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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

次世代の架け橋となる人びと
第56回
変わらない「アスリートファースト」の精神

渡辺 守成

2人の教師に潜在能力を見出され、体操界の道を歩み始めた渡辺守成さん。
大学時代にはブルガリアへの留学を経験し、そこで出合った新体操に魅了されました。

帰国後は、新体操の普及に取り組み、その成果が評価され、日本体操協会の役員に。
そして今年1月1日に国際体操連盟(FIG)の会長に就任されました。

日本人が国際競技連盟(IF)のトップに立つのは、実に22年ぶり。
国内外から大きな期待を寄せられている渡辺さんに、今後の体操界、そして日本のスポーツ界についてうかがいました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

IF会長としての発言に含まれた日本への期待

IOCのトマス・バッハ会長(右)と  堅い握手を交わす(2016年)

IOCのトマス・バッハ会長(右)と堅い握手を交わす(2016年)

―― 今年1月1日に国際体操連盟(FIG)会長に就任されました。

会長就任が決まってからはずっと引き継ぎ業務をやっておりまして、すぐに国際オリンピック委員会(IOC)のあるローザンヌに行ったりもしていますので、1月1日からというよりは、昨年10月の選挙が終わった直後から、会長になったつもりでやっています。これまでも4年間、FIGの筆頭理事をやっていましたので、みんな既に仲間です。ただ、責任は重くなったなと。今まではすべて会長に振っていましたけど、これからは他に振るところがなくなってしまいましたからね(笑)。

―― 会長に就任後、何か景色が変わったりしましたか?

自分自身は特に変わったつもりはなかったのですが、例えばスポーツ庁や国内のスポーツ関係者と話をする時に、「世界から見た時に日本はこうあるべきじゃないですか」という発言に、気がつくと変わってきたなと。「日本はこれでいいんでしょうか?」という見方になってきているなと思いますね。

―― これまで紋所に日の丸をつけていた立場から、今ではFIGのエンブレムをつけた立場として日本を見るようになったということでしょうか?

そうかもしれないですね。もともと愛国心が強い人間だからこそ、「このままではダメなのでは?」というふうに思うようになりました。「日本がもっと世界のスポーツ界でリーダーシップをとってほしい」という思いから、そういう発言になっているというところはあります。

担任のひと言で開花された運動神経

FIG会長就任記者会見で、  前任のグランディ会長(中央)、  鈴木大地スポーツ庁長官(左)と(2016年)

FIG会長就任記者会見で、 前任のグランディ会長(中央)、
鈴木大地スポーツ庁長官(左)と(2016年)

―― 北九州のご出身ということですが、どんな子どもだったんですか?

地元では普通よりも、ちょっと悪いかなぁくらいでしたけど、おそらく東京の人から見れば、「暴れん坊」だったんでしょうね(笑)。

―― 子どもの頃から運動神経抜群だったのでは?

それが、意外に思われるかもしれませんが、幼少時代は本当に運動音痴だったんです。祖母からは「どうせ、ビリなのはわかっているから、守成の運動会には行きたくない」と言われていたくらい(笑)。僕自身も、運動はできないと思っていました。
ところが小学5年生の時に、ポートボールのクラスマッチの代表を選んでいる際、担任の先生が「なんで守成を選ばないんだ?」と、僕を推薦したんです。みんなビックリしていましたし、僕自身も「えっ!?」って感じでした(笑)。よくいたずらはしていましたから、そういう意味では3本指に入ると思っていましたけど、運動神経は良くないと思っていましたからね。
結局、その先生のひと言がきっかけで代表に選ばれたのですが、意外にも大活躍したんですよ。それ以降は、運動会で走っても一番でしたね。高校時代も必ずリレーのアンカーに選ばれましたし、大学時代には100mで10秒6を記録して、陸上部からリレーのメンバーの依頼が来るほどでした。
ですから、子どものポテンシャルというのは、指導者のひと言でいくらでもかわるんですよね。僕もあの時、先生のひと言がなければ、ずっと運動音痴のままでしたでしょうね。僕は小学生の時から医者になろうと思っていましたので、運動系の道に進むつもりは全然なかったんです。人生って本当にわからないものですね。

―― 先生に言われるまでは、単にやる気がなかっただけだったということでしょうか?

