からも教えてもらえませんでした。 とにかく海外選手の見よう見まねで自分でやっていくしかなかったんです。

オリンピック初参加となった1992年アルベールビル大会

オリンピック初参加となった1992年アルベールビル大会

―― V字ジャンプへの転向が功を奏して成績を伸ばし、日本代表入りを果たしたというわけですね。

どんどん結果を出すようになり、V字ジャンプに転向したその年には日本のトップに昇りつめました。2年後の1992年には、初めてのオリンピックとなったアルベールビル大会(フランス)に出場しました。精神的にも非常にのっていた時期で、有頂天でした。V字ジャンプを習得して、言ってみたら簡単にオリンピックの代表になって、それまではまったくかなわなかった海外の選手と肩を並べるようになっていましたので、「このまま世界のトップに立てるんじゃないか」とうぬぼれていました。そういう状態で、2年後の1994年に2度目のオリンピック、リレハンメル大会を迎えました。今思えば自分のジャンプには反省すべき点がたくさんあったにも関わらず、「これで大丈夫、いける」と勘違いしていたところがあったように思います。

葛西紀明氏

葛西紀明氏

―― アルベールビル大会で初めてオリンピックに出場してみて、世界選手権などとは違いを感じたりしたのでしょうか?

やっぱり違いました。出発する前の壮行会で、日本中から応援されているんだということを感じて「これがオリンピックなんだ」と思いました。そして現地入りすると、どこもかしこもオリンピックマークが貼られてあったのにも驚きました。また、ほかの競技の方がたくさんいるという環境も、ふだんのワールドカップや世界選手権とは違いました。でも当時は、それほど大きなプレッシャーを感じてはいませんでしたので、日本からの応援は素直に嬉しいと感じていましたし、とにかくがんばろうというような気持ちだけでした。結果もラージヒル個人と団体で4位と、メダルこそ獲れませんでしたが、「日本のジャンプ陣も復活し始めた」という感じで受け取られていたと思いますので、とても楽しい思い出のオリンピックでした。

岡部孝信氏

岡部孝信氏

―― 当時から、原田さんの周りには同世代のライバルがたくさんいました。やはり存在は意識されたんでしょうね。

もちろん、意識していました。私だけでなく、葛西紀明*4)もV字ジャンプを習得して世界で活躍していましたし、岡部孝信*5)、齋藤浩哉*6)、西方仁也、船木和喜*7)といった選手が次々と出てきて、お互いに「誰にも負けないぞ」という気持ちで競い合っていました。
練習の時からライバル心むき出しで、「あいつが100m飛んだなら、オレは105m飛ぶぞ」というようにして切磋琢磨し、そうしたなかで日本勢が力をつけていきました。

齋藤浩哉氏

齋藤浩哉氏

*4)葛西紀明:16歳から日本代表として活躍し、オリンピックには1992年アルベールビルから2018年平昌まで8大会連続で出場。2016-17シーズンには44歳9カ月でワールドカップを制し、最年長優勝記録を更新。50歳となった現在も現役を続けるレジェンドで所属の土屋ホームでは監督を兼任

*5)岡部孝信:団体では1994年リレハンメルで銀、1998年長野大会で金と2大会連続でのメダル獲得に貢献。現・雪印メグミルク監督

*6)齋藤浩哉:1998年長野大会で団体金メダル。現在、雪印メグミルク勤務

*7)船木和喜:元スキージャンプ日本代表。1998年長野大会では、個人ラージヒル、団体で金メダルを獲得。同シーズンにはスキージャンプ週間で日本人初の総合優勝に輝いた。2002年ソルトレークシティ<アメリカ>大会にも出場。現在も指導、解説の傍ら競技を続けている

―― 海外選手に対するライバル心というのはどうだったのでしょうか?

