「燃える闘魂」というキャッチフレーズは、いささかも色褪せてはいない。今でも“イノキ・ボンバイエ”のBGMが響けば、赤いマフラーを巻いてプロデューサーとしてリングに上がり、すさまじいオーラを放つ。近くて遠い国“北朝鮮”にも太いパイプを持つ行動力。
「非常識な1ミリ」を今でも追求する政治家・猪木寛至氏に、過去、現在、未来を伺った。1、2、3、ダ〜!
聞き手/山本浩文氏 白鬚隆幸構成・写真/フォート・キシモト新潮文庫「アントニオ猪木自伝」ほかより
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
「燃える闘魂」というキャッチフレーズは、いささかも色褪せてはいない。今でも“イノキ・ボンバイエ”のBGMが響けば、赤いマフラーを巻いてプロデューサーとしてリングに上がり、すさまじいオーラを放つ。近くて遠い国“北朝鮮”にも太いパイプを持つ行動力。
「非常識な1ミリ」を今でも追求する政治家・猪木寛至氏に、過去、現在、未来を伺った。1、2、3、ダ〜!
聞き手/山本浩文氏 白鬚隆幸構成・写真/フォート・キシモト新潮文庫「アントニオ猪木自伝」ほかより
左から1人おいて兄・宏育 弟・啓介、姉・久恵とその夫 アントニオ猪木、祖父、兄・寿、妹・京、兄・快守
―― 今でも身体は動かしているのですか?
もう身体はボロボロですからね。膝、肩、腰も健常者とは思えないほどです。自分の健康のためにだけストレッチとかはやっています。
―― 横浜の鶴見のご出身ですよね。大きなお屋敷に住んでいらっしゃったとか。
昔の平屋で茅葺の家でした。広さは110坪ほどもありました。庭には柿もビワもイチジクもあったし、築山などもありました。
―― ご兄弟も多かったということですね。
11人兄弟で、わたしは9番目でした。父は石炭関係の仕事をやっていたのですが忙しかったので、わたしは爺さん子でした。家に井戸が2つあって、小さいころから水をくみ、薪を割って風呂を沸かすのが、わたしの仕事でした。遊ぶといっても記憶がないですね。風呂を毎日沸かすのが遊びみたいなものでした。
アントニオ猪木氏(インタビュー風景)
―― 身体は子どものころから大きかったのですか?
いや、小学校に上がったころは真ん中くらいでしたが、3年生くらいから大きくなって卒業するころは1番大きかった。身体は大きくて力も強かったので、大相撲の親方が入門しないかと何度か家まで来たみたいでした。わたしは直接会ってはいないですけどね。足もそんなに速くなかったし、はつらつとした感じでもなく、ぼさっとした感じの少年でした。中学校に入って最初はバスケットボール部に入ったのですが、上級生からボールをぶつけられて、仕返しにぶっとばしてしまい退部させられた。そこで兄がやっていた陸上競技の砲丸を持ったら、「自分の求めていたのはこれだ」と瞬間に感じたのですよ。それで学校は好きじゃなかったけど砲丸投げをやりに学校にいっていました。
―― それは中学1年生のころですか?
そうですね。当時は横浜の鶴見からでも富士山が見えた。富士山まで砲丸を投げるぞ、とそんな気持ちで練習していた。でも近くにボトっと落ちちゃう。国体の神奈川予選に出たくらいで、たいした選手でもなかった。
ブラジルの農園でアントニオ猪木(右)と兄・快守(左)
―― そうすると、砲丸投げで記録を出すとか、大会で勝つとかいう前にブラジルへ行かれてしまったのですか?
中学2年の4月にブラジルへ渡りました。ブラジルに行ってからは砲丸投げのことは忘れていました。もう、そんな余裕はなかったです。最初はコーヒー園で、その後が綿花、そして落花生の畑で働きました。季節によっても違いますが、午前5時に起きて日が暮れるまで働きました。家に帰ってシャワーを浴び、食事を済ませてから寝るだけです。1週間のうち日曜日だけが休みですが、その日もコーヒー園の中を片道2時間ほどかけて市場まで買い出し。そんな生活でした。
―― ちょうど身体の成長期です。ブラジルではどんなものを食べていたのですか?
