高校の教員時代、レスリング日本代表として1984年ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)に出場し、その後はプロレスの世界で活躍した馳浩氏。34歳の時に参議院議員選挙に立候補して当選し、活躍の場を政界へと移しました。
その後衆議院議員となり、文部科学副大臣、文部科学大臣などを歴任するなど、主にスポーツ政策や教育分野で国政を担ってきた馳氏に、過去、現在、未来における日本スポーツ界について伺いました。
聞き手/佐野慎輔 文/斉藤寿子 写真/フォート・キシモト 取材日/2020年9月3日
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
高校の教員時代、レスリング日本代表として1984年ロサンゼルスオリンピック(アメリカ)に出場し、その後はプロレスの世界で活躍した馳浩氏。34歳の時に参議院議員選挙に立候補して当選し、活躍の場を政界へと移しました。
その後衆議院議員となり、文部科学副大臣、文部科学大臣などを歴任するなど、主にスポーツ政策や教育分野で国政を担ってきた馳氏に、過去、現在、未来における日本スポーツ界について伺いました。
聞き手/佐野慎輔 文/斉藤寿子 写真/フォート・キシモト 取材日/2020年9月3日
―― 冬の季節が近づいてきた最近では、欧米を中心に北半球の各国で新型コロナウイルス感染が再び拡大してきています。早期の収束を願ってやみませんが、馳さんの生活も大きく変わったのではないでしょうか。
確かに政治家としての活動範囲が制限されていますので、苦労も少なくありません。ただ、私のライフワークでもある運動は工夫して続けています。皇居など外でジョギングしたり、国会内にあるスポーツジムも一時は閉鎖されましたが、今はまた使えるようになりましたので、1日30分ほどトレーニングをしたり、あるいは自宅のベランダで鉄アレイを持ち上げたりと、これまで以上に健康的な生活を送ることを心がけています。
―― スポーツの大会やイベントは、少しずつ観客を増やすなどして再開していますが、まだまだ元には戻っていない状況です。
スポーツ庁を軸にして、政府がどのようにしてスポーツの大会やイベントの開催を支援していくかは非常に重要だと考えています。そのためにはこのコロナ禍においてスポーツをどのようにして楽しむことができるのか、発想の転換が必要だと思っています。一人一人が手洗いやうがいをし、三密にならないように心がけるなど、新型コロナウイルス感染症の予防を徹底することは当然ですが、例えばPCR検査を受けて陰性であることが証明されたことを大会やイベントに参加する条件にするなど、さまざまな工夫が必要となります。また、トップレベルのスポーツとグラスルーツのスポーツといった競技レベル別、あるいはアウトドアとインドア、個人競技とチーム競技、接触プレーの有無など、競技の特性によってジャンル分けをしたうえでの、それぞれのスポーツの楽しみ方を提供することも重要でしょう。今はインターネットを使用すれば動画配信やSNSを通じて、あらゆる情報を共有することができる時代ですから、さまざまな可能性がある。新型コロナウイルス感染によるパンデミックは、そうした可能性を改めて創出するチャンスでもあると思います。
小学生時代、自宅前にて
―― 馳さんご自身が、もともとスポーツと深く関わりを持つようになったのは、どんなことがきっかけだったのでしょうか。
私にとってのスポーツの原点は、保育園児や小学校低学年の頃に、野山を走り回っていたことにあります。生まれは富山県小矢部市という中山間地域でして、山や川、田んぼに囲まれた山間のところに住んでいました。ですから遊び場は豊富にありました。田んぼでキャッチボールをしたり、お寺や神社で鬼ごっこをしたりかけっこをしたりして遊ぶのが一番の楽しみでしたね。
小学3年生の時に、私は養子縁組先の石川県金沢市に引っ越しをしました。縁もゆかりもない所に一人で来た私を、養子先の両親は気にかけてくれまして、父親から「友達もできるし、楽しいからやってみないか?」と勧められたのがスポーツ少年団の剣道教室。小学4年生から通い初めまして、毎週日曜日の朝10時から12時まで地元の小学校の体育館で、地元の病院の医師をされていた師範に稽古をつけていただいていました。年に2回ほど大会がありましたし、毎年夏休みには合宿があったりと、とても楽しかったです。私が通う小学校の同級生や先輩もいましたし、近隣の小学校の児童や中学校の生徒も通っていまして、30人くらいはいたと思います。楽しかったので、中学校に入っても迷わずに剣道部に入部しました。
