東京マラソンでの光景に映されたスポーツの神髄
シドニーオリンピック女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子選手(左)と小出義雄監督(2000年)
―― 石原さんは、幼少時代からさまざまなスポーツに親しまれてきました。また、東京都知事時代には、日本スポーツ界の発展に寄与されてきました。例えば2007年から開催されている日本最高峰のマラソン大会「東京マラソン」はすっかり東京の名物となり、今では一般募集の抽選倍率が2ケタと大人気のスポーツイベントです。今年3月の東京マラソンの一般エントリーは抽選枠26,370人に対して293,275人が応募し、抽選倍率は11.1倍でした。東京マラソン創設のきっかけは何だったのでしょうか。
東京マラソンは、我ながら良いスポーツイベントを作ったなと自負していることの一つですね。そもそものきっかけは、シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんに「東京でマラソン大会を開催したい」と言われたことからだったんです。最初、私はそれを聞いて、「42.195kmも走る過酷なスポーツであるマラソンというのは、やっぱり空気のきれいなところでやるべきですよ。空気が汚れた東京では、ちょっと無理じゃないの?やめておいたほうがいいですよ」と言ったんです。そしたら、高橋さんの恩師である小出義雄監督(高橋さんや、1992年バルセロナオリンピック銀メダル、1996年アトランタオリンピック銅メダルの有森裕子さんなどを育てた、日本の女子マラソン界きっての名伯楽)がこう言うんです。「石原さん、私もQちゃん(高橋さんの愛称)が言うとおり、東京マラソンには大賛成ですよ。なぜなら、マラソン選手というのは、意外かもしれませんが見栄っ張りが多く、大勢の人に自分が走っている姿を見てもらいたいと思っているんです。42.195kmも走るわけですから、やっぱり大勢の観客が見ている前の方が嬉しいんですよ」と。それで私も「なるほど」と思いまして、「それなら、ぜひ東京マラソンをつくりましょう」ということになったわけです。
第1回東京マラソン。スタート台で手を振り観客に応える。
左は河野洋平日本陸連会長(当時)(2007年)
―― 東京マラソン創設には日本財団や笹川スポーツ財団も大いに協力しましたが、「やる」と決めるまでに、ご苦労も多かったのではないでしょうか。
一番大きな壁だったのは、警視庁でした。大都市である東京のど真ん中でマラソン大会をすれば、大掛かりな交通整備や警備が必要になりますからね。そこで私は当時の警視総監に冗談まじりにこう言いました。「私に直接は警視庁の任命権はないけれども、東京都知事である以上、警視庁を指揮する責任者であるわけだから、東京マラソンに賛成しなければ罷免するかもしれないよ」と。そしたら、なかなかユーモアセンスのある警視総監で、私の冗談に乗ってくれまして、「わかりました。私も首にされたら困りますので、東京マラソンをやりましょう」と引き受けてくれました。
―― 東京マラソンの構想を発表された際には、「日本最大で最高のマラソン大会にしたい」とおっしゃっていました。
当初私は、東京都内だけでなく、埼玉県や千葉県を含めた"首都圏"のマラソン大会にしてはどうか、と提案していたんです。しかし、「それでは距離が42.195kmを超えてしまうので、無理です」と言われてしまって断念しました。また、「レインボーブリッジ」(正式名称「東京港連絡橋」)をコースに入れたいと考えていたのですが、レインボーブリッジは坂道になっていて、マラソンで走るには勾配がきつくてとても無理だと。「あんなところを走ったら、選手たちはみんなへばっちゃいますよ」と言われてしまったものですから、これも断念しました。
東京マラソンでの光景に映されたスポーツの神髄
第1回東京マラソン。都庁前をスタートするランナー(2007年)
―― 2013年からは、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークと同じく世界最高峰の「アボット・ワールドマラソンメジャーズ」の一つとなりました。