それまで好成績を残していた憧れの選手も、V字ジャンプの移行期には一時低迷していたんです。ところが、V字ジャンプを確立したとたんにまた成績を伸ばしてきて、やはりそれは脅威でした。ただ、日本選手全体がどんどん力をつけていき、いつの間にか海外のトップ選手にも名前負けしなくなり、対等に勝負ができるようになっていきました。そういったなかで、日本選手は自信をつけていったように思います。

 

苦境に立たされた時に支えとなった家族の存在

―― そうしたなかで迎えたリレハンメル大会では、日本選手は強かったですね。

ふだんの大会から常に上位に多くの日本選手が食い込むようになっていました。ただワールドカップでも世界選手権でも、日本人で優勝した選手はいなかったんです。そうしたなかで迎えたリレハンメル大会は、みんなで「メダル獲れるといいね。がんばろう」と言いながら臨んだのですが、現地入りして飛んでいるうちに「あれ、自分たちが金メダルを獲れるんじゃないだろうか」と思うようになっていきました。そしたら急にプレッシャーが重くのしかかってきたんです。

1994年リレハンメルオリンピック失敗ジャンプ後

1994年リレハンメルオリンピック失敗ジャンプ後

―― 団体では、西方さん、岡部さん、葛西さんと、すばらしいジャンプが続き、日本は最後の原田さんを残して、2位ドイツに55ポイント差をつけてトップに立っていました。結果的に原田さんが本来のジャンプができず、金メダルを逃すわけですが、あの時の大失速の原因は何だったのでしょうか?

精神的な問題だったかなと思います。世界の舞台で上位で戦うことはあっても、トップには立ったことがなかったというキャリアの乏しさが、私には大きなプレッシャーとなってふりかかってきたのだと思います。自分としては競技に集中していましたし、いつも通りだと思っていたのですが、知らないうちに硬さが出てきて、精神的にも冷静ではいられなくなっていたのだと思います。

―― 原田さんがスタートする前に、イェンス・バイスフロク(ドイツ)さんから「Congratulation!」と言われ、それがプレッシャーになったという話がありますが、実際はどうだったのでしょうか?

いえいえ、ぜんぜんそれは関係ありませんでした。確かにバイスフロクからは「日本が優勝だね、おめでとう」と言われました。実際、2位とも差があって、ふつうに飛べば日本が金メダル確実でしたからね。でも、私は彼の言葉を気にするほど、余裕はありませんでした。

それよりも私は金メダルがかかっているということで、自分では意識していなかったのですが、冷静でいられなかったのだと思います。結局、不安があったということは、そこまでにやるべきことをできていなかったということだったんだろうなと。何か足りないものがあったから自分で不安を覚えたのだろうと思うんです。冷静でいられなかったということは、私は勝負に必要な何かをやらずにリレハンメルの舞台に立ってしまっていたのだと思います。そのことが重いプレッシャーとなってしまったのだろうと。それが個人戦だったら自分の責任として受け止めればいいだけなのですが、団体戦でしたので、チームメイトが手にしかけた目の前の金メダルを自分のせいで逃してしまったということに非常に重い責任を感じました。

1994年リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本チーム(左から、岡部氏、本人、葛西氏、西方氏)

1994年リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本チーム(左から、岡部氏、本人、葛西氏、西方氏)

―― ただ、飛び終わった原田さんの元に日本のメンバーは「やった、銀メダルだぞ!」と言って駆け寄ってきたそうですね。

もちろん、みんな本当は悔しかったはずです。でも、「次の長野で取り返そう」というふうに言ってくれて、その言葉で救われました。

―― ただ期待が大きかっただけに、風当たりも強かったのではないでしょうか。

当然、応援してくださった日本の皆さんのなかにもさまざまな意見や思いがあったと思います。銀メダルを獲ったという喜びもありましたが、それよりも金メダルを逃したということのほうが強く印象に残ったオリンピックでした。ただアスリートとしては、それをバネにしてがんばろうと思いましたし、ひとりひとりに謝罪に行くわけにもいきませんので、私にできることといえば、金メダルを逃したお詫びにいち早く結果を残すしかないと考えていました。

―― 悩まれ、落ち込まれ、もう一度気持ちを奮い立たせるのは容易ではなかったと思います。

そんな時に支えてくれたのは、家族の存在でした。一番身近でサポートしてくれた妻や、子どもも生まれていましたので、「家族のために」と思えたことが非常に良かったです。なかなか自分のジャンプを取り戻すことができずに悩みに悩んでいた時に、妻が「そんなに焦らずに自分らしくやったらどう?」とアドバイスをしてくれたことがありました。もがいている姿を一番近くで見ていた妻は、私が背伸びをして違うことをやっているけれど、そうではなくて私の一番の武器は自分らしさなんだということがわかっていたんでしょうね。

船木和喜氏

船木和喜氏

―― 自分らしさを取り戻すことができたのは、いつごろだったのでしょう?

