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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第2回
メキシコ五輪 銅メダルの真実

岡野 俊一郎

第30回オリンピック競技大会(2012/ロンドン)で、サッカー日本代表チームは、男女とも感動的な熱い戦いを見せてくれた。なでしこジャパンは日本サッカー界初の銀メダルに輝き、男子五輪代表チームも「4位」という好成績だった。
なでしこジャパンが銀メダルを獲得するまで、日本サッカー界唯一のオリンピックのメダルは、1968年のメキシコ大会での銅だった。長沼健監督との二人三脚でチームをまとめ、銅メダリストとなったのが岡野俊一郎さんだ。その後、岡野さんは日本サッカー協会で会長等の重責を担い、2002年には日韓共催FIFAワールドカップ大会を成功させた。同時に、国際オリンピック委員会(IOC)委員としても活躍するなど、日本スポーツ界に多大な貢献をされてきた岡野さんにお話を伺った。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

老舗和菓子店の長男に生まれる

―― 岡野さんのご実家は、東京の上野駅の真ん前、「岡埜栄泉」という有名な和菓子の老舗店です。ご長男ですか。

そうです。

小学校入学

―― 純粋の江戸っ子といえますね。お生まれになったころはもう東京都でしたか。

東京市でした。中学受験のときには都立五中になっていました。

―― サッカーはいつから始めましたか。

サッカー部に入ったのは、五中の3年生のときです。

―― 1、2年のときは何をやっていたのですか。

戦時中でしたから。中学2年で終戦になったのです。休み時間に上級生をまねてボールを蹴る程度のことはしていましたよ。戦時中はグライダーに乗っていました。グライダーという英語も使えなかったから、「滑空班」と言っていましたね。

―― 都立五中は今は小石川高等学校ですが、ずいぶんモダンだったのですね。

校長が、英国のジェントルマンたることを目標にしていましたからね。日本で一番最初に背広を制服にした学校なんです。

―― ああ、私は小石川の近くですから、背広がかっこよかったのを覚えています。

第1回全国中等学校蹴球選手権大会に出場

―― 戦後復活した全国中等学校蹴球選手権大会の第1回に出場されているんですね。東京代表になるのは大変でしたか。

ええ。ライバルは高等師範付属、今でいう筑波大付属です。他に都立九中、今の板橋の北園高校。それから都立十中などでした。これは今の西高ですね。

―― 第1日第1試合が都立五中と広島高等師範の対戦だったそうですね。相手チームには、そののちともに日本サッカー界を支え発展させていく長沼健さんがいらしたという。

0対5でやられました。長沼や木村ら、相手FW(フォワード)の名前は全部覚えています。そのまま関西学院大学の黄金時代を築いたメンバーで本当に強かった。

―― 長沼さんに伺ったのですが、前日、先生が都立五中の練習を見て、「10番さえマークすればいい、あいつをつぶせ」とおっしゃったそうです。それが岡野さんだったのですね。

都立五中から都立小石川高校へ

―― サッカーを続ける志は当時もう固めていらしたのですか。

いや、好きだったですけど、それほど真剣には……。ただ他にやることがないんです。何かするといったら集まって麻雀くらいですね。

―― それで東京大学に入学されるんですから。

僕らの時代は、予備校に2年間行っていたようなものなんですよ。都立五中は旧制中学の5年制でした。僕らが4年生になるときに新制高校に切り替わり、都立小石川高校の1年生になったのです。その年、旧制高等学校の最後の試験があったわけ。旧制一高は今の東大、旧制二高は東北大学、旧制三高は京都大学です。受かるはずがないと思って受験だけしてみましたが、やはり落ちました。

―― だから高校2年、3年のときは予備校のようなものだったと。

はい。もう授業へはあまり出ませんでした。小石川高校では「先生」と言ってはいけないので、挙手をして「○○さん、腹が減ったので弁当食べていいですか」「しかたないですね。周りが気が散らないように隠して食べなさい」とか。試験のときに監督の先生がいないときもありました。

