未熟さを突き付けられたアテネと北京
高校1年で初めて出場した全国大会
―― 高校1年生の時には、全国高校女子選手権の53キロ級で優勝されていますね。
初めてバーベルを触った時は、とても持ち上げられるような重さではなかったので、「オリンピックの道はとても遠いな」と思いました。そうしたなかで自分が目標とするトップ選手が身近にいて、その選手の練習を見たり、教えてもらいながら練習に励んでいましたが、そんななか高校1年生でいきなり全国優勝し、訳がわからなかったというのが正直な感想でした。始めてすぐに勝ってしまったので、もちろん嬉しいという気持ちはありましたが、「あれ?本当なの?」と実感がわかなかったんです。
―― 簡単に勝ってしまって、拍子抜けしたところはなかったのでしょうか。
高校で一番になったのなら、今度は大学やその上の選手たちに追いつきたいという新たな目標ができたので、モチベーションはすごく上がりました。
オリンピック初出場を果たしたアテネ大会(2004年)
―― 一つひとつステップアップしていくなかで、法政大学入学の年の2004年にアテネオリンピックに初出場されました。
その前年、高校3年生の時に全日本選手権の53キロ級で初優勝することができました。ただ当時、もうひとり国内トップの選手がいて、その方がケガをして全日本を欠場したんです。それもあって、幸運にも私が優勝することができ、記録的にも良かったので「もしかしたら翌年のオリンピックに行ける可能性があるかもしれない」と、そこで初めて実現の可能性を感じました。2004年アテネオリンピック出場が決まった時は、ウエイトリフティングを始めて4年目で夢が叶い、心の底から「嬉しいな」と思いました。「4年前にバーベルを持った時には、まだまだ先のことだと思っていたのに、4年目で夢の舞台に行けるなんて」と感極まるものがありました。
―― 実際に出場してみて、オリンピックの世界というのはどういうものでしたか。
全くの別世界でした。ふだん日本国内で開催されるウエイトリフティングの大会は、観客は少ないんです。ところが、オリンピックとなると、会場が満員になるわけです。そんな舞台をそれまで一度も経験したことがなかったですし、世界中から注目され、日本からも皆さんが一丸となって応援してくれて、「ああ、これが4年に一度の世界最高峰のイベントなんだ」と思いました。一方で父からは「気持ちが高まってしまうけれど、しっかりと地に足をつけて冷静な気持ちでいなくてはいけないよ」というアドバイスをもらっていました。当時、ウエイトリフティングの日本女子代表は私ひとりだったので、心細さがありました。それと実は出場枠を確保するために、オリンピック前の3カ月の間に3 試合も出場しなければならず、体力的には厳しいものがありました。またケガをしていたということもあって、結局2004年アテネオリンピックでは実力を出すことができずに9位という結果に終わりました。初めて4年に一度の本番にピークを合わせることがどんなに難しいかを感じました。自分の未熟さを痛感し「メダルを獲るにはまだまだ遠いな」と現実を突きつけられた大会でした。
4位入賞を果たした北京大会(2008年)
―― 2008年北京オリンピックの時には、メダル獲得に大きな期待が寄せられていました。
2008年北京オリンピックまでの4年間はまだまだ未熟で、気持ちはあるのにオリンピックに向けての行動が伴っていませんでした。「メダルをめざします」と大きな夢を語るものの、体重調整のミスをしたり、練習の質を上げようとしても、予定していた日に調整不足で上げることができなかったり、ケガで練習ができなかったりと、自己管理ができていませんでした。また体重に関しては減量の経験から、逆に増量することに恐怖心を抱くようになり、練習に必要なエネルギーが摂れなくなっていました。ですから、すぐに空腹を感じて練習に100%集中していないというような状況が多くありました。そうしたなかで迎えたのが北京オリンピックだったのですが、当日の体重コントロールに失敗をして予定よりも体重を落としてしまった状態で本番に臨み、力を発揮することができませんでした。ふだんたくさんの人からサポートしてもらっていますが、最後に舞台に立つのは自分ひとり。その自分のメンタルがしっかりしていなければ、本番で実力を発揮することはできないんだということをひしひしと感じた大会でした。でも、北京オリンピックでの悔しさがあったからこそ、その後につながったのだと思っています。
―― 2008年北京オリンピックでは4位(大会終了時は6位だったが、その後、上位選手のドーピングが発覚したことにより繰り上がった)とメダルにはあと一歩届きませんでした。メダルを手にするか否かで差を感じた大会でもあったのではないでしょうか。
やっぱりオリンピックは出場するだけではなく、メダルを獲得しなければいけないんだということを強く感じました。それまで父に何でも教えてもらい、レールを敷いてもらっていましたが、そこから先は自分が努力しないといけないんだということを2008年北京オリンピックでは学びました。
―― 2008年北京オリンピックではメダル獲得が期待されていただけに悔しかったと思いますし、それを次にぶつけていこうというお気持ちで2012年ロンドンオリンピックに向かっていったわけですね。
北京オリンピックで感じた悔しさや自分への怒りみたいなものが、自分自身を変える原動力になりました。「今変わらなければ、これで終わる」と本気で思ったので、変われるチャンスを与えてもらったと思っています。
12年越しの夢が叶ったロンドンオリンピック
銀メダルを手にする本人(左)とコーチを務めた父・義行氏(2012年ロンドンオリンピック)
―― 2008年北京オリンピック後、“プチ家出”というか、ひとりで沖縄に行かれたそうですが、どんな理由からだったのでしょうか?
