練習では成功なしで迎えた「10月10日」
東京オリンピックの開会式で電光掲示板に映しだされたクーベルタン男爵の言葉(1964年)
―― 当時のお話を伺うと、開会式当日の成功は、まさに「奇跡」だったそうですね。
開幕前日は、嵐のような大雨が降っていましたが、翌日の快晴は想像されていまたか?
松下 いえいえ、まったくしていませんでした。前日に、待機場所だった埼玉県の入間基地に入っていたのですが、あまりの土砂降りで、自衛隊の気象係に聞いても「明日は雨です」と言っていたので、その晩はメンバーとご飯を食べながら「これはもう、明日は100%中止だな」なんて話をしていたくらいです。正直、もう安心しきっていましたよ(笑)。
―― ところが、前日の嵐がうそのように、開幕当日は快晴でした。
松下 そうなんです。朝起きたら、さんさんと陽が照っているものだから、ビックリして飛び起きました(笑)。
熊谷 私は開幕当日は、朝6時に国立競技場のそばの神宮外苑でNHKのインタビューを受けることになっていました。宿を出ると、街全体にもやがかかって、見えにくい状態でした。「大丈夫かなぁ」と不安に思いながら約束の場所に到着したところ、NHKの記者が開口一番に「熊谷さん、今日は日本晴れになりますよ」と言ったんです。
私は驚きまして、「まさか、こんなにもやがかっているのに?」と半信半疑ではありましたが、「でも、本当に晴れてくれたら嬉しいなぁ」と願う気持ちでいました。そうしたところ、記者の言葉通り、まさに「日本晴れ」という言葉が似合う晴天に恵まれましたでしょう。驚きと同時に、嬉しかったですね。
ブルーインパルスの飛行訓練風景
―― そんな「日本晴れ」の中、松下さんは、いざ入間基地を飛び立つ瞬間というのは、どんなお気持ちでしたか?
松下 それこそ、金メダルを期待された選手の気分でしたね。「金メダルを取らなければいけない」というね。私たちも「失敗は許されない。なんとしても成功させなければいけない」という気持ちがありました。開会式の模様は、日本国内だけでなく、世界各国に放映されていましたから、「日本の恥をさらしてはいけない」という気持ちが強かったですね。
―― 結局、それまでの練習では、成功したことはあったのでしょうか?
松下 すべて正確に五輪のマークを描けたことは一度もありませんでした。4機はうまくいっても、1機だけ距離が離れてしまったりとかね。
―― 不安はありませんでしたか?
松下 不安に思うよりも、1番機としては、とにかく定刻に正確な場所に飛ぶということだけを考えていました。あとは「みんなついてこい」という感じでしたね。
―― 聖火リレーの最終ランナー坂井義則選手が聖火台に点火し、日本選手団主将だった体操の小野喬さんの選手宣誓が終わると、、白い鳩が一斉に青空に飛び立ちました。それに気を取られている間に、いつの間にか5機のジェット機が飛んできて、「いったい、何が始まるんだろう?」と、中学2年生だった私はテレビの前で胸を躍らせながら見ていました。
松下 私たちは入間基地を飛び立った後、江の島上空で待機していました。当初の計画では坂井選手が点火したと同時に、競技場に向かうことになっていまして、それが午後3時10分20秒とされていたんです。ところが、全選手が入場してから坂井選手が点火するまでに時間を要してしまって、点火のタイミングが予定よりも遅くなったんです。
東京オリンピックの聖火台へ続く階段を上る最終ランナーの坂井義明氏(1964年)
熊谷 そうでしたね。坂井選手が競技場に入場してから点火するまでの時間は、4分何秒ということになっていました。これは、リハーサルを通して、私が割り出した時間だったのですが、なにせ距離が長くて、正確な時間を割り出すというのは簡単ではありませんでした。入場してから一周400mのトラックを4分の3周走った後、聖火台に向かって長い階段を上らなければいけませんでしたからね。会議では組織委員会の上部から「そんな秒単位まで細かく割り出す必要があるのか?」というふうに言われたこともありましたが、ブルーインパルスに合図を出すには、やはり細かく出しておいた方がいいだろうということで、割り出した時間だったんです。