どうなんでしょうね。両親も僕を運動音痴だと思っていましたし、自分自身もできないものだと思い込んでいました。ところが、チャンスを与えられたことで、やってみたらできたと。ですから、それを見抜いた先生がすごいですよね。

―― 他に、体育では跳び箱などはどうだったんでしょうか?

跳び箱やマット運動はできましたけど、ただ鉄棒は最初はダメでしたね。まぁ、できるまでやらされましたから、最後はできるようになりましたが、決して得意ではなかったですね。あとは、とにかく走るのが遅かったんです。ですから、どちらかというと、勉強の方が好きな子どもでしたね。

ひょんなことから始まった体操人生

インタビュー風景)

インタビュー風景

―― 器械体操の道に進んだきっかけは何だったのでしょうか?

僕が体操をやり始めたのは、高校2年なんです。1年の時は何もやっていませんでした。僕が入った戸畑高校の体操部は歴史があって、体操専門の体育館があるくらいでした。一時期は全国のトップクラスだったのですが、僕が入学した時には体操部には部員がいなかったんです。
そんな時に、僕ら悪い仲間5人がブラブラしていたら、体操部の顧問が来て、「お前ら集まって何を悪いことやっているんだ?」と言うわけです。それで咄嗟に「僕ら、体操をやろうと思っているんです」と言ってしまったんですね。なんだかそう言わないといけない雰囲気があったんです。そしたら「そうか。じゃあ、今週末に大会があるから、お前ら出ろ」と。驚きましたけど、そう言われたらやるしかなかったですから、知らない先輩のウエアを借りて、大会に出ました。体育でやった、蹴上がりくらいしかできなくて、倒立もできませんでした(笑)。
ただ、それから1年間、みんなで頑張って練習して、3年の時にはインターハイの予選を通過したんです。でも、進学校でしたからインターハイには出ずに、体操部を引退したんですけどね。
今考えると、その顧問の先生もよく声をかけてきたなと。僕に体操をやるきっかけを与えてくれたその先生は、戦争で中止となった1940年の東京オリンピック日本代表の中村輝美さんだったんです。先生が出場が叶わなかった「東京オリンピック」に、今度は僕がFIGの会長として2020年に携わるというのも、何かの縁なのかなぁと思ったりしますね。

―― 高校卒業後は、東海大学の体操部に入りました。体操を続けようと思った理由は何だったのでしょうか?

戸畑高校時代、体操部の仲間と  (右から二人目)

戸畑高校時代、体操部の仲間と (右から二人目)

僕は小学生の時から医者になろうと思っていましたから、当然、高校も理系コースで、大学は医学部を受験するつもりでいました。
ところが、先生に「東海大学の推薦があるから受けろ」と言われたんです。当時は東京にマクドナルドができたばかりで、「まぁ、マクドナルドにも行けるし、受けるだけならいいか」と軽い気持ちで行ったんですけど、試験から帰ってきたら、もう合格通知が届いていたんです。
そしたら先生が「合格したんだから、行ってもらわないと、後輩が困る」と言うわけです。「そんな話聞いてませんよ」と言ったんですけど、「まぁ、いいじゃないか。奨学金ももらえるわけだし」と。それでも僕は行くつもりはなかったんです。日体大出身の若い先生にも「オマエみたいな悪いやつが先生になって、悪ガキの気持ちをわかってやらなきゃ」なんて言われたりしたんですけど、「いや、でも僕はずっと医者になりたいと思ってきたんです」と抵抗していたんですね。
ところが、偶然テレビで見た青春ドラマを見ていて、「まぁ、学校の先生でもいいか」という気持ちが湧いてきたんです(笑)。

―― 東海大学での競技生活はいかがでしたか?

それが、体操部には入ったんですけど、1年の時に母親が癌になってしまったんです。長男でしたし、もう大学を辞めて、実家に帰ろうと思って、公衆電話で母親にもそのことを告げました。そしたら、母親が「そんなことは許さん。自分で決めたことなんだから、最後までやりなさい」と言って、ガチャンと切られたんです。その時は、さすがに涙が出ましたね。
結局、帰るわけにはいかなくなったんですけど、ただ父親からは母親の治療代がかかるから送金はできない、と言われました。ですから、学費を稼がなければいけなくなって、体操は諦めて、アルバイトをし始めました。

日本とは異なった合理的な指導方法

インタビュー風景

インタビュー風景

―― ブルガリアへの交換留学は、どんなきっかけだったんですか?

