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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

障害者スポーツと歩む人びと
第49回
共生社会実現へ、心をひとつに

山脇 康

「スポーツ歴史の検証」第4シリーズ、締めのゲストには、国際パラリンピック委員会理事、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長、日本パラリンピック委員会委員長、日本財団パラリンピックサポートセンター会長などの要職を務める山脇康さんをお迎えした。

山脇さんは、40年以上にわたって大手海運会社で辣腕らつわんをふるい、ひょんなことから障がい者スポーツの世界へ足を踏み入れたという異色の経歴をもつ。世界の荒波のなかで身につけた広い見識と問題解決能力は、日本の障がい者スポーツ界にとって必要な要素だった。

活動を始めてすぐに、役職員の協力を得て、日本障がい者スポーツ界の「ビジョン」の具体化に取り組む。“アスリート中心の障がい者スポーツ”を通じてインクルーシブ(共生)な社会をつくるという目標設定を掲げ、実行に移していった手腕は高く評価されている。

そして、立ちはだかる難問を一つひとつクリアしていく推進力を支えるのは、障がい者スポーツを文化として末永く日本に根付かせることへの熱意だ。
日本の障がい者スポーツ界が2020年とその先に向けてどのように舵を切っていくのかを山脇さんの言葉から想像し、その道のりを我々も共にしたい。

聞き手/山本浩 文/髙橋玲美 構成・写真/フォート・キシモト

身も心もパラリンピックに捧げる日々

2015年 リオパラリンピック テストイベント・トライアスロン

2015年 リオパラリンピック
テストイベント・トライアスロン

―― 年が明けてますますお忙しいのではないですか?

忙しさは刻々と増し、2020年まで息つく暇はないと覚悟しております。

―― 少し前まで、2020年東京大会については盛んに言われていたものの、直近のリオデジャネイロ大会のことは忘れられがちでした。それが2016年に入って突如、「リオでのメダル目標獲得数は何個!」などとやかましくなってきましたね。

大会に向け、前々から盛り上げたいというのは我々の願いの常なんですが、パラリンピックは開催年にならないとなかなか盛り上がらないものです。メダルの数とか、選手の活躍予測がなされるのもやっぱり当然のことで、我々のほうでも目標を立て、そこに近づけるよう選手、競技団体、関係者一同でがんばっていきたいと思います。

―― 障がい者スポーツの世界に足を踏み入れられたきっかけはどんなものでしたか?

ちょっとお恥ずかしい話ですけど、自発的に始めたのではないのです。2011年の暮れに、日本障がい者スポーツ協会と日本パラリンピック委員会(JPC)の会長に就任した鳥原光憲さんに「ちょっと手伝ってくれ」と言われて。鳥原会長とは仕事でもプライベートでも非常に親しい間柄でした。それで「ちょっとの手伝い」のつもりで始めたら、実際はとんでもない……(笑)  1970年から勤め上げた日本郵船の現役を4年前に退いてからは、こちらに身も心も捧げているという感じで、楽しくやっています。

海運業から突如、障がい者スポーツの世界へ

―― 愛知県半田市のお生まれで、名古屋大学ご出身。子ども時代からのご自身のスポーツ歴は?

高校までスポーツとは縁遠かったのですが、足が速かったこともあり、大学からはスポーツをやってみようとスキー部に入りました。学校に行くよりスポーツをしていた時間のほうが長かったです。

―― 日本郵船に入ったのはどのような動機からですか?

当時は青田買いの走りで就職活動期間がかなり早まっていて、大学3年生の終わりに真っ黒けな顔でスキーの合宿から帰ってきたら、周りの同級生はほとんど就職活動が終わっていたという状況でした。そこにタイミングよく出会ったのが日本郵船だったんです。日本郵船では社員のスポーツ参加をとても奨励していて、ボートやラグビーやテニスに親しみました。会社に仕事をしに行ってるのか、遊びに行ってるのかわからないくらいでした(笑)

2012年 ロンドンパラリンピック 田口亜希

2012年 ロンドンパラリンピック 田口亜希

―― お仕事の内容は?