リレハンメル大会が終わって、2シーズン目でした。リレハンメル大会の次は、長野大会でしたので、当時は日本中がそれに向かっているような状況でした。ですので、“リレハンメルのリベンジ”というよりは、“どうしたら長野で日の丸飛行隊が金メダルを獲れるか”ということにベクトルが向いていました。私もそれに乗り遅れないようにと思っていたのですが、当時は若い船木選手が台頭してきていたこともあって焦りを感じていました。そんななか、妻の言葉で、ある意味開き直り、自分を取り戻すことができたのは、リレハンメル大会から2シーズン目のことでした。

―― どんなことに一番悩まれていましたか?

一番は飛び方です。さまざまなスタイルの飛び方で距離を伸ばしていく選手が世界中から出てきていて、そのたびに「ああやって飛んでみようかな」と試行錯誤したのですが、結局は原点に立ち戻りました。「自分にしかできないことがあるじゃないか」「自分はこうやって距離を伸ばしてきたんだよな」ということに気づけたのが大きかったですね。

―― 自分の飛び方を取り戻してから長野大会までは、順調でしたか?

1997年には世界選手権で金メダル(ラージヒル個人)を獲得するなどしていましたので、ようやくジャンパーとして成熟してきたかなという手応えをつかんで長野大会に臨みました。

会場にいた全員で獲った長野大会の団体金メダル

1998年長野オリンピック・ジャンプ団体

1998年長野オリンピック・ジャンプ団体

――  長野はご自身3度目のオリンピック、どんな思いであの舞台に立たれました?

ピークの状態で長野大会を迎えていました。もちろんプレッシャーはありましたが、リレハンメル大会の時とはまったく違うものでした。不安を抱えたプレッシャーではなく、とにかくすべてやったのだから、あとは飛んで皆さんの期待に応えるだけ、というものだったので、アスリート冥利に尽きる心地良いものでした。私だけでなく、船木も齋藤も岡部も、日本勢はみんなが万全の状態で、飛べば誰かが必ずメダルを獲るだろうというような状況でした。ところが、団体当日の天候だけが万全とはいきませんでした。

――  1本目が終わった時点で日本は4位でした。2本目は第1グループの8人が飛んだ後に中断。あまりの猛吹雪に、そのまま打ち切りも十分に考えられる状態だったことを覚えています。あの時、どんな心境だったんですか?

風に対しては、ある程度想定していました。10年前から白馬のジャンプ台を何度も飛んでいましたので、何時になったらどこから風が吹いてくるとか、追い風の場合はこうなるというような想定はできていましたが、あれほどの吹雪になるとはまったく思っていませんでした。私たちとしては崖っぷちに立たされた思いでいました。このまま1本目で終わったらどうしようと思っていたので、誰もが「とにかく2本目をやってくれ」と祈る思いで待機していました。それは私たち4人だけでなく、観客も含めて、あの日、あの時、あの会場にいた日本人全員で金メダルを獲りに行くというような雰囲気がありました。吹雪で寒いなか、観客は誰ひとり帰ろうとせず、2本目が再開することを信じて待ってくれていました。また、役員の方たちは降り積もる雪を一生懸命に除雪してくれていました。そういうみんなの熱がこちらにも伝わってきていたんです。そうしたなかでテストジャンパーが命がけで飛んでくれて、審判団も再開を決断してくれた。何もかもが日本の金メダルに向けて動いていたように思いましたし、そういう雰囲気を私たちジャンパー4人は感じながら待機していました。

原田雅彦氏(当日のインタビュー風景)

原田雅彦氏(当日のインタビュー風景)

――  25人のテストジャンパーが全員ジャンプを成功させたことで、試合が再開となりました。そのテストジャンパーのなかには、中学時代から切磋琢磨してきたライバルであり、リレハンメル大会では同じ団体メンバーでもあった西方さんがいました。

彼が日本代表から漏れた時点で、どれだけ悔しい気持ちでいるかはわかっていました。同学年でしたから旧知の仲で、海外遠征でも同部屋だったりしたんです。だから気持ちは痛いほどわかっていました。何より彼は長野県出身ですので、まさに地元開催である長野大会に対しては並々ならぬ強い思いを抱いていた選手のひとりでしたし、周囲も地元出身者の西方に大きな期待を寄せていました。そういうものを一身に受けながらやってきて、代表から外れたわけですので、本当に辛かっただろうなと思います。当時は何て声をかけていいかわからず、顔をあわせてもオリンピックのことには触れずに、いつも通りに接するようにしていました。

 

――  団体の試合前に、西方さんからアンダーウェアを、もうひとり日本代表ではあったけれども団体のメンバーからは外れた葛西さんからは手袋を借りて、それらを身につけて試合に出ていたそうですね。

自分としては「思いはみんな一緒だよ」という気持ちからの行動でした。団体は4人でチームを組んで飛ぶわけですが、西方も葛西も、そのほかの控え選手も含めて、みんなで一緒に金メダルを獲りに行くんだ、という気持ちでした。

――  2本目が再開した時は、どんな心境でしたか?