―― カンニング自由じゃないですか。

別に辞書をひいてもかまわない、と。ただし「身につきませんよ」と言われました。

―― 実にいい気風の学校ですね。

そうなんですよ。僕らの学年は83人が現役で東大に入ったという小石川高校の記録を持っています。当時、全国第1位でした。合格して東大の駒場キャンパスに行ったら、どこのクラスにも高校の仲間がいる。だからサッカー部に入らなかったら、友達が広がることはなかったでしょうね。

東京大学理科II類へ進学

東大1年の頃

―― 1950年、合格されたのは理科Ⅱ類ということですね。医学部も理Ⅱですか。

そうです。僕らのときは理Ⅰと理Ⅱしかありませんでした。

―― 岡野医師(せんせい)になる可能性もあったのに、なぜならなかったのですか。

カエルの解剖をやって嫌になっちゃったんです。
「うえー、これが人間だったら絶対にできない」と思ってやめました。卒業するときは、文学部心理学科でした。

―― 1年のときからサッカー部へ?

いいえ、入学式の前からです。駒場キャンパスで入試の発表を見た帰りに御殿下グラウンドを通りかかったら、ちょうどサッカーの練習中だったのです。そこでキャプテンらしき人に「合格したので入れてください」と。

―― そのキャプテンは、岡野さんが全国大会出場選手だと知っていたのでしょうか。

いえ、僕はいくつかの私立大学から誘いは来ていたんですけどね。先輩がいたので慶應大学の練習に参加したことはありました。実は飲み代が欲しくて、受験料の高いところを探して、慶應の工学部と早稲田の政経学部あたりを受験したことにして、両親から受験料をもらったんです。当日は友人の家で寝ていましたが、僕は全部合格したことになっているんです。

ユニバーシアードでヨーロッパ遠征

東大/第1回大学選手権優勝(1953)前列左が岡野氏

―― 東大では1年から大活躍をされたそうですね。

リーグ戦が秋に5試合しかないんです。東大の総得点が5点で、僕はそのうち4点取りました。それで関東学生選抜に選ばれました。3年のときに第1回全国大学選手権ができ、昔の明治神宮外苑競技場、今の国立競技場で開催されました。そこで優勝し、得点王になり、ユニバーシアード日本代表に選ばれました。1953年に、ヨーロッパに40日間の遠征です。往復旅費が40万円。大卒の初任給が8,000円の時代ですよ。

―― 50カ月分……。個人負担ですか。

一応ね。もちろん先輩が集めてくれましたが。そのときに長沼や木村も一緒でした。55年には日本代表に選ばれ、ビルマ・タイ遠征に参加しました。


審判をしながら東大コーチ

―― 1956年のメルボルンオリンピックの代表候補でもあったのですね。

はい。ところが選手をクビになってしまったので、「もういいや」と思い、大学を卒業したあとは、店をやる以上、簿記を学ぼうと思い、神田神保町の簿記学校へ通い始めました。それで空いている時間に、東大のコーチをやるようになったのです。

―― その後のサッカーとのつながりは?

僕は国際審判員の候補の第1号でした。だから、国体や国際試合で審判として笛を吹くことが多かったですね。その間、プレーも続け、オール東大チームの東大LB(ライトブルー)で天皇杯3位になったり、サッカー仲間と社会人サッカーの全国大会である全国都市対抗サッカー選手権対抗に出場したりしていました。

―― 東京都代表ですか。

はい。「トリッククラブ」というチームでした。トリックとはTRICKで、Tが東大、Rが立教、Iがインターナショナル、Cが中央、Kが関学です。東京にいる各校OBで所属チームのない連中が集まったチームです。

「大正力」のプロサッカー構想

あまり知られていませんが、1957年ごろ、読売新聞社の正力松太郎さん、いわゆる大正力(だいしょうりき)さんがプロサッカーを立ち上げようとしていたんです。世界一周をして各国でスポーツをご覧になって、世界で一番盛んなのは野球ではなくサッカーだと。読売がプロ野球をつくったのだから、次はプロサッカーをつくろうと。

