東京大学法学部を卒業後、東京都に入都した野村
アジア初開催となったオリンピックの大成功の背景には、果たしてどんなことが行われていたのでしょうか。知られざる組織委員会の業務内容についてうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
東京大学法学部を卒業後、東京都に入都した野村
アジア初開催となったオリンピックの大成功の背景には、果たしてどんなことが行われていたのでしょうか。知られざる組織委員会の業務内容についてうかがいました。
聞き手/佐塚元章氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
戦争等の影響で返上された1940年東京オリンピックのポスター
―― 野村さんは1951年に東京大学法学部を卒業されて、東京都の職員となりました。
ちょうどその年に東京都議会で1964年のオリンピックを正式に招致することが決定したわけですが、東京都にとって東京オリンピック開催はやはり悲願とされていたのでしょうか?
そうだと思います。本来であれば、1940年に東京オリンピックが開催されていたわけですが、それが戦争の影響で中止となりました。その時の東京市の職員であった先輩たちが、東京都(1943年に「東京市」「東京府」が合体して、「東京都」が設置される)の職員でたくさんいましたからね。先輩たちの話によると、1940年の開催のために世界中をまわってロビー活動をしていたそうです。その時の無念が残っていましたから、1964年のオリンピック招致に対する気持ちというのはなみなみならぬものがあったと思います。
―― 1951年というと、戦後6年ですが、その頃の東京はどこまで復興していたのでしょうか?
東京は、1944年から1945年にかけて空襲の連続で、街全体が大変な状況にありました。特に1945年3月10日の「東京大空襲」で、下町は一面焼け野原になり、街は「廃墟」となってしまたのです。
それからの復興への道というのは、言葉では言い表せられないほど大変なものでした。当初は食べるものさえもないほど厳しい生活を強いられ、東京の人たちは本当に辛い思いをしたんです。それでも少しずつ復興していき、1953年くらいになりますと、人口も戦前に戻るんですね。1940年頃の東京の人口は700万人だったのが、1945年には300万人ほどに減少してしまっていました。それが、1953年には700万人を超えるほどに増えていました。
戦後、水泳自由形で世界新記録を連発し"フジヤマのトビウオ"と呼ばれた古橋廣之進
―― そんな中、当時の国民にとって、スポーツはどんな存在だったのでしょうか?
あくまでも私個人の印象ですが、東京が焼け野原になったりして、日本全体が打ちひしがれている最中、スポーツで日本人選手の活躍というのは、非常に活力を与えてくれるものだったと思います。例えば、1947年に水泳の古橋廣之進さんが、日本選手権の400m自由形で公式記録にはならなかったものの、当時の世界新記録を出したりしたことは、国民を元気づけてくれていたと思います。
また、翌1948年に行われたロンドンオリンピックに「敗戦国」の日本は参加が許されませんでした。そんな中で、オリンピックと同じ時間に行われた日本選手権で、古橋さんが400m自由形および1500m自由形の両方で、金メダリストを上回るタイムをたたき出したニュースは、どれほど国民を勇気づけたかわかりません。ほかには、私が東京大学に入ったのは、1947年でしたが、その頃は六大学野球が非常に盛んで、よくニュースでも取り上げられていて人気を博していました。そうそう、当時は東大も優勝争いするほど強かったんですよ。
選手村でのサッカー日本代表チーム
―― 日本におけるスポーツの存在価値は、1964年東京オリンピックを契機に高まっていったのでしょうか?
そう思いますね。東京オリンピックが開催されたからこそ、国民のスポーツへの関心も高まったと思います。例えば、サッカーは1964年当時はまだ日本ではあまり人気は高くなくて、はじめはオリンピックのチケットが余っていたんです。ただ、開幕するとチケットも売れまして、「あぁ、サッカーというスポーツは世界で人気が高いんだな」ということを知るきっかけになったと思います。それこそ、その後のサッカー熱の第一歩は、東京オリンピックだったのではないかと思います。
また、現在は超高齢社会と言われていますが、日本人が高齢でも元気なのは、東京オリンピックを契機にして、スポーツをする人たちが増えたことも関係しているのではないかと思います。健康長寿のためには、やはりスポーツは非常に大きな役割を果たします。身体的な健康はもちろん、気持ち的にも明るくなりますからね。
―― オリンピックに向けて、東京の街並みの変化はどんなものだったのでしょうか?
