金メダリストのもとで多くを学んだ大学時代
初の海外遠征でソ連(当時)へ出発時に横浜港にて
両親から見送りを受ける(1967年)
―― もともとオリンピックを目指すほどのアスリートだった松浪さんですが、その生き方はお父さまの影響が大きかったそうですね。どんな父上でしたか?
私は男ばかりの四人兄弟でして、幼少時代の兄弟の遊びといえば、広い座敷で相撲をとることでした。ですから座敷は擦れるし穴は開くしで、家に来たお客さんはその様子に驚いていましたね。なにせ我が家で一番荒れた部屋が、お客さんを通す座敷でしたから(笑)。ただ、それを父親は叱るでもなく、楽しそうに眺めているわけです。我が家では「座敷は客間だからきれいにしておかなければいけない」という発想はなく、父親は「一番広い部屋である座敷は、子どもの道場だ」と言っていたくらいでした。
ただ、教育を考えた時に、父親は武道が一番だと考えたようですね。それで長兄と次兄は柔道、三番目の兄は剣道、そして末っ子の私にも柔道を習わせました。父親は勉強することよりも、まずは稽古に毎日きちんと通っているかどうかの方が厳しい人でした。
高校3年の時、大阪・浜寺公園にて
(1964年)
―― レスリングの選手としてオリンピック代表候補にも挙がったほどの方ですが、始まりは柔道だったんですね。何が転向のきっかけだったのでしょう。
柔道をやっていた長兄が関西大学に進学後、レスリングに転向したんです。兄の大学の同級生には、1964年東京オリンピックでレスリング・グレコローマンスタイル※のバンタム級(57kg)で金メダルを獲得した市口政光選手(1960年ローマ、1964年東京と2大会連続でオリンピックに出場)がいまして、兄貴はその一つ上のフェザー級(63kg)でした。その兄が自分と同じように体がそれほど大きくない私にレスリングを薦めてくれたんです。
ちょうど私が高校3年生の時に1964年東京オリンピックが開催されました。市口さんをはじめレスリングで日本人選手が活躍する姿を見て、私も「よし、じゃあ、レスリングで頑張ってオリンピックに出よう!」とその気になりまして、大学進学後にレスリングに転向しました。特に投げ技中心のグレコローマンスタイルは、柔道をやっていた私にとっては合っていましたね。
※全身を使った攻防戦の「フリースタイル」とは異なり、上半身に限られ、腰から下を攻防に用いることは禁止されている。そのため上半身で組み合ってからのダイナミックな投げ技が醍醐味
―― 日本体育大学を選んだ理由は何だったのでしょうか。
市口さんが日体大を薦めてくださったんです。というのも、東京オリンピックには、グレコローマンスタイル・フライ級(52kg)で金メダルを獲得した花原勉先生をはじめ5人の選手を輩出していたんです。日体大では、その花原先生の付き人を務めまして、四六時中、行動を共にしました。先生のデートにまでついていきましたからね(笑)。
東京オリンピックレスリングで共に金メダルに輝いた
花原勉(左)と市口政光(1964年)
―― 金メダリストでもある花原さんからは、どのようなことを学ばれたのでしょうか?