―― ほう、そんなことが。

1チームじゃできない。では後楽園と話をして、後楽園と読売で1チームずつ持ち、日本中を帯同して回って、プロを育てようという構想でした。しかし日本蹴球協会(現・日本サッカー協会)の理事長が呼ばれて行ったときに、「とんでもありません。サッカーでは客が呼べません。無理です」と断ってしまったのです。その大分前に、後楽園の重役から僕に電話がかかってきて、「もし後楽園がプロサッカーをつくったら、君やるかね」と打診されていたので、実現していたら僕がプロ第1号選手になっていたかもしれません。

―― その発想がのちに、大正力さんの死後、1969年10月、「読売サッカークラブ」の誕生へとつながっていったわけですね。

デットマール・クラマーの通訳として

クラマー氏と(1967年ごろ)

―― 岡野さんは1960年に日本代表ユースチームの監督に、62年には日本代表ジュニアチームの監督に、そして63年から日本代表チームのコーチになられました。その間、日本蹴球協会は64年の東京オリンピックを見据え、60年に「日本サッカーの父」と呼ばれるデットマール・クラマー氏を招へいしました。岡野さんは長沼健監督のもと、代表コーチを務めながら、クラマーさんの通訳をされたそうですが、何かご苦労はありましたか。

ドイツ語で苦労しました。学生時代に第二外国語でドイツ語は取りましたが、いつも試験前にドイツ語の堪能なやつに重要ポイントを教えて もらってそれを暗記して臨んでいたのです。だからほとんど覚えていなくて、クラマーとは片言でのやり取りでした。むしろ彼に、「選手はドイツ語は全くわからない。英語ならわかる。だから英語を勉強してくれ」とアドバイスしました。

―― 岡野さんがクラマーさんの英語の先生だったわけですね。

そうなのですが、すぐにうまくなりましたよ。クラマーさんのお母さんにかわいがってもらって、「私の息子だ」と言われて、亡くなるまでずっとお付き合いしていました。

―― 東京オリンピックでは日本代表はアルゼンチンを破り、ベスト8になりました。そして、1968年のメキシコオリンピックでは3位となり、岡野さんご自身も銅メダリストになられたのでしたね。

メキシコ協会の友人、アントニオ・ロッカが現地で選手登録してくれました。当時、日本代表チームは日本オリンピック委員会(JOC)に選手枠を減らされました。その枠に登録したのです。コンピューターのない良い時代でした。

―― 地元メキシコを2対0で破っての銅メダル獲得、盛り上がりましたよね。

テレビのモーニングショーに出たりしましたからね。それまでサッカーの“語りぐさ”といえば、36年のベルリンオリンピックで、優勝候補のスウェーデンを3対2で破った試合だったんですよ。もう耳にタコができるほど聞かされてきた。東京オリンピックでアルゼンチンに勝ったとき、八重樫茂生選手が「岡野さん、これでもうベルリンの話は聞かなくて済みますよね」と言っていました。

―― 八重樫さんらしいですね。メキシコ以降は、メキシコでの銅メダルが“語りぐさ”となっていったわけですね。ロンドンオリンピックの男女の代表の活躍で、新たな“語りぐさ”が生まれたでしょうか。

だとしたら、うれしいですね。

信頼で結ばれた長沼・岡野コンビ

―― 長沼さんと岡野さんのコンビは、例えば「情の人」と 「知の人」という言い方をされることがありますね。

そう言われますね。長沼が団長兼監督、僕がコーチ兼通訳兼マネジャーで、22~23人の選手を連れて南米からヨーロッパから、ずっと回っていました。僕らは性格的にも正反対でした。 一番わかりやすいのは、長沼は酒が一滴も飲めないのです。海外遠征をするとき「乾杯」は僕の役目で、彼はいつもジュースでした。

―― はあ。一滴も飲めない人と、一滴も残さない人が 一緒に組んでいたのですね。

そういうことです。長沼は非常に情があって、腹が太くて、みんなの意見をよく集約してくれる。彼がいたからこそ、僕は逆に厳しくやれました。僕が厳しい要求をして、最後は長沼がまとめてくれるという、互いに信頼感がありました。長沼が亡くなる直前、奥様に「何かあったら全部、岡野に相談しろ」と言い遺したそうです。

「三菱ダイヤモンド・サッカー」の名解説

盟友長沼健氏と(1998年ごろ)