入社3年目でアメリカ勤務になり、その後4年間をアメリカの地方の町やニューヨークで過ごしました。当時はちょうどコンテナ船が始まったころで、港から陸上にコンテナが輸送されるようになり、アメリカの鉄道について調べる任務が与えられて船よりも鉄道について詳しくなりましたね。また突然アメリカのとある町に放り出されて、外国人ばかりの所で年月を過ごしたという経験は後で大きな糧になりました。

―― 当時の障がい者スポーツというのは記憶にありますか?

実際に自分が競技を観たのは、2012年のジャパンパラ競技大会が初めてでした。そして2012年のロンドンパラリンピックではJPCの役員として全期間競技をつぶさに観て、大変な衝撃を受け、もっと早く出会っていたら自分の人生は変わっていたかもしれないと思いました。日本郵船時代にも、社員に射撃のパラリンピアンの田口亜希さんがいらして会社でもサポートをしていたということがあったのですが、近年障がい者スポーツに触れるようになって、改めて彼女のすばらしさを認識しました。

障がい者スポーツには健常者の意識を変える力がある

グットマン博士

グットマン博士

―― 障がい者スポーツの魅力をどこに感じているのですか?

もともとパラリンピックは、20世紀中ごろに、その後“パラリンピックの父”と呼ばれるイギリスのグットマン博士が、手術ではどうにもならない傷病兵の脊髄損傷者のリハビリや社会復帰にスポーツが効果的であることを発見して始めたものです。障がい者のためという意味合いが主だったわけですが、我々が今期待しているのは、障がいのある人がスポーツをすることによって、我々健常者の意識を変えてくれること。
「障がい」というのは、障がいのある人の側ではなく、社会の環境とか、障がいのある人を見る人々の目や心にあると思うんです。そもそもパーフェクトな健常者などいませんね。
視覚障がいのあるパラリンピアンの河合純一さんは、「目が見えないのは不便だけど不幸ではありません」とおっしゃいました。「私は目が見えないだけで至って健康です。精神も健全です」と。確かにそうですよね。
「あなたのほうこそお酒の飲み過ぎや糖尿病は大丈夫ですか、物忘れはしませんか、精神は病んでいませんか……」と、きっとそういうことなんです。おそらくアスリートの人たちは、自分を障がい者だとは思っていない。ほかの機能でカバーできるし、人生を生きるうえでは別にどうってことありませんってことなんですよね。ビジネスでいろんな修羅場を乗り越えてきたつもりでしたが、私の修羅場なんてアスリートに比べればたいした修羅場じゃないなと思ったものです。

―― 障がい者スポーツは、健常者のスポーツよりも見る人に与えるエネルギーがずっと大きい気がしますね。

人間の潜在能力はすごいなってことですね。たまに現れる天才は別として、我々は一般的に平均30%くらいの機能しか発揮していない感じがします。どこかひとつの機能が失われることによってほかの機能の潜在能力が覚醒するんですね。

日本の障がい者スポーツの「ビジョン」を具体化

2008年 北京パラリンピック 河合純一

2008年 北京パラリンピック 河合純一

―― 日本障がい者スポーツ協会での活動については、当初どんなイメージを持っていましたか?

最初は年に5、6回開催される理事会に出ていればいいのかなと思っていたのですが、いざ始めてみたら、さにあらず。まず、職員とともに「活力のある共生社会」という日本障がい者スポーツ協会のビジョンの具体化に取り組みました。その過程で、やらなきゃいかんことはたくさんあるなと感じました。

―― 想像していた状況と違いましたか? どんなところが足りないと?

