忘れられない初めての花園ラグビー場での感動
福岡高校の中心選手として活躍(手前)
―― 現在、日本ラグビー界においてさまざまな面でご活躍されていますが、森さんがラグビーを始めたのは、いつだったのでしょうか。
中学校時代は9人制のバレーボール部に所属していました。1964年、私が中学1年生の時に東京オリンピックが開催されまして、大松博文監督率いる全日本女子バレーボールチームが金メダルに輝いたんです。それに大いに感化され、バレーボール部に入部したのですが、高校ではラグビー部に入りました。
―― 森さんが進学された福岡高校は県内有数の進学校でもあり、ラグビーの伝統校でもあります。福岡高に進学すると決めた時からラグビー部に入ろうという気持ちがあったのでしょうか。
同じ中学校から福岡高には30人ほどが進学したのですが、なぜかバレーボール部出身者のほとんどが勧誘されてラグビー部に入ったんです。また、当時の福岡高で全国大会に行けるような強豪クラブは、ラグビー部くらいしかなかったんですね。それでというところもありました。
試合に臨む福岡高校のメンバー(右から4番目)
―― ラグビー部の部員はどのくらいいたのでしょうか?
私の学年は11人入ったのですが、一つ上の学年は5~6人でしたので、3学年で30人弱だったと思います。今では考えられないほどのぎりぎりの人数でした。
―― ポジションははじめからセンターバック(守備ではタックル、攻撃ではゲームメイクしたり自ら突破してトライのチャンスを作る役割を担うスピードとパワーの両方を要するポジション)だったのでしょうか?
私は身長が低い方でしたので、最初はスクラムハーフ(パスのスペシャリストで、スクラムではそのスクラムにボールを入れる役割を担うポジション)でした。当時は、身長が低い選手はスクラムハーフと決まっているようなところがあって、私は半年以上、当然のようにスクラムハーフをやっていました。もちろん、1年の時は上の学年にスクラムハーフの先輩がいましたから、試合には出られませんでした。
―― スクラムハーフはゲームを左右する大事なポジションですから、非常にやりがいがあったのではないでしょうか。
本来はそうだと思うのですが、私自身はスクラムハーフとしてのやりがいを感じるところまでいかずに、2年からセンターバックに替わってしまいました。足だけは速かったので、当時の監督さんから「オマエ、センターやれ」と。
1969年、全国大会に出場した時の福岡高校のメンバー(中列左から3番目)
―― 高校時代の一番の思い出を教えてください。
1年の時に全国高等学校ラグビーフットボール大会(毎年12月末から翌月1月の始めに開催)に出場しまして、初めて花園ラグビー場に行ったのですが、中学生の時に全国大会の経験はありませんでしたから「こんな大きな大会があるんだ」と驚きました。全国から集まってきた他校のラグビー部の選手はみんな体格が大きいんです。がっちりとした体つきに圧倒されました。私自身は試合には出なかったのですが、チームが負けた時も不思議と悔しさは感じませんでした。「これが全国大会なんだんな」ということへの感激の気持ちの方が大きかったんです。「ラグビー部のお正月はこういうふうにして過ごすのか。また来年、ここに来たいな」という気持ちで帰りました。
―― ラグビー部の練習は相当厳しかったのでは?
