老舗和菓子店の長男に生まれる
―― 岡野さんのご実家は、東京の上野駅の真ん前、「岡埜栄泉」という有名な和菓子の老舗店です。ご長男ですか。
そうです。
小学校入学
―― 純粋の江戸っ子といえますね。お生まれになったころはもう東京都でしたか。
東京市でした。中学受験のときには都立五中になっていました。
―― サッカーはいつから始めましたか。
サッカー部に入ったのは、五中の3年生のときです。
―― 1、2年のときは何をやっていたのですか。
戦時中でしたから。中学2年で終戦になったのです。休み時間に上級生をまねてボールを蹴る程度のことはしていましたよ。戦時中はグライダーに乗っていました。グライダーという英語も使えなかったから、「滑空班」と言っていましたね。
―― 都立五中は今は小石川高等学校ですが、ずいぶんモダンだったのですね。
校長が、英国のジェントルマンたることを目標にしていましたからね。日本で一番最初に背広を制服にした学校なんです。
―― ああ、私は小石川の近くですから、背広がかっこよかったのを覚えています。
第1回全国中等学校蹴球選手権大会に出場
―― 戦後復活した全国中等学校蹴球選手権大会の第1回に出場されているんですね。東京代表になるのは大変でしたか。
ええ。ライバルは高等師範付属、今でいう筑波大付属です。他に都立九中、今の板橋の北園高校。それから都立十中などでした。これは今の西高ですね。
―― 第1日第1試合が都立五中と広島高等師範の対戦だったそうですね。相手チームには、そののちともに日本サッカー界を支え発展させていく長沼健さんがいらしたという。
0対5でやられました。長沼や木村ら、相手FW(フォワード)の名前は全部覚えています。そのまま関西学院大学の黄金時代を築いたメンバーで本当に強かった。
―― 長沼さんに伺ったのですが、前日、先生が都立五中の練習を見て、「10番さえマークすればいい、あいつをつぶせ」とおっしゃったそうです。それが岡野さんだったのですね。
都立五中から都立小石川高校へ
―― サッカーを続ける志は当時もう固めていらしたのですか。
いや、好きだったですけど、それほど真剣には……。ただ他にやることがないんです。何かするといったら集まって麻雀くらいですね。
―― それで東京大学に入学されるんですから。
僕らの時代は、予備校に2年間行っていたようなものなんですよ。都立五中は旧制中学の5年制でした。僕らが4年生になるときに新制高校に切り替わり、都立小石川高校の1年生になったのです。その年、旧制高等学校の最後の試験があったわけ。旧制一高は今の東大、旧制二高は東北大学、旧制三高は京都大学です。受かるはずがないと思って受験だけしてみましたが、やはり落ちました。
―― だから高校2年、3年のときは予備校のようなものだったと。
はい。もう授業へはあまり出ませんでした。小石川高校では「先生」と言ってはいけないので、挙手をして「○○さん、腹が減ったので弁当食べていいですか」「しかたないですね。周りが気が散らないように隠して食べなさい」とか。試験のときに監督の先生がいないときもありました。
―― カンニング自由じゃないですか。
別に辞書をひいてもかまわない、と。ただし「身につきませんよ」と言われました。
―― 実にいい気風の学校ですね。
そうなんですよ。僕らの学年は83人が現役で東大に入ったという小石川高校の記録を持っています。当時、全国第1位でした。合格して東大の駒場キャンパスに行ったら、どこのクラスにも高校の仲間がいる。だからサッカー部に入らなかったら、友達が広がることはなかったでしょうね。
東京大学理科II類へ進学
東大1年の頃
―― 1950年、合格されたのは理科Ⅱ類ということですね。医学部も理Ⅱですか。
そうです。僕らのときは理Ⅰと理Ⅱしかありませんでした。
―― 岡野医師(せんせい)になる可能性もあったのに、なぜならなかったのですか。
カエルの解剖をやって嫌になっちゃったんです。
「うえー、これが人間だったら絶対にできない」と思ってやめました。卒業するときは、文学部心理学科でした。
―― 1年のときからサッカー部へ?
