“遠くに飛びたい”が競技人生の原動力に
幼稚園のころ
―― ジャンプの原田は、どんな環境から生まれたのでしょうか?
私は北海道旭川市の北にある上川町の出身で、スキージャンプの現役選手でいえば女子の高梨沙羅選手が同郷になります。大雪山を眺めることができるなど大自然に恵まれた土地ですくすくと大らかに育ちました。友だちと山や川に行って自然と触れ合いながら遊んでいました。自宅の裏には徒歩3分のところに小さなスキー場がありましたので、スキーは物心ついた時から滑っていました。冬になると学校の帰りに友だちとスキー場に行って、夜遅くまでがたがた寒さに震えながらも楽しくスキーを滑っていたという思い出があります。また学校のグラウンドに水をまけば自然と氷がはってスケート場ができていましたので、スケートもやっていました。
―― スキー競技のなかでもジャンプの道に進んだきっかけは何だったのですか?
手前みそになりますが、近所ではちょっとした有名なスポーツが得意な子どもで、野球やサッカー、スケートなど、どんなスポーツも上達が早かったんです。それで小学校3年生になるとスキーも普通にゲレンデで滑るのは飽きてしまいまして、「もっと何か刺激が欲しいな」と思っていました。ちょうどそのころに、スキー場で私たちが滑っている隣でジャンプをしている人たちを見て興味がわきました。「あんな高い所からジャンプするんだ。自分もちょっとやってみたいな」と思ったのが最初のきっかけでした。
1972年札幌オリンピック開会式・日本選手団入場
―― 上川町にはスポーツ少年団がありましたよね。これは古い歴史を持っている組織だと伺っています。
私が小学3年生で入った時には、中学生も含めて14~15人の選手がいました。アジア初の冬季オリンピックだった1972年札幌大会を機に、強化の一環として子どものための施設がつくられて、そのひとつが上川町のジャンプ台でした。そこに子どもたちが集まるようになり、スポーツ少年団の活動が始まりました。
―― 初めて飛んだ時は、恐怖心はなかったのでしょうか?
怖かったです。いよいよ飛ぶとなった時に、一番上まで行って下を見たとたんに恐怖心が出て躊躇しました。「あそこから飛び出したら、いったいどんなことが起こるのだろうか」とまったく想像がつきませんでしたので、非常に怖かったことを覚えています。結局、先輩に押されるようにしてスタートしたのですが、もう行くしかないので、サーッと滑っていって飛びました。
とは言っても、ただ勢いで飛び降りたというだけで飛距離は7mくらいだったと思います。でも自分にとっては「体がふわっと浮いて飛んだ!」という感覚があり、その時の感動が、その後のジャンプ人生を支えるものとなりました。
中学3年生で世界ジュニア選手権に出場。右から二人目。(1984年。ノルウェー)
―― 中学校時代には、1、2年生の時に全国大会で連覇し、3年生の時にはジュニア世界選手権にも出場されています。
ジャンプを始めてからはずっと「遠くに飛びたい」という一心で練習に励み、そのおかげで中学校では全国大会で優勝し、周囲からも「オマエは世界で戦う選手になるんだよ」ということを言われていました。ただそのころの私はジャンプ競技自体の魅力のほうが強くて、世界を意識するとか、一番になりたいというよりも、楽しんでジャンプをしていました。また、大会を通して全国にどんどんライバルが増えていって彼らと競い合ったり、試合が終わると仲良くなってしゃべったりと、そういうことが非常に楽しいと感じていました。
西片仁也氏(1994年リレハンメルオリンピック)
―― 同学年の西方仁也*1) さんは「当時から遠くに飛ぶことに関しては、原田さんは天才的だった」とおっしゃっていました。
才能というよりも、上川町の大自然で生まれ育った私の体が、ジャンプにマッチしたというのが一番大きかったように思います。瞬発力や跳躍というものを、自然と身につけていて、それを最大限に生かすことのできる競技に巡り合えたのかな。それは本当に奇跡だったと思います。
―― 中学、高校時代にスランプや挫折を味わったことはありましたか?