まずビジョンをつくるという意識が欠けていた。国からの予算の分配のあり方を、具体的な形でみんなで共有できていなかった。そこで、鳥原さんのリーダーシップのもとでビジョンづくりを始めましたが、最初は、ビジョンの必要性を感じる人は少数でした。
みなさん非常に情熱をもってアスリートのサポートなどをやっていたのですが、先を見据えて新しいことにチャレンジする姿勢が不足していた。サポートを次にどう進めるか、外へどう発信するか、国とどう関わり、周りにどう応援してもらうかといったノウハウがなかった。個々の人たちのすばらしい熱意を、統一されたビジョンのもとで組織として形にしていくことが必要だったんですね。
最初に夢があり、ビジョンが生まれ、アクションプランがつくられ、PDCA(計画・実行・評価・改善)サイクルで回す。この、企業に必要なプロセスをみんなで実行していくには、意識改革がまず必要でした。

―― どのようにして意識改革を?

それはもう、実際に障害を取り除きながらやって見せるしかないですね。「人がいない」なら人を引っ張ってくる、「お金がない」なら「お金ならなんとかする」といったように。幸い2020年に向けていろんなことへの賛同者が増えてきているので、どんどん進めていきたいと思っています。

1964年 東京パラリンピック開会式

1964年 東京パラリンピック開会式

―― 障がい者スポーツに関わる法体制なども整備されてきました。

スポーツ基本法にスポーツはすべての人々の権利であることが明記されたように、流れはできつつありました。ただ実際には管轄が厚生労働省であったので、「障がい者のための福祉」という考えが優先されたのではないでしょうか。ビジョン作成過程でスポーツ政策の一元化が強く打ち出されたのでそれは非常によかったなと思いますが、障がいのリハビリからスポーツへという流れはシームレス(切れ目がない)に繋がっていなければならないので、政策の一元化によってその部分が切れないよう、地方との連携もうまくやりたいなと思っています。もともと中央と地方には連携不足の問題がありますので、注意をはらってやっていかないといけません。

インクルーシブな
社会実現のための社会運動

―― ビジョンをつくるうえで大切にしたことは?

何か大きなことをしようというときには、さまざまな人がさまざまな目的を持って集まってきます。そのときに、ベクトルを同じにするための拠り所がビジョンや目標なんですね。
そこでまず、「アスリートを中心においた障がい者スポーツ」を人々に理解してもらって、それによって「人々の意識を変え、活力ある共生社会をつくっていく」。そのために私たちはやってるんですよということをはっきりさせました。
組織の維持やお金も必要ですが、究極の目的はこういうことなんですよと。オリンピックには「より平和な世界を」という目標がありますが、いつしか商業主義に傾き、勝つためには手段を選ばずみたいな流れもできてしまっている。

2012年ロンドンパラリンピック佐藤真海

2012年 ロンドンパラリンピック佐藤真海

パラリンピックはもっと社会に近いところの活動というか、いわばスポーツという切り口で社会を変革していくという壮大な社会実験をしているようなものです。
障がい者スポーツというのは、思想や宗教を超えて意識改革ができる、明るく楽しく人々を巻き込みながら行える社会運動なんですね。
その原点にはアスリートのパフォーマンスがあります。それを見るだけで、人々の意識が簡単に変わるんですね。私がそうだったように。

―― 山脇さんは2013年に、日本人として史上2人目となる国際パラリンピック委員会(IPC)理事に就任されています。世界でもこのような見方は共通ですか?

IPCでは、「アスリートに最高の環境を与えて最高の力を発揮させ、人々の意識を変えてインクルーシブな共生社会をつくろう」ということが日本よりもはっきり打ち出されています。

2012年ロンドンパラリンピックゴールボール

2012年ロンドンパラリンピックゴールボール

世界でパラリンピックの
バリューを高めるために

―― IPCが当面乗り越えるべき問題は何でしょうか?

まだまだ認知度が低いことから、人材、組織運営に苦労している。一部の国々では恵まれてきていますが、なかなか世界では普及が進まない。国によってスポーツのバリュー(価値)が違います。また、オリンピックとパラリンピックを比べるとやはり明らかにパラリンピックのバリューは低く見られている。

―― IPC加盟国は現在178。夏の競技数は22、冬は最大で8。オリンピックではこれ以上競技を増やすまいという流れがある一方で、パラリンピックはもっと競技数を増やしてもよいのでは?