世に名が出るということは、どういう責任が生じることなのか。そのためにはどういう努力をして、どんなマナーを身につけ、どんな人間でなければならないか、ということを教えていただきました。私の人生において非常に学ぶことが多くありました。
また、花原先生の元には世界中からレスリングの選手たちが先生の教えを請うために練習に来ていて、私たち学生と一緒に寝泊まりしていました。ですから、英語が話せなければどうにもならなかったんです。先生ご自身も英語で日常会話ができましたから、「国際的な知識や感覚を身につけなければ、この先やっていけないぞ」と思えたのは、先生の付き人をやっていたからこそだったと思います。
花原勉氏(中央)と。左は先輩の勝村靖夫氏
―― 素晴らしい先生のもと、恵まれた環境で、しかも国際的な刺激も受けながら、1968年のメキシコオリンピックを目指していたんですね。
本当に充実した日々を送っていました。今振り返っても、大学での日々、経験というのは、その後の人生を左右した、とても大事なものだったと思います。ですので、大学時代が一番思い入れがあります。
ただ、小学生の時の先生方からも影響を受けました。小学校1、2年生の時の担任の先生には毎日作文を書かせられたのですが、褒めるのが本当に上手な先生でした。そのおかげで、私は文章を書くことが好きになりました。小学校3、4年生の時の担任の先生は、私の運動神経の良さを見抜いてくれまして、「松浪くんは、スポーツ選手になるといいかもしれないよ」と薦めてくださったんです。その後の人生における最初の方向付けとなったのがその先生からの言葉でした。
人生の糧となった海外での刺激的な経験
メキシコオリンピックレスリングで金メダルを獲得した宗村宗二(1968年)
―― 1968年メキシコオリンピック出場を目指すにあたっては、同じグレコローマンスタイル・ライト級(70kg)に、宗村宗二さん(1968年メキシコオリンピック、グレコローマンスタイル・ライト級で金メダルを獲得)という松浪さんにとって強力なライバルがいらっしゃいました。
「ライバル」というよりも、当時の宗村選手はもう強すぎましたね。宗村選手と初めて対戦したのは、私が大学2年生の時、メキシコオリンピックの前年の1967年の全日本選手権、決勝トーナメントでした。当時、私は彼に勝つ自信がありました。ところが、タックルに入った時に、私の頭が彼の骨盤に当たったんです。それでドクターストップがかかってしまい、すぐに救急車で病院に運ばれて7針縫う手術をしました。あの時、私は勝つ自信がありましたから、ケガをおしてでも試合を続けたいと思っていました。しかもNHKが中継をしていましたからね(笑)。とにかく棄権したことが、ひどくショックでした。
ただ、その大会の結果を高く評価していただいて、私はその年に初めて日本代表候補となり、6月のソ連遠征のメンバーに選ばれました。そして、翌1968年3月、メキシコオリンピックの代表選考を兼ねて行われた日本選手権で再び宗村選手と対戦したのですが、その時はまったく歯が立ちませんでした。「彼が現役の間は、自分がオリンピックに行くことは無理だな」と思ったほどでした。実は宗村選手は、本来は1964年の東京オリンピックに出場するはずだったんです。ところが、選考会で優勝したにもかかわらず、国際大会の実績不足や技術的な甘さなどを指摘され、東京オリンピック代表には選出されなかったという屈辱を味わっておられたんです。ですので、メキシコオリンピックへの思いは並々ならぬものがあったと思います。年齢的にも彼は25歳でしたから、背水の陣での挑戦だったと思います。
アメリカへ出発時、勝村靖夫先輩の見送りを受ける(1968年)
その反面、私はまだ学生でしたので、また次もチャンスがあると思っていました。ただ、宗村選手に一度も勝つことができず、「自分の力はここまでなのかもしれない」という思いもありました。レスリングを続けたいと思いながらも、自分の力に可能性を見出せなくなっていたんです。日本国内でトップになることはできても、世界となると、己の才能では無理かもしれないなと……。
―― その影響かもしれませんが、翌1969年、全米レスリング選手権大会に出場されます。アメリカに渡ったいきさつはどういうものだったのでしょうか?
日本レスリング協会から「全米選手権に出てみないか?」と言われたのがきっかけだったのですが、私はもうそのままアメリカの大学に留学しようと考えていました。ですから日体大に休学届を出して全米選手権に出場したんです。全米選手権では、当然優勝できるだろうと思っていたのですが、途中までは優勢だったにもかかわらず、最後に時間を稼ごうと思ってわざと倒れたら、それがホールドを取られて負けてしまいました。結局4位という結果に終わりました。当時、日本はまだ四角いマットでしたが、アメリカではすでに現在と同じ丸いマットを使用していて、それに慣れていなかったこともありましたが、とにかく当然優勝すると思っていましたので、ショックは大きかったですね。もし、優勝していたら、アメリカの有名な大学に声をかけてもらえたと思うのですが、4位でしたから、それが叶いませんでした。
それでガクッと肩を落としているところに、東ミシガン大学に声をかけていただいたんです。同大学は旧師範学校としては名門のところでしたから、非常にありがたかったです。ただ、実家からは一切の仕送りがありませんでしたので、生活費を稼ぐために、とにかくさまざまなアルバイトをしながらの生活でした。芝刈り、ガソリンスタンド、さくらんぼ採り、アスパラガス採り、トマトの獲付け……涙が出るほど辛いこともありましたが、今振り返れば、すべて私自身の人生の糧になったと思います。
日本体育大学レスリング部での練習風景
―― 留学を終えた後はどうされたんですか?
