パラリンピックに感じられた目指すべきD&I※の姿
※D&I:「多様性」を意味する「Diversity」と「包括・包含」を意味する「Inclusion」の略語。東京2020大会の基本コンセプト。大会は、スポーツを通して、多様な個性を認め合い、違いを生かしながら、誰もが自分らしさを発揮できる社会を目指す場となる。
東京2020オリンピック開会式での男女による選手宣誓。山縣亮太選手(左)と石川佳純選手
―― 東京オリンピック・パラリンピックのビジョンの一つに「多様性と調和」が掲げられました。ジェンダーや障がいの有無などによる差別について問題提起はできたかと思いますが、具体的な対応はこれからです。
私自身、「ジェンダー平等」や「多様性と調和」ということは言葉としては知ってはいましたが、それほど深く考える機会はありませんでした。組織委員会のなかでジェンダー平等の問題が起きたこともあって、改めて考える機会をいただくことができたと思っていますし、実際にどのような取り組みをしているのかを見直すきっかけにもなりました。
今回の大会では開会式での選手宣誓を男女平等にしたり、男女の混合種目も卓球の混合ダブルスや柔道の混合団体などが追加され、9種目だった2016年リオデジャネイロオリンピックの2倍の18種目に増えました。決勝もこれまでは男子が最後というのが通例だったのをバスケットボールなど、5競技は女子の決勝を最後にもっていくなど、さまざまな工夫を凝らしました。
また、表彰式でメダルやギフトを運ぶ「トレイベアラー」には、車いすや視覚障がい者の方にも務めていただくなど、世代、性別、体の特徴もさまざまな人たちがいる環境が当たり前の大会となったと思います。
東京大会開催後の2021年10月25日(日本時間)に開催された世界の国・地域のオリンピック委員会の会合で橋本会長が「東京モデル」として、東京開催で見出された価値を今後の大会に活用してほしいと話されましたが、「多様性」は、今後はどんな大会でもそれが当たり前に行われるようになってもらえたらと思っています。
東京2020オリンピックで新種目となった卓球混合ダブルスで初代王者となった水谷準選手(左)と伊藤美誠選手
―― 組織委員会では、「多様性と調和」をコンセプトに掲げ、開催をきっかけに、スポーツを通じて誰もがいきいきと活躍できる共生社会の実現に向けた活動「東京2020 D&Iアクション」を推進してきましたね。
結果的に効果的だったと感じたのは東京パラリンピックでした。パラリンピック選手たちが素晴らしいパフォーマンスを披露し、それを数多くのメディアが報道したことによって、私たち組織委員会からの宣言や説明はもう不要だと思えるくらい、選手たちのパフォーマンスを通して「多様性と調和」を感じることができたのではないかと思います。
スポーツを通してという部分では、今後もパラスポーツの推進が「多様性と調和」を実現した社会への一番の近道になるのかなと思います。
東京2020パラリンピックのフェンシング競技
―― 近年では「パラリンピックの成功なくして、オリンピックの成功なし」という考えが常識となりつつあります。もともとは同じ4年に一度開催しながら、まったく別の国際大会として行われてきました。さまざまな連携が模索されていますが、今後、オリンピックとパラリンピックはどのような関係になっていくことを期待されますか。
JOCの理事にパラリンピアンやトランスジェンダーの方が入ったり、東京大会後の「感謝の集い」にオリンピアンとパラリンピアンが共に出席して頂くなど、JOCとJPC(日本パラリンピック委員会)との間の垣根が非常に低くなったと感じています。私自身もJOC理事として招致活動の時からJPCやパラリンピアンと触れ合う機会が増えたことで学ぶことが多かったんです。
今後はより一層、オリンピアンとパラリンピアン、あるいはJOCとJPCが一緒にさまざまな活動をしていくことが理想だと思います。組織委員会が開いたNF(国内競技団体)会議では大会を振り返り、今後のレガシーについて話し合う機会を設けましたが、当然オリンピックのNFだけでなく、パラリンピックのNFも対象でした。片方だけで何か話し合うのではなく、両方揃っていた方がとても良いと感じることが多々ありましたので、JOCでもそのあたりを柔軟に考えられるようになるといいなと思います。
今回、オリンピックの各競技の現場を取り仕切ったスポーツマネジャーたちのなかで、仕事が終わって休暇を取る予定だったのを急遽取りやめて、「パラリンピックもお手伝いをしたい」と志願された方がたくさんいました。例えば、オリンピックのフェンシングのスポーツマネジャーさんがパラリンピックの車いすフェンシングの現場のお手伝いをしてくださり、車いすフェンシングの関係者の方から「オリンピックの方たちが残ってくださっていなければ、やり遂げられなかったかもしれない」という言葉をうかがいました。パラリンピック競技のNFは小さな組織であるところが多いと聞いていますし、今回のように組織や大会運営においてもオリンピックとパラリンピックが融合していく形が理想のように思います。
―― 東京オリンピックの女子選手参加率が過去最高の48.8%でしたが、これは組織委員会というよりは、IOCが男女平等になるように動いた結果だったと思います。一方で日本国内を見ますと、まだまだ女性の社会的地位については後れをとっている状況です。例えば、女性の働きやすさにおいて、日本はOECD(経済協力開発機構)に加盟する主要国29カ国中、ワースト2位の28位です。この現状を変えなければいけないわけですが、その突破口としてスポーツ界がリードしていくということは、東京大会のレガシーの一つとして期待されていると思います。