当時、私が通っていた中学校は1200人ほどの生徒がいるマンモス校で、体育館は他の運動部で埋まっていたんです。校舎内に剣道や柔道の道場もなく、剣道をやる場所はありませんでした。それで放課後は中学校から徒歩15分ほどの所にあった警察署の道場には毎日通って、師範に習っていました。
その一方で、私は大相撲も大好きでした。当時、同郷の大先輩である輪島さん(本名・輪島博。第54代横綱。1970年代の大相撲人気を牽引した一人。左の下手投げを得意技とし、トレードマークだった金色の廻しにちなんで「黄金の左」と言われ、一世を風靡した)が大人気で強かった時代でしたから、よく大相撲をテレビで観ていたんです。そんな中、中学2年生の時に相撲の指導をされる先生が赴任してきまして、その先生が10年以上も廃部となっていた中学校の相撲部を再開させたんです。それで私も剣道部から相撲部に移籍しまして、稽古をつけてもらいました。また当時、北陸鉄道が運営するバス会社には営業所ごとに相撲部があり、道場もあったので、運転手さんたちは仕事の合間を縫って道場で稽古をしていたのですが、そこに私たち中学生が稽古をつけてもらいに行ったり、あるいは運転手さんたちが中学校の道場に来てくれて教えてくれたりしました。運転手さんたちは、地元のスポーツ少年団の相撲部の指導もしていたのですが、そのスポーツ少年団から後に中学校の相撲部に入ってきたのが現大鳴戸親方の出島(本名・出島武春。大関時代の1999年7月場所で幕内最高優勝し、学生相撲出身力士としては16年ぶり4人目の大関昇進を果たした。2009年7月場所を最後に現役を引退し、現在は年寄・大鳴戸を襲名し、藤島部屋の部屋付きの親方として後進の指導にあたっている)でした。北陸鉄道の運転手さんはみんな優しい人たちばかりで、バスが登下校する私とすれ違う時など、よく白い手袋をした手を上げて挨拶をしてくれたんです。それが子どもながらに誇らしくもあって嬉しかったですね。年に1、2回は焼き肉屋に連れて行ってくれて、ごちそうしてくれたりもしました。
馳浩氏(当日のインタビュー風景)
―― 進学した星稜高校でレスリングを始め、後にオリンピックにも出場されたわけですが、レスリングを選んだ理由は何だったのでしょうか。
相撲を続けたかったのですが、当時の星稜高校には相撲部がありませんでしたから、私は剣道部に入部するつもりでした。
ところが、剣道場に行こうとしたところをレスリング部の先輩にスカウトされまして……。2階に剣道場があって、1階には柔道部とレスリング部があったために、玄関先でレスリング部の先輩たちが勧誘活動を行っていたんです。
「レスリングも面白そうだな。ちょっとのぞいてみようかな」と見学だけのつもりで行ったところ、その場で名前を書かされまして、次の日から玄関で私のことを先輩が迎えに来るようになりました。そうなると剣道部には行きづらくなってしまいまして、レスリング部に入部したというわけです。実は野球部の山下智茂監督(星稜高校野球部を甲子園常連校の強豪にのしあげ、元メジャーリーガーの松井秀喜氏など多くの選手を育てた名将。現在は星稜高校野球部名誉総監督および、指導者育成のための甲子園塾塾長を務めている)からも「キャッチャーをやれ」と誘っていただいたこともありました。しかし、それでもレスリングを選んだのには大きな理由がありました。もちろんレスリング自体に興味があったこともありましたが、一番の決め手はレスリング部の顧問の先生から「石川県にレスリング部があるのは、星稜高校だけだから、校内で一番になれば、インターハイや国民体育大会(国体)といった全国大会にすぐに行けるぞ」という誘い文句だったんです。さらに「レスリングで高校チャンピオンになったら、ただでアメリカ遠征に行けるし、大学からもスカウトが来て、授業料免除で大学に進学できるかもしれないよ」と。それまでは一生懸命に勉強をして、地元の国立の金沢大学に進学して、教員かあるいは社会のために役立つために何か資格を取得するといった漠然とした将来像がありました。それは持ちつつも、一方で「レスリングの練習を頑張って高校チャンピオンになったら、奨学金でアメリカにも大学にも行けるかもしれない」というより具体的な道筋が見えたわけです。そうすると、モチベーションも上がりますよね。はじめは先輩からの勧誘でしたが、最終的には自ら意欲を持ってレスリング部に入りました。
星稜高校教員時代、教え子と
―― レスリング部に入った当初から、オリンピック出場は目標としてあったんでしょうか?