中学、高校時代はわりと順調にいっていましたが、つまずいたのは高校卒業後、社会人になったばかりのころでした。将来を嘱望されて、18歳で名門の雪印乳業(現・雪印メグミルク)スキー部に入ったのですが、高校までよりジャンプ台の形状が大きくなっていましたし、大人への体になる移行時期でもあったので、なかなかうまくいきませんでした。それで本当に世界レベルの選手をめざすのか、それとも一般的な競技人生で終わるのか、という葛藤もあり、精神的にブレが生じた時期でした。
1972年札幌オリンピック 70m級 銅メダルを獲得した青地清二氏
―― 雪印乳業スキー部といえば、菊地定夫*2) さん、青地清二*3) さんといった大先輩がいらっしゃいます。
そうした偉大な先輩方がいらっしゃった雪印乳業スキー部は、私にとっては大変な憧れで、その名門スキー部に入れたことをとても光栄に思っていました。私が入部した時は、菊地さんも青地さんもスキー部からは離れていて、普通に社員として仕事をされていたのですが、社会人として大事なことをたくさん教えていただきました。実は、スキー選手はクロスカントリーもアルペンも個人でスポンサーを集めて活動していることがほとんどで、企業スポーツとしての形態をとっているのはスキー界ではジャンプだけなんです。そのなかで雪印のスキー部は歴史が古く、70年以上続いています。その間、スキー部からはメダリストが数多く生まれてきました。会社はスキー部とともに成長してきたという風潮があり、実際に社員の皆さんがすごく応援してくれているんです。そういう企業スポーツとして発展してきたという点が、ジャンプの魅力でもあると思います。
*1)西方仁也:元スキージャンプ日本代表。1994年リレハンメル大会<ノルウェー>では団体で銀メダルを獲得した
*2)菊地定夫:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1960年スコーバレー大会<アメリカ>、1964年インスブルック大会<オーストリア>に出場。インスブルック大会では日本選手団の旗手も務めた
*3)青地清二:元スキージャンプ日本代表。オリンピックには1968年グルノーブル大会<フランス>、1972年札幌大会に出場し、札幌大会では70m級で銅メダル。金メダルの笠谷幸生、銀メダルの金野昭次と表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた
―― 名門スキー部の練習というのは、どんなものだったのでしょうか?
想像をはるかに超えた練習量で、青地さんからは「これくらいやらないと、スピードには耐えられない」と教わりました。ですので、1年目から本当に一生懸命に練習したのを覚えています。
好転のきっかけは「V字ジャンプ」の登場
―― 社会人1年目は環境の変化もあって苦労されたということですが、好転したのはいつごろのことだったのでしょうか?
良い方向に進み始めたきっかけは、スキー板を開いて飛ぶ「V字ジャンプ」が登場したことにありました。1987年に雪印乳業に入社しましたが、4年目の1990年シーズンに「V字ジャンプ」が世界に広まり、私もいち早く取り組みました。そこからどんどん成績が上がり、ジャンプの技術を追求していくことが楽しいと思えるようになったのはそのころからでした。
――「V字ジャンプ」への転向を躊躇した選手もいたと思いますが、原田さんがいち早く取り入れようと思った理由は何だったのでしょう?
当然、競技者としてトップになりたい、試合で勝ちたいという思いがありましたので、うまくいっていないこの状況をどうやって抜け出そうか、どうすればもう一段レベルアップできるだろうか、と悩んでいました。そんな状態でしたので、V字ジャンプに転向したのは「少しでも勝つ可能性があるものならやってみよう」とある意味、捨て身の気持ちからでした。もちろん周囲からは反対の声もありました。「なんとか今のままいけば、上位に行ける可能性は十分にあるんだぞ」ということも言われましたが、上位ではなく頂点をめざしていましたので、V字ジャンプで勝てるんだったらと思ってわりと早く決断しました。
―― もともと完成されていた形を変えるというのは、競技者にとって大変な冒険だったと思います。
おっしゃる通りです。さらに言えば、V字ジャンプには教科書がありませんでしたので、誰からも教えてもらえませんでした。
とにかく海外選手の見よう見まねで自分でやっていくしかなかったんです。
オリンピック初参加となった1992年アルベールビル大会
―― V字ジャンプへの転向が功を奏して成績を伸ばし、日本代表入りを果たしたというわけですね。
どんどん結果を出すようになり、V字ジャンプに転向したその年には日本のトップに昇りつめました。2年後の1992年には、初めてのオリンピックとなったアルベールビル大会(フランス)に出場しました。精神的にも非常にのっていた時期で、有頂天でした。V字ジャンプを習得して、言ってみたら簡単にオリンピックの代表になって、それまではまったくかなわなかった海外の選手と肩を並べるようになっていましたので、「このまま世界のトップに立てるんじゃないか」とうぬぼれていました。そういう状態で、2年後の1994年に2度目のオリンピック、リレハンメル大会を迎えました。今思えば自分のジャンプには反省すべき点がたくさんあったにも関わらず、「これで大丈夫、いける」と勘違いしていたところがあったように思います。
葛西紀明氏
―― アルベールビル大会で初めてオリンピックに出場してみて、世界選手権などとは違いを感じたりしたのでしょうか?