確かに、東京マラソンが「世界6大マラソン」の一つとなったことは名誉なことだけれど、私自身はそういうエリートの部よりも、一般の部の方が感動を覚えましたね。東京マラソンでは制限時間が設けられていて、さらに交通・整備や競技運営上、コースにはいくつかの関門があって、それぞれ閉鎖時間が設けられています。その時間に間に合わなかった場合は、タイムオーバーとなって、そこから先を走ることができず、迎えに来た収容バスに乗らなければいけません。だからみんな収容バスに拾われないようにと、必死で関門を通り、なんとか完走を目指すわけです。そうして、無事に完走したランナーたちはみんなゴールで泣いているんです。
都知事の時にはよくゴールで「ご苦労さん」と労いの言葉をかけに行ったんだけれども、そうすると多くのランナーが私に向かって「石原さん、ありがとうございます」と言ってくれましてね。「いやいや、私に感謝する必要はありませんよ。あなた自身が頑張った結果なんだから。フルマラソンを走り切るなんて本当にたいしたもんだ。無事にゴールできて良かったですね」と言うと、みんな涙を流して喜んでくれました。あれは、本当に美しい光景でした。エリートの部の優勝者に月桂冠を渡すよりも、ずっと嬉しいものがありましたね。
―― 石原さんは都知事時代には、スタートの号砲を撃って、そのまま最後の一人がスタートを切るまで全員を見送られていました。相当な長い時間を要しますよね。
それでも、あの少し高いところからみんなが意気揚々とスタートしていくのを見られるのは、いい眺めでしたよ。私に向かって「石原さん!ありがとう!」と言いながら走っていく人たちも大勢いて、嬉しかったですね。「あぁ、苦労してでも東京マラソンを作って本当に良かったなぁ」と思いましたよ。
東京マラソン。大会を支えるボランティア(2014年)
―― また、東京マラソンのおかげで"スポーツボランティア"が脚光を浴び、昨年のラグビーワールドカップや今年の東京オリンピック・パラリンピックに繋がっています。"スポーツボランティア"の重要性についてお聞かせください。
東京マラソンをやろうと構想を始めた時から"ボランティア"のことが頭にありました。当時はまだ日本では、なかなかボランティア活動に対する理解が進んでいませんでしたが、大勢のランナーが長時間にわたって走る市民マラソンでは、大会運営上、ボランティアの存在が不可欠と考えたのです。
2007年の第一回大会では約3万人の市民ランナーに対し、約1万人の無償ボランティアが参加してくれました。給水・給食など市民ランナーへのサポート業務、沿道の観客に案内・誘導、完走メダル配布など多岐にわたり献身的な活動を展開し、マスコミにも大きく取り上げられ、大会の成功に寄与しましたよ。私はレース後に次のような言葉でボランティアを労いました。「日本には昔から、籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、ということが言われてきた。今の日本ではこのような考え方が薄れてきている。あなたたちの活動はこの言葉を体現している。本当にありがとう。ランナー、都民、国民に代わって、心から御礼を申し上げる」と。
東京オリンピック女子バレーボールで
宿敵ソ連(当時)を破り金メダルを獲得した
“東洋の魔女”(1964年)
スポーツボランティアはその後の様々なスポーツ大会、2019年ラグビーワールドカップなどで活躍しました。東京マラソンで結実し、大きな花を咲かせたのです。2020年東京オリンピック・パラリンピックや2021年のワールドマスターズゲームズ関西ではさらに充実したボランティア活動を期待したいですね。
オリンピック招致レースで見えたIOCの真実の姿
―― もう一つ大きな功績は、やはりオリンピック・パラリンピックの招致です。石原さんが都知事時代に、2016年大会の招致活動に踏み切ったことが、2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致成功につながりました。石原さんにとって初めてのオリンピックの思い出は1936年、3歳の時に開催されたベルリンオリンピックで日本代表が着たのと同じコスチュームで、後に日本を代表する俳優となられた弟の裕次郎さんと二人で記念撮影をされたことだそうですね。また、1964年東京オリンピックの時は、開会式と閉会式をはじめ、いくつかの競技をスタンドで観戦されたそうですが、一番の思い出は何でしょうか。
最も感動的だった試合は、ソ連(現ロシア)を破って金メダルに輝いた女子バレーボールの決勝でした。優勝が決まった瞬間、ふと全日本のベンチを見ると、コート上で喜びにわく選手たちをよそに、一人静かに座って感慨にふけっている大松博文監督(回転レシーブの生みの親。日本バレーボール界きっての名将)の姿がありました。その姿を見て「男の美しさ」を感じましたね。その後、大松監督は選手に促されてようやく胴上げの輪に加わったんです。