ご飯はいっぱい食べましたね。それこそ反抗期でお袋を困らせてやれ、ということで米櫃が空になるくらい食べました。丼飯5杯とか。それと豆ですね。フェジョアーダという豆とモツを煮込んだような料理。だからタンパク質は十分です。まわりは大きい人が多かったですが、わたしより大きい人はいませんでした。
―― まったくスポーツとは無縁ですね。
兄貴が陸上競技を続けていて、町の大会で優勝したことがありました。お土産に砲丸を買ってきてくれて、久しぶりに投げてみたら、日本で投げていた倍くらい飛んだ。肉体労働をしていたから基礎体力がついたのでしょうね。それから暇を見つけて砲丸を投げたり、ジャングルの中を駆け回ったりしました。そんなことをしていたら、大会に出てみろということになり、出たら砲丸投げで優勝してしまったのですよ。
―― それで町に出ますよね。サンパウロですか?
綿の栽培は失敗したのですが、運よく落花生が豊作でした。ほかの農園が凶作だったのに、うちだけ豊作。それで借金を全部返して、少し貯えもできたので、サンパウロに移住することになりました。17歳のときです。
―― サンパウロでは、何をされたのですか?
サンパウロは都会ですから農場で働くわけにもいかず青果市場で働きました。積荷が届いたら荷物をトラックから降ろして、売り場まで運ぶ作業ですね。後から聞いた話ですが、働き者で話題になったようです。
入門時のアントニオ猪木と力道山
―― そのころ、力道山にサンパウロで会われたわけですね。
じつは力道山は、1年ほど前ブラジルに1回来ていて、農園で働いたころ試合を見に行ったことがありました。その時は兄貴に「力道山に会わせてやる」と言われ楽しみに試合を見に行ったのに、会えませんでした。がっかりした記憶があったのです。翌年、2回目にブラジルに来たとき、青果市場長が力道山の招聘委員をしていて「力道山が有望な若手プロレスラーをブラジルで探している。誰かいないか」と言ったところ、誰かがわたしのことを推薦してくれたのですね。それで、わたしが力道山の泊っているホテルに連れて行かれたわけです。
―― その運命的な出会いで、猪木さんはどこを認められたのですか?
いや、ただ上着を脱いで背中を見せろ、といわれて背中を見せました。そうしたら、俺といっしょに日本に来い、と言われました。
―― ただ、それだけ?力道山は猪木さんの背中を触ったのですか?
触らなかった。見ただけです。力道山は1週間くらいサンパウロにいましたが、その間試合も見ました。その後、あわただしく力道山と一緒に日本に帰りました。力道山の耳には、わたしが砲丸投げで優勝したことは入っていたと思います。それと鎌を使った農作業や青果市場で荷運び作業で鍛えられた背中の筋肉をみて合格になったのでしょうね。まさか日本に、こんなに早く帰れると思っていないし、お袋は靴や洋服はどうするのって心配していましたが、わたしは裸一つで帰ればいいと思っていました。当時はサンパウロからプロペラの飛行機でブラジルを後にしましたが、もう夢のようでした。
力道山と
―― そうすると慌ただしい帰国までの1週間だったのですね。それで東京に帰ってきて生活は一変するわけですね。
羽田に着いたら何千人のファンが待っていて日の丸を振っていました。その足で力道山の大森の自宅に行って、「ここに下宿して人形町にある道場に通え」と言われました。最初の日だけ力道山と一緒に車で行ったのですが、2日目からバスで通いました。これまで自分の周りには、わたしより大きい人はいなかった。それが大きい人ばかり。マンモス鈴木とかジャイアント馬場とか。知らない人も多かったが、豊登さんだけはブラジルに行く前にテレビで見て知っていました。
―― そこでトレーニングを始めたわけですね。
ダンベルを使ったトレーニング、屈伸、腹筋、腕立て伏せ。1日500回ずつやれ、と言われたが、そんなに簡単なものではないですよ。2、3日トレーニングしたら歩けなくなりました。疲れて帰りのバスで居眠りをして乗り過ごして、お金がないから歩いて帰ったこともありました。
―― いつごろから身体作りからプロレスの練習に入ったのですか?
半年くらいあとですかね。最初は先輩から教えていただいて、2、3ヶ月したら勝てるようになりました。兄貴が空手をやっていて、教えてもらっていたことや、ブラジルで自然に身についた身体、そして天性のものがあったのでしょうね。ブリッジだけは強かったし。柔道出身の先輩が多かったのですが、ブラジルから来た経験もないやつ、ということでわたしのことを舐めていたのもあったでしょうね。ともかくスパーリングで勝てるようになったので、試合に出てみろということになったわけです。
巌流島で行われたマサ斎藤との決闘
―― それで、いよいよプロレスにデビューすることになりますが、最初の相手は誰でしたか?