やっぱり違いました。出発する前の壮行会で、日本中から応援されているんだということを感じて「これがオリンピックなんだ」と思いました。そして現地入りすると、どこもかしこもオリンピックマークが貼られてあったのにも驚きました。また、ほかの競技の方がたくさんいるという環境も、ふだんのワールドカップや世界選手権とは違いました。でも当時は、それほど大きなプレッシャーを感じてはいませんでしたので、日本からの応援は素直に嬉しいと感じていましたし、とにかくがんばろうというような気持ちだけでした。結果もラージヒル個人と団体で4位と、メダルこそ獲れませんでしたが、「日本のジャンプ陣も復活し始めた」という感じで受け取られていたと思いますので、とても楽しい思い出のオリンピックでした。
岡部孝信氏
―― 当時から、原田さんの周りには同世代のライバルがたくさんいました。やはり存在は意識されたんでしょうね。
もちろん、意識していました。私だけでなく、葛西紀明*4)もV字ジャンプを習得して世界で活躍していましたし、岡部孝信*5)、齋藤浩哉*6)、西方仁也、船木和喜*7)といった選手が次々と出てきて、お互いに「誰にも負けないぞ」という気持ちで競い合っていました。
練習の時からライバル心むき出しで、「あいつが100m飛んだなら、オレは105m飛ぶぞ」というようにして切磋琢磨し、そうしたなかで日本勢が力をつけていきました。
齋藤浩哉氏
*4)葛西紀明:16歳から日本代表として活躍し、オリンピックには1992年アルベールビルから2018年平昌まで8大会連続で出場。2016-17シーズンには44歳9カ月でワールドカップを制し、最年長優勝記録を更新。50歳となった現在も現役を続けるレジェンドで所属の土屋ホームでは監督を兼任
*5)岡部孝信:団体では1994年リレハンメルで銀、1998年長野大会で金と2大会連続でのメダル獲得に貢献。現・雪印メグミルク監督
*6)齋藤浩哉:1998年長野大会で団体金メダル。現在、雪印メグミルク勤務
*7)船木和喜:元スキージャンプ日本代表。1998年長野大会では、個人ラージヒル、団体で金メダルを獲得。同シーズンにはスキージャンプ週間で日本人初の総合優勝に輝いた。2002年ソルトレークシティ<アメリカ>大会にも出場。現在も指導、解説の傍ら競技を続けている
―― 海外選手に対するライバル心というのはどうだったのでしょうか?
それまで好成績を残していた憧れの選手も、V字ジャンプの移行期には一時低迷していたんです。ところが、V字ジャンプを確立したとたんにまた成績を伸ばしてきて、やはりそれは脅威でした。ただ、日本選手全体がどんどん力をつけていき、いつの間にか海外のトップ選手にも名前負けしなくなり、対等に勝負ができるようになっていきました。そういったなかで、日本選手は自信をつけていったように思います。
苦境に立たされた時に支えとなった家族の存在
―― そうしたなかで迎えたリレハンメル大会では、日本選手は強かったですね。
ふだんの大会から常に上位に多くの日本選手が食い込むようになっていました。ただワールドカップでも世界選手権でも、日本人で優勝した選手はいなかったんです。そうしたなかで迎えたリレハンメル大会は、みんなで「メダル獲れるといいね。がんばろう」と言いながら臨んだのですが、現地入りして飛んでいるうちに「あれ、自分たちが金メダルを獲れるんじゃないだろうか」と思うようになっていきました。そしたら急にプレッシャーが重くのしかかってきたんです。
1994年リレハンメルオリンピック失敗ジャンプ後
―― 団体では、西方さん、岡部さん、葛西さんと、すばらしいジャンプが続き、日本は最後の原田さんを残して、2位ドイツに55ポイント差をつけてトップに立っていました。結果的に原田さんが本来のジャンプができず、金メダルを逃すわけですが、あの時の大失速の原因は何だったのでしょうか?