1人目の岡部が飛んだ時点で日本がトップに立ちましたので、あとは残り3人がいつも通りに飛べば勝てるという自信がありました。

――  原田さんはK点をはるかに越える137mの大ジャンプでした。

1本目は距離が伸ばせなかったので、2本目はできるだけ遠くに飛んで、1本目の分を取り返そうという思いで飛びました。それこそ小学3年生の時に初めて飛んだ時に「遠くまで飛びたい」と思った、あの時と同じ思いが込められたジャンプでした。

――  あまりの大ジャンプに着地で立てるかどうか、見ているほうは心配でしたが、原田さんとしては着地に自信を持っていたのでしょうか。

誰もが驚くところまで飛んで立つというのは、子どもの時からの目標でしたので、自信を持って着地しました。

1998年長野オリンピック・ジャンプ団体で金メダルに輝いた日本チーム(左から本人、岡部氏、齋藤氏、船木氏)

1998年長野オリンピック・ジャンプ団体で金メダルに輝いた日本チーム(左から本人、岡部氏、齋藤氏、船木氏)

――  最後の船木さんが飛び終わって日本の金メダルが決まった瞬間に、原田さんは嗚咽が止まらなくなってしまいました。

正直なところ、あの時はもうほっとしたという気持ちしかありませんでした。期待に応えるために相当プレッシャーがあったんだなと、改めて気付かされましたね。「良かった」と思ったら、腰が抜けてひとりでは立っていられませんでした(笑)いずれにしても、観客の皆さんが「すごく寒かったけど、金メダル獲ってくれて嬉しかった」と言って帰っていってくれたので、本当に良かったです。

――  個人ではラージヒルで銅メダルを獲得しました。

3位以内に入ることがひとつの目標でもありましたので、メダルを獲れたことは素直に嬉しかったです。ただその前のノーマルヒル個人のほうが、私にとっては大本命だったんです。金メダルを期待されながら、5位とメダルを逃したことについては今でも悔しさが残っています。それも“原田らしい競技人生”と言ってしまえばそれまでなのですが(笑)誰もが個人での金メダルをめざしていますので、それを実際に成し遂げたのは日本人では船木ひとりでした。やっぱり船木はすばらしい選手だったんだなと思いますし、今でも羨ましいなという気持ちがあります。オリンピックに8大会出場し“レジェンド”と言われている葛西が、未だに追い続けている気持ちは、私にもよくわかります。それだけ金メダルを獲ることは難しいですし、選手にとってはどうしても手に入れたいものなんです。

――  同じジャンプでも、個人と団体ではまったく違うものなのでしょうか?

違いますね。やはり選手は個人の金メダルを獲ることにかけてやっていますので、思いの強さが生半可なものではありません。それをめざそうとするから選手はレベルアップしていきますし、そうした選手たちの集まりが団体戦になります。そもそもふだんは団体戦の練習はしませんからね。ただ団体は4年に一度という点では、4年分の思いを乗せた試合でもあります。

2006年トリノオリンピックに出場

2006年トリノオリンピックに出場

――  原田さんは、その後も2002年ソルトレークシティ大会(アメリカ)、2006年トリノ大会(イタリア)に出場し、あわせて5回オリンピックを経験されました。どのオリンピックが最も印象深いですか?

それは、やはり長野大会です。観客動員数の面からも見ても、長野大会が最も多かったんです。あれだけの観客が見守るなかで競技をしたのは、あとにも先にもありませんでした。それと、さまざまなプレッシャーをアスリートとして感じることができた大会でもあり、あれだけ自分が興奮状態になるというのも、なかなか経験できないことだろうなと。

――  長野大会後も現役を続けられたのは、まだご自身に伸びしろを感じられていたということだったんですか?

そうですね。やはり個人ノーマルヒルで獲り損ねた金メダルをめざしたいと思いましたし、そのためにワールドカップや世界選手権で勝とうという思いで続けました。

――  現役を引退しようと決意したタイミングは?