―― 1968年から東京12チャンネル(現・テレビ東京)で「三菱ダイヤモンド・サッカー」の放送が始まり、岡野さんは解説をなさいました。金子勝彦アナウンサーとのコンビは、野球でいえばNHKの大先輩である「志村正順アナウンサー&小西得郎さん」のコンビに匹敵する素晴らしさでしたね。

「まあ、なんと申しましょうか」の小西さんでしょう。昔、NHKで出演者パーティーがあったときに、小西さんが僕のところに来てくださって、「あなたの解説はいいですよ。このまんまでおやりなさい」と言ってくださったのです。あの言葉は忘れられないですね。

―― 僕も小西さんの弟子なんですよ。あの方の話術は魅力にあふれていましたね。

解説を始める前に、誰を見本にして勉強したらいいのか、NHKの運動部長だった小林貫二さんに相談したんですよ。すると相撲の神風さんを勉強しなさい、ということでした。もう一人の解説者の玉の海さんは「あー、この勝負は、うー」とやります。でも神風さんはスパッと核心に入る。「岡野さんはそちらのタイプだから」と。

―― 神風さんの解説は明快でしたね。

はい。僕は日本経済新聞の「あすへの話題」というコラムで書いたことがあるんです。「現在、神風さんの系譜をひいているのは舞の海さんだ。理にかなってわかりやすい。だから僕は舞の海さんの解説を非常に楽しみにしている」と。のちに舞の海さんと、トリノオリンピックでたまたまお会いしたときに、「いいことを書いていただいて」とお礼を言われました。まさか本人が読んでいたとは思わなかった。


鈴木文弥アナウンサーとケンカ

―― クラマーさんからも何かアドバイスされたことがあるとか。

国立競技場で日本代表とユーゴスラビア代表の試合があったときに、NHKから初めて解説を頼まれたのです。その試合のためにクラマーにデータをもらったときに、「解説は、センテンスは短く、しゃべりはチャーミングに」というアドバイスをもらいました。僕は、NHKの大ベテランアナウンサーとケンカしたことがあるんですよ。

―― 鈴木文弥さんですか。

はい。打ち上げのときに、少し酔った勢いで、「文弥さん、名前は間違えないし速いし素晴らしい。だけど全部一人でやってしまう。もう少しセンテンスを短くして、僕が入れるようにしてください」と。そうしたら怒っちゃってね。あの人は怒ると僕のことを「俊一郎」ではなく「俊太郎」と呼ぶんです。「俊太郎、おまえは生意気だ」と。当時、中継回数は少なかったのですが、始まる前にお互いにどうやろうかミーティングをして、終わった後にまた反省会をして、画の大きさ、カメラ位置も含め、ずいぶん話し合ったものです。

―― 文弥さんは僕のバレーボール実況の先生です。ラジオ放送では、「左側にそれました」「右側に落ちました」などと言わなければならないのです。それをつい「向こう側にボールが落ちました」と言ったら、終わった後、「西田、ムコウガワは兵庫県だ」と言うんですよ。僕が理解できないでいたら、「甲子園のそばを流れているのは武庫川で、あそこは兵庫県だ」って。そんなユーモラスなしかり方で、口移しで指導してもらいました。岡野さんは1990年にNHK放送文化賞を受賞されましたよね。

はい。あれは早すぎたと思っていますが。

―― いや、岡野さんはサッカー解説という分野で、一つのスポーツジャーナリズムを構築されたのですよ。放送界への大きな功績です。

JOCとのかかわり

―― さて岡野さんといえば、もう一つ、国際オリンピック委員会(IOC)委員という顔をお持ちでした。岡野さんが日本オリンピック委員会(JOC)とかかわるようになったのはどういういきさつがあったのでしょう。

長沼監督のもとで、東京とメキシコのオリンピックで代表チームのコーチをした実績を日本体育協会が評価してくださって、河野謙三さんが体協の会長になった1975年に、日体協の理事になりました。当時、昭和一桁生まれの理事が同時に3人誕生したのです。