大木金太郎さんです。10歳くらい上のベテランですね。試合の内容は、よく覚えていないのですが、10分くらいでしたか、あっという間に終わってしまった。大木さんは若手の中では1番強かったからフォール負けでした。同じころ馬場さんもデビュー戦を戦っていますが、相手は田中という相撲出身の人で弱い人だった。馬場さんはプロレス未経験の人が相手で、俺は大木さん。ちょっと疑問に思いました。力道山は、わたしに対しては、すべてに対して厳しかったですね。
―― そうすると、そうしたものをバネにしてトレーニングしたのですね?
一つひとつ、そうした師匠・力道山の理不尽な部分も耐えていきました。やはり戦後最高のヒーローですからね。力道山の非常識な、常識では計りしれないような部分も感じていました。ただ、力道山の家に下宿していた関係で、内弟子というか付き人みたいなところもあり、かわいがってはもらいました。巡業に行っても、ほかの若い衆は、簡素な旅館に泊まるのですが、わたしは力道山と同じその土地の最高のところに泊まるわけです。そうすると食事も、そこの最高のものが出てくる。師匠のご相伴に与る形ですね。そんな、ありがたい贅沢もさせていただきました。
IWGA決勝戦でハルク・ホーガンに失神負け
―― そうすると力道山は、猪木さんのことを、大事に思ってくれていたのですね。
そう感じたのは、力道山が亡くなる1週間前のことです。巡業から帰ってきた日のことで、他のレスラーは家に帰ってしまっており、道場にいたのは私1人でした。たまたま大相撲の前田山親方が来ていて、力道山から電話がかかってきた。「誰かいるか?ちょっと上まで上がってこい」と。押っ取り刀で駆けつけると、「駆けつけ3杯だ」とジョニ黒の入ったショットグラスを渡されて3杯飲まされました。そうすると前田山親方が「こいつはいい顔しているな」と言われて、それを聞いた力道山が「そうだろう」と言わんばかりに笑っていた。それを見たら「この人のためだったら」と思えたのですよ。そうでなかったら、俺が北朝鮮にも行っていないだろうし、師匠を恨みっぱなしで終わっただろうな、と思う。本当にありがたい。天がやってくれたな、と思いました。
ちょうど、その夜に赤坂のクラブで刺されたのですから。神の巡り会わせというか、今考えれば自然というか、不思議な話です。
―― そのほか、力道山から褒められた話とかはないのですか?
1度もないですね。ぶんなぐられてばかりでした。でも自宅に下宿させてくれて、近くに置いてくれたのは何か伝えたいことがあったのでしょうね。ただ17歳で入門して、理由もわからずぶんなぐられていましたから、包丁を持って刺そうかと思ったこともありました。実際には持たなかったですけどね。
左からアントニオ猪木、豊登道春、マサ斎藤
―― それで力道山が亡くなったあと、行動を起こされましたね。
力道山が亡くなったあと、アメリカにいきました。前々から誘われていたのですが、アメリカへいけば稼げるだろうと思って。最初は、ハワイから入って、座長格が豊登さんだったのですが、島巡りになると「猪木にまかせた」と言って行かないのですよ。それで、わたしがメインイベンターになる。ギャラも良くて1ドル308円のころ、こんなにもらってもいいのか、1年アメリカにいたら大金持ちになれると思いましたよ。でも、それはハワイだけでした。そのあと、本土に渡ると、シーズンオフということで、試合がないし、あってもギャラが安い。アメリカは広いので、州やプロモーターによって、ずいぶん条件が違っていました。
―― やはりアメリカに行けば、日本人レスラーは悪役ですか?
いや、特に悪役ということはなかったです。ただ、戦争が終わって20年たってないから、その影響はありました。地域によって異なりますが、たとえばテネシー州では、日系2世部隊がアメリカ軍を救った話が知られており、けっこう応援してくれました。テキサスとかカリフォルニアでは「パールハーバー」の影響で、完全に悪役になってしまいます。だいたいレスリングブーツを履いていたのは、わたし1人で残りの人は裸足に下駄ですよ。
―― アメリカに行かれていたのは、いつごろですか?