日本スポーツ界の女性参加という面から考えると、まず競技をするという点では女子選手が男子選手と比べて環境が整っていないということはないと思います。しかし、結婚や出産後の女性がアスリートとして競技を続ける、あるいは復帰するという点においては、まだまだ環境が整っていませんので、そのための施策が今後はもっと必要になってくると思います。
また、アスリート以上に課題なのが、競技団体やスポーツ国際政治の世界における女性参加で、もっと女性が活躍できるようにするためにも、やはり子育てへのサポートは必須だと考えています。
私自身は、子どもが幼かった時、岸記念体育館(東京都渋谷区)でJOCの会議があった時には、地下の体操教室に入っていた娘をそのまま体育館に待たせていました。海外と比べてみても、本来はきちんとした託児所があるべきで、新たに日本スポーツ協会の拠点となった「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」(東京都新宿区)が建設される際にも託児所を設けることを各方面から要望していたのですが、残念ながら実現はしませんでした。同じ建物にある「日本オリンピックミュージアム」には託児所ではないけれど、キッズスペースを設けるという話が進んでいたんです。ところが、途中でJOCが新体制となってしまったために、それについてもまだ実現できていません。このように、まだまだ課題が山積していることは事実です。ただ組織委員会がずっと「ジェンダー平等」の推進に取り組んできたおかげで、どこのスポーツ関連団体でも「これからは男女平等でなければならない」というふうに意識が変わってきているという手応えを感じています。
来年は杭州(中国)、2026年には名古屋市で開催が決まっているアジア競技大会でも統括するOCAと話し合い、女子選手の割合は最低でも30%にしようと動いています。この大会で見出された価値をまずはアジアでしっかりと根付かせていきたいと考えています。
―― 女子選手については、卑猥な写真と言葉がSNSに投稿されたという問題がおきましたね。選手たちの訴えを機に、JOCなど国内スポーツ団体が「アスリートの盗撮、写真・動画の悪用、悪質なSNS投稿は卑劣な行為である」という声明を発表しました。また、東京大会では開催前も期間中も、選手に対するSNSでの誹謗中傷が大きな問題となりました。こうした盗撮やSNSによる問題については、いかがお考えですか。
JOCも大会開催前から防止対策に動いていましたが、組織委員会では競技会場での禁止行為に「性的ハラスメント目的の疑いがある選手の写真や映像の撮影」を追加しました。これにより、怪しい撮影行為をしている人に対しては注意喚起ができるようになり、場合によっては撮影したものを見せてもらい、明らかに禁止行為をしていれば強制退場にも踏み切ることができることになりました。今後、どの大会でもこうしたルールを設けることで、セクシャルハラスメントは違法行為であるという認識が世間一般に広まり、抑制効果が発揮されるのではないかと思います。実際に逮捕者も出ましたが、東京大会ではっきりと規制をしたことが大きな一歩になったと思います。
またSNSでのアスリートへの誹謗中傷についても、今後競技大会を開催する際には、性的ハラスメント目的の撮影と同様に、禁止行為であるということをスポーツ界から積極的に発信していくことで少しでも抑制できたらと思っています。もちろん、これは日本国内だけではなく、世界的な問題でもあるので、海外とも連携して対処していきたいと考えています。
ポジティブ思考をもたらした友人からの言葉
1988ソウルオリンピック開会式で日本選手団の旗手を務めた小谷選手
―― 小谷さんは、子どもの頃からシンクロの才能が高く評価され、1988年ソウル、1992年バルセロナと2大会連続で日本代表に選ばれ、日本人女子選手として夏季大会初の旗手を務めたソウルではソロとデュエットでそれぞれ銅メダルを獲得されています。日本のシンクロ界の顔とも言える存在ですが、そもそもシンクロを始めたきっかけは…。
子どもの時に通っていたスイミングスクールの先生の旦那さまが、日本で初めてシンクロを導入した串田正夫先生(アメリカのルールブックを取り寄せて翻訳し、日本のルールを完成させて普及、指導に努めた。日本水泳連盟シンクロナイズドスイミング委員長を務め、2001年に死去)で、その串田先生に小学4年生の時に薦められたのがきっかけでした。
4歳の頃の小谷さん
―― 高校時代には単身アメリカにも留学されました。16歳で、一人で海外に行くことは一大決心だったのではないでしょうか。
当時は強くなるためだったら何でもしたいと思っていましたので、留学することには何の迷いもありませんでした。それこそ今のようにナショナルトレーニングセンターがありませんし、シンクロができるような深いプールは日本にはほとんどなかったんです。週末や夏休みを利用して、地方にある深いプールに行って練習をするという環境でした。そんななか、本場のアメリカに行けるというのは、私にとってはうれしいことでしかなかったんです。ただ今思えば、16歳の子どもを海外に送り出す母親にとっては一大決心だったと思います。
小学4年ではじめての大会に出場
―― アメリカ生活で、特に印象に残っていることはありますか?