―― 他にどなたがいましたか。

レスリングの笹原正三さんと水泳の福山信義さんです。あのころは「昭和生まれ」ということで、新聞にも大きな見出しで取り上げられました。僕の役職は「競技力向上委員長」でした、すると日体協の一委員会だったJOCと絡むことになるわけです。それでJOCの常任委員になり、77年にJOC総務主事になりました。


モスクワオリンピックのボイコットが契機となって

―― つらかったご体験だと思いますが、1980年のモスクワオリンピックのボイコットのときは、どういう立場でしたか。

柴田勝治さんがJOCの委員長で、私はナンバー2の総務主事でした。じわりじわりと政府から圧力が来て、本当にきつかったですね。柴田さんも、選手たちは4年間努力してきたのだから何としても行かせてやりたい。その夢をつぶすなんてとんでもないという考え。だから「何とかしよう」と二人でいろいろ努力を重ねました。しかし結局は政府の圧力と河野会長の意向で投票になり、ボイコット賛成が過半数を超えたわけです。
ボイコットが決まったとき、柴田さんに「おまえ、JOCの将来の在り方を考えておけよ」と言われました。その一言が、ある意味ではJOC独立へ踏み出すことになる僕の第一歩でした。

「笑話会」の若いエネルギーがJOC独立に結びつく

―― 僕は「昭和会」だと勘違いしていたのですが、岡野さんは「笑話会(しょうわかい)」というのをつくっておられたのですね。

はい。柴田さんにJOCの将来像をと言われて、僕は一応、独立論の案をつくって持っていったのです。ところが柴田さんは「わかった。だけど、これは時期尚早だから金庫へ入れておくよ」と。どこの金庫に入ったかはわかりません。「もう少し考えろ」と言われたので、全競技団体が独立に賛同してくれなければ意味が無い。それならば、各競技団体の昭和一桁世代の連中を仲間に入れて、われわれの年代で話し合おうと、日体協とJOCの役員の12人を集めて会合を開いたのです。第1回は1984年の1月と記憶しています。水泳は古橋廣之進さん、バレーボールは松平康隆さん、卓球は荻村伊智朗さん、アイスホッケーは堤義明さんなどでした。

―― そうそうたるメンバーですね。

あるとき、先輩の体協理事に呼び出されて、「『昭和会』なるものをやっているようだが、造反する気かね」と聞かれました。運良く召集の手紙を持っていたので、「笑って話す会ですよ。競技団体の垣根を外して、日本のスポーツ界がどうあるべきか語り合っているんですよ」と説明しました。JOCの将来像について、それぞれの立場で率直に話そうと回を重ね、結局は皆が「やっぱり独立しようじゃないか」と。そのエネルギーが独立に結びついたんですね。笑話会はずいぶんと続きましたが、徐々に昭和一桁が年寄りになり、流れ解散しました。

―― その結果、JOCは日体協から独立。89年のことでしたね。

はい、89年8月7日です。財団法人日本オリンピック委員会として独立した法人になりました。おふくろが亡くなった日ですので、忘れません。

金メダルへのプレゼンター

アテネオリンピックで北島康介選手を表彰(2004)

―― 岡野さんがIOC委員になられたのは、1990年9月ですね。その語学力と国際感覚を生かして活躍され、昨年、定年に伴い退任され、現在は名誉委員になられています。オリンピックが終わったばかりですが、IOC委員といえばメダルのプレゼンターの役割がありますよね。北島康介選手と伊調馨選手に金メダルをかけたシーンを覚えています。

北島選手にはアテネ、北京と2回連続で渡しました。やはり日本人に渡すのは気持ちいいですね。

―― そうか、連続だったのですね。あれは日本が勝ったら岡野さん、負けたら別の方というようになっているのですか。

いえ、基本的には最初から決まっているんです。

―― あ、そうなんですか。では別の国の選手に授与する可能性もあったのですね。そう考えると、自国の選手に授与するという体験は大変名誉なことですね。

僕は割とついていて、初めてIOC委員として行ったバルセロナ大会(92年)では、柔道の古賀稔彦くんに金メダルを渡しているんですよ。心残りといえば、サッカーにも渡したかったなあ。 長野大会(98年)のとき、サマランチIOC会長が配慮してくれたことがありました。冬季大会では、女子フィギュア、アイスホッケー、ジャンプ団体の3種目は会長自らがプレゼンターになるという不文律があったのです。ところが僕がスケート会場にいたら会長から電話がかかってきて、「すぐ表彰式へ来い。ジャンプの団体で日本が優勝したからおまえが渡せ」と。そこで金メダルだけ僕が渡して、銀と銅は会長からということになりました。