非常に厳しかったですね。練習は授業が終わった後の放課後、2~3時間程度だったのですが、特に夏の合宿が過酷でした。今のように涼しい場所に行くなんてことはなく、学校に寝泊まりして、OBも来てみっちりと鍛えられました。夏合宿は本当に辛かったですね。
―― 後に母校の監督を務められますが、当時と今とでは学校の部活動に、どんな違いがあるのでしょうか。
当時は今のように保護者が介入することはまったくなかったですね。試合を観に来るようなこともありませんでした。部に入ったら、みんなお任せします、という感じでした。ある意味で学校側を信頼していたのだと思います。ですからどれだけ厳しいことをやらされても、保護者からクレームがつくというようなことはありませんでした。もう全てを学校にお任せすると。だからこそ今では考えられないような良き厳しさがあったなと思います。
「打倒早稲田」に燃えた大学時代
明治大学時代は闘志溢れるプレーで活躍
―― 高校卒業後、明治大学に進学されましたが、ラグビー名門校の中でも明大を選ばれた理由は何だったのでしょうか。
当時の福岡高校の監督さんが明大の出身の方で、毎年のように2~3人が福岡高校から明大に行っていたんです。私自身は地元の福岡大学でアイスホッケーをやろうかなと思っていたのですが、監督さんが私に「明大に行かないか」と言ってくださいまして、せっかくなので「じゃあ、明大に行こうかなと」。でも、周囲からは「オマエは早稲田大学じゃないのか?」と言われていましたね。身長は低かったけれど、足だけは速かったので、早大向きだと思われていたんでしょうね。当時の早大には俊足の選手が多かったですから。
―― 逆に言えば、足の速い選手が多かった早大ではなく明大に入ったことで、「足があるバックスが入ってきたぞ」と森さんへの期待感も大きかったのではないでしょうか。だからこそ1年生の時から試合に出場されていたのではないかと思うのですが。
確かに運よく1年の時から試合には出場していましたが、期待されていたかどうかはちょっとわからないですね(笑)。ただ、実は「早大に行きたいな」と思ったことも何度かあったのですが、やっぱり明大に入って正解だったなとは思いました。
―― それは明大に入ってみて、明大の良さがわかったと。
下級生の頃は雑用ばかりさせられて、上下関係が厳しかったですから、明大の良さはわからなかったですねぇ(笑)。でも、「住めば都」ではありました。当時はどこも同じような厳しさはあったと思いますしね。
明治大学の激しい練習風景
―― 明大の北島忠治監督(当時)は、どのような指導だったのでしょうか。
ラグビーに関しては、細かいことを指導するというような監督ではありませんでした。ただ、ストッキングをくるぶしまで垂らしてたりすると、「服装は我の為にあらず。人様への礼儀である」と。そしてなにより卑怯なことをするのは絶対に許しませんでしたし、相手への礼儀に対しては厳しく言われました。北島先生は「勝負に勝て」とは絶対に言わないんです。「学生らしい、いいラグビーをしなさい」と。でも、細かくは言ってくれませんから、僕ら選手はどういうものが「学生らしいラグビー」なのかがわかりませんでした。後にOBに聞いてみると、「卑怯なことをせずにルールを守ってプレーする」と。つまり大学を卒業して社会に出た時に必要なことをラグビーを通じて身に付けてほしいということだったと思います。当時、最大のライバルだった早大ラグビー部の選手とは、よくお酒を飲みかわす機会もあったのですが、いつも話にのぼるのは勝負に対する考え方の違いでした。「早大は、『ここまでだったら違反にならない』というようなルールぎりぎりのところをついてくる。でも、オレたちにしてみたら、やっちゃいけないことはやっちゃいけないんだ」と、よく議論を交わしていました。当時の早大は、例えばセットプレーであるラインアウトの際に、ボールを投入するのにフェイントをかけ時間差を使ったりして相手を惑わそうとしてきたんです。早大にしてみたら「これはテクニックだ」と言うけれど、私たちにすれば「それは違うだろう」と。でも、そういう両校の違いが、ラグビーファンにしてみたら面白くて、早明戦の人気が高かったのだと思います。
―― 森さんが大学時代は、国立競技場で試合が行われていましたが、早明戦はいつも満員で盛り上がっていましたよね。
私が大学3年の時までは秩父宮ラグビー場で試合が行われていましたが、たしか改装するために使用できなくなり、4年の時には国立競技場でした。満員の国立競技場で試合をするのは選手冥利に尽きました。学生ラグビーにそれほど大勢の観客が集まるなんて、今考えると、すごいことでしたよね。
早明戦のスコアボード
―― 当時の学生ラグビーと言えば、明大と早大が抜きんでていて、そこに関西の同志社大学が絡んでくるというような図式でした。やはり森さんたち明大の選手にとって一番は「打倒!早稲田」だったのでしょうか。
そうですね。北島先生には「東大に負けてもいいから、早大にだけは絶対に負けるな」と言われていました。というのも「社会に出たら東大の選手が上司になるんだから、今からゴマをすっていた方がいいんだと。でも、対等な立場の早大には絶対に負けるなよ」と(笑)。もちろん先生も冗談で言っていただけで、自分でそう言いながら笑っていましたが、それほど早大へのライバル心は並々ならぬものがありました。
―― 当時のラグビー人気の高さは何が要因だったのでしょうか。
今との一番の違いは、一般の学生が観戦に来てくれていたというところだと思います。ラグビー部のOBはもちろんですが、たとえラグビー部でなかったとしても「僕はあの選手と同じ学部です」なんていう一般の学生がみんな観に来てくれていました。それだけ一般の学生たちが母校のラグビー部を誇りに思ってくれていたと思いますし、それが人気の高さにつながっていたのだと思います。