北京ではもともと23競技まで枠があったのですが、そこをあえて22にしたのには理由があります。世界的に普及しているか、組織がきちんとしているか、そしてビジョンがどうかという条件に合った競技のみが選ばれたのです。
各国際競技団体(IF)に組織運営をきちっとして欲しいというメッセージを込めているんですね。観る人にパラリンピックのバリューをどう伝えるかにおいてこれは大切です。

―― 地域的な普及の偏りは?

発展途上国ではなかなか障がい者スポーツに手が回らないのが現状です。特にアフリカでは、生活のための車いすも調達できていない状態です。まずはスポーツをする機会を与えて、組織をつくることから始めなければならない。ここは時間もお金もかかるところです。

2012年 ロンドンパラリンピック 開会式IPC旗

2012年 ロンドンパラリンピック 開会式IPC旗

―― そのお金を捻出するための方策などはありますか?

今、同一都市同一大会で開催していますが、基本的な財政面は国際オリンピック委員会のトップスポンサーシップ、開催地のローカルスポンサーシップ、放映権等の範囲で成り立っていて、パラリンピックにはあまりお金が回ってこないという現状ですね。

ただロンドン大会以降の傾向として、パラリンピックのバリューが相当上がってきたのではないかと。ロンドンではパラリンピックだけを応援したいというスポンサーも現れましたし、東京大会では、すべてのスポンサーがオリンピック・パラリンピックの両方に協賛するいうことが実現できた。

ただ、オリンピックとパラリンピックの配分比率は圧倒的にオリンピックが高いんですね。まあ、大会設備や運営費用はオリンピックの方がほとんど負担しますのでやむを得ない面もありますが、それぞれの価値の比率としては、少なくともオリンピック「8」対パラリンピック「2」、将来的には7対3くらいにはなって欲しいですね。

2012年ロンドンパラリンピック・日本選手団入場

2012年ロンドンパラリンピック・日本選手団入場

―― IPC理事の立場だと各IFの情報も入ってくると思いますが、そこでの日本人の活躍は?

各IFにテクニカルディレクターといった立場の日本人はいますが、決定権や発言権のあるポストには残念ながら日本人は見当たらない。またパラリンピックの特徴として、IPCの傘下にIPCの名前を直接冠したIFが10団体(陸上、水泳、パワーリフティング等)あり、その運営に深く関わっています。あとは競技別ではなく障がい別のくくりでの連盟があったり、またトライアスロンなどの新しい競技は健常者の団体のなかに入っていたりと、各競技団体でその性質が4種類くらいに分類される。
障がい者スポーツだけの競技団体はまだまだ基盤が脆弱というか、発展途上ですね。

―― 一方でアジアにはフェスピック(極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会)から発展したアジアパラ競技大会がありますね。アジアでの日本の立ち位置はどんなものでしょうか?

1964年東京大会をきっかけに日本身体障害者スポーツ協会が設立され、その後フェスピックが誕生して、日本が長くイニシアチブをとってきていたのですが、マレーシアに本部を置くアジアパラリンピック委員会ができてからは、日本の存在感が非常に薄くなりました。

2012年 ロンドンパラリンピック  国枝慎吾

2012年 ロンドンパラリンピック国枝慎吾

もちろん昨年の選挙で日本も副会長は出しているし、実務的には医学、スポーツ面等で日本がサポートしてはいますが、中東の国から会長が出て主導権を握り、アジア・オリンピック評議会やアジアサッカー連盟と同様の日本にとってはちょっと残念な流れになっていますね。

国内体制の向上のなか、
課題は「人材」

―― 話を国内に戻しますが、日本の強化体制にはどういった変化が?

さまざまな所でオリンピックとパラリンピックが一元化されたのが大きいですね。これまでナショナルトレーニングセンターにしてもマルチサポートにしても、オリンピックでできていたことがパラリンピックではできていない、といったことが多かった。一元化方針のもとで比較すると、その違いが如実に見えるわけです。我々がそこで「オリンピックと同じ機会をください」と言い、解決に向かえる段になったことは大きな進歩です。第2トレセンは最初から共用でという計画になっていますし。強化の額も年々増えています。

―― オリンピックではナショナルコーチにそれなりの手当が出ますね。また健常者にはスポーツ指導者制度、障がい者には障がい者スポーツ指導者制度がありますが、障がい者スポーツの指導者の環境についてはどうお考えですか?

