ラグビールーツ校での本格的デビュー
4歳のころ(東京/滝野川にて)
―― 堀越さんと言えば、テレビ解説者として長きにわたって活躍されたことでも知られています。堀越さんご自身、ラグビーを始めたのは大学時代からだったそうですね。
私の出身校である東京都立三田高校の前身は、東京府立第六高等女学校で、男女共学となったのは1950年でした。ですから、私が同校に通っていた1958~60年という時代も、まだ男子は全校生徒の4分の1ほどしかいなかったんです。人数が少なかったですから、男子で本格的な活動をしている運動部はなかったんです。
一応ラグビー部もあったことはあったのですが、3学年合わせても15人に満たされていませんでした。私自身は所属はしていませんでしたが、当時から体が大きい方でしたので、ラグビー部に駆り出されて試合に出たこともありました。ポジションはウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを狙うポジション)でしたが、今のように「花形ポジション」ではなく、当時は最もボールが回ってこないポジションで、「とにかく相手が来たら捕まえればいいから」と言われていました(笑)。そんなことで高校時代から少しラグビーを経験していたのですが、本格的に始めたのは慶應義塾大学に入ってからのことでした。
―― 試合に出られるようになったのはいつ頃からだったんでしょうか。
慶大ラグビー部に入部してみると、予想をはるかに超えた過酷な練習が待ち受けていました。それでも一生懸命に練習をしまして、2年から試合に出させてもらえるようになりました。1年の時にみっちりと絞られたのが良かったんでしょうね。
1970年代の慶大の試合
―― 子どもの頃からラグビーへの憧れというのはあったのでしょうか。
もともとはあまりラグビーについては知識もなかったですし、そこまでの思いはありませんでした。きっかけは1958年、私が高校1年の時にオールブラックス(ニュージランド代表)が来日しまして、「オール慶應」と対戦した試合を観に行ったことでした。「オールブラックス」と名乗ってはいましたが、実際は22歳以下の若い代表チームでした。それでも結果はオールブラックスの一方的な勝利に終わったんです。
ただ、体格の大きなオールブラックスの選手たちが突進を繰り返す中、小柄な「オール慶應」の選手たちが健気にタックルする姿を目にしまして、「これは男らしい素晴らしいスポーツだな」と感動したんです。それでラグビーに関心を持つようになりました。それと高校時代に時々ラグビー部に駆り出されて試合に出ると、同級生に「オマエは体も大きいし、結構運動神経もいいから、ラグビーをやってみたらいいんじゃないか?」と言われていたんですね。そんなおだてに乗せられてということもあって、大学ではラグビー部に入りました。
インタビュー風景(堀越慈氏)
―― 身長、体重はどのくらいあったのでしょうか。
大学入学当初は、身長183cmあったのですが、体重は68kgと細かったんです。それが大学1年の時にみっちりと鍛えられて、2年になる頃にはだいぶ横のサイズも大きくなっていました。それでなんとか使えるなということで、試合にも出させてもらえるようになったんだと思います。
―― 慶大ラグビー部というと、他の強豪校のようにエリートの選手がこぞって集まるというよりは、勉強にも力を入れた中でラグビーが好きな選手たちが入ってくるというイメージがあります。
慶大ラグビー部の中心は、系列校である慶應義塾高校でラグビーをやっていた選手たちでした。当時は、チーム全体の3分の2ほど占めていたと思います。彼らに加えて、その他の高校からも割と上手い選手が入ってきていました。とはいえ、エリート集団の早稲田大学や明治大学と比べると、それほど能力の高い選手が入ってきていたわけではありませんでしたので、入学後に相当過酷な練習をして、なんとかレベルを保っているというところだったと思います。
―― 特に有名なのが、山中湖(山梨)で行われる夏の合宿です。血反吐を吐くほどの過酷さだったと伺っていますが、実際はどうだったのでしょうか。
15日間、毎日朝に1時間半、午前に3時間、午後に4時間の3部練習が続く、まさに「地獄」の夏合宿でした。毎日「雨が降らないかな」と願っていました(笑)。
―― 夏合宿が終わると、9月から対抗戦があったわけですが、そこで早大や明大という強豪校と互角に戦う力を山中湖で養っていたというわけですね。
そうですね。「自分たちには素質がないのだから」という認識でいましたから、その中で勝つには、何かをプラスしなければダメだろうと。それで厳しい練習をし、また首脳陣が知恵を絞った戦略で、勝ちにいくという感じでした。
地獄の合宿で培った泥臭いプレーでエリート校に対抗
早稲田大学
―― 当時の大学ラグビーは、関東では慶大、早大、明大の3校と、関西の同志社大学を加えた4校が強豪校として日本一を争っていました。4校ともにそれぞれ特徴的なラグビーをしていたと思いますが、堀越さんから見られていて、どのように感じられていましたか?