オリンピックが具体的に目標となったのは、高校3年生の時でしたね。「4年後の1984年ロサンゼルスオリンピックへの出場が目標」というふうに卒業文集にもはっきりと書いていました。もともと大学を卒業したら地元で教員をやるつもりでいたんです。養子縁組で入った家は、りんごと梨を栽培する果樹園を経営していまして、父親が健在でいる間は二人で協力しあって、ゆくゆくは父親が老いて働けなくなった時には、私が後を引き継ごうと考えていました。ただ果樹園だけでは生活していけないというのがありましたから、教員をやりながら、父親からりんご栽培のノウハウを身につけて、一人になったらもう少し手広くやっていこうかなと思っていたんです。専修大学文学部国文科に進学したのは、国語の教員の資格を取得して、母校の星稜高校で教鞭をとりながら果樹園を経営しようと思っていたからでした。実はオリンピックを目指したのも、教員になった時の大きな財産になるだろうと考えたからだったんです。レスリングのナショナルチームに入れば、全国の優秀な指導者たちと出会い、トップレベルの指導を受けることができる。それは教員になって自分自身が高校生を指導する時に生きるだろうと。それでナショナルチームに入ってオリンピックを目指したいと思いました。
(左)ロサンゼルスオリンピックに日本代表として出場(1984年)
(右)プロレスラーとして活躍
―― 高校3年生の時に描いた青写真通り、大学卒業後は母校の星稜高校で国語の教員をし、赴任したその年に開催されたロサンゼルスオリンピックに出場しました。
そこまでは予定通りの人生を歩まれていたわけですが、翌1985年に高校の教員を辞めてジャパンプロレスに入団されました。突然プロレスラーとしての道を歩み始めることにしたのは、何がきっかけだったのでしょうか。
もともと中学生の頃からプロレスも大好きで、父親と一緒に毎週テレビにかじりついて観ていました。
アントニオ猪木さん(新日本プロレスの創業者で、約40年にわたって国内外のプロレスラーと死闘を繰り広げた元プロレスラー。「燃える闘魂」のキャッチフレーズや「イノキボンバイエ」のフレーズで有名な入場曲「炎のファイター」などで一世を風靡した。現役引退後、1989年に参議院議員初当選。2013年に2回目の当選を果たし、元アスリートが政界に進出する礎を築いた一人。北朝鮮とも太いパイプを持ち、積極的な北朝鮮外交でも知られている)やジャイアント馬場さん(身長209cmの体格を持つ元プロレスラー。投手としてプロ野球選手となったが、ケガで引退を余儀なくされ、その後プロレスに転身。アントニオ猪木らと人気を博し、昭和のプロレス黄金期を支えた)の大ファンだったんです。
ただ自分がプロレスラーになるなんてことは夢にも思っていませんでした。なにせ痛いことが大嫌いでしたから(笑)。上達するためにトレーニングで苦しいことに耐えるというのは好きですが、基本的に痛いのは苦手なんです。そんな自分がプロレスラーの道を歩むきっかけとして大きかったのは長州力さん(元プロレスラー。もともとはレスリングで活躍し、専修大学3年時には1972年ミュンヘンオリンピック<ドイツ>にレスリング韓国代表<当時は在日韓国人だったため。2006年に日本に帰化>として出場。大学卒業後、新日本プロレスへ入団し、プロレスラーとして活躍した)への憧れでした。
長州さんは専修大学のOBでしたから、私たちは本名(吉田光雄)で「吉田先輩」と呼んでいたのですが、私が学生の頃、よく大学に来ていたんです。吉田先輩に「飲み物、買ってこい」と言われて買いに行ったり、あるいは練習中はきびしい指導を受けたりしたのですが、夜になると高級な寿司屋に連れて行ってくれてごちそうしてくれました。食べ盛りの部員たちを10人ほど引き連れていくわけですから、相当な額になったと思いますが、いつも吉田先輩はポケットから一万円札の札束を出してきてお勘定していました。何をするにしても学生の私には強烈な印象に映り、ひそかに憧れていたんです。ただ、私はもともと教員になることを志していましたから、大学卒業後は希望通り母校の星稜高校に赴任をし、めでたく国語の教師になりました。
しかし、1984年のロサンゼルスオリンピック出場した後は私の考え方の幅が広がりました。その後の進路として3つの選択肢があったんです。陸上自衛隊から「自衛隊のレスリング部に入って、次のソウルオリンピック(1988年・韓国)を目指さないか」とスカウトされました。一方、専修大学時代にレスリング部のコーチとして指導していただいた恩師の松浪健四郎先生からは、大学院に入って国文学の博士号を取得し、大学の教員になるという道を勧められていました。さらに長州さんからは「ジャパンプロレスに入らないか?」というお誘いもありました。その中で最も魅力を感じたのがプロレスでした。オリンピックは1度出場するだけで十分だと思っていました。もともとオリンピック出場を目指したのも、教員として活かせると思っていたからでしたので、それほど強い執着はなかったんです。それから大学の教授は30歳を過ぎてからでもいいかなぁと。一方プロレスは、30代前半までだろうなと思ったんです。プロレスラーは海外遠征が多かったので、それも魅力的に映りました。それで23歳の時に国語の教員を辞めて、ジャパンプロレスに入団しました。
―― 大学院に進学をして大学の教授を目指すことを勧めていた松浪さんは、プロレスラーに転じることをどんなふうにおっしゃっていたんでしょうか。
松浪先生は大賛成してくれました。「馳、人生において“異色”というのは、大事なキーポイントになるんだ。その点、国語の教員の傍らオリンピックに出場し、プロレスラーになるなんて人はなかなかいない。人と違う道を歩むというのは、大きなチャンスをつかむ大事な要素だ。君は残念ながらプロレスラーとしては体格は小さい。しかし、だからと言ってプロレスの世界で生き残ることができないかというと、そうではないはずだ。自分の個性や特徴を活かして、観客から『馳のプロレスを見たい』と思われるようになっていけばいいんだよ。それに君は国語の先生だから言葉に詳しいし、人とコミュニケーションをとる素質がある。だったら今までにいなかった“語れるプロレスラー”になっても面白いんじゃないかな。英語も話せるわけだから、海外遠征に行った先では君が果たす役割も大きいはずだ。人にはない君らしいオリジナルを出していけばいいと思うよ」と背中を押してくれました。