大学3年の時に、体操部の顧問で元金メダリストの三栗崇教授が交換留学制度があることを教えてくれたんです。留学先はロシアやデンマークなど、いくつかあったと思うのですが、1980年当時はスポーツの強豪国と言えば共産圏で、その強さの理由を学びたいと思ったので、迷わずブルガリアに決めました。

―― 渡航費用は支給されたんですか?

いえいえ、自分でアルバイトをして貯めましたよ。ただ、学費も支払わなければいけなかったので、結局片道分しか貯まらなかったんです。現地に行けば奨学金がもらえたので、それを貯めて帰ればいいなと思っていました。行きは飛行機には手が出せなくて、船で横浜からロシアのハバロフスクまで行って、そこから1週間かけて列車でモスクワまで行きました。さらに1週間かけてヨーロッパ鉄道でブルガリアのソフィアへ。ほとんど言葉は話せませんでしたから、約2週間、飲まず食わずで列車に揺られていましたね。そんなんだから、おそらく頭が朦朧としていたのだと思います。ソフィアに着いたまでは覚えているのですが、言葉も話せないのに、どうやってそこから大学に行ったのか記憶にないんです。

リオデジャネイロオリンピック新体操団体で  銅メダルを獲得したブルガリアチームの  リボンの演技(2016年)

リオデジャネイロオリンピック新体操団体で 銅メダルを獲得したブルガリアチームの リボンの演技(2016年)

―― 当時の将来設計はどんなふうに考えていたんですか?

体育の先生になろうと思っていて、どういう指導をしたら強い体操部をつくれるか、ということを学ぶためにブルガリアに行こうと。

―― 実際に行ってみて、いかがでしたか?

あっちでは大学の寮で生活をしていたのですが、2人1部屋で、パレスチナ人の留学生と同部屋だったんです。彼や他の日本人に色々と助けてもらって、なんとか生きながらえたという感じでしたね。

―― 大学の授業は、講義と実技があったんですか?

当時は、最初の半年間は語学学校に行かなければいけなかったんです。でも、ブルガリア人の先生がずっとブルガリア語で話をするだけで、こっちは一つもわからないわけです。それで「こんなことしてても時間の無駄だ」と思って、勝手に体操の練習場に行って怒られたりしましたね(笑)。でも、そんなんで1年後にはブルガリア語を話せるようになっていましたからね。それで、ブルガリアのナショナルチームで指導をしたり、逆に自分が教えてもらったりしていました。当時のブルガリア体操界では、男子よりも女子の方が強くて、私はその女子の方にずっと携わっていました。

―― ナショナルチームで、渡辺さんはどんな指導をされていたんですか?

最初はアシスタントコーチのような感じで、コーチの見様見真似でやっていたんですけど、一人、ジュニアのそこまでエリートでない選手がいたんですね。それで「彼女を教えてみるか?」と言われて、指導するようになったのですが、僕が帰国した後の1988年ソウルオリンピックでは床で銅メダルを取りました。

JOC主催の「ジャーナリストセミナー」  での講演風景(2017年)

JOC主催の「ジャーナリストセミナー」 での講演風景(2017年)

―― 当時のブルガリアの指導というのはどういうものだったのでしょうか?

とにかく日本とは違っていたことは確かです。日本は良くも悪くも教科書通りの指導ですよね。1をやったら2、その次は3というふうに順序良く進んでいくのが日本のやり方。ところが、これは欧米全体がそうだったと思いますけど、「1~5は要らないんじゃない?」という考えが普通だったんです。
例えば、鉄棒で言えば、日本では前回り、後回り、蹴上がり、大振りをマスターした後に、車輪に行くんですね。ところが、ブルガリアでは最初から鉄棒に手を握らせて、飛ばないように固定をした状態でグルグル回すんです。「それはまずいんじゃないの?」と言うと、「蹴上がりと車輪、どちらの方がマスターするのに時間がかかるかと言えば車輪。だったら、先に車輪からスタートすべき」というわけです。とても合理的ですよね。
ただ、それが良いか悪いかは一概には言えないと思うんです。今の体操では、美しさを重んじられるので、基礎の部分を飛ばしたことによる弊害というのは出てきますよね。でも、時代によって求められるものが違っていて、欧米ではそういう4年後、8年後という先を見据えた指導をしている感じがしますね。