精神的な問題だったかなと思います。世界の舞台で上位で戦うことはあっても、トップには立ったことがなかったというキャリアの乏しさが、私には大きなプレッシャーとなってふりかかってきたのだと思います。自分としては競技に集中していましたし、いつも通りだと思っていたのですが、知らないうちに硬さが出てきて、精神的にも冷静ではいられなくなっていたのだと思います。
―― 原田さんがスタートする前に、イェンス・バイスフロク(ドイツ)さんから「Congratulation!」と言われ、それがプレッシャーになったという話がありますが、実際はどうだったのでしょうか?
いえいえ、ぜんぜんそれは関係ありませんでした。確かにバイスフロクからは「日本が優勝だね、おめでとう」と言われました。実際、2位とも差があって、ふつうに飛べば日本が金メダル確実でしたからね。でも、私は彼の言葉を気にするほど、余裕はありませんでした。
それよりも私は金メダルがかかっているということで、自分では意識していなかったのですが、冷静でいられなかったのだと思います。結局、不安があったということは、そこまでにやるべきことをできていなかったということだったんだろうなと。何か足りないものがあったから自分で不安を覚えたのだろうと思うんです。冷静でいられなかったということは、私は勝負に必要な何かをやらずにリレハンメルの舞台に立ってしまっていたのだと思います。そのことが重いプレッシャーとなってしまったのだろうと。それが個人戦だったら自分の責任として受け止めればいいだけなのですが、団体戦でしたので、チームメイトが手にしかけた目の前の金メダルを自分のせいで逃してしまったということに非常に重い責任を感じました。
1994年リレハンメルオリンピックジャンプ団体で銀メダルを獲得した日本チーム(左から、岡部氏、本人、葛西氏、西方氏)
―― ただ、飛び終わった原田さんの元に日本のメンバーは「やった、銀メダルだぞ!」と言って駆け寄ってきたそうですね。
もちろん、みんな本当は悔しかったはずです。でも、「次の長野で取り返そう」というふうに言ってくれて、その言葉で救われました。
―― ただ期待が大きかっただけに、風当たりも強かったのではないでしょうか。
当然、応援してくださった日本の皆さんのなかにもさまざまな意見や思いがあったと思います。銀メダルを獲ったという喜びもありましたが、それよりも金メダルを逃したということのほうが強く印象に残ったオリンピックでした。ただアスリートとしては、それをバネにしてがんばろうと思いましたし、ひとりひとりに謝罪に行くわけにもいきませんので、私にできることといえば、金メダルを逃したお詫びにいち早く結果を残すしかないと考えていました。
―― 悩まれ、落ち込まれ、もう一度気持ちを奮い立たせるのは容易ではなかったと思います。
そんな時に支えてくれたのは、家族の存在でした。一番身近でサポートしてくれた妻や、子どもも生まれていましたので、「家族のために」と思えたことが非常に良かったです。なかなか自分のジャンプを取り戻すことができずに悩みに悩んでいた時に、妻が「そんなに焦らずに自分らしくやったらどう?」とアドバイスをしてくれたことがありました。もがいている姿を一番近くで見ていた妻は、私が背伸びをして違うことをやっているけれど、そうではなくて私の一番の武器は自分らしさなんだということがわかっていたんでしょうね。
船木和喜氏
―― 自分らしさを取り戻すことができたのは、いつごろだったのでしょう?
リレハンメル大会が終わって、2シーズン目でした。リレハンメル大会の次は、長野大会でしたので、当時は日本中がそれに向かっているような状況でした。ですので、“リレハンメルのリベンジ”というよりは、“どうしたら長野で日の丸飛行隊が金メダルを獲れるか”ということにベクトルが向いていました。私もそれに乗り遅れないようにと思っていたのですが、当時は若い船木選手が台頭してきていたこともあって焦りを感じていました。そんななか、妻の言葉で、ある意味開き直り、自分を取り戻すことができたのは、リレハンメル大会から2シーズン目のことでした。
―― どんなことに一番悩まれていましたか?
一番は飛び方です。さまざまなスタイルの飛び方で距離を伸ばしていく選手が世界中から出てきていて、そのたびに「ああやって飛んでみようかな」と試行錯誤したのですが、結局は原点に立ち戻りました。「自分にしかできないことがあるじゃないか」「自分はこうやって距離を伸ばしてきたんだよな」ということに気づけたのが大きかったですね。
―― 自分の飛び方を取り戻してから長野大会までは、順調でしたか?
1997年には世界選手権で金メダル(ラージヒル個人)を獲得するなどしていましたので、ようやくジャンパーとして成熟してきたかなという手応えをつかんで長野大会に臨みました。