冬の体育の恒例だったラグビー
小学校5年の時の野球大会にて(後列左から2人目)
―― 御社(大正製薬)は2001年より、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサー、2016年からはラグビー日本代表のオフィシャルパートナーを務められてきました。
会長である上原さんご自身が、ラグビーに深い愛情を注がれていますが、ラグビーとの出合いはいつだったのでしょうか。
私は小学校から高校までの12年間、成蹊学園(東京)に通ったのですが、中学、高校では冬の間、体育の授業はラグビーかマラソンと決まっていました。というのも、当時体育の先生は東京教育大学(現筑波大学)から来られていたのですが、なぜか歴代、ラグビー部の選手だったんです。
そのためにラグビーに対しては大変熱心な先生ばかりで、雪の中でもラグビーをやりました。毎年、冬にマラソン大会が1日あったのですが、男子は学年ごとにチームを作って総当たりで対戦するラグビー大会も1日設けられていました。そういうこともあって、私自身、早くからラグビーに慣れ親しむ環境にありました。
中学時代、波左間海岸(館山)の夏の臨海学校にて(後列左端)
―― 当時、中学校の体育でラグビーをやっていたというのは珍しかったのではないでしょうか。
私たちの成蹊学園のほかに、当時都内でラグビーをやっていた中学校は慶應義塾普通部、慶應義塾中等部、成城学園中学校高等学校、学習院中等科、青山学院中等部がやっていたと思います。
―― 上原さんは体格は大きい方だったんですか?
私は早熟で、小学校を卒業する時には身長158センチ、体重58キロほどあったんです。ただ、それ以降はあまり成長しなかったのですが(笑)。子どもの頃は体格が大きいこともあって、運動が好きでしたから、ラグビーをはじめ野球、水泳といろいろやっていました。
―― 中学、高校でのラグビーの思い出はありますか?
一番の思い出は、昭和32年(1957年)、高校2年の時に日本とカナダの学生選抜の大会の前座試合に出て、秩父宮ラグビー競技場でプレーしたことです。
大学では「演劇」を諦め「ラグビー」の道へ
慶大B.Y.Bクラブ時代、試合前(後列左から2人目)
―― 高校卒業後、進学した慶應義塾大学では同大学のサークル「B.Y.Bラグビーフットボールクラブ」に所属しました。
私は運動のほかに、もう一つ好きだったのが演劇でした。文化祭というと、小学1年の時からいつも引っ張り出されて舞台に出ていたんです。それで大学に入った時に、ラグビーと演劇と、どちらを選ぶかでずいぶんと悩みました。結局、ラグビーをやることにして、演劇は「観る」方にまわることにしたんです。「B.Y.B」というのは、ジャージの色を示していて「Black Yellow Black」の略。黒と黄色の横縞のジャージなのですが、黄色よりも黒の方が少し太いのが特徴です。昭和8(1933)年に創立された85年を超える歴史のあるクラブチームです。
―― 演劇ではなく、ラグビーをすることを選んだ理由は何だったのでしょうか。
やはりそれまでの受験勉強で運動不足でしたから、思い切り体を動かしたいという気持ちがありました。それと、将来のことを考えても、演劇で食べていくわけではないだろうと。実は、成蹊学園の演劇部には、同期に長山藍子さんや東野英心さん、一学年上には山本圭さんと後に俳優となって活躍した人がいたんです。でも、自分もとは思いませんでしたから、もう「観る」方に回ろうと。小学1年から毎年舞台に上がっていましたから、十分だと思ったんです。それでラグビーの方を選びました。
慶大B.Y.Bクラブ時代の練習(中央)
―― ポジションはどこだったのでしょうか?
中学時代から、ほとんどプロップ(スクラムの第1列の両端でスクラムを押すポジション)が多かったですね。当時はプロップをやっているとブレイクが一番遅くなりますし、ボールにも特に1、2年の時は触れないんです。ですから、パスをもらってボールを触ることができた時の喜びが大きいポジションでしたねぇ(笑)。最近のラグビーでは両端のプロップが空いている場合は、そのプロップにパスをして外からのオープン展開でトライなどしていますけども、当時はなかなかボールに触れなかったですからね。
―― どこに魅力を感じながらプレーしていましたか?
ラグビーというのは、ベストを尽くし、それぞれの役割を忠実に果たすこと。そして、それをそのほか14人の仲間が見てくれていること。これが最大の魅力でしたね。ですからトライを決めた時にも、今のようにトライした選手のところにワーッと集まるのではなく、そのトライにつながった最高のタックルをした選手のところへみんなが集まって良いプレイだったと称賛することが度々ありました。
慶大B.Y.Bクラブ時代、合宿打ち上げの集合写真(上から2列目中央)
―― 慶大というとラグビーのルーツ校ですが、体育会の方の慶大ラグビーというのはどのような特徴があると感じられていますか?