2006年トリノ大会が終わってからです。当時は世代交代も進み、たくさんの若い選手が出てきていましたので、「この大会が集大成になるだろう」とは思っていました。長野大会のころとは飛び方やルールもだいぶ変わっていましたので、自分のジャンプはもう古いのかなというふうに思い、トリノ大会でピリオドを打つことにしました。結果的に個人の金メダルは獲れませんでしたが、「十分にやったな」と清々しい気持ちで引退することができました。

選手の迷いを取り除くことがジャンプ指導者の役割

――  現役引退後は、指導者の道を歩まれていますが、選手にはどんなことをアドバイスされていますか?

選手はみんなジャンプの技術を追求するのが楽しくて仕方ないんです。私が現役時代とは技術も用具も変わっているのですが、どうしたら遠くまで飛べるかということを考えているのは同じですので、その思いを選手と共有し合って、どうすれば結果に結びつけられるかということを一緒になって考えるスタイルを取っています。私自身も選手と一緒になって考えるのが楽しいんです。

――  原田さんが現役時代と、今の選手とでは何か違いはありますか?

基本的には変わらないと思います。ジャンプという競技は、迷うことのほうが多いんです。天候や風など自然に影響を受けてしまうので、自分を強く持ち続けることがとても難しい。今の自分には技術があって調子もいいはずなのに、不利な風にあおられて距離が伸びなかったりすると、「違うことをしなければいけない」と、せっかくつくり上げてきた自分のスタイルを崩して、違うことをしようとしてしまいがちです。見ている側とすれば、それを止めたいのですが、選手はやはり結果が出ないと何かしようとしたくなるんですね。私も現役時代はそうでした。指導者が「これでいいんだよ」と言っても、聞く耳を持たずに「いえ、新しくこうしたいんです」と。そんなやりとりをしていたなと思い出すことがよくあります。今振り返ると、できているものを崩さずにやればいいということはわかるんですけど、「もっと遠くに」と思っている選手はいろいろとやりたくなって崩してしまう。本来のやり方をできるだけ崩さないようにさせるのが、指導者の務めであるように思っています。

2022年北京オリンピック・日本選手団総監督として記者会見に臨む(左)。右は伊東秀仁団長

2022年北京オリンピック・日本選手団総監督として記者会見に臨む(左)。右は伊東秀仁団長

――  2022年北京大会では、日本選手団総監督を務められました。ジャンプ陣だけでなく、全競技の選手に目を配らなければならない大役でしたが、いかがでしたか?

確かに幅広い視野が必要とされる役目でしたが、現地入りしてきた選手の顔を見れば、だいたいのことはわかりました。
すべての準備をして自信満々でオリンピックに臨んでいる選手もいれば、不安げな表情をしている選手はケガなどで悩んでいたりしました。結局は、オリンピック本番を迎えるまでのプロセスが大事なんだなということが、改めてよくわかりましたし、どの競技にも通じることだなと思いました。つまり指導者として大事なのは、いかに選手が自信を持って本番に臨めるようにするかということ。日本選手団総監督を務めて、そのことがよくわかりました。

――  他競技の選手のパフォーマンスを見て、何か感じたことはありましたか?

これまで他競技の試合を見ることはありませんでしたので、北京大会ではとても勉強になりました。日本代表選手団団長は明治大学スケート部フィギュア部門監督を務められている伊東秀仁さんで、一緒にフィギュアスケートの試合を見たのですが、フィギュアスケートのプレッシャーってこんなにすごいのかと驚きました。360度、観客に見つめられたなか、たったひとりであの広いスケートリンクを滑るなんて、相当なプレッシャーを感じながら演技しているんだろうなと。かなりメンタルが強くないとダメなんだろうなと思いました。

高梨沙羅選手(2022年北京オリンピック)

高梨沙羅選手(2022年北京オリンピック)

――  その北京大会からジャンプ界では、スーツ規定違反による失格者が相次いでいます。特に日本女子のエースでもある高梨選手は、北京大会の混合団体戦で失格となって以降、これまで4回も違反と判定されました。全日本スキー連盟副会長でもある原田さんとしては、このスーツ規定問題はどのようにお考えでしょうか?