東京オリンピックの年ですから1964年ですね。1965年に帰ってきたから2年間です。だから、東京オリンピックのことは全然知らない。今みたいにニュースは流れないし、それに旅から旅ですから、そんな余裕もなかったです。まあ、いろいろ事件もありました。ハワイで豊登に猪木が拉致されたと報道された時には、東京スポーツは、それまでアントニオ猪木は次のスターだと人気を煽っていたのですが、その事件以降は悪役扱いでした。
―― そのころ、猪木さんのレスラーとしてのスタイルも確立されました。
そうですね、師匠は力道山。それと技術的にはカール・ゴッチ。ルー・テーズ。それぞれ三者三様なのですが、力道山とゴッチは敗戦国の反骨精神みたいなものを強く感じていました。逆にルー・テーズはヒーロー中のヒーロー。本当に生まれながらのスターという感じでした。中でも強く影響を受けたのはゴッチでした。どんな手を使ってでも貪欲に勝つ、というプロレス。技術的には関節技ですね。骨と骨のせめぎあいというか、体の構造を重視した理詰めの攻めは勉強になりました。
―― アメリカの2年間で得たものはなんですか?
毎日のように試合をして、つぎの巡業地へ移る。タフになりました。一種、修行みたいな部分もありました。
新日本プロレス旗揚げ後、最初の試合(大田区民体育館)で挨拶するアントニオ猪木
―― それで1965年に帰国されて、豊登さんと東京プロレスを立ち上げた。
豊登さんが日本プロレスから追放されてしまった時期でした。ある種、力道山とは違った非常識な型破りな方でした。いろいろ問題もあった方でしたが、ある時「猪木、飯でも食おう」と言われ焼肉屋へ行き意気投合して23人前食べた。そんな人との相性ですね。主義主張も大事だけど、人間の相性もありますから。それで一緒に東京プロレスを立ち上げたのです。
―― その後結局、豊登さんと袂を分かつわけですね。
東京プロレスとの関係は半年ほどで消滅です。そんな事態になったら力道山の後援会だった方が、君みたいな逸材を放って置くことはない、ということで間に入ってもらって日本プロレスに復帰しました。
―― 日本プロレスの看板は、ジャイアント馬場ですよね。
そうですね。もちろん馬場さんの人気は絶大でしたが、政治の世界と同じで、少し人気の面で翳りが出てきていました。それが、わたしが加わることで雰囲気が変わって人気が出たのですね。馬場・猪木のタッグで人気が出てきた。もともと、そんなに仲が悪いわけじゃない。力道山の門下としては同期ですが、歳上でしたので、わたしは一度も馬場さんのことを呼び捨てにしたことはありません。
―― 馬場さんとはシングルマッチで対戦したことはないのですか?
いや、昔はやりましたよ。あまり記憶ははっきりしていませんけど。
―― それが再び日本プロレスを出ることになります。
これまた政治の世界と同じなのですが、これでは将来が見えないな、と思ってしまったのです。幹部が毎晩のように銀座に行って「今日はいくら使った」なんて自慢話をしている。練習している若い衆たちは安いギャラで頑張っているのに、そんな話を聞いたら嫌になっちゃう。これじゃ駄目だというのがきっかけです。そんな不満を幹部にぶつけたら、こちらが干されてしまいました。
―― それで行動を起こされて新日本プロレスを立ち上げられたわけですね。
そうです。まあ、これはいわばライバル関係だといわれましたが、比較対象があったほうが分かりやすい。猪木流のプロレスにファンがいるはずだと、報道が騒いでくれて盛り上がりましたね。“墨田川決戦”とかいわれて。ちょうど力道山の13回忌の日ですよ。こちらは両国体育館で、向こうは日本武道館で、同じ日に興行をうちました。報道では、両方とも満員と伝えましたが、あとで聞いたら向こうは客が入っていなかった、ということでしたね。両方とも満員札止めで力道山の13回忌興行は成功だ、といわれましたが、それは報道の嘘でした。そのときは、まあこれで良いか、と思いました。プロレスを通じて大衆の人気をつかんでいかなきゃいけないと思っていましたから。
―― 新日本プロレスの試合を見ていて思ったのは、いつも真剣にやっているな、という印象でした。それまでのプロレスというと若干「演出」というものが気になっていました。ところが新日本プロレスは鳥肌が立つようでした。
リアルという面でいえば、プロレスに殺し合いは必要ないのです。ただ、お互いにギリギリの了解のもとに境目が見えないほどの真剣勝負を引き出しました。どこまで計算して四角のリングの中で表現するか。石を水の表面に投げると石は跳ねていき波紋ができる。PRの問題もそうですね。人寄せパンダではないですが、うまく利用して人を集め惹きつけなければいけない。人が集まれば、それがまた人を集める。
―― リングの中で相手のことを考える。お互いの信頼関係の中で戦うのだ、と繰り返しおっしゃっています。
お互いにプロ意識が強くないと魅力あるプロレスはできませんからね。
モハメド・アリ戦
―― そこで、異種格闘技の世界に積極的に参加されますね。これは、どういう発想なのですか?