衆議院議員1回生のころ。右は森喜朗氏(2003年)
―― プロレスラーとして活躍中の1995年には、参議院選挙に立候補し、見事当選されました。政界に進出しようと思ったのは、何がきっかけだったのでしょうか。
きっかけとなったのは、1995年4月29、30日に北朝鮮で開催された「スポーツと平和の祭典」に参加したことにありました。当時はまだ拉致問題は表面化していませんでしたが、北朝鮮建国以来、我が国とは国交を結んでいませんから、当時も交流はほぼ皆無に等しい状態でした。
私たちは教育的目的ということで特別に訪問が許されたわけですが、その時に私たち日本人の通訳についてくれたのが「李さん」という方でした。
私が「日本に来た時には、私がご案内しますので、ぜひ日本の教育現場を見てください」と言ったら、李さんは「馳さんには我々共和国(北朝鮮の正式名称:朝鮮民主主義人民共和国)のレスリングの指導者として、またぜひ来てほしいと思っています」と言ってくれました。北朝鮮にはわずか1週間という短い滞在でしたが、私たちは国交正常化に至るまでの壁の高さを感じながらも、国交正常化を果たす意味がどんなに大きいか、そのことについて深く議論しました。その時に、「これは国会議員の仕事だな」と感じました。そして北朝鮮から帰国後、福岡ドームで試合をしまして、その直後に北朝鮮に行った私たちの帰国を祝ったパーティーがありました。そこで森喜朗元首相の息子さん、当時は森先生の秘書をされていた森祐喜さんに声をかけていただいたんです。「父と話をしてみませんか?」とおっしゃっていただきまして、当時自民党の幹事長を務められていた森先生に初めてお会いしました。すると突然、森先生から「次の参議院議員選挙に立候補しないか?」とお誘いの言葉をいただいたんです。まったく予想していませんでしたから驚きはしましたが、私は二つ返事で「私でよろしければ、ぜひ選挙に出させていただきます」とお答えしました。というのも、先ほどお話した北朝鮮でのこともそうですし、そこに至るまでの伏線がすでにあって、自然と導かれてきたように感じられたからです。
例えば、私が中学2年生の年の12月27日の夜、中学校の校舎で放火事件が起きました。犯人は同じ中学校の生徒会役員の仲間でした。それで事件の翌日、私は父親とともに警察署に連れて行かれて取り調べを受けました。その時は犯人が誰か知りませんでしたから、「なんで自分が呼ばれたんだろう?」と不思議でしたが、火元が生徒会室だったので、生徒会役員の私も事情聴取を受けたとわかりました。生徒会役員の3年生の先輩が受験ノイローゼでやったことでした。それに大きなショックを受けて、中学生ながら「先輩がなんでこんなことをやってしまったんだろう」という疑問と、放火事件を起こすほどに先輩を追い込んだ文部省(当時)の教育方針に不信を抱きました。それが私の中に潜在的な記憶として色濃く残っていました。
その後私は、授業料を免除していただいて専修大学に進学し、国語の教員の資格を取得し、一時はそれを生業にしていました。つまり私は「本人が望めば、国民に平等にチャンスを与えられる日本社会」を体現してきていたんです。それと、レスリングやプロレスをしていた頃に、プエルトリコ、中国、韓国、北朝鮮、イラン、ソビエト連邦、グルジア共和国といった、日本とは異なる政治体制の国を訪れ、そこで暮らす人々と触れ合い、自分を売り込むということをしてきました。そうしたなかで、国によって文化はもちろん、さまざまな価値観、経済における格差といったことがあることを直に見てきたわけです。グローバル化が進む中で、我々日本の繁栄、発展には、そうしたさまざまな国ともうまく付き合っていく必要があります。ですから自分自身の経験を生かして、日本の外交政策に尽力していきたいという思いもありました。
そして、子どもの頃からさまざまな経験をしてきた自分は、国会議員になる人間として、それほど悪くはないんじゃないかなと。当時はテレビや映画にも出演させてもらっていましたし、松浪先生からのご指導で何冊か著書も出していましたので、マスコミからは「タレント議員」と揶揄されましたが、私は気にしていませんでした。「タレント」というのは、英語では「才能」という意味の言葉ですから、「多彩な才能を持つ議員として見てくださっているんだろうな」というふうに解釈していました。ただ、教員試験のように議員になるための試験があるわけではありませんでしたから、「馳浩」という人間に多くの国民に共感を抱いていただいて投票していただく、ということがいかに大変かということは痛感しましたね。しかし、その高いハードルを乗り越えられる人物にこそ、国政を預かる議員になる資格を与えられるんだとも思っていました。
文部科学大臣に就任し日体大を表敬訪問。中央が馳浩氏。左が松浪健四郎理事長(2015年)
―― 政治家への転身、政治家の先輩でもある松浪先生は何とおっしゃいましたか。
どんなことも松浪先生に相談させていただいているのですが、森先生から参議院議員選挙への出馬のお話をいただいた、という話をしたところ、「ぜひやりなさい!」とおっしゃってくださいました。まぁ、私自身もすでに出馬するつもりで松浪先生のところに行ったんですけどもね(笑)。
でも、松浪先生からも「君なら必ず当選するよ」と言っていただき、心強く思いました。
―― 石川選挙区から無所属で立候補して当選、その後は自民党に所属されました。そして次々とスポーツ政策において、手腕をふるわれてきました。