―― へえ、わざわざそんなことが。

マグマの溜まってきた若手をどう噴火させるか

―― ロンドンオリンピックでは、日本代表選手団は金メダルこそ7個という数でしたが、金銀銅合わせて日本史上最多の38個という好成績を挙げました。僕はかねがね、国民のスポーツ文化への意識として、金メダリストだけでなく、銀メダリスト、銅メダリストについても記憶に留めておいてほしいと思っています。彼らは、次への金メダルへという希望につながりますからね。

そうそう、北京では金メダルを多く取りましたが、ほとんどがベテランでした。その点、今回は次のリオに期待が持てますね。
僕が日本サッカー協会の会長になったとき、記者会見で「会長の仕事は3つしかない」と言いました。1つは、競技の普及。もう一つは、強化。そして3つめが財政の裏付け・確立だよ、と。よく競技の普及において、底辺が広がれば自ずと頂点も伸びると錯覚されている人がいますが、これはうちの店のまんじゅうと同じで、底辺が広がっても上は丸くなるだけなのです。トップ選手が国際レ ベルで好成績を挙げないと、メディアは取り上げてくれない。トップ選手の好成績で、メディアが取り上げる噴火現象で裾野は広がる。しかしそこからさらにトップの強化が、各競技団体の重要な仕事です。大事なのは次の若手がどれだけ来ているか。マグマがどれだけ上がってきているか。噴火準備中の若手がどれだけいるか、なのです。

―― エネルギーの爆発ですね。

そうです。人材をどう育て、どう噴火させるか、各競技団体は財政的に厳しい中でのがんばりどころですね。

2020年東京オリンピック招致の成功に向けて

―― 2020年の夏季オリンピック招致都市の決定は来年9月7日に迫っています。

ブエノスアイレスでのIOC総会ですね。トルコのイスタンブールとスペインのマドリードが残っています。

―― 私は東京で開催しないと、オリンピックは進歩していかないと考えます。経済状態を考えると、まずスペインは難しいですよね。イスタンブールは、イベントの専門家たちがヨーロッパとアメリカからアジアの一角に乗り込んできて、終わったら「はい、次のイベントへ」というイメージがあるんですよ。東京ならば、組織的に機能させることができる。これからもフェアなオリンピック・ムーブメントを継続させていくためには、日本で開くことが一つの使命ではないかと……。

はい、おっしゃりたいことはわかります。東京は2016年の招致では敗れましたが、二つの弱点があったと思います。一つは南米ではまだ一度もオリンピックが開催されていなかったこと。これは東京は2度目でマドリードとイスタンブルは初めてと、2020年にも続く難しい問題です。もう一つは、日本は投資をしなかった。日本の企画による国際会議やスポーツの国際大会など、IOC委員が自然に集まる仕掛けをつくることができませんでした。それで、一番美味しいオリンピックだけくださいといってもそれは無理ですというのが僕の考えです。その点、今回は前回の立候補がすでに一つの投資となっていますからね。

スポーツ人生を振り返って

ベッケンバウアー氏、クラマー氏と(1997/フランス)

―― 中学生でサッカーを始めて以来、岡野さんのスポーツ人生を振り返っていただくと、生きたスポーツ史のように思えます。ご自分でも幸せだなと思うことはありますか。

うーん、スポーツのほうの人生を見れば幸せだと思いますね。しかし小さくても商売をしています。そちらや家族との時間はずいぶん割いていますので、必ずしもスポーツに携わっていてよかったことばかりではないですね。もう少しこちらをやってみたかったとか、人間だからいろいろありますよ。 振り返れば、僕はクラマーと出会ったことで、サッカーである程度の成績を挙げ、そこから体協・JOCへ入っていった。簿記を身につけて店の経営を、という青写真からは大分変わりましたが、クラマーとの出会いが一つの転機だったのでしょうね。