いいえ、入学式の前からです。駒場キャンパスで入試の発表を見た帰りに御殿下グラウンドを通りかかったら、ちょうどサッカーの練習中だったのです。そこでキャプテンらしき人に「合格したので入れてください」と。
―― そのキャプテンは、岡野さんが全国大会出場選手だと知っていたのでしょうか。
いえ、僕はいくつかの私立大学から誘いは来ていたんですけどね。先輩がいたので慶應大学の練習に参加したことはありました。実は飲み代が欲しくて、受験料の高いところを探して、慶應の工学部と早稲田の政経学部あたりを受験したことにして、両親から受験料をもらったんです。当日は友人の家で寝ていましたが、僕は全部合格したことになっているんです。
ユニバーシアードでヨーロッパ遠征
東大/第1回大学選手権優勝(1953)前列左が岡野氏
―― 東大では1年から大活躍をされたそうですね。
リーグ戦が秋に5試合しかないんです。東大の総得点が5点で、僕はそのうち4点取りました。それで関東学生選抜に選ばれました。3年のときに第1回全国大学選手権ができ、昔の明治神宮外苑競技場、今の国立競技場で開催されました。そこで優勝し、得点王になり、ユニバーシアード日本代表に選ばれました。1953年に、ヨーロッパに40日間の遠征です。往復旅費が40万円。大卒の初任給が8,000円の時代ですよ。
―― 50カ月分……。個人負担ですか。
一応ね。もちろん先輩が集めてくれましたが。そのときに長沼や木村も一緒でした。55年には日本代表に選ばれ、ビルマ・タイ遠征に参加しました。
審判をしながら東大コーチ
―― 1956年のメルボルンオリンピックの代表候補でもあったのですね。
はい。ところが選手をクビになってしまったので、「もういいや」と思い、大学を卒業したあとは、店をやる以上、簿記を学ぼうと思い、神田神保町の簿記学校へ通い始めました。それで空いている時間に、東大のコーチをやるようになったのです。
―― その後のサッカーとのつながりは?
僕は国際審判員の候補の第1号でした。だから、国体や国際試合で審判として笛を吹くことが多かったですね。その間、プレーも続け、オール東大チームの東大LB(ライトブルー)で天皇杯3位になったり、サッカー仲間と社会人サッカーの全国大会である全国都市対抗サッカー選手権対抗に出場したりしていました。
―― 東京都代表ですか。
はい。「トリッククラブ」というチームでした。トリックとはTRICKで、Tが東大、Rが立教、Iがインターナショナル、Cが中央、Kが関学です。東京にいる各校OBで所属チームのない連中が集まったチームです。
「大正力」のプロサッカー構想
あまり知られていませんが、1957年ごろ、読売新聞社の正力松太郎さん、いわゆる大正力(だいしょうりき)さんがプロサッカーを立ち上げようとしていたんです。世界一周をして各国でスポーツをご覧になって、世界で一番盛んなのは野球ではなくサッカーだと。読売がプロ野球をつくったのだから、次はプロサッカーをつくろうと。
―― ほう、そんなことが。
1チームじゃできない。では後楽園と話をして、後楽園と読売で1チームずつ持ち、日本中を帯同して回って、プロを育てようという構想でした。しかし日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の理事長が呼ばれて行ったときに、「とんでもありません。サッカーでは客が呼べません。無理です」と断ってしまったのです。その大分前に、後楽園の重役から僕に電話がかかってきて、「もし後楽園がプロサッカーをつくったら、君やるかね」と打診されていたので、実現していたら僕がプロ第1号選手になっていたかもしれません。
―― その発想がのちに、大正力さんの死後、1969年10月、「読売サッカークラブ」の誕生へとつながっていったわけですね。