障がい者スポーツでも、国の助成金から手当が払われて専任コーチが生まれるまでになりました。次の段階でナショナルコーチが誕生するでしょう。

2014年 ソチパラリンピック IPC会長(前列)等と ( 後列右端)

2014年 ソチパラリンピック IPC会長(前列)等と(後列右端)

ただ、一方で人材がなかなかいないという問題があります。ビジョンをつくったときに、障がい者スポーツ指導者の数を2、3倍にするというプランを立てましたが、そう簡単にはいかない。またそれ以前に、各地域で障がいのある人が、気軽にスポーツのできる環境がまだ整っていない。パラリンピックレベルの強化体制は見えてきましたが、草の根レベルではまだまだこれから努力が必要です。

―― 鈴木大地スポーツ庁長官の要請を受けて、スポーツ庁の新しい組織、スポーツ審議会の会長になられましたね。

今後、2017年度に予定されているスポーツ基本計画の見直しの準備を進めることになりますが、現状では一元化後の障がい者スポーツについてやや書き込みが足りないのではと感じています。また、2020年に向けて劇的に変わってきている環境に対応する基本計画にすることも必要です。

―― 基盤整備の一方で、大会の競技における種目のカテゴリーが収束し、金メダルの数が減っている。こういうことにも対応していかなければならないのでは?

2012年 ロンドンパラリンピック ゴールボールチームと(右端)

2012年 ロンドンパラリンピック ゴールボールチームと(右端)

アテネでは日本選手が大活躍して、メダル数も多かった。ただカテゴリーの変化ももちろんありますが、ロンドンで競技スポーツとしての全体のレベルがジャンプアップしたんですね。リオ、東京へ向けてさらに上がっていくでしょう。そんななか、ロンドンでは日本選手の平均年齢がほかに比べて5歳くらい高かったですし、最近もベテランががんばっているなという印象があります。若手の育成をどうするか……カテゴリー以前の問題という気がしています。

―― もともと障がい者スポーツは選手のキャリアが長い傾向にありますが、これは裏を返すとライバルが少なかったと言うこともできます。

人口の減少に伴って、先天的に障がいのある、または何らかの事故や病気で障がいをもった人の数が少なくなっています。世の中にとってはとても良いことなんですが、その状況でアスリートを育てるというのは非常に大変な仕事です。時々、障がいがありながら健常者のカテゴリーで活躍しているすごい選手が見つかるんですね。本人はパラリンピックなんてことは全然意識していなくて。そういう人達を見つけて、パラリンピックへの道に引き入れていくことですね。それまでは各競技団体の熱心なコーチなどの個人的な努力によっていたのですが、組織としてのスカウティング事業がやっと始まったところです。

―― 障がい者スポーツドクターや障がい者スポーツトレーナーなどに関する制度も充実してきています。資格制度取得の体制づくりだけでなく、得た資格によって生計を立てられるような制度も大切ですね。障がい者アスリートの数が少なければなかなかそれだけで生計をというのは難しいと思いますが、どうすればよいでしょうか?

まずは国のほか、民間企業にも協力をお願いすることですね。そして、スポンサーシップや寄付といった資金調達のやり方。パラリンピックについては、幅広い社会運動をめざすという性格上、今のオリンピックモデルをそのまま当てはめることはないと思うんです。「スポンサーを厳選して高く売りつける」ではなく、もっと皆さんに広く応援していただいて、運動の資金源を幅広いものにするといったことをやったほうがいいのかなと。

山脇康氏 インタビュー風景

インタビュー風景

パラリンピックを通じて
積極的に社会貢献を

―― 企業のパラリンピックへの支援についてはどうお考えになりますか。アメリカなどと違って寄付の文化がまだなかなか定着していない日本では、寄付に対して躊躇ちゅうちょするところがありますね。