―― 最後は、新体操を指導されていますよね。

帰国する間際に、「一度見てみたら」と言われて、新体操の練習を見に行ったんです。そしたら、すごく面白くて、ひきこまれました。新体操というのは、まずは音楽から入るんですね。その音楽で何を表現したいのかが問われる。ですから、歴史や作曲家の人生を勉強するわけです。「これはすごい世界だな」と思いましたね。当時のブルガリアは、経済的には貧しいけれど、人の心は豊かでした。日本もいつかは精神文化になっていくだろうと。その時に必要なのが、音楽や芸術を理解することだろうと。そういう面からも、新体操というスポーツはいいなと思って、日本でも普及させたいと思いました。

ジャスコにあった継続的なスポーツ事業への理解

ロサンゼルスオリンピック新体操で8位入賞した山﨑浩子。日本における新体操ブームのきっかけを作った。(1984年)

ロサンゼルスオリンピック新体操で8位入賞した山﨑浩子。日本における新体操ブームのきっかけを作った。(1984年)

―― 帰国後は、やはり学校の先生になろうと思っていたんですか?

そうですね。それで、母校の戸畑高校に教育実習に行ったんですけど、そこで「あぁ、これはオレのやる仕事じゃないな」と思ってやめました。もちろん、生徒たちはかわいかったですよ。ただ、世界を見てきてしまったものですから、自分自身が学校という枠におさまれなかったんです。「もっと世界に羽ばたく子どもたちを育てたいな」と。

―― それでジャスコ(現イオン)に就職したのは、どういう経緯だったのでしょうか?

留学時代、僕が指導しているのを取材してくれていた新聞社の記者がいて、その人に「僕はこれから新体操というスポーツを広めていきたいので、小売り企業に提案してみようと思っているんです」と言ったら、「だったら、ジャスコという企業に話をしてみようか」と言ってくれたんです。
他にもいくつかの企業に話をしてくれたのですが、ジャスコにはこう言われました。「渡辺くん、ぜひうちでやってみたらいいじゃないか。ただし、お金は出さないよ」と。どういうことだろう、と思っていたら、「企業の経営状態が悪くなれば、まず切られるのはスポーツ部門。でも、君が提案した企画書のように、スクール事業で自ら稼いで利益を出して、その利益で企業スポーツを運営するのであれば、切られる心配はない。だからジャスコの名前は貸すから、それをバックにして、あとは自分の力で好きなようにやってみなさい」と言われたんです。
他の企業からは「専門の体育館をつくろう」と、億単位の出資の話がありました。そんな中、「なんてジャスコはケチなんだろうな」と思いましたよ(笑)。ただ、逆に言えば「あぁ、この会社ほど、本気で僕のことを考えてくれている所はいないのかもしれないな」とも思ったんですね。それで決めたんですけど、最初はテニスコートを間借りして、新体操教室を開いたんです。ところが、会員は3人くらいしか集まらなくて、よく事業部長から怒られました(笑)。

選手の支えとなるべき連盟の存在

アテネオリンピック体操男子種目別平行棒で  銀メダルを獲得した冨田洋之(2004年)

アテネオリンピック体操男子種目別平行棒で銀メダルを獲得した冨田洋之(2004年)

―― 日本体操協会との関わりは、どういうところからだったのでしょうか?

ジャスコでは新体操は事業として成長を遂げましたが、1社だけが一生懸命になっても新体操は発展しないと思うようになっていました。それで、もっと民間の体操クラブをたくさん作らなければ、ということで、現在の「日本新体操連盟」の前身である「全日本新体操クラブ連盟」を設立しました。民間クラブの育成と、指導者の育成に注力し、普及のために「経営セミナー」や「分家制度」を啓蒙しました。
現役を引退した選手はクラブで指導経験を積んだら暖簾分けしてもらい、自由に独立して構わないと。連盟設立当時は、全国に12、13クラブしかなかったのが、現在では800ほどにまで増えました。