アメリカから戻って、日体大に復学をしまして、単位を取って卒業しました。しかし、アメリカではすでに小学校や中学校の教員になるにも修士課程を出るのは常識とされていましたので、日本もすぐにそういう時代が来るだろうと思っていました。ですので、私も日大大学院に進学をしました。大学院はレスリングの練習場に近かったこともあって、レスリングの練習を続けていました。ところが、体重制度が変わって、それまで私の階級だったライト級は70kgだったのが、68kgに変更になりました。68kgまで落とすのはとても無理でしたので、74kgに増やして、一つ上のウエルター級で日本選手権に出たんです。そしたらやはり4kgの差というのは大きいんですね。ウエルター級ともなると体つきがやはり違って、大会で初めてホール負けを決勝戦で喫しました。もう大変なショックを受けました。私はその時、「あぁ、これで選手としては終わったな」と悟りました。それ以降は、学問の道に突き進み始めました。
左:八田一朗氏(右)と笹原正三氏(1964年)
右:アフガニスタンのカブール大学の教え子たちと
―― 1975年にはアフガニスタン国立カブール大学で初の日本人講師としてレスリングの指導を始めました。
日大大学院を卒業するという時に、日本レスリング協会の笹原正三さん※1 から「アフガンに行ってくれないか」と言われたんです。当時、八田一朗会長※2 が親しくされていたアフガニスタンの殿下がいて、しばしば来日もされていたのですが、その殿下とのつながりでスポーツ交流の一環として私が講師に招かれた形でした。実際、その殿下に親書を持って会いに行ったところ、アフガ二スタンは1973年に起きたクーデターによって王政が廃止となっていて、当時は殿下が自宅に拘束されている状態でした。その後、拘束が解かれた時に一度お会いしましたけれども、こんな高貴な方と親しくされているなんて、八田会長のスポーツを通じての国際交流というのはすごいなと思いました。
松浪 健四郎氏(当日のインタビュー風景)
アフガニスタンの大学では3年間、体育の授業や放課後にはレスリング、柔道の指導を行いましたが、日本との違いをいろいろと学びました。まず、彼らは整列するという概念がありませんでした。それは、小学校、中学校、高校で体育という授業がないので、整列するということを学んでいないからなんです。一方、日本では幼稚園でもやりますが、小学校に入ってまず体育の授業でやるのが「前へならえ」で整列することですよね。こういうことをやっているからこそ、日本人は大人になって、自然と整列乗車するという秩序ある行動がとれるわけです。ところが、体育のない国では、整列を学ぶ機会がありません。いかに体育の授業が人間教育において重要かを痛感しましたね。
その一方で、私が学ぶことも多くありました。アフガニスタンの学生は私がやることすべてが初めて見ることばかりなので、目を輝かせて見てくれました。そうして、楽しそうにやるわけです。まぁ、時々、ふざけすぎる学生もいるので、そういう時は厳しく注意をしたりしたこともありましたけどね。3年間、体育の授業をして、放課後にはレスリングや柔道を教えました。とはいっても、柔道を教えようにも柔道着なんてものはありませんから、市場に行って紐を買ってきまして、それを襷がけにし、その紐を柔道着の襟代わりにしてやるなど工夫するしかありませんでした。マットも畳もありませんでしたから、綿を買ってきて糸で縫い合わせたものを下に敷き詰めて、その上から大きな布を縫い付けて、それをマット代わりにしてやりました。物がない所で教えることはどういうことかを学んだりもして、私にとっても良い経験になりました。
※1 1956年メルボルンオリンピックにレスリング日本代表として出場。1964年東京オリンピックではフリースタイルのコーチとして帯同。1989年~2003年には日本レスリング協会会長を務めた
※2 現役時代は1932年ロサンゼルスオリンピックに出場。1964年東京オリンピックで指導者として金メダル5個獲得に貢献するなど、レスリングを日本のお家芸にした「日本レスリングの父」