企業がスポーツに関わる目的はそれぞれでしょうが、オリンピックモデルでいきますと、自分のプロダクトやブランドとオリンピックを結びつけることによって製品を売るといった商業的な価値が非常に大きいです。しかしパラリンピックには別の目的があるんじゃないかと感じます。社会とのつながり、社会貢献といった要素がパラリンピックでは強く出てきます。

CSR(企業の社会貢献活動)は、企業に勤める人のモチベーション、投資家の評価という点でも重要視されていますよね。なかば義務だからという考えで仕方なくおこなっている企業もありますけどね。アメリカや欧州の企業はその点でも一歩進んでいて、「義務じゃなくてもっと積極的にやろうよ」と。

CSRではなくCSO(コーポレート・ソーシャル・オポチュニティ/企業の社会参加機会)だと言った人もいますね。「パラリンピックは社会とつながるよい機会なんだから、積極的にやったほうがイメージもよくなる」という意識です。それで、積極的にアスリートを中心にしたコマーシャルとか、トレーニング費用の援助など実際的な協力を活発にやっています。

2014年 ソチパラリンピック 鈴木猛史と

2014年 ソチパラリンピック 鈴木猛史と

―― 日本でも、協力の内容が問われてきますね。

企業の方々は、巨額なスポンサーシップでもって何をどうしたらいいかを考えておられます。もちろん、大会エンブレムを製品にくっつけて「応援してます」っていうCMを打つのもいいんだけれども、我々は活動自体に企業の社員一人ひとりを巻き込むことも大変重要であるということを理解していただくようにしています。「あんな莫大な金を使うより、俺たちの給料に回してくれよ」とならないようにしなければいけませんからね。
パラリンピックを観ることによって、感動したり、前向きな気持ちになったりと、社員によい意識が生まれます。競技を観に来てくださるだけでもボランティアであり、観ればまたみなさんにも感じることがあるでしょうと。
また、2020年東京でボランティアをやりたいなんて社員がいたら、有給休暇ではなく特別休暇で送り出してください。その人は必ずや会社にとってよいものを持って帰ります。パラリンピックにはそれだけのバリュー、魅力があるのです、と。ゆくゆくはそこから特定の競技団体のスポンサーになるといったことに発展するかもしれないですよね。

―― 障がい者スポーツでは、何かと道具が必要になってくることが多いですね。そのために必要なお金は相当な額になります。

はい、車いすなどは補助が出ることもありますが、今は競技器具関係の多くが個人負担です。その負担を、国、企業、寄付、何によって解決するのか。また器具の開発も重要です。今はいろんな企業や大学や研究機関が手を上げてくださっているので、みなさんと連携して進めていきたいと思っています。

2014年 ソチパラリンピック開会式

2014年 ソチパラリンピック開会式

―― 競技のレベルが高くなってきますと、ドーピングにも気をつけなければなりませんね。悪意なく使ってしまう選手もいるでしょうし。

これは教育をしなきゃいけない。アスリートは障がいがあるので、障がいのための薬を飲んでいる選手がいます。自分の服用する薬が禁止物質とどんな関わりがあるかをきちんと自分で把握して申請しなければいけないですし、それがだめだってことになったら薬の種類を変える必要が出てきます。

能力向上のための薬なのか、自分の状態を維持するための薬なのか、きちんと認識しなさいという教育ですね。これは本人、指導者、競技団体、パラリンピック委員会それぞれで同じようにしっかりやらなければいけない。

子どもへのパラリンピック教育が未来を変える

―― 日本のスポーツを見ていきますと、歴史的には学校体育というベースの上に成り立っており、現在に至っていると思えますが、学校体育における障がい者スポーツについては?