そんなふうにして、新体操は順調に広がりを見せていたので、それなりの評価を受けて、1998年に日本体操協会の理事に入ったんです。
そんな中、体操は1996年アトランタ、2000年シドニーとオリンピックでは2大会連続でメダルなしに終わったわけです。そしたら当時会長の徳田虎雄さんが理事会で「全員、辞表を出せ」と言われ、みんな辞任をしました。それで、その日の夜に徳田さんに呼び出されまして、「何か怒られるのかな」と思っていたら「あとはオマエに任せる」と言うわけです。
「いやいや、ちょっと待ってください。僕は理事をやめられてほっとしているくらいなのに、なんで僕がやらなくちゃいけないんですか?」と言ったら、「理事の中で一番若いからだ。君の好きな人を呼んで会長にしたらいいんだよ。とにかく4年後にはメダルが取れるようにしてくれ」と。もちろん全力でお断りしましたよ。
「待ってください。他にメダリストがたくさんいる中で、僕なんかが無理です」と言ったんですけどね。最終的に説得されまして、イオンの会長を務められた二木英徳さんに会長になっていただいて、2004年のアテネでは金メダルが取れましたから、良かったですけどね。いずれにしても、日本体操復活の一番の功労者は徳田さんだと思います。

アテネオリンピック体操男子団体で28年ぶりに金メダルを獲得した日本チーム(2004年)

アテネオリンピック体操男子団体で28年ぶりに金メダルを獲得した日本チーム(2004年)

―― 新体制になって、何が一番変わりましたか?

とにかく、「選手が一番」ということですね。例えば、2003年の世界選手権からは、選手はビジネスクラス、役員はエコノミーとしました。まぁ、猛反発をくらいましたけどね(笑)。
でも、その結果がその世界選手権でも、翌年のアテネオリンピックでも出たわけですからね。やはり、どれだけ選手のことを大事にしてあげられるかということが、協会が示すべき姿勢だと思うんです。何ために協会があるかといえば、選手を支えるためですからね。メダルが取れなかったアトランタ、シドニーの時も、決して選手が弱かったわけではなかったと思うんです。メダルを取れる力は十分にあったはずです。
ただ、メダルを取るには、やっぱり選手とそれを支える協会との両輪がガッチリとかみ合っていなけれいけないんだと思います。そういう考え方は、FIGの会長になった今でも全く変わっていません。

―― 日本体操協会の専務理事時代に注力してきたこととは何だったのでしょうか?

僕は、スポーツの発展のサイクルという持論があります。まずは、協会がハイクオリティな大会を開催すること。そうすると、選手のモチベーションが上がり、見ている人も楽しいと思える。つまり、選手がハイパフォーマンスを見せれば、ファンが増えるわけです。そしたら利益が生まれて、その利益をまたクオリティの高い大会に投資していく。このサイクルを、徐々に大きくしていくことでスポーツは発展していくと思うんです。

リオデジャネイロオリンピック体操男子  個人総合で2連覇を果たした内村航平(2016年)

リオデジャネイロオリンピック体操男子 個人総合で2連覇を果たした内村航平(2016年)

僕が協会の役員になった当初、事業担当の常務理事をやっていたんですけど、全日本選手権とNHK杯の2つの大会しかなくて、そのうちの全日本は各地域で持ち回りで行なわれていて、国民体育大会の予選となっていたんです。これではダメだと思い、もっとブランド化しないといけないということで、毎年代々木体育館で行うことにしたんです。そのうちに全日本も人気が出てきたので、「個人総合」「個人種目別」「団体」という3つに分けて、それぞれ違う民放のテレビ局で放映するようにしました。

さらに世界選手権は、それまでNHKだったのを、大会前からの露出度を考えて民放に代えました。こういうふうに、大会をハイクオリティにすることで底辺が広がっていくと。そうすると、受け皿が必要になってくるわけですが、それはもう学校では賄いきれませんから、この1、2年で民間クラブを増やしていって、いざ2020年の時に選手に憧れて「体操をやりたい」という子どもたちが出てきた時に、すぐに受け入れられるような体制にしておきたいと思っています。その道半ばで私はFIGの会長に就任してしまいましたので、あとは後任がやってくれると期待しています。

-

―― 渡辺さんの中では、最終的なビジョンというのはどこに置かれているのでしょうか?