当時、最も特徴的だったのは早大だったのではないかと思います。"横に揺さぶるラグビー"と言われていましたが、オープンにボールを回して外側で勝負をするかたちでした。それに対して明大は"縦のラグビー"と言われていて、とにかく前へ前へというラグビーでした。同志社大は素質のある個性的な選手が割とたくさんいるチームで、特にモール(ボールを持った選手がタックルされても倒れず、その選手を中心に立ったまま体を密集させた状態でのボールの奪い合い)が上手かったですね。監督だった岡仁詩先生が熱心にニュージーランドのラグビーを研究されて、新しい戦法を取り入れていたと思います。そういう中で、我々慶大はその3校に比べて素質がそれほど高いわけではありませんでしたし、特にスピードという面で優れた選手が伝統的に少なかったんですね。ですから、割と狭いエリアで展開していくラグビーだったのですが、低い姿勢と体力勝負の連続プレーで活路を見出していく。あるいは高くキックをしたボールを追いかけて相手にタックルしてラック(ボールを持った選手が相手のタックルで倒れ、地面上のボールを体を密集させた状態で奪い合う)にするという「アップ・アンド・アンダー」という戦法をとっていました。他の3校と比べると、非常に泥臭ささのあるラグビーだったと思います。
全慶大vsイングランド/デュークオブウェリントン戦
(前から4人目。前から2人目が弟の堀越優)
―― 慶大はラグビーのルーツ校でもあります。その誇りと伝統を背負ってプレーしていたのでしょうか。
ふだんはルーツ校としての意識を背負うということはそれほどなかったと思うのですが、「自分たちのラグビーの原点」ということで、先輩から伝統的に継承してきたプレーや慶大ラグビーの良さというのは代々受け継がれ、浸透しているとは思います。
―― 例えば山中湖での夏合宿でOBの皆さんが来られて、そういう伝統というものを教示されることもあるのでしょうか。
そうですね。そういった思想的なものが、練習や強化の方針になり、それをグランドで実践するわけですけども、その際に個々のプレーについて「慶大らしさというのは、こういうふうに出していくんだ」ということを先輩たちからアドバイスいただき、それが脈々と継承されてきたと思います。
日本代表のロック、ヘル・ウヴェ、のプレー
―― 大学時代、堀越さんのポジションはロックでした。やはり大きな体を生かしてというところがあったのでしょうか。
そうですね。今はどこのポジションにも体格のいい選手ばかりが揃っていますが、当時は身長の高い選手がロックをやるというのが一つのセオリーでした。
―― ほかのポジションをされたことはありましたか?
ナンバーエイト(花形ポジションと呼ばれ、スクラムの最後方でリードし、サインプレーにも多く絡むポジション)をやったことがあります。面白さで言えば、やはりナンバーエイトの方でした。早めに相手の動きに対応することができて、オープンに展開しやすいですからね。
―― 逆にロックの面白さとはどういうところに感じられていましたか?
当時のロックは、ラインアウト(ボールがタッチラインの外に出た際、その地点からボールの投入によって競技を再開する)、スクラム(軽めの反則や、どちらのボールかわからない場合に、両チームが8人ずつで組み合いボールを奪い合う)キックオフ(前後半の開始時や、トライ後にボールを蹴り上げて試合が開始・再開されること)でのシーンの時に重要な役割があったのですが、私はキックオフでのプレーが得意でした。味方がキックオフで蹴ったボールを追いかけてキャッチし、突進するというプレーです。
もしキャッチできなかった場合は、自分がマークする選手にタックルにいくと。そういうプレーが自分としては一番にやりがいを感じていました。
歴史的快挙が生まれた3つの要因
ライオン時代。自宅付近の高校の校庭で
一人で練習に励む
―― 大学卒業後は洗剤などの日用品大手のライオン(旧社名・ライオン歯磨)に入社されました。ラグビー部のないライオンに入社されたのはどのような経緯があったのでしょうか。
実は大学時代には、ラグビー部のある企業からも結構勧誘をしていただいていたんです。ただ、自分としてはラグビーはいつまでもできるものではないし、また当時のラグビー界はアマチュアリズムが重視されていましたので、若くて元気な時はラグビーはできるけれど、どこかで区切りをつけて社会人として遅れをとらないようにやっていこうという意識が強くありました。一方で自分の目標として大学4年あたりからは、日本代表になって世界一のラグビー大国であるニュージーランドに遠征に行くというのがありました。その目標が達成されるまでは、どんなに辛いことあってもライオンで自分一人でも工夫をしながら練習をしていこうと思っていました。
―― たった一人で練習をして日本代表を目指すというのは、相当大変なことだったと思いますが、どのように工夫されていたのでしょうか。
毎日仕事を終えて帰宅してから、夜の7時から9時くらいまで一人で練習をしていました。また1946年創立の伝統のあるクラブチーム「エーコンクラブ」にも入っていましたので、土日に試合がある時にはエーコンクラブの一員として試合をしていました。エーコンクラブは試合感覚を失わないようにするために非常にありがたい場でした。
エーコン vs エリス戦でのプレー
―― エーコンクラブというのは非常に歴史のある強豪クラブですが、どのような体制のものだったのでしょうか。
私のようにほとんどがどこのチームにも所属していないフリーの選手でした。ただ一時期は企業にラグビー部がどんどん設立されて盛んに活動される時代がありまして、その時にはエーコンクラブに所属する選手は少なかったですね。逆に現在は企業のラグビー部が減少傾向にありますので、またエーコンクラブに入る選手が増えてきているようです。
―― 実際、企業のラグビー部でプレーしていないにもかかわらず、堀越さんは日本代表に選ばれて、1968年のニュージーランド遠征に行きました。
やはり「日本代表に入りたい」という強い思いを持ち続け、エーコンクラブでの練習を続けていたことと、いつまでもできるわけではないのだから、1968年のニュージーランド遠征に日本代表として参加することができたら競技人生に一区切りつけようと思っていたのが良かったのかもしれません。