現在私は慶應義塾(関連校である高校、中学校、小学校なども含んだ学校法人)の理事・評議員でもあるのですが、以前、理事会で「強い選手をスカウトしてきてはいかがでしょう?」と提案したことがありました。
その時に言われたのは「大学のラグビー部は教育の一環としてやっていますので、"来る者拒まず"の姿勢でいきます。セレクションなどはしません」と。その時に、慶應義塾独自の理念というものがあって、筋が通っているんだなと思いました。
「変革の必要性」と「認知拡大」への思いが支援に
上原明氏(インタビュー風景)
―― 上原さんが現在取締役会長を務められている大正製薬が、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーとなったのは、どのような経緯からだったのでしょうか。
弊社の主力製品である「リポビタンD」のCMの中には、もともとラグビーシーンがいくつかありました。「リポビタンD」のキャッチコピーは「ファイト!一発!」ですから、ここぞという時にタックルしたり、走ったり、トライするというラグビーは「リポビタンD」のイメージに適していました。
そんな中、ラグビー日本代表のオフィシャルスポンサーとなったのは、始まりは宿澤広朗さん(早大OB、元日本代表、元日本代表監督)とのご縁でした。宿澤さんは単にパスを出すだけではなく、的確な判断に基づいて非常に俊敏な動きをするスクラムハーフ(パスのスペシャリストで、スクラムではボールを入れる役割を担うポジション)であり、非常にキャプテンシーもある方でした。その宿澤さんは大学卒業後に住友銀行(現三井住友銀行)に入行されたのですが、弊社のメインバンクの一つが住友銀行であり、私が海外出張でイギリスを訪れた時に、ちょうど宿澤さんがロンドン支店に赴任されていました。私がロンドン支店を訪れた際に、支店長が「うちの誰かにロンドンをご案内させますよ」と言ってくださったので、私の方から「それでは、宿澤さんにお願いします」と申し上げ、それで宿澤さんが丸一日、ロンドンを案内してくださったという思い出があります。
リポビタンDチャレンジカップ2017で勝利したオーストラリア代表との記念写真(前列右)
*日本代表とのユニフォーム交換後
その2,3年後に宿澤さんは日本に戻ってこられました。そうしたところ、私と同じ慶大出身の大先輩で大学時代には体育会とB.Y.Bの両方のラグビー部に入っておられ、弊社ともビジネス上の関係もある龍野和久さん(元日本ラグビーフットボール協会名誉顧問)と話をしている際に宿澤さんの話が出たのです。それでロンドンを案内していただいたことを話しましたら「上原さん、宿澤を知ってるんですね。じゃあ、今度みんなで会いましょう」と席を設けてくれました。龍野さん、宿澤さんのほかに堀越慈さん(元日本ラグビーフットボール協会理事)、母校の慶大を日本一に導いた上田昭夫さんも来られていましたね。それ以降、そのメンバーで年に2、3回は食事をするようになりました。皆さんといろいろな話をしましたが、その中で宿澤さんがよく言っておられたのは「日本のラグビー界を変革する必要がある。アマチュアリズムといっても、弱くては世界と互角に勝負できないのだから」ということでした。
そんな経緯があった中で、2000年に宿澤さんが堀越さんと一緒に弊社に来られてこう言われたのです。「今度、私が強化委員長になりトップリーグを立ち上げることにしました。そこで、大正製薬さんには日本代表の冠スポンサーになっていただきたい」と。ただ、弊社には同好会といったラグビーチームしかありません。ラグビーといえば、サントリーさんや東芝さん、パナソニックさんといくらでも大きな企業があるわけです。正直にそう申し上げたところ、宿澤さんは「日本代表に選ばれた選手といえども、普段しのぎを削り合っている相手チームの企業ロゴを入れたユニフォームを着ることには抵抗感があるものです。ですから、ラグビーに理解があって、かつ普段しのぎを削りあうような強いチームを持っていない企業さんが一番いいので、ぜひ御社にお願いしたい。日本のラグビーを本気で強くしていきたいと思っていますので、ぜひよろしくお願いします」と言われました。それを聞いて納得しまして、「わかりました。お引き受けします」と。弊社としても先ほど申し上げたように、「リポビタンD」の製品イメージにラグビーは合っていましたから、お引き受けすることにしたんです。