スポーツ基本法について

―― 昨年、スポーツ振興法制定以来、50年ぶりに「スポーツ基本法」が成立しました。今後、日本がスポーツを通じて目指す社会の在り方に向け、今年3月、「スポーツ基本計画」が策定されました。これらは今後、スポーツ界にどのように影響を与えていくでしょうか。

スポーツ基本法は国の法律ですから、実際に施策として実現されていくためには予算措置が必要です。ここまで、鈴木寛文部科学省副大臣や遠藤利明衆議院議員など若手政治家の方たちにいろいろご尽力いただきましたが、これで終わりではなく、今後もよろしくお願いしたいところですね。こういう時代なので難しいことも多いと思いますが、一つでも多く具体化していけるようやっていただきたいと思います。

―― スポーツ振興における新たなスタート地点としてということですね。

スポーツの素晴らしさを語り部(かたりべ)として伝えていく

スポーツは「今こそが大事」と僕は考えています。人間、便利になると体を動かさなくなります。しかも今の便利さは、頭も使わなくてよかったりするでしょう。コミュニケーションの苦手な人も増えているようですが、スポーツを通じて体を使い、仲間をつくり、一緒に何かをしていくのはとても大事なことです。 そんな日本の最大の問題点は、スポーツをする場がまだまだ少ないということです。土地の生産性にばかり目が向けられて、スポーツ施設は赤字だと言われる。しかしそれらの問題は、スポーツ基本法の中でどんどん解決してほしいと願っています。見た目には赤字かもしれないけれども、長い目で見ればいろいろなプラスがあるんだよということを広く知らせていかなければなりません。

―― まずは国民に広めて知らせて納得してもらうところからですね。

はい、それには僕らのようなスポーツにかかわってきた人間が、いろいろなところでスポーツの素晴らしさを語り継いでいかなければなりませんね。

―― 本当にそうですね。わかりました。どうもありがとうございました。

  • 岡野俊一郎氏略歴
  • 世相
1921
大正10
大日本蹴球協会創立
初代会長に今村次吉が就任
1925
大正14
大日本体育協会に加盟
1929
昭和4
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟(1950年~再加盟)
1931
昭和6
協会旗章「3本足の鳥」を制定

  • 1931岡野俊一郎氏、東京に生まれる
  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第1回近畿国体に参加

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
国際サッカー連盟(FIFA)に日本蹴球協会として再加盟 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1954
昭和29
FIFAワールドカップ(スイス大会)の地域予選に初出場 
                            
アジアサッカー連盟(AFC)創設(5月)と同時に加盟(10月)

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1958
昭和33
市田左右一常務理事(当時)が、日本人初のFIFA理事に就任。
以降1969年に野津謙会長(当時、第4代)、2002年に小倉純二副会長(当時、現・会長)が就任
1964
昭和39
日本代表、東京五輪出場。アルゼンチンに勝利しベスト8進出を果たす

  • 1964岡野俊一郎氏、東京五輪に日本代表コーチとして参加
  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
実業団8チームが参加し、日本サッカーリーグ(JSL)が開幕
1968
昭和43
日本代表、メキシコ五輪に出場。3位決定戦で地元メキシコに勝利し銅メダル獲得、
同年FIFAが新設した「FIFAフェアプレー賞」を受賞

  • 1964岡野俊一郎氏、メキシコ五輪に日本代表コーチとして参加、銅メダル獲得
1969
昭和44
第メキシコ五輪日本代表が、ユネスコの1968年度フェアプレー賞を受賞

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1970岡野俊一郎氏、日本代表監督に就任(~1971/10)
1972
昭和47
天皇杯全日本サッカー選手権大会の参加資格をJFA全加盟チームに開放、予選大会として地域で大会が実施される

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
財団法人化。(財)日本サッカー協会(JFA)に名称変更
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
全国から優秀な選手を集めた教育制度、セントラルトレーニングセンターをスタート

  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
FIFAワールドユース・トーナメント(現・FIFAU-20ワールドカップ)を日本で開催