ルール自体を明確にすることが大事だと思いますが、とにかく毎年ルール変更があるので、昔から選手にとっては悩ましい問題となっています。まずはいち早く情報を手に入れることで、スムーズに対応していくということが必要だと思います。今回のスーツにおいては、日本に情報が入って来て対応しようとしているうちに、すでにヨーロッパのほうでまた新しいルール改正がされていたりと、情報取得の遅れが生じたことが要因のひとつだったと思いますので、組織としては反省すべき点です。連盟としてもヨーロッパにアンテナを張って、遅れのないように改善していきたいと思っています。それと現在は、日本はルール改正を黙って受け入れるしかない立場ですので、これからは日本人もIFの役員や委員などになりルール改正のテーブルの場について意見を言えるようにしていかなければいけないと思っています。

札幌大会は地域の発展と環境問題がテーマに

北海道・札幌 2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会記者発表(2022年)

北海道・札幌 2030オリンピック・パラリンピックプロモーション委員会記者発表(2022年)

――  札幌市が2030年の冬季オリンピック・パラリンピックの招致をめざしています。

冬季競技への理解を深めるためにも、開催の意義はあるように思います。ノルディックスキー複合のオリンピックからの除外が取り沙汰されていますが、夏季大会と同じように冬季大会も見応えのあるものかどうか、現代に合っているものかどうかということで、採用競技が選別され始めています。そういうなかで各競技の理解を深めていくことが必要になってくると思います。例えばカーリングは、ルールが複雑でわかりにくいとされますが、たくさんの人に知ってもらって興味を持ってもらうことで、競技の本当の楽しさが伝わるようになりました。それがオリンピックの役割でもあると思いますので、ぜひ2030年に札幌に招致して、日本の皆さんに冬季競技の魅力を伝えられたらと思います。

――  一方で東京2020大会の不祥事や、その後に発覚した贈収賄、談合疑惑で国民のオリンピック離れが進み、不信感が増幅しているように思います。札幌も活動しづらく、なかなか支持率が上がりません。これからどんなことが必要でしょうか?

とにかく国民や札幌市民の皆さんの理解を深めていくことが重要です。よく「なぜ札幌なんですか?」というご質問を受けるのですが、東京で夏季大会を開催したから、単純に冬季は札幌でということではありません。1972年札幌大会からちょうど半世紀が経ちましたが、札幌大会開催を機にインフラが整備されたことで、今や札幌市は人口195万人の大都市となりました。また、そのことによってウィンタースポーツの発展とともに経済成長がありました。それを次の50年につなげていくためにはどうしたらいいのかを考えた時に、オリンピック・パラリンピック開催によって札幌のさらなる成長を促す原動力にするということが狙いです。実は札幌招致は最近になって急に出てきた話ではなく、2026年大会の招致もめざしていましたので、長きにわたって準備を進めてきているんです。ぜひ札幌の未来をサポートするためにオリンピック・パラリンピックを開催したいと思っています。ただ今は東京2020オリンピック・パラリンピックの問題が次々と明るみに出て、スポーツへの信頼が損なわれてしまっています。招致に関する機運醸成活動はいったん休止し、大会運営体制の見直しを進めています。まずはスポーツや、オリンピック・パラリンピックの価値というものを精査して、さまざまな面でプラスがあるということを証明し、理解していただいたうえで、札幌大会を開催したいと思っています。

――  オリンピック・パラリンピックの価値、本質とは、どういうものだとお考えですか?

オリンピック・パラリンピックは人を動かすものだと思います。オリンピック・パラリンピックで奮闘するアスリートの姿を見て、元気が出たり、一歩を踏み出す勇気につながります。またオリンピック・パラリンピックを開催することによって、人々の暮らしが良くなるものでなければいけないと思っています。例えば、札幌市民は冬になると除雪問題に直面します。それがオリンピック・パラリンピックを開催することによって、除雪問題なども解消されるなど、そういうことが2030年に札幌でオリンピック・パラリンピックを開催する意義だと思います。今のままでは、「誰かがやってよ」と何も動かないことのほうが多い。でも、国際的なスポーツの祭典をすることで、社会問題の解決への第一歩を踏み出すひとつのきっかけになればと思っています。

――  1972年の時との大きな違いは、パラリンピックです。当時はオリンピックのみの開催でした。今回が初めて札幌で開催されるパラリンピックということなります。

札幌市では「バリアフリー基本構想」を策定し、高齢者、障害者など誰もが安全に安心して快適に暮らせるまちづくりに取り組んでいます。また、パラリンピック選手も数多く輩出しています。オリンピックと同じスポーツの祭典としてだけでなく、多様性のある社会、共生社会の実現を考えたうえで開催できたらと思っています。

――  SAJでは、パラスキーのほうとはどのような関係を築いているのでしょうか?