オリンピックを成功させるためには、街づくりの面で整備をしなければなりませんでしたから、非常に大掛かりなものでした。特に、羽田空港から選手村、あるいは選手村と競技会場との選手団の送迎については大きな問題となっていました。そこでまず、羽田空港から競技場や選手村へと通じる道路の開通が計画されました。当時の東京は、環状道路についてはほとんど整備されていませんでしたので、特に重点を置いたのは、環状七号線と青山通りの国道246号線でした。いずれにしても道路の拡張には、そこに住んでいる人たちに立ち退きをしてもらわなければいけませんでした。そのために東京都の建設局は土地の買収において大変な苦労をして住民たちを説得しなければなりませんでした。「アジア初のオリンピック開催」という国民、都民にとって誇るべき大きな目標のためでしたので、たいていの住民たちは理解を示してくれたみたいですね。また、高速道路も開通しました。
東京オリンピックに向けて整備された首都高速道路
―― 野村さんが入都された時には、都庁は現在の新宿ではなく、有楽町にあったそうですね。
はい、そうです。今の国際フォーラムがあった場所にありまして、今の都庁に比べれば小さかったですけれども、丹下健三さんが設計した立派な庁舎でした。
―― 東京オリンピック開催が決定した時の都庁内の盛り上がりというのは、どんなものだったのでしょうか?
非常に盛り上がっていましたね。1959年、IOC(国際オリンピック委員会)委員でもあった東龍太郎さんが知事になった年に開催が決定しまして、庁内全体で万歳をして喜びあいました。
何度も言いますが、1940年に開催されるはずの東京オリンピックが戦争で中止となり、さらに東京は焼け野原になった。そうした経緯のもとで、ようやく東京でオリンピックが開催されることになり、それはもう感慨深いものがあったと思います。
丸の内にあった旧都庁舎の壁面に飾られたオリンピックエンブレムと万国旗
―― 当時、野村さんは財務局に配属されていました。そんな中、出向というかたちで、1963年に東京オリンピック組織委員会人事課長となりました。
はい。あくまでも出向でしたから、東京オリンピックが終われば、また都庁に戻るということになっていました。ただ、都庁の職員のままでは組織委員会に入ることはできなかったので、形式的ではありましたが、一旦都庁を退職して組織委員会に入り、終わったら都庁に復職するというかたちでした。
上野公園のオリンピックモニュメント
―― 組織委員会への出向の辞令が出た時は、どんなお気持ちでしたか?
私は自分からは一切「オリンピックに関わりたい」ということは申し上げていませんでしたので、本当に突然、「組織委員会に出向しなさい」と言われて、正直驚きました。人事課長を拝命したものの、組織委員会の中で、自分がどのような任務をするのか想像することができませんでした。ただひとつわかっていたのは、1年半後の1964年10月10日に間違いなくオリンピックが開幕するということで、どんな仕事にしろ、それまでに間に合わせなければいけないということだけでした。
―― 組織委員会はどのくらいの規模だったのでしょうか?
組織委員会の事務局は赤坂の迎賓館にありまして、あの大きな建物のほとんどを使って活動していました。組織委員会には、総務部、経理部、競技部、渉外部、警備交通部、輸送通信部、選手村本部、会場部、報道部、施設部と10ほどの部署がありまして、最終的には500人ほどになったと思います。
―― 野村さんが配属された「人事課」の任務とはどういうものだったのでしょうか?
組織委員会の人員は、東京都から約120人、各省庁から約30人、各自治体から約50人、民間企業からも約100人、計約300人に出向してもらい、加えて発足当初に採用した約200人の固有職員の方々で構成されていました。その優秀な人材を適材適所、どの部署に配属させるかということを決めたりするのも人事課の仕事でした。
赤坂離宮(現迎賓館)に置かれた東京大会組織委員会の入り口
―― そうすると、組織委員会というのは、さまざまなところからかき集められた混成チームということですね。ひとつの方向にとりまとめるのは、大変だったのではないでしょうか?
確かにそれぞれの職場の文化がまったく違いますから、苦労もたくさんあったと思います。それでもみんな「東京オリンピックの成功のために」という明確な大目標がありましたから、そういう点では一致していましたので、協力的だったと思いますよ。
それこそ、異なる風習を持つ者同士、お互いにいろいろな得意な面もあったりして、楽しんでいた部分もあったと思います。組織委員会で一緒に仕事をしたことがいいきっかけとなって、オリンピック後も、皆さんいろいろとつながっていたみたいですね。
―― 人事課の仕事で、一番苦労されたのは、どんなことでしたか?