それこそ格闘技の世界はボクシングが1番強いといわれていました。アメリカにいたとき、けっこうボクシングの選手も帯同して、ミックスマッチもやっていました。
モハメド・アリがクアランプールでジョー・フレージャーと世界タイトルマッチをしたとき、羽田空港を経由して行ったのです。そのとき、これはチャンスだと思い挑戦状を叩き付けたのですが、ロサンゼルスにプロモーターがいるから、そちらと交渉してくれといわれました。
まあ、売名行為だとかいろいろいわれたが、これも運命のいたずらですね。実際、交渉してみれば「けっこうお金がかかりますよ」と言われたんで、「いくらかかる」と聞いたら「1000万ドル」だと言われた。1ドル308円のころですよ。そんなやり取りがあって、こちらは本気だ、と伝えたら実現してしまった、というわけです。
モハメド・アリ戦
―― だけどモハメド・アリという人は、いろいろ長けたところがあって、実際に対戦するときは大変だったのでは?
あれは、もともとプロレス選手の駆け引きから取り入れているのですよ。本人も「ゴージャス・ジョージというプロレスラーから学んだ」と言っています。もともとボクシングにはパフォーマンスはないですからね。
―― 猪木さんは、実際にボクシングのトレーニングをしたのですか?
まあ、多少しましたが、実際に殴り合ってしまったら勝てるわけがない。パンチをよける動作とかは練習しました。
―― アリとの試合は私の頭の中に残っていますが、最後まで慎重に戦われましたね。
あのときは、ボロボロに書かれました。そして色々なことを言われました。
―― かなり考えた作戦だったのですか?
いや、まったくないです。5分くらいで楽に勝てると思っていた。かかえてホールドして上からドーンと落とせば終わると思っていました。だけど何かの力が働いて、その作戦ができませんでした。
―― 動かなかった。ただそれだけだったのですか?さかんにアリの脛を蹴っていた。
自分でもわからない。紙一重のことですよ。もし、あのときに勝っていればどうだったのだろう、ということですよ。仮定の話は、勝負事には必要ないのですが、あのとき勝っていたら今の自分がどう変わっているかわからないし。勝ったから評価されるのか、それもわからない。ただ、世界中、どこにいっても“アリと戦った男”として紹介されることはありますが。
引退試合後、ファンに最後の挨拶をする
―― アリはその後、パーキンソン病に侵され、不自由な身体になりました。
1996年のアトランタオリンピックで聖火最終点火者を務めましたが、その前に1度だけ会ったことがあります。それは1993年の北朝鮮なのですが、それまではとても人前にはでられないような状態だったらしい。それでアトランタで大役を務められたのは、平壌までわたしに会いに来てくれたのがきっかけだったようです。それもアメリカ政府から許可がでなかったのが、直前にOKになった。まあ、いろんな意味で、思い出深いアリとの対戦でした。
―― 猪木さんがアリと戦ったあと、異種格闘技にいろいろな流れができました。これについては、どう思われますか?
持続させることの難しさが出てきましたね。K-1にしても1つの信念とか意味とかが、あれだけ世界中にブームが巻き起こり、それまでマイナーで飯を食えなかった選手にも光が当たりました。今では中国から身長190cmを超す選手が出てきているし、一方ではグローバル化も進んでいる。大相撲の世界だって、朝鮮国籍の力道山を受け入れず、仕方なく力道山は、日本人と養子縁組を結んで角界入りした。しかし、今ではモンゴル人をはじめとする外国人力士に席巻されている。日本相撲協会なんて、もう名前だけです。
アフリカの子供と
―― その後、UFO、IGFなど新しい組織を作られていますが、今後の格闘技の世界の夢はなんですか?