怪我続きで練習がまともにできず、それがストレスになっていました。父は毎日送り迎えとつきっきりの指導をしてくれているのに、「こんな練習しかできないなんて」という心苦しさが積もり積もってしまって・・・・・。とにかく、ひとりになりたいと思いました。それで最初は京都のお寺にでも行こうかな、と思いましたが、練習しないと自分に返ってくることはわかっていたので、このまま一時の感情で逃げ出したら悔やまれるだろうなと思いました。その時に思いついたのが、沖縄でした。沖縄には毎年、家族で合宿に行っていて、自炊しながら練習ができるという場所でしたので、「あそこに行こう」と。ただ黙っていなくなると、あとで大変なことになると思い、母にだけは話しました。父には長文の手紙を書き、その翌日、ひとりでひっそりと沖縄に旅立ちました。
銀メダルを獲得したロンドン大会(2012年)
―― ひとりになってみて、いかがでしたか?
朝起きて、ご飯をつくった時に、「ご飯をつくるってこんなにも大変なんだ」と母への感謝の気持ちがわきました。毎日の練習も、いつもなら父がさりげなくサポートしてくれるのですが、その父がいないというだけで不安になり、父がいるのといないのとでは、こんなにも大きな違いがあるんだということも感じました。ただ父がいなかったからこそ、自分自身で練習に対して突き詰めて考えることもできましたし、「こんなにもひとりでは何もできないんだな」という自分の未熟さも知ることができました。その1週間後には全日本の合宿が予定されていて、4、5日中には帰らなければいけなかったので、いい意味で気持ちを整理して帰ることができました。私にとっては、気持ちの部分でとても大きな転換点の旅だったと思います。
銀メダルを獲得したロンドン大会(2012年)
―― 3回目の出場となった2012年ロンドンオリンピックは、ご自身にとってどんな大会となりましたか?
オリンピックで2回失敗をして、3回目でしたので、今度こそは力を発揮したいという強い思いがありました。過去2大会で経験したことを紙に書き出して、「この弱さをプラスに変えることができれば、どんな結果でも納得のいく大会になるはずだ」と思って、後悔のないように1日1日を大切にしながら過ごすように心がけていました。そうしていくうちに、欠点だった部分がプラスになった時、記録が伸び始めたんです。「まだ自分はできるんだ」と思えて、ウエイトリフティングを楽しめるようになっていきました。競技を始めて10年くらい経つ時期でしたが、心技体が一番充実できていたと思います。2004年アテネ、2008年北京でのオリンピックに比べると、自己管理も少しずつできてきたかなという時期に迎えたのが2012年ロンドンオリンピックで、その結果が銀メダル獲得につながったのだと思います。
―― 2012年ロンドンオリンピックでは見事に銀メダルを獲得され、「親子二代でのメダル」と大きな話題となりました。メダル獲得が決まった時は、どんなお気持ちでしたか?
最初に父と約束をした「メダル獲得」という目標を達成するのに12年かかったので、それだけの時間がかかったからこそ、とても嬉しかったです。「やっと叶えることができた」と、素直に喜びしかなかったです。
―― 表彰台からの景色は、いかがでしたか?