ただ、そうした試合の名シーン以上に強く記憶に残っているのは、メインスタジアムである国立競技場で行われた陸上競技で、トラック種目でもフィールド種目でも、日本の国旗である日の丸がまったくと言っていいほど揚がらなくて、悔しい思いをしたことです。
東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉(後ろ)(1964年)
ほとんどの種目での金メダルをアメリカが取りまして、センターポールに星条旗が揚がり、アメリカ国歌が流れるわけです。当時は時間短縮のために国歌を最後まで流さずに途中で終わるのですが、その続きをバックスタンドで朗々とトランペットで吹く人たちがいたんです。「彼らは誰なんだ?」と思って調べさせたら、アメリカ人の肉屋と八百屋の二人のオヤジでした。悔しかったけれど、普通のオヤジがトランペットで国歌の続きを吹くなんて、粋だなと思いましたよ。
結局、日本のメインスタジアムで国歌が流れることはなかったけれど、それでも最終日の男子マラソンで円谷幸吉選手が銅メダルを取ってくれて、ほっと胸をなでおろしましたね。そういう思い出があるものですから、今度こそメインスタジアムで日の丸が掲げられるシーンを見たいという思いもあって、オリンピックの開催都市に立候補したんです。
それともう一つ、オリンピックを招致しようと思った理由がありました。私が1999年に東京都知事に就任した当時、東京都の貯金は約40億円しかなく、財政再建団体に転落する寸前というところまで悪化していました。そこで公認会計士の中地宏さん(1972年、日本人初のアメリカ公認会計士となり、日本公認会計士協会会長などを歴任。現在は経営管理ナカチ相談役)を筆頭とする検討チームに、東京都の責任会計を具現化するための「機能するバランスシート」(管理会計のツールとして財政状況を数値で明確にした部門や業績評価のための財務情報)を作成してもらいました。
また、当時東京都労働組合連合会(都労連)委員長を務めていた矢澤賢さんが、偶然、私の親友だった当時日本テレビ会長を務めていた氏家齊一郎さんの縁戚だったこともあって、いろいろと協力してくれたことも大きかった。氏家さんのおかげで都労連にも承諾を得られたので、3年間は歳費をカットして貯金しようということになったんです。実際は4年間だったんですけれども、そうしたところ、就任5年目には4000億円の貯金ができました。それで何かやろうと思って、オリンピックの招致を考えたんです。
コペンハーゲンで開催されたIOC総会での石原慎太郎都知事(当時)の2016年東京大会招致プレゼンテーション(2009年)
―― 実際に招致活動をしてみて、いかがでしたでしょうか?
結局、招致レースには負けてしまったわけですけれども、国際オリンピック委員会(IOC)というのは、予想以上に閉鎖的で利権が絡んだ組織だなと思いましたね。ある理事は、「東京の招致に協力するから、自分に最高の勲章を与えてくれ」と言ってきたんです。仕方ないから彼の言う通りに勲章を与えて、迎賓館でその授与式を華々しくやったわけです。ところが、結局は何も協力してくれませんでした。
―― IOCは以前よりはだいぶ透明化されてきたとはいえ、まだまだタブーの多い閉鎖的な組織であることに変わりはないように思います。
2009年、デンマーク・コペンハーゲンで行われたIOC総会での最終投票で落選した時は、本当にがっかりしましたね。
ただ、2012年ロンドンオリンピックの招致活動で責任者を務めたセバスチャン・コー(元陸上競技の中距離選手で1980年モスクワオリンピック、1984年ロサンゼルスオリンピックではいずれも1500mで金メダルを獲得。2012年ロンドンオリンピック組織委員会会長。2015年より現国際陸上競技連盟会長を務めている)だけは、嬉しいことを言ってくれましたよ。彼は気難しい性格で周りの評判はあまり良くなかったんだけれども、実際に会って話をしたら意気投合しまして親しい間柄になっていました。
彼は最終投票後、日本のブースまで来てくれまして、こう言ってくれたんです。「私が見る限り、日本のプレゼンテーションが最高だったよ。オリンピックを招致するうえでの財政状況も素晴らしいしね」と。
でも、彼はこう続けて言ったんです。「でも、オリンピックの招致レースなんて、こんなものだよ」。そう私に告げて、肩をすくめて帰っていきました。