2014年 ソチパラリンピック解団式

2014年 ソチパラリンピック解団式

これはまだまだ足りません。2つ面がありまして、ひとつは教育という点で、学習指導要領にパラリンピックの項目がまだ入っていない。まずは学習指導要領にパラリンピックや障がい者スポーツについてきちんと書き込んでもらうことですね。
もうひとつは、実際に競技を体験したり、アスリートに会う機会を増やすこと。今は個人的に走り回って全国各地で講演しているようなパラリンピアンもいますが、それをもっと組織的に行って、小中学生が障がいとはどういうものか、どういう意味があるのかを、耳で聞き、自分で体験することによって知る機会をつくる。子どもたちが実際に自分で車いすに乗ってバスケットボールをしてみる、それによって教育の効果が倍増するようですね。現状ではそういった教育のできるパラリンピアンの人材が少ないので、養成していこうとしています。

―― 子どもの時期にそういった教育を行うことが大切ですね。

はい、なぜ子どもに教えるかというところでも2つ理由があります。ひとつは、子どもは非常に素直なので、見ただけでダイレクトに理解できるし、意識を変えることができる。大人は偏見もあり、固定観念から抜け出せない場合が多い。その点、子どもは、なぜあなたは手がないんだとか、手がなくてどうして靴ひもを結ぶんだとか、大人では躊躇ちゅうちょしてしまうようなことを平気で聞きますし、アスリートも平気でそれに応えます。

2015年 パラリンピックサポートセンターオープン(後列左端)

2015年 パラリンピックサポートセンターオープン(後列左端)

もうひとつは、「障がいがあっても前向きな生き方」というものを子どもが受けとると、家に帰ってその体験を親に話す。で、「来週試合があるから一緒に観に行こうよ」と親を連れていく。
ふつう教育は親から子どもへ行うものですが、パラリンピックについてはどうも子どもから親へ、のほうが伝わるなという実感がありまして、これを「リバースエデュケーション」と言っています。偏見にとらわれていない子どもたちが未来のインクルーシブな社会をつくっていくわけですから、ここを重視していきたいです。

―― 一方で、パラリンピックの魅力に気がついていない子どもたちもまだ多いですね。

健常者の子どもたちにももちろんですが、特別支援学校などの子どもたちにも機会を与えるという教育も重要ですね。あなたたちもほかと特に何かが違うということはなくて、スポーツで自立して社会参加ができるんだよ、という。

2015年 パラリンピックサポートセンターオープン事務室

2015年 パラリンピックサポートセンターオープン事務室

「全員が自己ベスト」精神で2020年大会を成功へ

―― 2020年に向け、改めて課題、展望をお聞かせください。

スポーツがひとつの省庁に一元化されたのはもちろん良いことで、これが今後どう機能していくかですね。2020年に向けてパラリンピックを盛り上げて、一過性ではなく障がい者スポーツを文化として定着させる。そのためには行政も民間と歩調を合わせた意識改革が必要ですね。ベクトルを一方向にして、できることをお互いに持ち寄ってみんなで一緒にやりましょうってことですね。今の時代に「5年後に確実に起こる」と言える出来事なんてほとんどありませんが、オリンピック、パラリンピックは確実にやってきます。2020年には、大会をやらなきゃいけない。どうせやるなら絶好の機会として活かし、それこそ「全員が自己ベスト」で、みんなで安全・確実かつ史上最高の大会にしたいですよね。

2014年 ソチパラリンピック 金銀メダリストと(後列左端)

2014年 ソチパラリンピック 金銀メダリストと(後列左端)

―― 絶好のチャンスですね。

前しか向いていないアスリートを見習って、未来に向かって進んでいきたいです。

―― 2020年東京大会という高い山があるおかげで、今年のパラリンピックはある種、今年だけのものではない。リオデジャネイロ大会についてはどんな目標を?

まず、2020年東京大会では金メダル獲得数ランキング7位、金メダル22個という目標を定めています。それを達成するために必要なことを考え、問題解決をしながら進もうというプロセスが大切です。勝負ですから獲れないこともあるでしょうが、そこへ至るまでのプロセスが重要なんですね。その2020年を見据えて、リオでは金メダルを10個獲ろうという目標を立てています。どんな種目でどんなアスリートが達成できるかを具体的に描いて、やっていきたいと思います。

―― 2020年の向こう側は崖になっていやしないかという心配もありますが、それについてどうお考えですか?

