東京大会男子4×100mR決勝で撃った薬莢
―― 裏ではそういったご尽力があったというわけですね。
実はもうひとつ、不正スタート対策として、佐々木先生が行なったことがありました。それは、「位置について」から「用意」、「用意」から号砲まで、ピストルを撃つまでのタイミングです。佐々木先生の指示で、私は4人のスターターがそれぞれどのくらいかかっているかをストップウオッチで測りまして、どの位のタイミングだと不正スタートが起こりやすくて、どの位のタイミングだときれいにスタートすることができるのか、というデータを1年前から取りました。東京オリンピックのスターターは4人いたのですが、その平均値は2秒でしたので、1.8~2.0秒が一番スタートを切りやすいという結果を佐々木先生に伝えました。それと、言い方も非常に重要で、例えば「用意!」と大きな声で言ってしまうと、その声に反応してパッと出てしまう傾向があるんです。逆にちょっと声を低くして優しく「用意」と言うと、腰を上げ静止することができるんですね。そうすると、選手は落ち着いて腰を上げて待っていられるので、全員が静止したのを確認してからピストルを撃つというふうにしていました。
―― 佐々木さんのスタートにかける強い思いが伝わってきますね。
はい。しかも佐々木先生は、スターターに何かあった場合に即座に対応できるようにと、もうひとり予備のスターターを配置するという体制をとりました。実は、この予備スターターをつけたことに着目したIAAFのITO(国際テクニカルオフィシャル)がいまして、「これはいい制度だ」ということで、東京オリンピックの2年後に正式に国際ルールとして導入されたんです。つまり、今でいう「リコーラー」が導入されたきっかけをつくったのは、東京オリンピックだったんですね。
―― ちなみに本番で使用されたピストルは、本物だったのでしょうか?
東京大会男子100m決勝、右端がボブ・ヘイズ
警視庁から38口径ニューナンブのピストルを4丁借りてきまして、実砲で撃ちました。もちろん実弾ではなく、火薬を詰めて空砲で撃っていたわけですが、難しかったのは火薬の量で音量が異なることでした。そこで、どれくらいの火薬の量を詰めた時が最も適した音の大きさなのかということで、ずいぶんと実験しましたよ。それで、「この量」というのが決まって、本番に臨んだわけです。そして、私の仕事は毎日競技が終わった後に4丁のピストルを磨くことでした。もう、毎日ピカピカに磨き上げましたよ。
2020年大会が「Sports for All」のきっかけに
―― そうしたスターターの並々ならぬ努力もあって生まれたのが、男子100mでヘイズが出した「10.0秒」という世界新記録でした。
あの時のことは、よく覚えています。私自身は、スタートラインの後方約20mのスタンド下の場所でスタートタイミングの計時をしていましたので。ファイナリスト8人は、一次予選、二次予選、準決勝ときて、決勝で4度目のレースでしたから、スターターの佐々木先生の撃ち方というのはもうわかっていたと思います。ですから、佐々木先生が「位置について~用意」と言った時、準決勝までバラバラだった腰の上がるタイミングが、決勝では8人全員がパッときれいに上がって静止したんです。そこからは、動きませんでした。
それで、佐々木先生も「これ以上待ったら動いて不正スタートになる」というギリギリのところで撃ったと思うのです。そのタイミングは「用意~号砲」まで1.6秒でした。いつもよりは少し早かったのですが、きれいに一発で8人が出ました。私は後ろから見ていて、「よし、一発で出た!」とほっとしていました。そしたら佐々木先生がスタート台から下りてきて、「もう俺の役目は終わった」とおっしゃったんです。実際は、陸上競技の2日目でしたから、まだまだレースはありました。ただ、一番の花形競技である男子100mを一発でスタートさせたことに、安堵の気持ちがあったのだろうと思います。
大会前に開催されたスターター講習会。右から4人目がメルボルン大会でスターターを務めたパッチング氏。右端が野崎氏。(国立競技場)
―― もう、あとは誰が勝ってもいいというくらいのお気持ちだったんでしょうね。
本当にその通りだったと思いますよ。それで、気付いたらヘイズが優勝していたという感じでした。しかも、10秒0という世界新記録を出しましたから、競技場は大興奮でした。
―― 不思議だったのが、通常は準決勝のタイム順で決勝のレーンが決まりますから、ヘイズは真ん中のレーンになっていたはずですが、あの時は1レーンでした。何か理由があったのでしょうか?