とてもいい景色でした。「なんて見晴らしがいいんだ。これがメダリストたちが見る光景なんだ」と思いました。2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックで負けた時は、テレビで表彰台に立つメダリストたちの姿を見て「自分もいつかはここに立ちたいな」という思いを馳せながら4年間という長い時間を積み重ねてきたのですが、いざ表彰台に立って思ったのは「夢が叶う時間というのは、本当に一瞬のことなんだな」と思いました。
連覇の難しさを体感したリオデジャネイロまでの4年間
銅メダルを獲得したリオデジャネイロ大会。競技終了後バーベルを抱きしめる。( 2016年)
―― 2012年ロンドンオリンピックで12年越しに目標が達成されたわけですが、その後はどういうお気持ちで次に向かっていったのでしょうか?
2012年ロンドンオリンピックでは銀メダルでしたので、その上の金メダルをめざしてという部分では、実力的にも「まだ自分は上にいける」という気持ちがありました。一方で、メダル獲得という部分では目標が達成されてしまったので、なかなかモチベーションが上がりませんでした。自分としては金メダルをめざしてやりたいと思っているのに、気持ちが上がってこず、自分でも「あれ、どうしちゃったんだろう」という感じでした。今思えば、ロンドンオリンピックでメダルを獲ったことによって、その後、日常が変わってしまったことがひとつ大きかったかなと思います。2016年リオデジャネイロオリンピックに向かうなかではケガをすることも多くなってしまって、思うように練習ができなかったことも少なくありませんでした。それでも「早くベストな状態に戻したい」という気持ちばかりあった4年間でした。
―― 年齢を重ねていくにつれて、体調のコントロールも難しくなっていったのではないでしょうか。
2012年ロンドンオリンピックから2016年リオデジャネイロオリンピックに向けては、体の疲労が取れにくくなったり、ケガが治りにくくなったりということを感じました。「ロンドンオリンピックであれだけのパフォーマンスができた自分はまだできるはずだ」と信じていた反面、うまくいかないことが多くなっていったんです。それでも父が「どんな時もできることをがんばりなさい」と言ってくれたり、迷っている時には「こういう練習がいいんじゃないか」とか「オーバーワークになっているから、少し抜きなさいよ」というようなフォローをしてくれました。
―― お父さまとぶつかることはなかったのでしょうか?
ウエイトリフティングを始めて8年間くらい、2008年北京オリンピックあたりまではよくぶつかることがあったのですが、私が自分自身で積極的にやるようになってからは、父が私をすごく尊重してくれたので、たとえ失敗したとしても前のように叱らなくなったんです。父はオリンピックでメダルを獲るということが実体験としてわかっていて、必要な時に的確なアドバイスをしてくれることは心強く感じていました。自分の父親ながら、偉大な指導者だなと思います。
リオデジャネイロ大会終了後に銀座で行われたパレードにて(2016年)
―― 苦労の連続だった4年間の末に2016年リオデジャネイロオリンピックでは、2大会連続でのメダル(銅)を獲得しました。
2012年ロンドンオリンピックで銀メダルを獲った時とは、また違う嬉しさがありました。やっぱり4つ年齢を重ねたなかで、連続でメダルを獲ることがどんなに難しいかを身をもって知りました。ロンドンオリンピック直後は、「まだまだ自分はいける」と自信を持っていましたが、4年でこんなにも体のさまざまな機能が落ちるんだな、うまくいかなくなるものなんだな、と。そう考えたら、何大会も連続でメダルを獲るなんて並みのメンタルではとてもできません。そういう選手たちは本当にすごいなと思いました。
―― 2016年リオデジャネイロオリンピックの時は30歳。重量挙げという競技の特性を考えると、ベテランに入っていたと思いますが、引退は考えていなかったのでしょうか?
年齢的には、引退を考えるには切りがいいと思っていました。ただ、すでに東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定していましたので、やっぱり自国開催のオリンピックには出たいな、という欲が出てきたんです。それが年齢的には相当厳しいということは、父はよくわかっていました。でも、私自身はもし少しでも可能性があるのならトライしたいと思っていました。挑戦せずに引退して東京オリンピックを迎えたら、「出たかったな」と必ず後悔をすると思ったんです。後悔するよりはトライしたいと思いましたし、応援してくださる人たちがいる限りはがんばりたいという気持ちがあったので、東京オリンピックをめざすことに決めました。