私の哲学の中に花というのがある。花は咲いているうちに勝負しないといけない。だから一瞬一瞬本当に火花を散らしていける人生、それを自分で見せたい。その背中を次の世代の人に見せたい。
―― 2020年に東京でオリンピック・パラリンピックが開催されますが、これについてはどう思われますか?
オリンピック自体の構造を変えなければいけないと思います。今のオリンピックは、もう限界に達しています。1984年のロサンゼルスオリンピックでピーター・ユベロスが民営化に成功しましたが、あのやり方は、北京オリンピックで終わりましたね。オリンピック精神の原点に戻らないと。それと日本の精神を訴えてオリンピック精神と合わせたようなものを訴えるべきでしょう。
―― もう1点、スポーツ庁については、どう思われますか?
現在の総理大臣の安倍さんのお父さん、晋太郎さんにわたしが初めて議員に選ばれてお会いした折りに「スポーツ省を作らないと」と話をしたら、「それは良いことですね。ぜひ実現しましょう」といわれました。それがひじょうに記憶に残っています。あれから25年ですからね。現在スポーツを管轄しているのは文部科学省。原子力発電も管轄している省ですよ。そもそもスポーツ、教育を管轄する省が携わっていることもおかしいと思うのです。スポーツと教育、科学とは、きちんと線引きしたほうが良い。やはり、スポーツ選手の引退後の生活を保障してあげないと。大会が終われば過去の人になってしまいます。きちんと保障しないといけませんね。それと、施設をたくさん作っても、オリンピック、パラリンピックの後の運用を、スポーツ庁でうまくやっていかないとだめですね。
キューバ、カストロ首相と
―― 猪木さんのご著書を読むと、かなり「不倒不屈」という言葉が出てきます。これは、そういう精神を大切にしているということですか?
皆様が思っているほど精神力が強いわけではないですが、だからこそ自分を律していきたいという戒めですね。政治の世界でもそうですが、「ぶれないこと」が大切です。よく「元気があればなんでもできる」というのですが、これはもともと高橋是清の言葉らしい。わたしも知らないで使っていたら、高橋是清の子孫の方から「うちのご先祖様の言葉をつかっていただきありがとうございます」というお手紙をいただきました。そのあと、実際にお会いして著書もいただいたので読んでみたのですが、そういう先人の言葉は、本当に重みがある。今も実際に外交問題に足を突っ込んでいますが、相手は腹をくくっています。20年前には考えられないネット社会に突入していますし、これからの10年、どう変化していくのか。それに大切なのは、ぶれない不倒不屈の精神だと思います。
―― 猪木さんのご著書を読むと、ずいぶん人に裏切られる場面がでてきますが、猪木さんは恨んではおられません。その包容力というか度量の広さは、どこにあるのですか?
“千の風になって”、じゃないですけど、わたしはそこにいませんからね(笑)。過ぎてしまうと忘れてしまうのですよ。人を恨むエネルギーを他にもっていってしまうからでしょうね。
アントニオ猪木氏(インタビュー風景)
―― 最後に、これからの日本を担う子どもたちにメッセージをいただけますか。
ちょっと人からはみ出してみる、それが大事じゃないでしょうか。学校の先生が生徒にいうのは難しいかもしれませんが、非常識を1ミリすることで、まったく別の世界が見えてくることがある。ちがう自分が見えてくる。だから1ミリの非常識を薦めているのです。
―― もう一度人生をやり直せるなら、やはりプロレスの道を進まれますか?