先にも延べましたが、組織委員会発足当初に採用した固有職員が約200人ほどいたんです。組織委員会というのは、時限的組織でして、オリンピックが終われば解散しなければいけません。ですから、固有職員は全員オリンピック後に失業してしまうわけです。そのため、その人たちのオリンピック後の就職先を探すのに、とても苦労しました。オリンピック開幕の半年ほど前から「就職委員会」を設置しまして、固有職員の就職先を探しました。
レスリング競技ご観戦の皇太子ご夫妻(当時)とご説明役の八田一朗氏
―― オリンピック開幕後は、どのような仕事をされたのでしょうか?
大会期間中は、人事課の仕事はあまりありませんでしたから、事務局に留守番の担当を置いておく以外は、全員、それぞれ担当の競技場で仕事をしていました。私は、サッカーやバレーボール、レスリング、ホッケーなどが行われた駒沢オリンピック公園の副所長を務めました。天皇皇后両陛下や皇太子ご夫妻などが来られた際には、ご案内申し上げたんです。それこそ「東洋の魔女」と呼ばれた全日本女子バレーボールが金メダルをかけて戦った「日ソ戦」には当時の皇太子妃美智子様がいらっしゃっていましたので、お席にご案内するとともに、ボールが飛んできたらお守りするガードマンの役割もありました。
それにしても、あの試合は本当に素晴らしかったですね。また、レスリングでも吉田義勝、上武洋次郎、渡辺長武、花原勉、市口政光と5人の金メダリストが誕生するなど、非常に嬉しい場面に多く恵まれましたね。
レスリング競技では5つの金メダルを獲得(左から花原、市口、渡辺、吉田、上武各選手)
―― オリンピック閉幕後は、どうされたのでしょうか?
先ほどお話しました固有職員の職探しの本番は、オリンピックが終わった後だったんです。開幕前にお願いにはあがったものの、ほとんどが確定していませんでしたから、固有職員の職探しに再び奔走しました。
特にオリンピック後は、不景気になりましたから、就職先を探すのも苦労しました。それでも経済界にかけあったり、さまざまな伝手を使うなどしてかけずりまわり、なんとか再就職を希望していた固有職員約200人の就職先を見つけることができました。最後の1人の就職先が決まった時には、オリンピック大会が無事閉会式を迎えた時以上に達成感があり、ほっとしました。
―― 野村さんはいつまで組織委員会の仕事をされていたんでしょうか?
私は翌1965年6月まで組織委員会に残って、清算処理の業務をいたしました。清算処理の業務は、例えば記録映画の製作や、日本語と英語の報告書作成、決算報告などでした。
上野公園のオリンピックモニュメントの前での記念撮影
―― その清算処理も終わり、組織委員会としての最後の日は、どんなお気持ちになりましたか?
組織委員会は、1965年3月には解散というかたちになりまして、あとは清算法人として残ったのはごくわずかな人数でした。おそらく20人もいなかったと思います。ですから、最後の日は本当にささやかなお別れの会をしたくらいでした。
とにかく無事にオリンピックが大成功で終わったという安堵の気持ちが一番強かったですね。
―― 組織委員会の一員として過ごした2年間を振り返ってみて、いかがですか?
東京オリンピックを成功させるという一つの目標に向かって、たくさんの人たちと協力しあいながら、なんとか目標を達成させることができたという満足感、と同時にいろいろな人と出会うことができた楽しみもありました。毎日忙しくて、とても苦労も多い仕事ではありましたが、私の人生においてとても素晴らしい2年間だったなと思っています。
赤坂離宮(現迎賓館)に置かれた東京大会組織委員会の会議風景
―― 2020年東京オリンピックの組織委員会は、8,000人にもなるそうですが、1964年の時の組織委員会を経験している野村さんから見て、どのような違いを感じますか?
8000人ですか。それはすごい。1964年とは比較にならないほどの規模ですね。オリンピックとパラリンピックが一つの組織になったという点もあるかと思いますが、オリンピックの大会規模があまりにも巨大化し過ぎてしまっているという点もあるのかなと思いますね。参加国や競技種目が増えていますので、当然、経費も膨大になっています。そういう点では、組織委員会の責任も1964年東京オリンピック以上に大きいでしょうね。ただ、これだけ巨大化してしまいますと、今後、果たして立候補する都市があるのかと心配になってきますね。また、警備の問題においても、1964年の時代とは全く違いますよね。世界各地でテロが発生している時代において、2020年にはセキュリティも大きな課題となってくることでしょう。運営は、1964年の比にならないほど大変だと思います。
―― オリンピックとパラリンピックが一つの組織に一体化した点は、どのように感じられていますか?
