東京の2020年オリンピック・パラリンピック国際プロモーションがスタート
2020 年招致活動。伊調選手(左から二人目)、成田選手(右から二人目)等と。右端が竹田氏(2012)
―― 竹田さんは、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の理事長も務めていらっしゃいます。今、日本中で一番お忙しい方ではないでしょうか。
いえいえ。皆様方のお力添えで、2020年の東京オリンピック・パラリンピック招致活動も正念場に入ってきております。
―― 手応えはいかがでしょう。
東京は昨年5月24日、正式に2020年夏季オリンピック・パラリンピック競技大会の「申請都市」から「立候補地」に選定されました。その国際プロモーションが、本年1月8日にようやく解禁になりました。そこで1月10日に、ロンドンで記者会見を行ってきました。我々が予想していた以上に、英国のみならず、世界中から大勢のプレスの方が来られました。翌日の記事は概ね好意的に書いていただき、いいスタートが切れたかと思います。
親子二代のIOC委員
―― 2011年12月に、猪谷千春さんと岡野俊一郎さんが定年でIOC委員を退任して以来、日本の委員は不在となっていましたが、ロンドンオリンピック開会式前のIOC総会で、竹田さんがIOC委員に就任されました。お父上の竹田恒徳(つねよし)氏もIOC委員で、親子二代となるわけですが、世界でもそのようなケースは多く見られるのですか。
何人かおられますね。スペインの故サマランチIOC会長の息子さんもそうですし。インド、パキスタン、ペルーなどにもおられます。
―― お父さまは日本スケート連盟の会長もされていました。私はアイスホッケー担当の時代が長かったものですから、何度もお話を伺う機会があり、名前を覚えてくださったときは非常に感激しました。
父がいろいろお世話になったと思います。
―― いえ、とんでもありません。
日本人メダリストにメダルを授与できた
―― IOC委員に就任されて、何か変化というものはありましたか。
これまでもオブザーバー、あるいはNOC(国内オリンピック委員会)の会長として各種会合に出席させていただくことが多くありましたので、あまり変化は感じていません。これからはIOC総会で投票権を持つというのが大きな違いでしょうか。今は2014年のソチ冬季オリンピックと、2018年の平昌冬季オリンピックの2つの調整委員会の委員を務めています。それ以外についても、今後何か役目が回ってくるでしょう。それと、オリンピックでのメダリストへのメダル授与という役割ですね。
―― それがありましたね。ロンドン大会でもされたのですか。
はい、3回ほど。日本選手にも渡すことができて、非常にうれしく思いました。1人はレスリングの伊調馨選手です。もう1個は女子バレーボールチーム。日本は3位決定戦で韓国を破って銅メダルを獲得しましたよね。あれは優勝したから、あるいはメダリストになったからその国のIOC委員がメダルを授与できるというわけではないのです。もし韓国チームが勝利していたら、やはりメダルの授与者は私でした。もう1回は、体操男子団体の優勝チームでしたので、中国の選手たちにメダルを差し上げました。
―― 2020年オリンピック・パラリンピック招致の点ではいかがでしょう。
2016年の招致活動の際に、私は各国のIOC委員に接触してお願いする機会が多くありました。それが今回は、IOCというソサエティーの中に入れてもらったことで、以前と違う印象は受けます。仲間に入れていただけたといいますか、これまでは外部からの接触だったのが、内側からですと受け入れ方もずいぶん変わってきたという感触ですね。
―― 対等な仲間になったと。
そうです。仲間意識の強い組織ですから。
俊足、スポーツ大好きな少年時代
小学5年、馬術を本格的にはじめたころ(右)(1958 )
―― 竹田さんは、馬術で2回オリンピックに出場されているオリンピアンでいらっしゃいます。
はい、1972年のミュンヘン、1976年のモントリオール大会に出場しました。
―― 馬術は、お父さまから教わったのですか。
いいえ、父は騎兵将校の職業的軍人で馬に乗ってはいましたが、私は実際に父の乗馬姿を見たことはありません。父から「馬をやれ」と言われたこともありませんでしたね。父は日本スケート連盟と日本馬術連盟の会長もしておりましたので、父に連れられて、よく両方の大会の観戦に行ってはいました。スポーツは何でも好きで、小さいころからいろいろなスポーツに親しんでいました。足が速くて、小学校では6年間リレーの選手だったのですよ。アイスホッケーか馬術かで迷ったのですが、動物好きでもありましたので、馬術が一番自分に合っていると考えました。
―― お父さまは、アイスホッケーを勧めたのではないかと思っていましたが、竹田さんが自主的に決められたのですね。
ええ。私は幼稚舎(小学校)から慶應に通っておりまして、中学生になったとき、馬術部に入りました。3年生のときはラグビー部の選手が足りず、各部から足の速い選手が集められ、1年間ラグビー部のレギュラーもやっていました。高校でもラグビー部に引っ張られたのですが、私は「馬術で行く」と決めていました。
馬は大事なパートナー、信頼関係を築く
―― 馬を始めたのは中学生になってからということですか。
小学校5年生のときです。たまたま同級生が乗馬クラブに通っていたのです。彼はお母さんの影響で乗っていたようですが、「僕も連れていってくれよ」と頼んだのが、馬術を始めるきっかけでした。
―― 馬との相性がよかったのかもしれませんね。