スポーツ政策においては、麻生太郎先生(衆議院議員。第92代内閣総理大臣。菅内閣 副総理・財務大臣。スポーツ議員連盟会長。1976年モントリオールオリンピック・射撃日本代表。)や森先生という大黒柱の存在がしっかりとありましたので、遠藤利明さん(衆議院議員。元東京オリンピック・パラリンピック担当大臣。公益財団法人東京・オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長代行。公益財団法人日本スポーツ協会副会長)と私は、政界とJSPO(日本スポーツ協会)、JOC(日本オリンピック委員会)やJPC(日本パラリンピック委員会)、数々のスポーツ競技団体との“接着剤”のような役割をしてきました。
日本が不参加となったモスクワオリンピック開会式(1980年)
というのも、少し歴史をさかのぼると、1980年モスクワオリンピック(ソ連)へのボイコット(1979年12月にソビエト連邦<現ロシア>のアフガニスタンへの軍事侵攻に抗議するため、当時ソ連と冷戦状態が続いていたアメリカがモスクワオリンピックへのボイコットを提唱。日本も不参加を決定し、日本選手団の派遣を中止した)を契機に、よく「政治がスポーツ界に介入するべきではない」ということが言われるようになりました。もちろん私自身、今でもそう思っています。
しかし、あまりにも政治とスポーツ界の間に厚い壁を作ってしまうのもどうかなと。「政治に利用されてはたまらない」ということで、スポーツ界が政治と非常に距離をとるようになってしまいましたよね。
しかし、私は政治とスポーツ界が、うまくタッグを組めば、もっといろいろなことができるようになると思っていました。言ってしまえば、財源の確保です。財源なくして、スポーツは成り立たないことは周知の通りです。ですから、スポーツ界が“政治に利用される”という形ではなく、“うまく利用する”という形をとればいいと思うんですね。そうすれば、スポーツ界が発展し、そしてそれが国の繁栄にもつながるわけです。スポーツ界と政治との距離を縮め、良好な関係性を築いていく。そのために、遠藤さんや私が“接着剤”となってきたわけで、モスクワオリンピックから40年を経て、今ようやくスポーツ界と政治が“持ちつ持たれつ”の非常に良い関係性が築かれつつあると感じています。何をするにしても、ガバナンス、コンプライアンス、説明責任をしっかりと果たしながら、ともに緊張感を保ちながら進めていくことが重要です。そして我々政治側は、法律や財源を提供してスポーツ界をサポートする身であること。その法律や財源を実際に使って何をするかはスポーツ界だという線引きがはっきりしています。その中でスポーツの価値を共有し、スポーツが社会生活や経済に不可欠なものであるということを広めていくことができるような時代になってきたなと実感しています。
2004年アテネオリンピック陸上競技ハンマー投で金メダルを獲得。2020年にスポーツ庁長官に就任した室伏広治氏
―― スポーツ界と政治とが良好な関係を築き、今後もともに発展していくためには、馳さんや遠藤さんの後継者が必要です。人材育成という点については、いかがでしょうか。
私と遠藤さんとでスポーツ立国の実現を推進していく人材を養成する「スポーツ立国推進塾」を創設したのは、まさにそこに当てはまります。私も遠藤さんもこれからもでき得る限り尽力していきたいとは思っていますが、とはいえ10年、20年後も私たちが国会にいられるわけではありません。ですから後継者を発掘していきたいと思っていますが、候補者は結構たくさんいるんです。
今年10月1日付でスポーツ庁長官に就任した室伏広治さん(ハンマー投げ元日本代表。オリンピックでは2004年アテネ大会<ギリシャ>で金メダル、2012年ロンドン大会<イギリス>では銅メダルを獲得。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会スポーツディレクター)や、日本フェンシング協会会長の太田雄貴さん(フェンシング元日本代表。オリンピックでは2008年北京大会<中国>でフルーレ個人で銀メダル、2012年ロンドン大会ではフルーレ団体で銀メダルを獲得)、為末大さん(陸上競技元日本代表。3度のオリンピックに出場し、2020年9月現在も男子400mハードル日本記録保持者。「アスリートが社会に貢献する」ことを目指す一般社団法人アスリートソサエティの代表理事を務める)、北島康介さん(競泳元日本代表。オリンピックでは2004年アテネ、2008年北京と2大会連続で100m・200m平泳ぎで二冠の偉業を成し遂げる。今年6月に東京都水泳協会会長に就任)など、元アスリートが国会の場に入って来て、今までの歴史を踏まえたうえで、スポーツ政策をより一層拡充していってほしいと思っています。
その先駆者として期待しているのが、5年間、立派にスポーツ庁の初代長官を務めあげた鈴木大地(競泳元日本代表。1988年ソウルオリンピックでは100m背泳ぎで金メダルを獲得。1995年から今年9月までスポーツ庁長官を務めた)ですよね。国会議員や千葉県知事などといったたくさんの道があると思いますが、いずれにしてもスポーツ庁長官時代の貴重な経験を生かして、国や地域、教育の現場でスポーツ政策の旗振り役として頑張ってもらいたいと思っています。さらに今後は、アスリート出身者だけではなく、実業家の中からもスポーツ産業を発展させていく存在が現れてきてほしいなと思っているんです。スポーツをビジネス的側面から俯瞰的に見ることができる人が、国政の場に必要だと考えています。
第3次安倍改造内閣で文部科学大臣に就任。前から3列目右端が馳浩氏(2015年)
―― 馳さんは大学スポーツ振興にも尽力されていますが、2019年3月にはUNIVAS(ユニバス:一般社団法人大学スポーツ協会。大学スポーツの振興・発展を目指した組織)が創設されました。UNIVASにはどんな役割が求められているのでしょうか。
私が経験したレスリングや柔道をはじめ、野球やサッカーなど、あらゆるスポーツにケガはつきものです。競技のレベルが高くなるにつれて、ケガへのリスクも高まります。
ところが、学校の管理下で致命的なケガをした際に、高校生までは日本スポーツ振興センター(JSC)の
災害共済給付制度で医療費や見舞金等の給付を受けることができますが、大学生は対象に入っていないんです。
