ファンを魅了した熱さ全開の青春ラグビー
サントリー現役時代のプレー(右)
―― 大学卒業後は、サントリーに入社し、3年目には志願をしてキャプテンに就任されました。まだまだ年輩の選手も多くいる中、20代半ばでチームをまとめるのはご苦労もあったのではないでしょうか。
当時の選手たちは、ラグビーに本気ではありませんでした。つまり、ラグビーに100%の力をかけているわけではなく、仕事や家族が優先で、ラグビーは二の次、三の次でした。そういうチームで2年間過ごして、もう我慢ならなくなって「そろそろ真面目に日本一になりませんか」と言って、自分でキャプテンに立候補したんです。
―― チームメイトから賛同を得ることはできたのでしょうか?
私の意見に賛同をして「よし、やろう」とついてきてくれたのは、約40人いた中で、10人ほどでした。それ以外の選手たちは「いいんんじゃないの」とか「やってるよ」とか口では言いながらも実際は何も変わることはありませんでした。私自身も結局、自分についてきてくれる10人にアプローチして安心していたんです。でも、占める割合が小さいわけですから、チームとして成り立つわけがないんですよね。キャプテン1年目は2部リーグとの入れ替え戦を戦う羽目になってしまいました。その1年目の反省を生かして、2年目からは「いいんじゃないの」と口では言う選手たちをどうすれば、こちら側に振り向かせることができるかに着手しました。
早稲田大学ラグビーの監督としてスタンドから戦況を見守る
―― その苦労が実ったのが、入れ替え戦から3年目の1995年。このシーズンは全国社会人大会で優勝し、さらに日本選手権も制して日本一の座につきました。
1年目の反省として、やはり一人で頑張ってもダメだなと思ったので、2年目からはほかの選手にも役職を与えて、さらに外部からコーチやトレーナーを招聘するなどして、チームが強くなるための組織化を図りました。それが実ったのが、3年目だったと思います。
―― 2001年に現役を引退し、すぐに母校の早大の監督に就任されました。どんな思いで引き受けられたのでしょうか。
人の子の青春を預かるという責任の重さを感じていました。というのも、当時すでに私には息子がいましたので、自分の息子の最も輝かしい大学4年間をどういう人に預けるのかということを考えたら、やっぱりちゃんとした人に預けたいなと思うわけです。その預かる立場になるのだから、自分の人生に影響を与えてくれた恩師たちのように、私も学生が輝かしい人生を送れるような指導をしたいと考えていました。ですから、監督1年目の時には「お前たちの青春を預かった」ということを選手たちにはよく言っていました。
早稲田大学ラグビー部監督として大学日本一に導く(2006年1月)
―― 当時、早大は10年以上も大学選手権で優勝から遠のいていた低迷時期でしたので、周囲からはチーム再建への期待が寄せられていたと思いますが、清宮さんはどのようにチームを作っていこうと考えていたのでしょうか。
実は、監督就任の打診がある前に、選手たちに呼び出されたんです。まるで面接のように、キャプテンをはじめとする幹部5、6人の前に座らされて「清宮さんなら、どうやってチームを強くしてくれますか?」というような質問をされました。その時、私は監督なんてやるつもりは微塵もありませんでしたから、「こんなふうに先輩を呼び出すなんて失礼だろう」という気持ちもあって、「え?そんなの知らないよ。オレがわかるわけないじゃん」とぶっきらぼうに答えました。そうしたら、その後で監督就任の打診があったんです。おそらく当時の早大には劇薬が必要だと思ったんでしょうね。それでOB会の強化担当メンバーが「清宮しかいない」と強く推してくれたようなんです。でも、選手にしてみたら、あんなに冷たくあしらわれた人に監督なんてやってもらいたくない、と当然思いますよね。そこをOB会が選手たちを説得して、私が監督に就任することに決まったわけですが、最初は選手からの反発もありました。
サントリー監督としてマイクロソフトカップに優勝し胴上げされる(2008年2月)前列左から2人目
―― 選手たちと気持ちが通じ合うようになったのは、いつ頃だったんですか。
秋になって、シーズンが始まってから、ようやく選手たちの信頼を得ることができたかなと感じることができました。もちろん、公式戦で結果が出たことも大きかったと思いますが、単にそれだけではなかったと思います。やはり学生ですので、さまざまな "事件"が起きるのですが、そうした時に一つ一つ誠実に対応して、選手とも正面からぶつかっていくことで、少しずつ溝が埋まっていったのだと思います。
―― 2006年からはサントリーサンゴリアスの監督に就任し、2年目にはプレーオフを制してトップリーグでの優勝を果たされました。
あの時、私は社会人チームのサントリーに学生ラグビーの熱を持ち込んだんです。そうしたところ、学生ラグビーファンがこぞってサントリーの応援に来てくれるようになりました。おそらくファンはサントリーの選手たちのプレーや姿に、学生ラグビーを見たのだと思います。1年目は準優勝に終わりましたが、サントリーの試合を観に来たファンで秩父宮ラグビー場が溢れかえり、3000人もの観客が入場できなかったんです。これはおそらく未だに破られていない日本ラグビー史上最多記録だと思います。