1981
昭和56
欧州と南米クラブの王者が世界一の座をかけて対決する「トヨタヨーロッパ/サウスアメリカカップ」開催
日本女子代表チームを初めて編成し、第4回アジア女子選手権(現・AFC女子アジアカップ)(香港)に臨む

  • 1982東北、上越新幹線が開業
  • 1984香港が中国に返還される
1986
昭和61
プロ選手の登録を認める「スペシャルライセンスプレーヤー制度」を制定    
1987
昭和62
高円宮憲仁親王殿下がJFA名誉総裁に就任される           
1990
平成2
創立60周年。世界スポーツアクロ体操選手権大会(アウグスブルグ)に参加        
1989
平成1
日本オリンピック委員会(JOC)に加盟
日本女子サッカーリーグ(現・なでしこリーグ)が開幕。第1回大会は6チームが参加
2002年、FIFAワールドカプの開催国として正式に立候補を表明
1991
平成3
日本女子代表、第1回FIFA女子ワールドカップ(中国)に出場

(社)日本プロサッカーリーグ設立、初代チェアマンに川淵三郎氏が就任
1992
平成4
第10回アジアカップを広島で開催し、日本代表は決勝でサウジアラビアに勝利し、アジア初制覇
1993
平成5
日本初のプロサッカーリーグ「Jリーグ」、10チームが参加して開幕。1999年には 1・2部制導入
1995
平成7
日本女子代表、第2回FIFA女子ワールドカップ(スウェーデン)出場、ベスト8となり、アトランタ五輪の出場権獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
U-23日本代表、28年ぶりにアトランタ五輪出場権を獲得。
五輪はアトランタ大会から女子サッカーが正式種目
アトランタ五輪に男女共に出場。男子代表がブラジルを下し、「マイアミの奇跡」として歴史に刻まれる
1997
平成9
日本代表、イランとのアジア地区第3代表決定戦(プレーオフ)を制して、 初のFIFAワールドカップ出場を決定
1998
平成10
日本代表、FIFAワールドカップ98(フランス)本大会に出場

  • 1998岡野俊一郎氏、日本サッカー協会会長に就任
1999
平成11
U-20日本代表、FIFAワールドユース選手権(ナイジェリア)出場、準優勝
日本女子代表、第3回FIFA女子ワールドカップ(アメリカ)に出場
2000
平成12
日本代表、第12回AFCアジアカップ (レバノン)に出場し、2度目の優勝            
2001
平成15
FIFAコンフェデレーションズカップ (日韓共同開催)で準優勝            
2002
平成14
2002FIFAワールドカップを韓国と共同開催。32試合を日本で開催し、ブラジルの優勝で閉幕。
日本代表はベスト16進出。世界が”笑顔のワ―ルドカップ”と賞賛
2002FIFAワールドカップを成功させたとして、日本と韓国にFIFAフェアプレー賞が授与される            
2003
平成15
日本女子代表、第4回FIFAワールドカップ(アメリカ)出場
JFAハウス(東京都文京区)に日本サッカーミュージアムをオープン
2004
平成16
日本代表、AFCアジアカップ(中国)に出場し2大会連続で3回目の優勝を決める       
2005
平成17
日本サッカーの発展に尽力した功労者を称える、「日本サッカー殿堂」創設

  • 1998岡野俊一郎氏、第1回日本サッカー殿堂入り
2006
平成18
日本代表、2006FIFAワールドカップ(ドイツ)出場            
2007
平成19
日本女子代表、FIFA女子ワールドカップ(中国)出場

2008
平成20
47全ての都道府県サッカー協会が法人化
U-23日本代表、なでしこジャパン(日本女子代表)ともに北京五輪に出場。なでしこジャパンが4位

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
U-17日本女子代表、FIFAU-17女子ワールドカップ(トリニダード・トバコ)に出場し、準優勝に
第16回アジア競技大会(広州/中国)で、U-21日本代表、なでしこジャパン共に初優勝を飾る
2011
平成23
日本代表、AFCアジアカップ(カタール)出場、大会最多の4度目の優勝を果たす
なでしこジャパンがFIFA女子ワールドカップで初優勝。日本はFIFAフェアプレー賞を受賞