14か月間のアメリカでの生活は、辛いことはほとんどなくて、楽しいことばかりでした。最初は英語の読解力が乏しかったので、先生の言っていることを理解できずに、試合でチームの足を引っ張ってしまったという失敗はありました。それでも練習環境は素晴らしかったですし、コーチもほめて伸ばしてくださる方で、それが私には合っていたので、泳ぐことがすごく楽しかったんです。地方の大会に行っても、日本では大会関係者しかいませんが、アメリカではどこでも観客がたくさんいて、声援と歓声が鳴り響くなかで演技をするのが本当に楽しかったですね。
アメリカ留学時代、ホストファミリーと(右)
そうした中で一番印象に残っているのは、当時のアメリカチャンピオンだった選手が、私が日本に帰国する時に渡してくれた手紙に書いてあった言葉です。「Things happen for a reason(全ての出来事には理由がある)」と書いてあったのですが、当時はあまり深く考えることなく、お守りのようにしていつも手帳に挟んで持ち歩いていました。
帰国する際は、アメリカ留学中に実績も上がっていましたので、周囲から期待され、自分自身も自信を持っていました。すぐに日本チャンピオンになれると思っていたんです。
アメリカ留学中(中列左から二人目)
ところが、そこから一気に転落して、数年間まったく成績が出なかったんです。「これならアメリカに留学しない方が良かったのでは」と言われるくらいひどい成績で、落ちるところまで落ちた感じでした。途中、「もうシンクロをやめよう」と思ったことも何度もあったのですが、それでも諦めずに頑張り通して、1987年、大学3年生の時にようやく全日本選手権で初優勝することができ、そこから4連覇を達成することができました。アメリカと違い日本の審判は基本を大事にしますので、留学中にはやっていなかった基本を徹底的に練習したのが評価されたのだと思います。
そのときに、自分が期待通り順調に成績を伸ばしていたら、基本を見直したり、努力したりする大切さを学ばなかっただろうなと思いました。勝てない時期を経て、ようやく勝つことができた時は、本当にうれしかったんです。「苦労していなければ、勝つ喜びも知らずに終わっていたかもしれない。勝つ喜びや努力することを学ぶために、この数年間の苦労があったんだな」と思った時に、手紙にあった「Things happen for a reason」の本当の意味がわかったような気がしました。その後、2度のオリンピックで日本代表に選ばれたのですが、苦しいことがあるたびに、その言葉を思い出して「きっとこれは自分が成長するための試練で、これを乗り越えればもっと良いことが待っている」というふうに、すごく前向きに考えられるようになりました。その言葉をくれたアメリカのチャンピオン、トレーシー・ルイスさんにはいまでもすごく感謝しています。
1992年バルセロナオリンピックで補欠になりインタビューに答える小谷選手
―― 2つのオリンピックでは、さまざまなことをご経験されたと思いますが、それはその後の人生にも生かされていると感じられますか。
ソウルで銅メダルを獲得した時は、もちろん嬉しい以外のなにものでもありませんでした。一方、バルセロナでは補欠となり本番には出られなかったんですが、前回大会のメダリストとして国内でも国際的にもネームバリューがある「小谷実可子を選んだ方がいいのでは?」というようなささやきが、私の耳にも入ってきていました。でも、結果的には実績があろうがなかろうが、ネームバリューがあろうがなかろうが一切関係なく、本番の日に最もメダル獲得に近い状態の2人が泳ぐべきだとなりました。
そして決勝当日の朝に本番の会場で最終選考を行った結果、私が一番呼吸が合わず、それで奥野史子さんと高山亜樹さんが泳ぐことになったわけです。もちろん自分が選ばれなかったことに対しては本当に悔しかったですし、日本にメダルをもたらすという部分で自分が何も貢献できなかったことは切なかったですが、それでもあの時に競技スポーツの厳しさを経験したことは良かったと思っています。厳しい世界だからこそ、出場した選手が輝き、それを見た人たちが感動するんだなと。オリンピックが厳しくも尊い場であることを知れたのは、バルセロナの時だったと思います。もしあの時、私が温情で泳がせてもらっていたら、スポーツに対する確固たる考えというものを持てなかったと思っています。あの経験があるからこそ今、スポーツの世界に長く携わることができていると思いますし、あの時私を温情で選ばなかった方たちにある意味感謝しています。
1988ソウルオリンピックで2個の銅メダルを獲得した小谷選手