馬はきちんと感情を持っています。しかし人間と違って、お腹が痛くても教えてくれません。その分、顔色や様子、その動作などで馬の状態を観察するわけです。犬や猫と違って大きな動物ですから、扱い方も大変ですし、とても気を使います。馬はパートナーですから、馬の気持ちを理解し、お互いに信頼関係ができないと難しい。馬術はそういうスポーツですね。
―― 人間同士にも通じる非常に大事なことですね。
国語の教科書に出ていた城戸俊三選手の逸話に胸を打たれる
東京オリンピック馬術(馬事公苑)(1964 )
―― 竹田さんが、オリンピックを意識し始めたのはいつごろからですか。
小学校5年生のときに一つのきっかけがありました。それは馬に乗り始めてまだ2、3カ月しか経っていないころでした。国語の教科書に、1932年のロサンゼルスオリンピックの「愛馬物語」という逸話が出ていたのです。
―― ロサンゼルス大会の乗馬といえば、馬術障害飛越で金メダルを獲得したバロン西(西竹一)選手(のちに戦死)が有名ですが。
そうですよね。ところがそのテーマは西さんではなく、総合馬術に出場した城戸俊三選手という方のお話でした。32.29キロのコースに障害が50個設置され山野を走破するという非常にタフなレースだったそうです。軍人である城戸選手の愛馬の名前は、「久軍(きゅうぐん)」といいました。全コースのほとんどを走り終え、残る距離はあとわずか、障害はあとたった一つのところまで来ていました。久軍は馬齢19歳、かなりの老馬でした。気がつくと、全身から汗が噴き出し、息は絶え絶え、鼻孔が開ききった状態でした。そのとき、城戸さんはなんと愛馬から飛び降り、進もうとする久軍を押し留めたというのです。
―― ムチを振るえばなんとかゴールできたかもしれないのに……。
今は動物愛護上、ムチの扱いについては注意を要しますが、当時は障害を越えるのにムチでたたくのがあたりまえの時代です。そんな中で自ら棄権を選んだ城戸さんの愛馬精神に、ロサンゼルス市民は感激し「愛馬の碑」を建立したのです。
心のヒーロー、城戸俊三氏は我が師だった
「愛馬の碑」とそのときの鞍は、1964年の東京オリンピックの際に米国関係者の厚意により、当時、JOC会長だった私の父の手に託され、現在は秩父宮スポーツ博物館に展示されています。
―― そこでお父さまにつながりましたか。
実はもう一つつながりがあって、その城戸俊三選手というのは、私が通い始めた乗馬クラブの先生だったのです。
―― え! すごい偶然ですね。
そうでしょう。もうびっくりしまして、教科書を持って城戸先生のところにすっ飛んでいった覚えがあります。
―― 城戸先生は何とおっしゃっていました?
教科書のことはご存じだったのでしょう。ただ、「ああ、そうか」という感じでした。
将来の夢は「馬術でオリンピック」
モントリオールオリンピック馬術競技(1976)
城戸先生は、本当に立派な人格者でした。陸軍士官学校を卒業された騎兵将校です。非常に厳格な方で、馬以外にも大事なことをいろいろ教えていただきました。ヨーロッパに長くおられたので、フランス語やドイツ語もペラペラでした。昭和天皇や今上天皇の乗馬指導もされたということです。その少しあとで、学校で「将来の夢」というテーマで作文を書く時間があり、私はつい、「将来、馬術でオリンピック出場」と書いてしまいました。まだビギナーでしたから、本当の“夢”物語です。
―― 小学校5年生のときの馬との縁がすべての始まりだったわけですね。一つの“出会い”が人生をかたちづくるということがあるのですね。
やはり「人」ですよね。城戸先生との出会いがなければ、オリンピックにかかわることもなく、今、私はここにいないだろうと思います。
東京オリンピックを目の当たりにして夢の実現を決意
中学、高校、大学と、慶應には馬術部がありましたので、私は恵まれた環境で競技を続けることができました。高校2年のときに、東京オリンピックがありました。オリンピックを目の当たりにして、私は世界のレベルの高さに愕然としました。
―― 馬術競技には、馬場馬術、障害馬術、総合馬術とありますが、その違いを教えていただけますか。
馬場馬術(ドレッサージュ)は、馬をいかに正確かつ美しく運動させることができるかを競います。障害馬術(ジャンピング)は、障害が設置されたコースを通過する技術を競うもので私はこれをやっていました。総合馬術(イベンティング)は1日目に馬場馬術、2日目にクロスカントリー、3日目に障害飛越を行います。バロン西さんが金メダルを獲得したのは障害馬術、城戸先生がゴール直前でレースを断念したのは総合馬術でした。東京オリンピックでは、総合馬術は軽井沢で、馬場馬術は馬事公苑で行われ、障害馬術は最終日、閉会式の前に国立競技場で行われました。
―― ああ、そうでしたね。
世界の馬術に触れて、本当に感動しました。それまでオリンピックは「夢」でしかありませんでしたが、そのとき、本気で世界へのチャレンジを決意したのです。
モスクワオリンピックも目指していた
―― その結果、1972年のミュンヘン大会、1976年のモントリオール大会と連続してオリンピック出場を果たされました。私は両方のオリンピックへ行っています。私どもNHKのスタッフは、竹田さんのことを「宮様、宮様」とお呼びしていて、失礼いたしました。
あれには閉口しました。
―― オリンピックに実際、出場されてみてどんな感想を持ちましたか。
小さいころ、よくもあんな図々しい夢を書いたなと。世界の壁を感じる結果でしたが、とにかく私は夢を実現させることができ、本当に幸せな青春を過ごせたと思います。
―― 次のオリンピックはねらわなかったのですか。
2大会とも納得いく出来ではなかったので、次のオリンピックも出場したいと思っていました。しかし残念ながら、モスクワは日本が不参加でその夢はついえました。
―― ボイコットでしたね。
はい、それで私は現役を引退しました。