僕自身は、体操をサッカー並みにしたいと思っています。ですから、底辺の数だけはサッカーより増やそうということで、新しくチアリーディングやパルクールを「体操ファミリー」として仲間に迎え入れたりしています。

選挙戦の勝因は「日本人の勤勉さ」

北京オリンピックのメインスタジアムの前で、  元FIG副会長滝沢康二氏(右)と(2008年)

北京オリンピックのメインスタジアムの前で、
元FIG副会長滝沢康二氏(右)と(2008年)

―― FIGの会長選挙に出馬されることになったのは、どんな経緯からだったのでしょうか?

実は、2006年のアジア体操連盟(AGU)の会長選挙で二木さんが立候補したのですが、わずか2票差でカタールに負けたんです。当時、カタールには体操の選手も指導者も審判も、ほとんどいなかったんです。にもかかわらず、負けたのは、加盟国への体操発展への経済的支援の差でした。
それでも、次こそはという話もあったのですが、僕は「もう、アジアはやめましょう。いくら戦っても勝ち目はないですよ」と言ったんです。「次は、世界を狙いましょう」と提案しました。それで2012年の会長選で、当時FIGの副会長だった滝沢康二さんが立候補する予定でした。ところが、直前になって滝沢さんが出馬を取りやめたんです。それで「若い渡辺くんが出馬するべきだ」という話になって、「いやいや、僕は参謀役であって、そんな上に立つタイプではありません」と言って断ったんです。
そしたら「じゃあ、とりあえず理事ではどうだ?」と言うので、「それならば」と引き受けたのですが、そしたら理事の中でトップ当選したんですね。そうしたところ、当時FIGのブルーノ・グランディ会長やAGUの会長をはじめ、いろいろな人が「次はワタナベだ」と言うようになったんです。
それでもはじめは断っていたんですけど、ある時、AGUの会長とミラノの街を歩いている時に、サッカー選手がサイン攻めにあっているところに遭遇したんです。そしたら、AGUの会長が「ほら、見てみろ。サッカー選手はみんなあんなふうにサインを求められるけど、体操選手はどうだ?日本の内村航平だって、街中にいてもサインなんか求められないぞ」と言うわけです。「このやろう」と思う半面、「そうかもしれないな」と。「だったら、体操をメジャーにするためにやるしかないかな」と思いました。今振り返ると、AGUの会長にはめられたのかもしれませんけどね(笑)。

FIG会長選挙当選後の記者会見。  右は前任のグランディ会長。(2016年)

FIG会長選挙当選後の記者会見。 右は前任のグランディ会長。(2016年)

―― 選挙戦の勝因はどこにあったと思いますか?

一番は、僕が日本人だったからということがあったと思います。やっぱり、海外の人にしてみたら、日本人というのは「勤勉で謙虚で誠実」というイメージが強いんです。僕自身は本当は違いますけどね(笑)。
それから、やっぱり賢さというのもあると思います。古い話になりますが、第二次世界大戦の後、あの焼野原から、経済大国へと発展させた能力を持つ日本人に任せれば、今の体操界をいい方向にかえてくれるんじゃないかと。そういう日本人に対する信頼度の高さが一番の要因になったんだと思います。

―― 将来的には、どのように体操界を発展させていきたいと思っていますか?

僕自身の任期は8年だと考えています。その中で、体操をさらにグローバルな競技にしていきたいと考えています。現在、オリンピック競技の中では陸上、水泳と並んで体操は「御三家」に入っているんです。
ところが、グローバルスポーツランキングでは24位なんです。ちなみにトップ3はサッカー、テニス、バスケットボール。10位にはアイスホッケーが入っています。
僕が会長を務める8年の間に、このグローバルランキングをアイスホッケーに並ぶ10位までには引き上げるつもりです。
ただし、体操界の最終目標としてはサッカーの上を目指していきます。ただ、今それを言うと、例えばイタリアの会長は「素晴らしい、なんて野心的な考えなんだ」とほめておきながら「ただ、イタリアでは永遠にその時代は来ないよ」と鼻で笑われました。もちろん、僕も言い返しました。「ちょっと待ってくれ。FIGは1881年に設立されていて、すべてのスポーツ団体の中で一番歴史がある。国際サッカー連盟(FIFA)が設立されたのは1904年。当時、FIGに比べたら、FIFAは相手にならないくらい小さかった。しかし、FIFAは途中で組織改革をして、W杯のブランド化に成功し、今、トップに君臨している。それがサッカーにできて、オレたち体操にできないことはないだろう?」と。
それでも「いやぁ、でもなぁ」と言うから、「体操は老若男女を取り込むことができるわけだから、サッカー以上にボトムを厚くすることはできる。あとはトップのショーケースの部分については、やり方次第だ」と説明したんですけどね。