SAJの理事には、元パラアルペンスキー日本代表で、現在は日本障害者スキー連盟常任理事を務めている大日方邦子*8)さんに入ってもらい、一緒にスキーの普及に携わっていただいています。スキー場が障害のある人にもやさしい施設に変わっていくということを目標にしています。今やパラスキーは特別なものではありません。技術的にも用具もオリンピックの競技を超えている部分もあるくらいです。

――  スキー界はいち早く環境問題に取り組んできましたが、2015年の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」には2030年までに持続可能でより良い世界をめざすことを国際目標として掲げています。また、パリ協定を受けて日本政府は2030年までに温室効果ガスの排出量を26%削減することを目標としています。こうした環境問題において節目の年でもある2030年に開催をめざす札幌大会においても、もっと環境問題への提言をしていくべきではないでしょうか?

おっしゃる通りで、冬の競技は温暖化という深刻な問題に直面していて、ヨーロッパでも降雪量が減少しています。そのためオリンピック・パラリンピックでは人工雪が使われることがほとんどです。その点、札幌は雪が降り積もりますので、温暖化対策においても世界的なロールモデルとしては最適な場所だと考えています。

――  最後に、原田さんが次世代に伝えたいこととは何でしょうか?

スポーツのすばらしさを伝えていきたいというのは当然ですが、そこに人と人とがつながって喜びがあり、楽しさがあり、そのようなことを一緒に共感していけるということが大切だと思います。スポーツ選手だからといって特別ということはありません。感動や勇気を一緒に共感し合って、成長していってほしいと思います。そこにはプレッシャーなど特別なものがありますが、スポーツ選手ならではのものですので、それをぜひ楽しんで一緒に成長していってほしいと思います。人生が豊かになるように、若い人たちにつないでいってほしいと思います。

*8)大日方邦子:1994年リレハンメルから2010年バンクーバーまで5大会連続でパラリンピックに出場し、あわせて9個のメダル<金2、銀3、銅5>を獲得した。

  • 原田 雅彦氏 略歴
  • 世相

1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)
熊谷一弥氏、テニスのシングルスで銀メダル、熊谷一弥氏、柏尾誠一郎氏、テニスのダブルスで 銀メダルを獲得

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
内藤克俊氏、レスリングで銅メダル獲得
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
日本女子初参加
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)

1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止

1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)*日本は敗戦により不参加
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)

1959
昭和34
1964年東京オリンピック開催決定

1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)

ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催
(のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)

1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)

  • 1968原田 雅彦氏、北海道に生まれる
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  
 
  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1987原田 雅彦氏、雪印乳業株式会社(現・雪印メグミルク株式会社)へ入社
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)

  • 1992原田 雅彦氏、アルベールビルオリンピックでノーマルヒル 14位、ラージヒル 4位、団体ラージヒル 4位
  • 1993原田 雅彦氏、世界選手権 ノーマルヒルで優勝

1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1994 原田 雅彦氏、リレハンメルオリンピックでノーマルヒル 55位、ラージヒル 13位、団体ラージヒル 銀メダルを獲得
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1998原田 雅彦氏、長野オリンピックでノーマルヒル 5位、ラージヒル 銅メダルを獲得、団体ラージヒル 金メダルを獲得
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2002原田 雅彦氏、ソルトレークシティオリンピックでノーマルヒル 20位、ラージヒル 5位、団体ラージヒル 20位
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得

2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2006原田 雅彦氏、トリノオリンピックでノーマルヒル 失格
    原田 雅彦氏、現役を引退
2007
平成19
第1回東京マラソン開催

2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2013
平成25
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定

2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2014原田 雅彦氏、雪印メグミルクスキー部監督に就任
  • 2015原田 雅彦氏、公益財団法人全日本スキー連盟理事に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)

2018
平成30
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

2020
令和2
新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、東京オリンピック・パラリンピックの開催が2021年に延期
2021
令和3
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)

  • 2022原田 雅彦氏、雪印メグミルクスキー部総監督に就任
2022
令和4
北京オリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2022原田 雅彦氏、北京オリンピック日本選手団総監督に就任
    原田 雅彦氏、公益財団法人全日本スキー連盟副会長に就任