そうですね、もう一度といわれたら、困るな。もう1度なんて、やりたくないよ。まあ、あえてもう1度やることになるならば、自分で1番得意な部分、そこはそうでしょうね。
―― どうも長時間ありがとうございました。
1943 昭和18 |
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1957 昭和32 |
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1960 昭和35 |
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1972 昭和47 | 全日本プロレス設立。ジャイアント馬場氏、初代会長に就任
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1973 昭和48 | 新日本プロレス、日本プロレスとの対等合併計画が発表されるも、大木金太郎氏ら日本プロレス側の反対により頓挫。 日本プロレスからは、合併推進派であったエースの坂口征二氏ら3名が新日本プロレスに移籍
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1975 昭和51 | 新日本プロレス、NWAに加盟
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1976 昭和51 | 新日本プロレス、団体初の異種格闘技戦を開催
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1978 昭和53 | 藤波辰巳氏、WWWFジュニアヘビー級選手権試合にてカルロス・ホセ・エストラーダ(プエルトリコ)を破り王座を奪取
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1979 昭和54 | 新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの合同興行「東京スポーツ新聞社創立20周年記念プロレス夢のオールスター戦」が行われる |
1980 昭和55 | 新日本プロレス、IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)構想を発表。NWFヘビー級、NWA北米タッグなど新日本プロレスが管理する王座をすべて返上する
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1981 昭和56 | 初代タイガーマスク、新日本プロレスからデビュー スタン・ハンセン(米)、新日本プロレスから全日本プロレスへ移籍 |
1982 昭和57 | 長州力氏らが維新軍を結成 松根光雄氏、全日本プロレス2代目代表に就任
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1983 昭和58 | ハルク・ホーガン(米)、第1回IWGPリーグ戦にて優勝 初代タイガーマスク、引退を表明
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1985 昭和60 | 新日本プロレス、WWF(現、WWE)との業務提携 |
1986 昭和61 | 新日本プロレス学校開設 越中詩郎氏、初代IWGPジュニアヘビー級王座に就く
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1988 昭和63 | 越中詩郎氏、TOP OF THE SUPER Jr. (現、BEST OF THE SUPER Jr.)初代王者となる |
1989 平成元年 | 『89 格闘衛星☆闘強導夢』で獣神ライガーがデビュー ジャイアント馬場氏、全日本プロレス3代目代表に就任
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1990 平成2 | 坂口征二氏、引退 新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現、WWE)による合同興行「日米レスリングサミット」を開催 |
1991 平成3 | 第1回G1 CLIMAX開催。蝶野正洋氏、初代チャンピオンとなる |
1993 平成5 | 新日本プロレス、初の福岡ドーム興行を開催 |
1994 平成6 | SUPER J-CUP1st STAGE開催。 ワイルド・ペガサス(カナダ)が優勝を飾る
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1995 平成7 | 新日本プロレス、東京ドーム興行でUWFインターナショナルと全面対抗戦を行う
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1996 平成8 | 高田延彦氏、IWGPヘビー級王者となる |
1997 平成9 | バルセロナオリンピック柔道銀メダリストの小川直也氏が新日本プロレスからデビュー
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1998 平成10 | 長州力氏、引退 IWGPジュニアタッグ王座設立
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1999 平成11 | 蝶野正洋氏、大仁田厚氏の試合で、団体としては初となるノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ形式が行われる 藤波辰爾氏、新日本プロレス代表取締役社長に就任 前社長の坂口征二氏、代表取締役会長に就任 三沢光晴氏、全日本プロレス4代目代表に就任 |
2000 平成12 | TEAM2000の蝶野正洋氏とnWoジャパンの武藤敬司氏が直接対決。 蝶野氏が勝利し、nWoジャパンは消滅 橋本真也氏、引退を賭けて小川直也氏と対決するも敗れ、公約通り引退 長州力氏、現役復帰。大仁田厚氏とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦 新日本プロレス、全日本プロレスの対抗戦が開戦し、長らく対立関係にあった両団体の歴史的交流が開始する テレビ番組の企画でファンに押される形で現役復帰した橋本真也氏が藤波辰爾氏と復帰戦を行う。 その後、「新日本プロレスリングZERO」を設立し他団体交流などを目的とした団体内の別組織として独立を宣言するが、反対した現場監督の長州力氏と対立 |
2001 平成13 | 全日本・日本武道館大会にて、武藤敬司氏が新日本プロレス所属選手としては初となる三冠ヘビー級王者となる プロレスリング・ノアの秋山準氏、参戦 |
2002 平成14 | 武藤敬司氏、小島聡氏、ケンドー・カシン氏の3選手とフロントスタッフ5人が新日本プロレスを退団し全日本プロレスに移籍 長州力氏、新日本プロレス退団 プロレスリング・ノアの三沢光晴氏、新日本プロレス創立30周年記念興行に参戦 新日本プロレス初となる、男女混合試合が行われる |
2005 平成17 | 天山広吉氏、小島聡氏による史上初のIWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座ダブルタイトルマッチが行われ、三冠王者の小島聡氏が勝利 |
2007 平成19 | 蝶野正洋氏、長州力氏、獣神サンダー・ライガー氏らがレジェンド軍を結成 |
2008 平成20 | 中邑真輔氏、カート・アングル(米)を破りIWGP王座防衛とともに3代目IWGPベルトを奪取して王座を統一。 その後、4代目IWGPベルトを使用
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