未だに見えない日本スポーツの在り方

FIG会長選挙のために各国の体操協会を歴訪。  スウェーデン協会のメンバーと。  (左から二人目)(2016年)

FIG会長選挙のために各国の体操協会を歴訪。
スウェーデン協会のメンバーと。(左から二人目)(2016年)

―― 日本人としてはIFの会長は22年ぶりということで、渡辺さんには日本のスポーツ界からも期待の声が大きいと思いますが、その辺はどう感じていますか?

よくそう言われるのですが、もちろん僕としては体操界の発展のために一生懸命やりますが、それが日本のスポーツ界にどう貢献できるのかが、まったくわからない。
というのも、日本がスポーツをどうしたいというのかが見えてこないんです。まずは、そのフレームを作ってもらわなければ、こちらとしても動きようがないわけです。一方、海外には各国にきちんとしたスポーツ施策があって、「IFにはこうしてもらいたい」というのがはっきりしているんです。

インタビュー風景

インタビュー風景

―― 現在の日本のスポーツ界には、何が必要でしょうか?

まずは、スポーツの位置づけですよね。例えば、アメリカは「エンターテインメント」、ヨーロッパは「文化」なんです。じゃあ、日本はというと、未だにはっきりしていない。本来なら、スポーツ庁が発足された時に、そこを明確にしなければいけなかったと思うんです。

―― 渡辺さんご自身は、日本はスポーツをどう位置づけるべきだとお考えでしょうか?

僕は日本の一番の強みにこそ、位置づけるべきだと思っていて、それは「ビジネス」だと。
これからは日本の経済の中心は「スポーツ」と「ヘルスケア」になると思っているんです。なぜなら、ゆくゆくは人口の50%以上が70歳以上になる時代が来るわけで、その時に最新の車や家電よりも、欲しいのは健康です。そう考えれば、やはり経済は「スポーツ」と「ヘルスケア」が中心になるだろうと。
そういう時代を迎えるにあたって、じゃあ今、国としてどういうスポーツ施策が必要なのか、ということを考えていかなければいけないと思います。その施策があって、初めて「IFの会長に何を期待するのか」ということが見えてくるのではないでしょうか。

FIG会長選挙時に関係者に配布した  マニュフェストには内村航平選手も登場  (2016年)

FIG会長選挙時に関係者に配布した マニュフェストには内村航平選手も登場 (2016年)

―― 昨年12月に、内村選手が日本の体操界では初めてプロ宣言を行いました。

僕がFIGの会長に就任して、「体操をメジャー化します」と言うのと、彼がプロ宣言したのが同じタイミングで、ちょっと驚きましたね(笑)。プロであるということは賞金とスポンサーで生活していくということでしょうから、そういう部分では僕が協力できることはしたいなと思っています。

FIG会長選挙時に関係者に配布した  マニュフェストの一部(2016年)

FIG会長選挙時に関係者に配布した マニュフェストの一部(2016年)

―― 内村選手も渡辺さんと同じように「もっと体操をメジャーにしたい」と語っています。

そうなんですよね(笑)。FIGの2017年のスローガンが「チャレンジ」なんですけど、彼がプロとしてアシックスとの契約会見で目標として書いていたのも「挑戦」だったんです。
偶然の重なりですが、これも何かの縁なのかなと思っています。いずれにしても、選手たちをを支える立場であることはには変わりません。FIGの会長として、やるべきことをやっていこうと思っています。

  • 渡辺守成氏 略歴
  • 世相
1930
昭和5
全日本体操連盟創立
 第1回全日本器械体操選手権大会を開催
1931
昭和6

全日本体操連盟、FIG国際体操連盟に加盟

1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催
日本はオリンピック初参加となる
体操男子団体5位入賞
    
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催
体操男子団体9位となる
1939
昭和14
日本体操競技連盟設立
1942
昭和17
全日本体操連盟と日本体操競技連盟を統合し、(財)大日本体育会体操部設立