崖になっちゃうってことは一過性だったってことですよね。2020年において一番わかりやすい成功は、競技場がみんな満員になることでしょうね。それも、お客さんはただ観るだけじゃなく、競技のことをよく知っていて、応援している。そこで日本選手が大活躍をして……こんな状況になったら大成功だと思います。そうなれば、その後も競技場は埋まりつづけるでしょうから。

メディアにも「エブリデイ・パラスポーツ」、毎日パラリンピックについて取り上げてくださいとお願いしています。今後5年間で、パラリンピックというものを伝えていきたい。ファンが増えれば人々の意識も変わって、街で車いすの人がいたら声をかけるとか、エレベーターで車いすの人が待っていたら自分は乗らずに階段を上がるとか、そういうことが基本動作としてできるんじゃないかと思うんですよね。

―― 山脇さんが75歳くらいになって、テレビで障がい者スポーツを観ながらニコニコしているような、そんな時代がくることを楽しみにしています。ありがとうございました。

  • 山脇康氏の略歴
  • 世相
1924
大正13
国際ろう者スポーツ連盟(CISS)が設立
 第1回国際ろう者スポーツ競技大会(現、デフリンピック)がパリにて開催される。これが国際的な障がい者のスポーツ大会の始まりとなる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピックにあわせて、ストーク・マンデビル病院内で車いす患者(英国退役軍人)による アーチェリー大会を開催。これがパラリンピックの原点となる。

  • 1948山脇康氏、愛知県に生まれる
  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1964
昭和39
東京パラリンピック開催
 財団法人日本肢体不自由者リハビリテーション協会(現・公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会)設立

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
財団法人日本身体障害者スポーツ協会(現・公益財団法人日本障がい者スポーツ協会)設立
第1回全国身体障害者スポーツ大会、岐阜県にて開催される。これが全国的な競技会の始まりとなる

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
財団法人日本肢体不自由者リハビリテーション協会、財団法人日本障害者リハビリテーション協会に改称催

  • 1970山脇康氏、日本郵船株式会社入社
  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1981
昭和56
財団法人日本障害者リハビリテーション協会、障害者リハビリテーション振興基金を創設

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
財団法人日本障害者リハビリテーション協会、障害者リハビリテーション指導者養成研修を開始

1987
昭和62
財団法人日本障害者リハビリテーション協会、総合リハビリテーション研究大会を開催

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタパラリンピック開催
1998
平成10
長野パラリンピック開催

  • 1997香港が中国に返還される

1999
平成11
日本パラリンピック委員会創設。財団法人日本身体障害者スポーツ協会、財団法人日本障害者スポーツ協会に改称
2006
平成16
トリノパラリンピック開催

  • 2006山脇康氏、日本郵船株式会社、代表取締役・副社長経営委員に就任
2007
平成19
総合リハビリテーション研究大会、30周年を迎える
2008
平成20
北京パラリンピック開催

  • 2008山脇康氏、日本郵船株式会社、代表取締役副会長・副会長経営委員に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーパラリンピック開催

  • 2011山脇康氏、公益財団法人日本障害者スポーツ協会理事に着任。日本郵船株式会社、特別顧問に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンパラリンピック開催

  • 2012山脇康氏、日本パラリンピック委員会副委員長に着任
  • 2013山脇康氏、国際パラリンピック委員会理事に着任。日本郵船株式会社、顧問に就任
2014
平成24
ソチパラリンピック開催。
公益財団法人日本障害者スポーツ協会、公益財団法人日本障がい者スポーツ協会に改称。
スポーツ振興の観点から行う障害者スポーツに関する事業を厚生労働省から文部科学省に移管。

  • 2014山脇康氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会副会長に着任。
    日本パラリンピック委員会委員長に就任
2015
平成27
公益財団法人日本障がい者スポーツ協会、創立50周年記念式典を開催

  • 2015山脇康氏、日本財団パラリンピックサポートセンター会長に着任

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オリンピック・パラリンピック年表