―― 聞くところによると、ブルーインパルスは機内でラジオ放送を聴いていて、アナウンサーが「最終ランナー坂井選手が今、ゲートから入場してきました」というタイミングとともに、競技場へ向かっていったと。
松下 はい、そうなんです。というのも、坂井選手のように優秀な選手は、正確なタイムで走るわけです。ですから、彼がゲートをくぐったタイミングで出発しようということになっていました。私は5機のうちの1番手でしたから、定刻に赤坂見附の上空を飛ぶことになっていました。
インタビュー風景(松下治英氏)
―― 私はモノクロテレビで見ていましたので、五輪の色はわからなかったのですが、青空に映えていたんでしょうね。
松下 そうですね。この煙の色も、非常に苦労しました。東京都内の小さな染色メーカーがやってくれたのですが、当時の技術としてはエンジンオイルに顔料を混ぜることで、色を出していたんです。意外にも、一番色を出すのが難しかったのは黒だったそうです。素人からすれば、一番簡単な色のように思えましたが、メーカーの人たちは「何度やっても、きれいに出ない」と苦心していました。
―― でも、結果的には五輪のマークが均等に並び、色もきれいに出ていました。描き終わった後、喜びもひとしおだったのではないでしょうか?
松下 輪を描いている最中は、自分では見ることができませんので、成功したかどうかはわかりませんでした。輪を描き終わった後、5機が一斉に上昇していったのですが、その時にようやく上から五輪のマークを見ることができまして、「あぁ恥をかかなくて本当に良かった」と胸をなでおろしました。あとで聞いた話ですが、埼玉県川口市からも五輪のマークがはっきりと見えたそうです。それを聞いて「あぁ、良かったなぁ」と思いました。というのも、私たちは東京都内だけでなく、できるだけ広範囲で、多くの日本国民が見られるようにしたいということで、いろいろと計算した結果、1万フィート(3000m)の高さで飛ぶことにしていたんです。ですから、川口市からも見ることができたと聞いて、嬉しかったですね。
「二度とできない」ほど完璧に描いた5つの輪
国立競技場の上空に描かれた五輪は、遠くからもはっきりと見ることができた(1964年)
―― 式典担当の熊谷さんもブルーインパルスの曲芸飛行に期待されていたと思いますが、当日はどのような心境で見られていたのでしょうか?
熊谷 私は無線で隊長さんの松下さんとやりとりをして、状況を把握したり合図を出したりしていたのですが、その冷静さには非常に驚きました。五輪のマークを描くという大役を前にしても、その声は非常に落ち着いていて、「さすがだなぁ」と思いながら、安心感を抱いていました。
―― その期待通りに、五輪のマークが東京の上空に描かれたのを指揮室から見られた時は、どんな思いでしたか?
熊谷 国民の皆さんと同じで、もう、感動のひと言でした。あの五輪のマークは、本当に素晴らしいものでした。
―― 半世紀以上たった今もなお東京オリンピックの名シーンとして語り継がれているわけですが、改めて振り返ってみて、松下さんはどんなお気持ちですか?
松下 当時の心境としては、とにかく「恥をかかなくて良かった」ということだけで、自分たちが特別大きなことをしたという気持ちはありません。ただ、一つだけ言えるのは、あの東京オリンピックの後にも先にも、五輪のマークを描くという曲芸飛行は行われていません。当時のメンバーとよく話すのは「あれは、世界で自分たちだけがやったものなんだ」ということで、それに関しては誇りに思っています。
―― ブルーインパルスを始め、1964年の開会式は大成功に終わったわけですが、式典担当の熊谷さんは、成功に導いた最大の要因は何だったと思われますか?
熊谷 当時は、日本全体が「東京オリンピックを成功させたい」という強い思いにあふれているような感じがありました。何をするにも、協力的な方が本当に多かったんです。やはりそうした気持ちの部分が大きかったのではないでしょうか。