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第1回近畿国体 兼 第1回全日本個人選手権大会開催  

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
FIG29回総会(バーゼル)で日本体操協会仮加盟が承認される 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催
上迫忠夫(うえさこただお)氏が銅メダル2個、竹本正男氏が銀メダル1個、小野喬(おのたかし)氏が銅メダル1個を獲得
これが初めてのオリンピックメダルとなる
1954
昭和29
第13回世界体操競技選手権ローマ大会開催 
竹本正男氏が徒手、田中敬子氏が平均台で金メダル獲得
                            
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催
小野喬氏、初めてのオリンピック金メダルを鉄棒で獲得

  • 1959渡辺守成氏、福岡県に生まれる
1960
昭和35
ローマオリンピックで体操男子団体悲願の初優勝

1962
昭和37
第15回世界体操競技選手権大会(プラハ)で体操男子団体初優勝
体操女子団体、銅メダル獲得
1964
昭和39
東京オリンピックで体操男子団体連覇達成
遠藤幸雄(えんどうゆきお)氏、体操男子個人で日本人として初優勝
体操女子団体、銅メダル獲得

  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピックで体操男子団体優勝
加藤澤男(かとうさわお)氏、体操男子個人優勝
1969
昭和44
第1回NHK杯を開催
第4回世界新体操競技選手権大会(バルナ)に日本初参加

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
日本体操協会、財団法人に認可される
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピックで、日本がメダルを量産
加藤澤男氏、個人総合連覇
塚原光男氏、月面宙返りを発表

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピックにて体操男子、オリンピック5連勝達成

  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
第19回世界体操競技選手権大会(ストラスブール)で男子団体が優勝し、世界選手権5連勝達成

  • 1978日中平和友好条約を調印
1982
昭和57
近藤天(こんどうたかし)氏、アジア体操連盟(AGF)の会長に就任

    1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催
具志堅幸司(ぐしけんこうじ)氏、体操男子個人で金メダル獲得
森末慎二氏、鉄棒で金メダル獲得

  • 1984渡辺守成氏、ジャスコ(現・イオン)入社
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催
体操男子団体、銅メダル獲得
池谷幸雄氏、西川大輔氏、高校生として初めて体操男子日本代表に選ばれる
           
1990
平成2
日本体操協会創立60周年 世界スポーツアクロ体操選手権大会(アウグスブルグ)に参加
1992
平成4
バルセロナオリンピック開催
体操男子団体、銅メダル獲得           
1993
平成5
全日本新体操クラブ連盟設立           
1995
平成7
世界体操競技選手権大会、アジアで初めて福井県鯖江(さばえ)市で開催
体操男子団体、銀メダル獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997渡辺守成氏、日本体操協会理事に就任/span>
  • 1997香港が中国に返還される
1999
平成11
世界新体操競技選手権大会、日本(大阪)にて初開催
2001
平成15
  • 2001渡辺守成氏、日本体操協会常務理事に就任
2003
平成15
社団法人日本新体操連盟設立
鹿島丈博(かしまたけひろ)氏、第37回世界体操競技選手権大会(アナハイム)にて日本人として初めてあん馬で優勝
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催
体操男子団体、28年ぶりに金メダル獲得
2005
平成17
冨田洋之氏、第38回世界体操競技選手権大会(メルボルン)にて体操男子個人総合にて優勝
2007
平成19
上山容弘氏・外村哲也氏ペア、第25回世界トランポリン選手権大会(ケベック)の男子シンクロにて金メダル獲得
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催
内村航平氏、体操男子個人総合で銀メダル獲得
体操男子団体、銀メダル獲得
体操女子団体、5位入賞


  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
  • 2009渡辺守成氏、日本体操協会の専務理事に就任
2010
平成22
内村航平氏、日本史上初めて世界体操競技選手権大会個人総合連覇を達成
田中理恵氏、女子として初めてロンジンエレガンス賞を受賞
2011
平成23
日本国内では2度目となる世界体操競技選手権大会(東京体育館)を開催
内村航平氏、史上初の世界体操競技選手権個人総合3連覇を達成

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
内村航平氏、体操男子個人総合にて金メダル、団体の男子種目別床で銀メダルを獲得
2013
平成25
公益社団法人日本新体操連盟設立
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
体操男子団体、金メダル獲得
内村航平氏、体操男子個人総合にて金メダル獲得
白井健三氏、体操男子種目別跳馬で銅メダル獲得
2017
平成29
  • 2017渡辺守成氏、国際体操連盟会長に就任