私は、非常に良かったと思います。パラリンピックというのは、障がい者スポーツの発展のためにとても意義ある大会です。そういう素晴らしい大会に対して、日本国民が理解を示し、オリンピックと同じような価値観を持つことはとても良いことですよね。
リオデジャネイロオリンピック閉会式でオリンピック旗の引継ぎを受ける小池東京都知事
―― 2020年東京オリンピックに向けては、国、都、組織委員会が複雑に絡み合っていて、結局どこがリーダー役を果たすべきなのかが未だにはっきりとしていません。野村さんはどのようにお考えでしょうか?
私の経験上、オリンピックの成功には、都、国、組織委員会のチームワークが不可欠です。ですから、それぞれの立場から意見や主張はあるとは思いますが、いずれにしても「オリンピックを成功させたい」という気持ちは同じでしょうから、その目標に向かって協力しあっていってほしいなと思います。
その中で最もリーダーシップをとらなければならないのは、やはり小池百合子都知事だと思いますよ。あくまでも「東京オリンピック」なわけですからね。国と組織委員会ともうまくやっていけるようなリーダーシップをとっていってほしいなと思います。もちろん小池さんもそのおつもりだと思いますので、これからに期待しています。
リオデジャネイロパラリンピック閉会式での2020東京大会に向けたメッセージ
―― 2020年は、どんなオリンピックを期待されていますか?
すべての競技が順調に、安全に行われて、選手が力を発揮し、観客が楽しめる大会になることが一番だと思います。
―― 2020年まであと2年となりましたが、1964年の時と比べて、盛り上がりという点ではどのように感じられていますか?
正直に言えば、日本全体がオリンピックに向かって熱気に包まれていた1964年の頃と比べて、今度の2020年はどうかなという感じはしています。時代が違うこともあると思いますが、あれほどの盛り上がりとはいかないのかもしれませんね。ただ、いつの時代においても、スポーツというのは人々の人生において大事な役割を果たしていると思っているんです。ですから、オリンピックを通じて、よりスポーツに親しんで、明るいムードになってもらいたいなと願っています。
―― 野村さんご自身は、何かスポーツをされていますか?
私は高校時代に硬式テニスをしていまして、旧制一高だったのですが、京都の三高※との対校戦にも出場したことがあります。20年ほど前まではテニスをやっていたのですが、ちょっと膝を悪くしてしまいましてね。でも、やっぱり体を動かしたくなるんですよね。ですから、今はウオーキングやストレッチ体操を楽しんでいます。
野村氏(インタビュー風景)
―― 東京オリンピックが開催されることによって、若い人たちに期待することはありますか?
東京オリンピックをきっかけに、若い人たちにももっとスポーツに親しんでほしいなと思います。それから、オリンピックというのは国際的イベントですから、若い人たちにとっては海外の人と交流できるいいチャンスにもなるはずです。
これから世界はますますグローバル社会となり、日本も海外とのつながりが深まっていくと思いますので、ぜひこの貴重なチャンスを生かしてほしいなと思います。そうした国際交流が活発に行われることによって、世界の平和も築かれていくのではないでしょうか。ですから、例えばボランティアに応募してみたりして、自分から積極的に参加してほしいなと思います。
―― 2020年東京オリンピックは、日本社会にどのような影響をもたらすと思いますか?
1964年の時と比べると、21世紀という新しい時代に入り、国際情勢も非常に変化しています。ただ、オリンピックが平和の祭典であることは今も昔も変わらないと思うんですね。世界の緊張関係はより厳しくなってきている中、世界平和に貢献するようなオリンピックであったらいいなと思います。
注記)一高(第一高等学校/東京)、三高(第三高等学校/京都)は旧制高校(現在と異なり、5年制の中学卒業後3年間修業)
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
---|---|
1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
|
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止 |
1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
|
1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
|
1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
|
1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1959 昭和34 | 1964年東京オリンピック開催決定 |
1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催 (のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる)
|
1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
|
1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任
|
1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
|
1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
|
1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
|
1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
|
1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季)
|
1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季) |
1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
|
1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
|
1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
|
2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
|
2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
|
2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定 |
2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季) |
2018 平成30 | 平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |