大学時代にラグビーとともに、スポーツへの概念を変えてくれた「生涯の恩師」との出会いが、その後の人生に深く影響を与えてくれたという遠藤利明氏。
日本スポーツ界の発展に欠かすことのできない財源づくりに寄与する「スポーツ振興くじ」の導入や、「スポーツ基本法」の制定などにもご尽力されてきました。日本スポーツ界のさらなる発展のために日々、奔走している遠藤氏にお話をうかがいました。
インタビュー/2019年8月1日 聞き手/佐野 慎輔 文/斉藤 寿子 写真/遠藤 利明・フォート・キシモト
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
大学時代にラグビーとともに、スポーツへの概念を変えてくれた「生涯の恩師」との出会いが、その後の人生に深く影響を与えてくれたという遠藤利明氏。
日本スポーツ界の発展に欠かすことのできない財源づくりに寄与する「スポーツ振興くじ」の導入や、「スポーツ基本法」の制定などにもご尽力されてきました。日本スポーツ界のさらなる発展のために日々、奔走している遠藤氏にお話をうかがいました。
インタビュー/2019年8月1日 聞き手/佐野 慎輔 文/斉藤 寿子 写真/遠藤 利明・フォート・キシモト
ラグビーワールドカップ2019のプールAで日本代表が優勝候補のアイルランド代表を19対12で 破る歴史的勝利をあげた (2019年9月28日/静岡・エコパスタジアム)
―― いよいよ9月20日にアジア初開催となるラグビーワールドカップが開幕しました。
4年前の2015年ラグビーワールドカップでは、五郎丸歩選手(元ラグビー日本代表。現在はヤマハ発動機ジュビロに所属)を始めとした日本代表の活躍で大いに盛り上がりました。そのいい流れで今年のラグビーワールドカップに来ていますので、チーム強化も順調に進められてきたと感じています。ただ、予選プールでロシアやサモアはもちろん、強豪国のスコットランドとアイルランドのどちらかには勝たないと決勝トーナメントに進出することはできないので、そう簡単なことではありません。しかし、きっと史上初の決勝トーナメント進出を実現してくれるだろうと期待しています。
また、大会運営の準備におきましても多くの方々のご協力をいただきながら、こちらも順調に進められました。おかげさまでチケットの販売も好調です。実は、大会開催が決定した2009年当初は、現在より景気が良くなかったこともあり「チケットが売れず、赤字になったらどうしようか」という心配の声も関係者の間ではありました。今ほど日本人のラグビーへの関心も高いとは言えませんでしたしね。その時のことを考えると、本当に売れ行きも順調で安堵しています。
2020年東京大会一年前イベントに来日したIOCバッハ会長(左)とJOC山下会長
―― 1年後には、東京オリンピック・パラリンピックも控えています。
こちらの準備状況はいかがでしょうか。
先日、IOC(国際オリンピック委員会)のトーマス・バッハ会長が開催一年前イベントのために来日されたのですが「これまでのオリンピック・パラリンピックと比べて最も準備が進んでいる」という高評価をいただきました。これも大会関係者の皆さんが、丁寧な仕事をしてくださっているおかげと感謝しております。国と都と民間が手を取り合って協力的に準備を進めてくれていますので、非常に順調にきていると思います。
―― 笹川スポーツ財団と日本財団ボランティアサポートセンターは「スポーツボランティア」の活動にも注力しておりますが、2020年東京オリンピック・パラリンピックには予想以上に応募者が多く、日本人の大会への関心度の高さがうかがえました。遠藤さんはボランティアに関してはどのように感じられていますか。
おかげさまで2020年東京オリンピック・パラリンピックでは定員8万人の募集に20万人を超える応募がありました。そういう意味では、本当に多くのみなさんがボランティアに関心を持って下さったことが何より嬉しいなと思いましたね。現在、笹川スポーツ財団と日本財団ボランティアサポートセンターの皆さんにもご協力をいただきながら選考が進められていますが、こちらも本番に向けて着々と準備が進められていると安心しております。
ブエノスアイレスで開催されたIOC総会で2020東京大会決定後、安部首相(左)と握手を交わす(2013年9月)
―― 今年のラグビーワールドカップを皮切りに、来年の東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年には関西ワールド・マスターズと続きます。この3年間は「ゴールデン・スポーツイヤーズ」と呼ばれていますが、日本のスポーツ界において非常に大きな転換期となるのではないでしょうか。
おっしゃる通りです。2011年に日本では新しい「スポーツ基本法」が成立し、公布されました。その際、「スポーツ基本法」に基づいてその政策を執行する機関が必要だとなりました。そこで、国の省庁の中でどのような組織が必要なのか、「スポーツ省」か「スポーツ庁」かという議論が巻き起こりました。当時はさまざまな行政改革の荒波の中にあった時代で、なかなか国会での賛同を得ることができず、いろいろと模索していたんです。そんな中、2013年9月7日(ブエノスアイレス/アルゼンチン現地時間)に東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定しました。実は、これが国会にも非常にいい流れをもたらしてくれたんです。結果的には、東京オリンピック・パラリンピックの開催が後押しとなりまして、2015年に文部科学省の外局として「スポーツ庁」設立にこぎつけることができました。2020年東京オリンピック・パラリンピックの開催決定というのは、国を動かした非常に大きな出来事でもありました。
しかし、大事なのはこれからです。「ゴールデン・スポーツイヤーズ」の3年間は、日本スポーツ界にとって非常に大きな意味を持っており、成功させなければなりません。そして、その成功をどのようにして次の時代へとつなげていくのか、ということも私たちに突き付けられた大きな課題です。 「ゴールデン・スポーツイヤーズ」の成功は、日本スポーツ界だけではなく、地域活性化に貢献するものでなければならないと私は考えています。「ゴールデン・スポーツイヤーズ」を通じて、新しい技術開発や各地域の伝統文化などを、いかに世界へと発信することができるか。そうしたことが大きなきっかけとなって非常に大きな効果が得られると思います。今年7月末にフランスの首都パリを訪れたところ、パリの皆さんが非常に日本について関心を持っているんだな、ということがよくわかりました。特に今、パリでは日本の食文化が流行していて、和食は高評価を得ています。そうしたことからも、「ゴールデン・スポーツイヤーズ」で日本の伝統文化を世界に発信していくことは大きな意味を持つものと確信しました。
家族とともに(中央)
―― 遠藤さんは、現在では日本のスポーツ界において不可欠な存在であり、スポーツの普及・発展に先頭に立ってご尽力いただいていますが、そもそもスポーツとの出会いとはどのようなものだったのでしょうか?
私はもともとは根っからの野球少年でした。とはいえ、山形県の田舎出身でして、時代も時代でしたから、革製のグローブやボールはどこにもありませんでした。紙でグローブやボールを作って、そこらへんに落ちている棒切れをバットにして野球をしていたんです。高校でも野球部に入りたかったんですが、進学した学校が実家から遠かったんです。父親がどうしても下宿はダメだというので、仕方なく練習を遅くまでしている野球部に入ることは諦めました。代わりに始めたのが柔道です。実は私の父親は柔道の指導者で、確か七段だったと思います。それで「親父も柔道家だし、練習も早く終わるから、まぁ、やってみようかな」という感じで柔道部に入りました。ところが、自分にはどうしても合わなかった。幼少時代から野球ばかりやってきたので、スポーツといえば、私にとってはチームスポーツというイメージしかなかったんです。つまり、仲間と一緒に目標に向かってやることに楽しさを感じていたんですね。そのために個人競技にはどうしても楽しさが見出せなかったんです。途中でケガをしたこともあって、3年生になる前に柔道部を辞めてしまいました。
高校時代、柔道部の仲間と(後列左端)
―― 高校卒業後は中央大学に進学されました。そこで始められたのがラグビーでしたが、そのきっかけは何だったのでしょうか。
大学では体育の授業で行う競技を自分で選択しなければなりませんでした。私が考えていたのは球技でしたが、周りを見ると、同じように球技を希望する学生が非常に多かったんです。そうすると、野球やサッカーなど定員よりも多い競技は抽選となって、そこから漏れた人は定員割れしている競技にいかなければいけないとなっていて、「それは嫌だな」と。そこで、抽選にならないでストレートに入れる球技はないだろうかと思って探していたところ、どうもラグビーは大丈夫そうだなと(笑)。正直、当時はラグビーの知識はゼロに近いものでした。高校時代に「こういうスポーツがあるんだよ」と体育の先生に教えられて、雪のグラウンドの上でラグビーらしきものをやったこともありましたが、ボールはラグビーボールではなかったかもしれませんね。もちろん、試合を見たこともありませんでした。ただ、どういうスポーツかはなんとなくイメージできましたので、「まぁ、柔道で格闘技の経験もあって、野球で球技の経験もあるし、両方の競技をミックスすればできるかな。意外とおもしろそうだな」と思って、ラグビーを選択しました。それまでラグビーにはまったく無関心だったのに、実際にやってみたら見事にはまってしまいました(笑)。そのきっかけを与えてくださったのが、人生の恩師となった桑原寛樹先生(元中央大学講師で、現在のラグビーフットボールクラブ「くるみクラブ」の創設者)との出会いでした。その先生にラグビーの楽しさを教えていただいたんです。
「くるみクラブ」創設者・桑原寛樹氏(くるみクラブHPより)
―― 「くるみクラブ」というチームでラグビーに取り組まれるようになるわけですが、どのような特徴をもったクラブだったのでしょうか。
その恩師は、もともと体育会のラグビー部出身だったのですが、厳しさばかりを追求するラグビー部のやり方に異を唱えて、「楽しい、明るい」スポーツ本来の素晴らしさに触れることのできる場として、1965年にご自身でつくったのが「くるみクラブ」でした。当初、そこには体育の授業でラグビーを選択した学生たちが集まってやっていたんです。私が大学に入った頃からは、他校からも「くるみクラブに入りたい」という学生が来て一緒にやっていましたね。環境も自分たちでつくっていたのですが、私が大学3年生の時には宮城県の蔵王町にクラブ専用のグラウンドをつくりまして、そんなことも広まって、総勢200人くらいのうち約半数は他校からの学生でした。大学によくある「同好会」とも趣旨が異なっていたと思います。
桑原先生がよく言っていたのは「ヨーロッパのようなクラブチームを作りたいんだ」と。それで私が4年生の時には桑原先生から「男子だけが楽しんでちゃいかん。遠藤、女子のクラブも作りなさい」と言われまして、それで女子のテニスクラブを創設したんです。私は一応コーチということだったんですが、正直、テニスはあまりできなかったんですけどね(笑)。私が卒業した後、1993年には、女子の「くるみホッケークラブ」もつくられました。
「くるみクラブ」の活動(前列中央が創設者の桑原寛樹氏)(くるみクラブHPより)
―― 桑原先生は、革新的なお考えを持った方だったんですね。
いわゆる異端児でした。当時は学生運動真っただ中の時代で、次々と授業が休講になっていました。そんな中、最初の授業で桑原先生はこう言ったんです。「皆さん、私の授業が休講になることは一切ありません。なぜなら私は皆さんと授業をするという契約を結んでいるわけで、休講は契約違反です。ですから、休講にはしませんので心配せずに時間通りに来てください」と。この言葉に感銘を受けまして「すごい先生だな」と思ったのが最初の出会いでした。
とても優秀な方で先見の明がありました。当時から「日本のスポーツはおかしい。精神論ばかり掲げて、練習も非科学的だし、非常なほどの縦社会で後輩はものも言えないなんて、スポーツではない。スポーツというのはみんなが平等に楽しめるもので、まずは何より楽しむことが大前提。そのうえで、さらに技術的レベルが上がれば、なお楽しいということで、自発的に強くなりたいと思わなければダメなんだ」と。
実際、「くるみクラブ」の練習を見学すると、練習前のライン引きを4年生がやっていたんです。これには驚きましたね。隣のグラウンドでは体育会のラグビー部が練習をしていたのですが、練習についていけない1年生が罰としてグラウンドの周りを走っている姿をよく見かけました。一方、「くるみクラブ」では逆の考え方をしていました。桑原先生がおっしゃっていたのは「ずっと練習してきた4年生に、入ったばかりの1年生が同じ練習についていけるというのはおかしい。つまり、1年生が最後まで練習できたということは、それだけ4年生が力を抜いている証拠だ」と。ですから、4年生がフルパワーでやる練習に1年生はついていけないのは当たり前なのだから、途中でばてていいんだと。その代わり、今日30分一生懸命やったのなら、明日は31分できるようにしようと。そうやって少しずつレベルアップしていけばいいんだ、というのが先生の教えでした。私自身、高校まで運動部に所属していながら初めて聞く話ばかりで、非常に驚きました。と同時に、今までとはまるで違う先生の発想に魅力を感じました。
遠藤利明氏(当日のインタビュー風景)
―― スポーツとは、まずは「楽しむ」ということを教えていただいたと。
そうです。桑原先生は「日本の体育では、練習ばかりさせているけれど、それでは楽しむことなんかできない」と言っていました。実際、先生の授業では3回目には「タッチラグビー」(危険が伴う「タックル」を安全な「タッチ」に置き換え、年齢や性別問わず、誰でも一緒にプレーできるようにしたフットボール)のゲームを行うんです。ゲームをすることで楽しさを味わい、そのうえで「もっと楽しみたい」という気持ちのうえで練習をするのがスポーツだ、というのが先生の考えでした。
また、「くるみクラブ」では全員が試合に出られるシステムとなっていました。通常は、一軍、二軍、三軍とあって、三軍はまったく試合に出られずに卒業してしまいますよね。それでは何のために入部したのかわかりません。だから「くるみクラブ」では最初は1チーム12人ほどのチームを多数作って、人数が不足している今はチーム毎のキャプテンが人集めをして、必ずチームを結成できるようにしています。そうすると、練習に行けば、必ず自分のポジションがあって、試合に出られるわけです。ただし、対戦相手が早稲田大学のラグビー部のような強豪の場合は、特別に選抜チームを作って試合に出たりもしましたが、それ以外はどの学生にも試合出場のチャンスが与えられるようになっていました。私が卒業する時には、12チームあったと思います。その全12チームが試合をするわけですから、多い時には1日に10試合以上が組まれることもありました。
―― 現在、日本のスポーツ界ではあらゆる問題が起こっていますが、その根源的な解決策の糸口を、「くるみクラブ」の理念にはあるように思います。
それも50年以上も前から脈々と受け継がれてきたものと考えれば、私の恩師である桑原先生がいかに先見の明があった優秀な方だったかがお分かりかと思います。桑原先生の指導を受けたことが原点となって、私のスポーツに対する考え方にも大きな影響を受けたことは間違いありません。
さらに刺激的だったのは、大学時代にオーストラリア遠征に行った時のことです。シドニーのクラブ選抜チームと試合をしたのですが、「あぁ、オーストラリアのクラブチームというのは、これほど大きなグラウンドをもっているのか」と思いましたね。また、クラブにはラグビーのほかにもさまざまな競技があって、みんなが一つの競技だけではなく、複数の種目を楽しめるようになっていたんです。ラグビーの練習にもほかの競技の要素が取り入れられていました。例えば俊敏性を養うためにバスケットボールをやったり、あるいは特にフォワード(スクラムを組む8人。ボールの争奪戦でボールをキープしたり、奪ったりしてボールをつなぐポジション)にはレスリングのタックルやブリッヂなどを取り入れたりしていると。また、子どものうちはあまり高度な技術は教えずに伸び伸びとプレーさせていました。そういうことを目の当たりにして、「あぁ、やっぱりスポーツというのは楽しむことが何より大切だし、子どもの時にいろいろなスポーツをやってみることも大切なんだんな」と思いました。
衆議院議員選挙当選直後の喜びの表情
―― 大学卒業後は政界に出られて、スポーツ政策を一番に掲げられたのは「くるみクラブ」でのご経験が大きいのでしょうか。
子どもの時の遊びの中で育まれたものもありますが、やはりスポーツに対して「楽しむ」という感覚を持てたのは「くるみクラブ」のおかげでありますので、私の原点は、そこにあります。ですから、今でも何か結論を出すのに迷った際には、「くるみクラブ」でのことを思い出して、その時のことをベースにして物事の判断をすることもしばしばです。
私が政治家としてスポーツに最初に携わったのは、山形県議会議員になって3年目の1985年でした。その年の夏、山形県代表として甲子園(全国高校野球選手権大会)に出場した高校が、あの"KKコンビ"として有名となった桑田真澄、清原和博擁するPL学園(大阪府)に7-29というスコアで大敗を喫したんです。その時に「自分たちの故郷の高校野球を、どうか強くしてほしい」という要望があちらこちらからいただきまして、「スポーツというのは個人が楽しむだけではなく、OBの方々や県出身者など広範囲にわたって大きな影響を与えるものなんだな」と改めてスポーツの持つ力の偉大さを痛感しました。それが政治家としてスポーツに携わるようになったきっかけでした。
―― 1993年に衆議院議員に初当選されました。県会から国会に出られて、文部行政とスポーツ行政に深く携わられてきました。
山形県は農業が主要産業の一つですが、インフラ整備も重要だということで、もともとは建設行政の方を専門としていました。同時に、両親が教師だったこともあって、教育にも力を入れていこうと考えておりました。そんな中、スポーツ政策に携わることになった最初のきっかけは「スポーツ振興くじ*」を導入するにあたって、その責任者を務めることになったことでした。
*「スポーツ振興くじ」(toto・BIG)とは、収益金を財源に誰もが身近にスポーツに親しめる、あるいはアスリートの国際競技力向上のための環境整備など、新たなスポーツ振興政策を実施するために導入されたもの。
地元山形での議員活動
―― 「スポーツ振興くじ」の導入は、日本スポーツ界にとっては画期的な出来事でした。「スポーツ振興くじ」が、財政難だったスポーツ界を救った大きな要素となったことは事実です。しかし、導入するにあたっては、風当たりも強かったのではないでしょうか。
「スポーツ振興くじ」の創設にあたっては、森喜朗先生や麻生太郎先生のお力添えが非常に大きかったわけですが、実際に導入となるとさらに困難を極めまして、なかなか実現できずにいました。国会の中で一番反対したのは、自治省関係者でした。自治省が扱う「宝くじ」(正式名称「当せん金付証票」)とバッティングするということで、大反対されていたんです。そのため「スポーツ振興くじ」の導入に対しては頑として首を縦に振ってくれませんでした。そこで森さんや麻生さんから「何とかまとめてくれ」と言われて私が責任者となったのですが、どうしたらいいものかと思案していたところ、ある方に適切なアドバイスをいただきました。それまで「スポーツ振興くじ」の収益は大蔵省と文部科学省と折半することになっていたのですが、そこに自治省を入れて、3つの省で3分の1ずつにしたらどうかと。「なるほど」と思いまして、その案を出したところ、自治省関係者からも承諾を得ることができました。まぁ、そのことによって法律を書き換えるなどしなければならず、いろいろと恨み節もありましたが、それでも「スポーツ振興くじ」が導入されたことによって、その後の日本スポーツ界が発展してきたことは間違いありませんので、責務を果たすことができて良かったと思っています。
遠藤利明氏(当日のインタビュー風景)
―― 2011年に公布された「スポーツ基本法」の制定にもご尽力されました。
「スポーツ基本法」を制定しようとしたきっかけは、私が文部科学副大臣を拝命した2006年に行われたトリノオリンピックでの日本選手団の惨敗でした。かろうじて女子フィギュアスケートで荒川静香さんが金メダルを取ってくれたので、かすかな光明はあったものの、メダルの獲得数はその荒川さんの金メダル一つと、予想をはるかに下回るものでした。「なぜ、急に日本は勝てなくなってしまったのだろうか。もっと日本がスポーツの力を最大限に生かせる方法がきっとあるはずだ」と考え、副大臣としてスポーツ勉強会を開催しました。その時に座長となっていただいたのが河野一郎さん(ラグビーワールドカップ2019組織委員会事務総長代行)。河野さんを中心にメンバーを集めまして、「どうすれば日本のスポーツがもっと強くなれるのか」ということを1年間議論したのが、スポーツ政策として具体的に取り組んだ初めての一歩でした。1年間議論したものを集約し、2007年に提言したのが「『スポーツ立国ニッポン』国家戦略としてのトップスポーツ」。通称「遠藤レポート」と言われているものです。スポーツ勉強会で、日本が勝てなくなった一つの要因として挙がったのが「企業スポーツの撤退」でした。その理由を問うと、景気の悪化が一番の原因でしたが、行政の問題も浮上したんです。「行政は口は出すけど金は出さない」と。結局は、企業が支援をして、あとは指導者が手弁当でやってくれているのが日本のスポーツ界の現状でした。それでは衰退するのは当然だと。そこで「国や行政が責任を持って支援するシステムを作らないといけない」という結論に至りまして、まず必要となったのが国や行政が支援する確固たる「理由」でした。「これは何かスポーツ振興を考えるフックが必要だな」と思っていたところ、着目したのが東京オリンピック・パラリンピックの招致活動でした。オリンピック・パラリンピックの開催がいいきっかけになるのではないかと考え、国として招致活動に乗り出すことにしたんです。これが大きかったですね。
まずは法律をつくることになったのですが、当時あったのは1964年の東京オリンピック開催のために急遽作られた「スポーツ振興法」(1961年制定)でした。これが半世紀以上も手付かずのままだったのですが、もう時代錯誤の内容ばかりでした。例えば「障がい者スポーツ」のことは全く触れられていないし、そもそもプロスポーツの支援は禁止となっていました。ですから、当時のプロ野球は「スポーツ」ではなく「興行」としての扱いだったんです。そこで、まずは今の時代に見合った法律を作りましょう、ということになりまして、「スポーツ基本法」をつくる準備に入りました。さらに「スポーツ基本法」が制定された時には、それを施行する機関が必要になりますので、「スポーツ省」あるいは「スポーツ庁」を作ろうということになったんです。当時、一般スポーツは文部科学省、障がい者スポーツに関しては厚生労働省との二つの省に分けられていました。また、施設整備においては国交省、スポーツ・ビジネスにおいては経産省とバラバラに置かれていましたので、スポーツ関連は一つの省にまとめたいというのが当初の希望でした。しかし、さすがに一挙に一つにまとめるというのは困難だったので、まずは「ヘッドクオーター」(本部)を作りましょう、となって「スポーツ庁」を創りました。
トリノ冬季オリンピックで日本選手唯一のメダル(金)を獲得した荒川静香(2006年2月)
―― 課題はたくさんあると思いますが、その一つとして日本スポーツ界を担っていく世界に通ずる人材も育てていかなければいけません。その意味でも遠藤さんが立ち上げた「スポーツ立国推進塾」(塾長・遠藤利明氏)では、どのような人材を育成して、日本スポーツ界をどのような方向にもっていきたいと思っていらっしゃるのでしょうか。
「スポーツ立国推進塾」を創った目的の一つは、国内組織のリーダーを育てることはもちろん、世界の組織の中に日本人のリーダーを作ることなんです。というのも、現在、渡邉守成氏が国際体操協会の会長を務めていますが、それ以外のIF(国際競技団体)の主要ポストに日本人はほとんどいません。例えばIOC事務局には文部科学省からは現在かろうじて一人出していますが、時限的な出向で正職員ではありません。ほかの各競技団体を見ても、世界の組織に日本人が会長や副会長などの要職に就いているという例はあまりありません。来年、オリンピック・パラリンピックを開催するというのに、これではだめですよね。日本人が世界に進出していかなければ、日本のスポーツ文化が伝わらないだけではなく、「柔道」が「JUDO」となって畳や柔道着の色が変わったり、スキー板の長さが急に変更になったりと、ヨーロッパ勢に有利になったと思われるようなルールの変更が行われています。ですから、会長などの組織のトップに立つ人材、そしてもう一つは現場サイドの事務局にも日本から人材を送り込めるようにしたいと思っています。 塾創設に関しては、単なる「票集め」だろうと言う人がいますが、正直に言えば、スポーツ政策に注力したところで、「票集め」は全くありません。だから国政の中でスポーツを政策として考える人が育たなかったんです。じゃあ、なぜスポーツに注力していくのかと言われれば、目先の利益ではなく、私が追いかけているのは一種の「ロマン」。経験上、自分自身が感じてきたスポーツの持つ力を広げていきたいという思いしかありません。
綱引きを楽しむ子どもたち
―― スポーツの価値を底辺にまで広めていくためには、やはり学校教育の体育の授業にもそうしたことを取り入れていくことが必要ではないでしょうか。
学校体育というのは、日本の特筆すべき誇れる教育だと思います。ただ体育というと、まず「心身を鍛える」「健康を増進する」といったことが言われます。それも大事ですが、まずその前に「楽しむこと」をもっと教えてもらいたいなと思うんです。
また、同じ教育現場にある部活動は、少子化や教員不足などで徐々に成り立たなくなっていて、今、非常に問題となっています。今まで通り学校の範囲内でやるのではなく、地域全体の取り組みとして子どもたちのスポーツ活動を応援するというかたちにしていくべきでしょう。
少年野球
―― それこそ「総合型地域スポーツクラブ」にするということでしょうか。
そうです。現実的に指導者の人手不足などで部活動が成り立たない学校がいくつもありますので、これからはそうした「総合型地域スポーツクラブ」という発想が、大事になってくるのではないかと思います。もちろん、部活動に一生懸命に力を入れている先生も大勢います。そうした先生方も総合型地域スポーツクラブの指導者として指導することができるような仕組みにするんです。そうすると、これまで中学校の先生は、高校にあがった生徒を指導することができなかったのが、総合型地域スポーツクラブでは生徒の成長を長く見ることができるというメリットがあります。そうすると、一貫した指導を行うことができ、早いうちから高い技術を教えるのではなく、長期的な目線で、その子の成長にあった指導をすることができるはずです。
また、地域スポーツ振興の推進役である「スポーツ推進委員」が全国に5万人ほどいます。その方たちが総合型地域スポーツクラブと連携をとって、地域全体のスポーツ関連事業におけるコーディネーターの役割を担ってほしいと思っています。
では、総合型地域スポーツクラブの活動場所はどうするかと言いますと、全国に3万ほどある学校の体育館やグラウンドといったスポーツ施設を利用すれば、新しい施設をつくる必要はそんなにありません。今「学校開放」が叫ばれていますが、私は逆の発想で、学校のスポーツ施設を各自治体の直接の所有にして、昼間は教育委員会・学校がその施設を借りて体育の授業を行い、放課後は総合型地域スポーツクラブに貸し出すということができないかと思っています。これは文部科学省とも話し合わなければいけませんし、仕組みを変えることは簡単なことではありませんが、その方が効率的に施設を利用できるのではないかと思います。
オリンピック担当大臣として競技会場の建設現場を視察
―― 改めて東京オリンピック・パラリンピックが1年後となりましたが、今回は東日本大震災の被災地を応援するという意味で「復興オリンピック・パラリンピック」とも言われています。東北出身の遠藤さんとしては、どのような思いを持っていらっしゃいますか。
東京オリンピック・パラリンピックの開催が決定した当初、「え?東北がこれだけ大変な時に、オリンピック・パラリンピックをやるの?」「そんなオリンピック・パラリンピックに使う金があるなら、復興のために使ってくださいよ」という批判の声も多くいただきました。しかし、実際はオリンピック・パラリンピックの開催というのは経済的効果が大変大きいんです。それを復興に還元すれば、オリンピック・パラリンピックの開催意義は大変大きいと考えていました。福島、宮城、岩手の被災地3県のさまざまな活動を支援したり、農産物を世界に発信したり、あるいは海外から訪れた人には3県にも観光に行ってもらってそれぞれの良さを感じてもらったりと、オリンピック・パラリンピック、あるいはスポーツの力を活かして復興の力につなげたいと思っています。実際、2020年3月26日から行われるオリンピック聖火リレーのスタート地点も福島県ですし、サッカーの予選が宮城スタジアムで、また野球やソフトボールの予選が福島あづま球場で行われます。名称こそ「東京オリンピック・パラリンピック」ですが、できるだけ被災地3県の皆様にも参加してもらって、「自分たちもオリンピック・パラリンピックの成功を担っている」という意識を持ってもらえるような大会にできたらと思っています。
2020東京オリンピック聖火リレー発表記者会見にて(左端)(2019年8月)
―― 最後に、後世に伝えたい「スポーツのかたち」について教えてください。
とにかくまずは、スポーツは楽しいものなんだということをもっと広く伝えたいですね。また気軽に参加できるものであると。その「楽しみ」が拡大して、健康増進やスポーツを用いての地域活性化や国際貢献があると。固定観念に縛られず、多様なかたちでスポーツを考えられるような基盤をつくっていきたいと思っています。
1912 明治45 | ストックホルムオリンピック開催(夏季) |
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1916 大正5 | 第一次世界大戦でオリンピック中止 |
1920 大正9 | アントワープオリンピック開催(夏季) |
1924 大正13 | パリオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる |
1928 昭和3 | アムステルダムオリンピック開催(夏季) 織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得 人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得 サンモリッツオリンピック開催(冬季) |
1932 昭和7 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) 南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 レークプラシッドオリンピック開催(冬季) |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催(夏季) 田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得 織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季) |
1940 昭和15 | 第二次世界大戦でオリンピック中止 |
1944 昭和19 | 第二次世界大戦でオリンピック中止
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1948 昭和23 | ロンドンオリンピック開催(夏季) サンモリッツオリンピック開催(冬季)
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催(夏季) オスロオリンピック開催(冬季)
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催(夏季) コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季) 猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる) |
1959 昭和34 | 1964年東京オリンピック開催決定 |
1960 昭和35 | ローマオリンピック開催(夏季) スコーバレーオリンピック開催(冬季) ローマで第9回国際ストーク・マンデビル競技大会が開催 (のちに、第1回パラリンピックとして位置づけられる) |
1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催(夏季) テルアビブパラリンピック開催(夏季) グルノーブルオリンピック開催(冬季) |
1969 昭和44 | 日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長 に就任
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1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催(夏季) ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季) 札幌オリンピック開催(冬季)
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1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催(夏季) トロントパラリンピック開催(夏季) インスブルックオリンピック開催(冬季)
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1978 昭和53 | 8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催
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1980 昭和55 | モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット アーネムパラリンピック開催(夏季) レークプラシッドオリンピック開催(冬季) ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催(夏季) ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季) サラエボオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季)
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1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 鈴木大地 競泳金メダル獲得 カルガリーオリンピック開催(冬季) インスブルックパラリンピック開催(冬季) |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得 アルベールビルオリンピック開催(冬季) ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
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1994 平成6 | リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得
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1998 平成10 | 長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2002 平成14 | ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得 |
2006 平成18 | トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季) |
2007 平成19 | 第1回東京マラソン開催 |
2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季) 男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位となり、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得
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2010 平成22 | バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季) 2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催決定 |
2014 平成26 | ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
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2016 平成28 | リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
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2018 平成30 | 平昌オリンピック・パラリンピック開催(冬季) |