※「トップリーグ」とは、日本最高峰のリーグとして2003年に発足した社会人ラグビーの全国リーグ。
監督としてサントリーをマイクロソフトカップ優勝に導く(2008年2月)
―― サントリーに持ち込み、ファンを魅了してやまなかった「学生ラグビー」とはどんなものだったのでしょうか。
つまり「青春」です。選手たちにいつも言っていたのは「どこよりもラグビーを楽しんで、思い切り盛り上がろうぜ!そして、みんなで熱い涙を流そうじゃないか!」ということでした。それこそ学生の時みたいに、決勝戦の前日、メンバーに入らなかった選手たちから、試合に出る選手たちに手紙を送ったんです。熱いメッセージを受け取った選手たちはみんな「もうやめてよ。こんなの送られたらたまらないじゃん」なんて言って、感動の涙を流していました。まさに最高の青春ですよね。そういう学生のような熱さが試合にも出て、それがファンにとっては魅力だったのだと思います。
大切にしたいカテゴリーごとに異なる魅力
故奥克彦氏の追悼試合
―― 今年はラグビーワールドカップが開催されるわけですが、このワールドカップ日本開催に尽力したのが、奥克彦さん(故人、早大出身、外交官)でした。清宮さんは、奥さんとご関係が深かったと聞いています。
学生時代、海外遠征に行くと、試合後のアフターマッチファンクション(試合後、両チームが交流を深めるレセプション)で司会進行役をしていたのが奥さんでした。聞けば、早大のOBで、しかも同じ関西出身ということで、少しずつ話す機会が増えていった感じでしたね。奥さんは、私が兄貴として慕っている益子俊志さん(元早大ラグビー部監督、現日本大学教授)と、とても仲が良かったんです。ですから、「兄貴の親友」という感じで親しくなり、私のブレーンのような存在の方でした。
当時から奥さんが熱望していたのが、ラグビーワールドカップの日本開催でした。「日本でラグビーのワールドカップが行われるなんて、夢みたいなことだけど絶対できるよ!」と。つまり、ワールドカップ日本開催の言い出しっぺは奥さんなんですよね。
ワールドカップ2015イングランド大会の日本のサポーター
―― そのラグビーワールドカップが、いよいよ今秋、全国12会場で行われます。清宮さんはこのワールドカップをきっかけに、今後、日本のラグビー界はどのような道を歩んでいくべきだとお考えでしょうか。
まず、ラグビーワールドカップは何のために日本で行われるかという視点です。これは、ラグビーという競技の魅力を多くの日本人に知ってもらうことですね。より多くの人々に伝えるために代表チームは勝たなければならないし、熱い試合をしなければなりません。多くの感動を共有できれば、多くの人たちがラグビーを観戦しプレーヤーの数も増えると考えます。プレーヤーの数が増えると世界で戦えるトップアスリートが輩出される確率が高くなり、日本代表が強くなる。という構図が理想なのかもしれませんが、その理想は現実的ではありません。現実をみると、日本人が世界の舞台で戦うのはかなり難しいという事実です。でも、それによりラグビー競技の魅力が半減するかというとそうではないですよね。ラグビーを愛する人たちは、それぞれのカテゴリーでこのスポーツに魅了され胸を張って「ラグビーは素晴らしいスポーツなんだ」と言いますよね。
これからの日本ラグビーは世界で一番になることを本気で考え、世界で戦う日本人を輩出する事を諦めず、でも、それが全てではなく、それぞれのカテゴリーで行われる本気の勝負の本質が損なわれることなく、ラグビーの素晴らしさを後世の人々に伝えられることが必要になるでしょう。まずは、ワールドカップにより注目が増す今年、来年に向けて今ある資源を最大限に活かす努力。高校ラグビー、大学ラグビー、トップリーグの観客席を満員にすることをあらゆる方策でチャレンジすることでしょうか。
ヤマハ発動機ジュビロの日本選手権優勝祝賀会にて(2015年2月)
(前列左、右は森喜朗氏)
―― ラグビーワールドカップの後、来年には東京オリンピック・パラリンピック、翌2021年にはワールドマスターズゲームズ2021と国際スポーツイベントが続きます。そうした中で、今後日本スポーツ界が発展していくためには、どのようなことが必要でしょうか。
磐田市の取り組みを例に挙げますと、今や世界トップアスリートとして活躍している卓球の水谷隼選手と伊藤美誠選手はともに磐田市の出身。幼少の頃には同じ磐田市の卓球教室で練習をして、そこから世界に羽ばたいていきました。今では2人とも磐田市の「おらが町のスター」ですし、地元の子どもたちにとっては大きな刺激となっています。「あんなすごい選手が、この地元で育ったんだ」となれば、「よし、自分も頑張ってみよう」と意欲がわいてきますよね。こうした成功事例を踏まえると、今後はあえてトップアスリートの出身地を強くアピールして「地元のスター選手」にしていくことも必要だと思います。
―― 中学校時代にほれ込んで、ずっと関わり続けてきたラグビーとは、清宮さんにとってどのようなものでしょうか。
人生そのものです。ラグビーがあったから、たくさんの人とも出会えましたし、全てのエネルギーの源になっています。まさに、ラグビーは私の「青春」です。