私はそのことにずっと疑問を感じていました。JSCのこの制度になぜ大学が対象となっていないかというと、
文部科学省の体育局の行政範囲に大学が入っていないからなんです。
母校の専修大学もかつては「課外体育課」という名称(専修大学の事務局で体育・スポーツを担当する部署。現在は体育事務部となっている)でしたが、私が文部科学省の大臣に就任するまでは、各大学の体育担当の部署はそれぞれの大学ごとにばらばらにあって、極めて脆弱な組織が多くありました。そのために大学スポーツで不慮な事故によって重い障害を負ったり、死亡事故が発生した時に数千万円の保険が出るようなの基盤がなかったんです。そうした事故が起きても、各大学どころか各クラブに対処を任されているという状態でした。これでは安心して大学でスポーツに勤しむことはできないだろうと思いました。学生アスリートの命を守り、何かあった場合の保険を支払う仕組みが必要だと。また、日本スポーツ界の問題とされているセカンドキャリアについても、高等教育機関である大学で学生が積極的にスポーツと関ることでスポーツの価値を高め、地域貢献活動に活かしていく環境を整備していかなければいけません。そのためには大学が持っているリソースをスポーツに提供し、逆にスポーツから大学に還元されていくような好循環を生み出すための統括団体が必要だろうということで、UNIVASを創設しました。
「大学スポーツに関するシンポジウム」での発言風景(2017年)
―― 現在、UNIVASには221の大学と35の競技団体が加盟しています(2020年7月現在)。しかし、例えば慶應義塾大学や明治大学、筑波大学、同志社大学、京都大学といった大学スポーツ界を牽引してきた伝統校が加盟していないという現状があります。
なぜ私が文部科学大臣だった時に文部科学省に「大学スポーツの振興に関する検討会議」を立ち上げて、自ら座長を務めたかと言いますと、私としては少子化問題で岐路に立たされている大学に“生き残り策”としてのネタを提供したつもりだったんです。そのことを大学の経営者の皆さんにもう少し理解していただきたいと思っています。また日本スポーツ界には、体罰などの問題が蔓延っていて、世界からも指摘を受けています。その解決の糸口として、どんなことに対しても組織の透明化が必要です。それを進めていくためにも統合組織のUNIVASをつくったわけですから、我々も大学の経営者にUNIVASに加盟することがいかに意義のあることかを理解していただくような活動を続けていかなければいけないと思っています。
馳浩氏(当日のインタビュー風景)
―― 体罰問題は、まさに馳さんが専門とされている教育分野における重要な解決課題です。体罰をなくすためには、どのようなことが必要だとお考えですか。
元バレーボール日本代表の益子直美さんが主催している「益子直美カップ小学生バレーボール大会」は、非常に素晴らしいと思います。この大会では、「指導者は怒ってはいけない」というルールがあるんです。こうした運動をさまざまな競技に広げ、深めていくことに尽きると思っています。
いわゆる指導者の「管理型」ではなく、選手たちの「自立型」のチームビルディングをしていかないと、スポーツをする意味が失われてしまいます。選手自らがルールを習得し、戦略を練り、そのための基礎体力を作り、チームプレーといった自己犠牲の精神を身につけていくというプロセスが、真のスポーツ精神だと思います。そこに体罰をはじめとした、人権を無視するような行為があってはなりません。今年7月には国際人権団体の「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」(HRW)が日本のクラブ活動における体罰の実態調査の結果を公表しました。HRWのアンケート調査によれば、25歳未満の回答者381人のうち19%が体罰を受けたことがある、と答えています。さらに日本のオリンピアンやパラリンピアンからも、数多くの体罰を受けた証言もあります。
この結果を受けて、IOCのトーマス・バッハ会長は、JOCの山下泰裕会長と電話で会談し、IOCも協力をして日本スポーツ界にはびこる体罰問題を解決していくとしています。こうした動きの中で、今後私は自民党のスポーツ立国調査会で体罰問題について大きく取り上げ、動きを加速させたいと考えています。私は自民党の「虐待に関する特命委員会」の委員長でもありまして、「児童虐待防止法」や「障害者虐待防止法」「高齢者虐待防止法」を議員立法として立案した当事者です。スポーツの世界において、指導者が弱者の立場である競技者を虐待することは絶対に許されません。また「この指導者ダメだ」と言って切り捨てるのではなく、「なぜそういう行為に至ってしまったのか」ということを検証し、正しい道に導いていくための研修をするということもしていきたいと思っています。
IOCバッハ会長の「日体大名誉博士号授与式」に参加。後列中央が馳浩氏(2016年)
―― 今年は東京オリンピック・パラリンピックの開催が予定されていましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、歴史上初めて1年後に延期となりました。そして現在も世界のスポーツ界が大きな打撃を受けています。
馳さんはコロナ禍におけるスポーツ活動について、どのようにお考えでしょうか。
コロナ禍においてどのようにしてスポーツを自らの楽しみとしていくか、発想の転換が必要だと思っています。
国会議員としても、中止や延期が相次いでいる各競技団体が主催する大会やイベントをどのようにして支援していくかについて、知恵を振り絞っていかなければいけないと考えています。まず徹底しなければならないのは、予防策。国内であれば、日常から手洗いやうがい、三密を避けるなどを心がけ、大会やイベントの参加者にはPCR検査を受けて陰性の人だけが許可されるといったことが必要でしょう。あるいは国際大会であれば、海外からの出入国においてPCR検査での陰性証明書の提出が大前提になると思います。一方で「無観客試合」が常態化する可能性もありますが、私はマイナスにとらえることはないと思います。やはりコンテンツが一番重要であって、エンターテインメントとしての面白さがあれば、必ずファンはそこについていくはずです。逆に言えば、「放送」と「通信」の融合によるイベントや大会、日常的スポーツ活動を世界的に配信していくチャンスでもあると思います。これまでのように大人数が一堂に集まるということは、コロナ禍においてはなかなか難しい。そうであるならば、これだけ世界でITが発達した時代なわけですから、たとえば今後広がっていくだろう5G(第5世代移動通信システム。多数の機器に同時に、高速で大容量の通信を可能としたシステム)を利用し、世界のどこにいても観戦できる体制を築くことができるはずです。逆にその方が、世界の広範囲にお届けすることができます。またはAIによる分析なども使って、リモート通信ならではの楽しみ方も発掘していくこともできるでしょう。そうすれば、一カ所の総合大会でなくても、分散型の大会を開催することができます。
―― 「観るスポーツ」というのは、IT技術を用いることでさらに発展していくことが予想されます。ただ、「する」という観点からすると、いかがでしょうか。どうしても密着せずにはできない競技もあります。
正直に言えば、すべての競技が残るというのは厳しいと思います。いわゆる密着型のスポーツは難しい時代になるでしょう。競技の特性によって、淘汰されていくのではないでしょうか。もちろん、そうならないように、ワクチンや特効薬の開発に期待していますが、ただ時代の流れというものはしっかりと受け入れなければいけません。その一方で、時代に合った新しいスタイルのスポーツが登場してくる可能性は十分にあります。その一つが、eスポーツ(エレクトロニック・スポーツ。対戦型ビデオゲームをスポーツとしてとらえる際の名称)です。特定の競技場を必要とせず、誰もが参加できるスポーツとして、今後注目されていくことでしょう。未だに「eスポーツはスポーツではない」という考えをする方も多いですが、私はスポーツの一つとしてとらえていくべきだと思います。eスポーツには十分に競技性がありますし、誰もが楽しむことができるエンターテインメント性も備わっています。そのeスポーツをスポーツから排除する必要は全くないと思います。
2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催決定直後。中央が森喜朗氏。右はシェイク・アーマドOCA(アジアオリンピック評議会)会長(2013年)
―― 延期となった東京オリンピック・パラリンピックまで、残り1年を切りました。日本では、粛々と準備を進められていますが、実際に開催の可能性というのはどのように見られていますか。
新型コロナウイルスへの感染予防策をしっかりと行うことが大前提ですが、私はどんな形であれ、来年の東京オリンピック・パラリンピックを開催すること自体に大きな意義があると思っています。そのためには「無観客試合」ということも一つの選択肢です。ただし、「中止」という選択肢だけは避けたい。何も残らないわけですからね。コロナ禍において、オリンピック・パラリンピックをどのようにして開催し、どのようにして楽しむコンテンツにするか、その幕開けに位置付けられた大会となることを期待しています。
「新型コロナウイルス感染に勝った象徴」という言われ方もされていますが、私は「勝った」「負けた」ではなく、「withコロナ時代におけるオリンピック・パラリンピックの幕開け」というふうに捉えています。歴史的にも感染症が根絶することはそう簡単なことではありませんし、またいつどこで新型のウイルスが発生するかわかりません。そうであるならば、ウイルスを敵対視するのではなく、折り合いをつけながら、どうしたら重傷患者や死者の数をおさえるかが重要になってきます。そのことに配慮したスポーツ大会の開催を目指すことが妥当だと思います。そのためには、オリンピック・パラリンピックにおいても、これまでとは異なる価値観、環境を受け入れ、次元の違う楽しみ方を追求していくことが必要です。それこそが、与えられた環境で楽しみ、みんなでそれを分かち合うという、スポーツのあるべき姿ではないでしょうか。そして、東京オリンピック・パラリンピックの開催は、withコロナ時代だからこそ必要とされるスポーツのあり方を追求していく第一歩になるはずです。こうした困難な時代だからこそ、人類にはスポーツが必要で、困難に立ち向かうための力を与えてくれるものだという価値を広めていく大きなチャンス。そのためには形にこだわらず、変化を受け入れなければなりません。
―― 今後のスポーツのあり方というのはどのようにお考えでしょうか。
第一に貧困や地域紛争、環境問題、人種問題といった人類の分断をあおるような問題に対して、スポーツの力で中和し、虐げられた人々に生きる喜びを提供していくという理念を醸成させていくことが、今後のスポーツのあり方では重要なポイントだと思います。それに加えて、経済的な優劣に限らず、誰にも変わらずチャンスがあり、ルールの尊重のもとに戦い、記録や技術の高みを目指すことで、個人個人の生きるモチベーションを高めていくことを実践していくことが、スポーツには求められていることは言うまでもありません。
ベルリンオリンピック公式記録映画を撮影したレニ・リューフェンシュタール(中央)(1936年)
―― 先般の全米オープンテニスで大坂なおみ選手が行った黒人差別への抗議行動をどう思われましたか。また来年の東京オリンピック・パラリンピック時に同じようなことが起こった場合、どのように対応されますか。
人間として、人類共通の自然な感情表現と思いました。来年のオリ・パラ大会においても、TPOを踏まえた対応が必要と思います。
―― 最後に、後世に残したいものを教えてください。
かつて1936年ベルリンオリンピック(ドイツ)では、オリンピック憲章に基づく初めて公式記録映画が製作されましたが、映像でこれまでの日本スポーツ界のストーリーを伝えていきたいと思っています。日本スポーツ界が歩んできた、その証を残したいなと。これが私の夢の一つでもあります。
1912 明治45 |
ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 |
第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 |
アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 |
パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 |
アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 |
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 |
ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 |
第二次世界大戦でオリンピック中止 |
1944 昭和19 |
第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 |
ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 |
ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 |
メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1959 昭和34 |
1964年東京オリンピック開催決定 |
1960 昭和35 |
ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催 (のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
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1964 昭和39 |
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 |
メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 |
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任
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1972 昭和47 |
ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 |
モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 |
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 |
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 |
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季)
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1988 昭和63 |
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 |
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季) |
1994 平成6 |
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 |
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 |
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2000 平成12 |
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2002 平成14 |
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 |
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
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2006 平成18 |
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2007 平成19 |
第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 |
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 |
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 |
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定 |
2014 平成26 |
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2016 平成28 |
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季) |
2018 平成30 |
平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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