現在は、準決勝の上位4人が抽選で3~6レーンの真ん中を走り、下位の4人が1,2と7、8の端のレーンを走ることになっているのですが、当時は8人全員で抽選をするというルールだったんです。それで、ヘイズは1レーンを引いたんです。
―― 東京オリンピックではアクシデントというようなものはあったのでしょうか?
いえ、アクシデントと呼べるものは記憶にないですね。というのも、織田さんをはじめ、1936年ベルリンオリンピックで棒高跳び銀メダリストの西田修平さんなど、陸上競技関係者には錚々たるメンバーがいらっしゃる中で、「失敗はひとつも許されない。完璧にやらなければ成功にならないんだ」と言われていました。審判員は全員、そのことを肝に銘じていたと思います。ですからミスというものは皆無で、完璧にやり遂げたと思いますよ。おかげでIAAFの方からは「東京大会は、これまでのオリンピックの中で最高の大会だった。今大会の審判団は素晴らしい」と、お褒めの言葉を頂戴しました。
オリンピックに続いて行われたパラリンピックのポスター
―― 東京オリンピックの1カ月後には東京パラリンピックが開催されましたが、こちらはいかがでしたでしょうか?
おそらく1964年の東京パラリンピックの記憶がある人は、ほとんどいないと思いますね。陸上競技は国立競技場ではなく、織田フィールドで行なわれました。競技プログラムも事前に用意されていなくて、当日受付で手書きの進行表や日程表、出場者リスト(ガリ版刷りや青焼き)をもらった記憶があります。種目数も今のように多くはなく、とても少なかったですね。競技場にいたのは、ほとんど関係者で、観客といっても選手の身内ばかりでした。報道もほとんどされていなかったと思いますので、開催されていること自体を知っている人たちが少なかったと思います。
―― 野﨑さんご自身は、どのような立場で関わられたのでしょうか?
パラリンピックの審判団は、オリンピックの審判団の中で、比較的若い人たち、それも東京陸協の人たちで編成されていました。ですから、27歳だった私もパラリンピックではスターターを務めました。
野﨑忠信氏インタビュー風景
―― 1964年の東京オリンピックとパラリンピックを経験した野﨑さんからすると、2020年はどんな大会になってほしいと思われますか?
正直に言えば、2011年に起こった東日本大震災の被災地、特に未だに原発問題が解決されていない福島県のことを考えると、2020年に東京オリンピック・パラリンピックを開催することよりも復興を優先すべきではないかという気持ちもあるんです。ですから、2020年については手放しで喜ぶことは未だにできないところがあります。
ただ、もう開催することは決定したわけですから、やるのであれば、やはり将来につながる大会になってほしいなと思います。そのためには選手強化も大事ですが、「いつでも、どこでも、誰でも、安心して」スポーツができる環境が必要だと考えています。例えばドイツやイギリスをはじめヨーロッパではそういった施設が整備された環境の中で、スポーツが行われています。日本の場合はまだそのような環境に至っていません。現在有望な選手に対しては、資金を投入して重点的に育成をしていますが、それが底辺拡大にまで大きな役割を果たすようになってほしいと思います。よく「Sports for All」という言葉を耳にしますが、早くこの言葉が実現できるようになって欲しいと願っています。東京オリンピック・パラリンピックの開催が、その大きなきっかけになることを期待したいですね。