人間性を"磨かれた"大学時代
明治大学時代の恩師北島忠治監督
―― 高校卒業後は、明治大に進学しますが、北島先生はどのような指導者だったのでしょうか?
北島先生は、あまり決めごとをしない方で、とても自由なラグビーでした。先生が口を酸っぱくして言っていたのは「正々堂々とやること」。とにかくまっすぐな気持ちでラグビーをやりなさい、ということだけでした。ですから、勝つためにはどんな手段もいとわないというようなことは絶対にありませんでした。
私たちが「こんなふうにしたら勝てるんじゃないか」というような戦略の話をしても、先生はまったくいい顔をしなかったですね。例えば、私の時代にはボールが一つしかなくて、今のようにすぐに代えのボールを用意するなんてことはありませんでしたので、故意に見当違いのところにボールを大きく蹴って、時間を無駄に使うなんてこともよくありました。ほかにも「この角度なら、レフリーには見えない」ということを研究することも、勝つための常とう手段だったんです。でも、北島先生は絶対にそういうことは認めませんでした。「そんなのはラグビーじゃない」と。
満員の観客を集めた旧国立競技場での伝統の早明ラグビー
―― 北島先生のご指導で、印象に残っていることはどんなことですか?
ある日、北島先生にこんな話をされたことがありました。チームの中には、4年間一度も試合に出場できずに引退していく選手も多くいます。でも、そういう選手たちが卒業後に社会に出て、数年後に北島先生の目の前に現れた時に「あぁ、学生の時のままだなぁ」と思うことがよくあるそうなんです。そういう選手は、大学時代、一度も公式戦のユニフォームに袖を通すことができなくても、決して腐ることなく、一度も練習を休まずに、ただひたすらボールを追いかけていたと。「松尾、そういう選手こそ、本当のラガーマンなんだ。オマエたちは確かに努力をしてレギュラーとして活躍しているかもしれない。でも、卒業後に必ず彼らのような選手に教えられることはたくさんあるからな」と言われた時には、ドキっとしましたね。
―― ラグビーをするということは「人間性」を養うことなんだと。
そういうことですよね。勝敗だけではないんだと。実際、北島先生は卒業後に挨拶に行くと、どの選手にも私たちレギュラー陣と分け隔てなく接しておられました。「ラグビーで成功した者がすごいわけでも偉いわけでもないんだと」ということを北島先生から教えていただいたんです。真の教育者とは、北島先生のような方を言うのだと思いますね。
日本代表の中心選手として活躍
―― 今では松尾さんと言えば、日本を代表するスタンドオフとして有名ですが、実は大学2年生までは、ずっとスクラムハーフでしたね。
そうなんです。当時はスクラムハーフとして日本代表にも選ばれていましたから、3年の時に代表の試合を終えて帰ってきて、いきなり北島先生にスタンドオフへの転向を命じられた時は驚きました。そんな簡単にできるわけがないと思いましたし、何よりスクラムハーフとしてなら世界にも通用するというような絶対的な自信がありましたからね。将来的には海外チームでプレーすることも可能なんじゃないかと思っていました。
―― ショックも大きかったのでは?
そうですね。スクラムハーフとして世界で活躍するという夢が叶わないなと。ただ「そうか、チームのために自分はあるんだな」ということを改めて考えさせられた出来事でした。自分をここまで育ててくれた北島先生に期待されてのことなのだから、自分の夢を捨ててでも、しっかりと役割を果たさなければいけないと思ったんです。
変化し続けたことにあった新日鐵釜石の強さ
新日鐵釜石時代(右)
―― 大学卒業後、東京に拠点のあるチームをはじめ、いろいろなところから誘いがあったと思いますが、わざわざ東北の新日鐵釜石に入社したのは、どのような経緯だったのでしょうか?
いろいろなチームからお誘いを受けましたが、新日鐵釜石のラグビーへの純粋な気持ちに魅かれたのが一番でしたね。大学時代、毎年6月に釜石に合宿に行くのが恒例となっていまして、その頃から新日鐵釜石の選手たちとも交流があったんです。本当に素朴で、「なんでこんなにラグビーが好きなんだろうか?」と思ってしまうほどラグビー愛に溢れているチームという印象がありました。それと、大学4年の時には「自分はラグビーに骨をうずめる」という覚悟をしていましたから、最もラグビー漬けになれる場所がいいなと思っていたんです。それで、すぐに遊びに行きたくなってしまうだろう都会ではなく、遊ぶようなところがない釜石でラグビーに没頭しようと。
ただ、当初は社会人でラグビーをやるのは3、4年くらいのつもりでいました。あの頃は、大卒の選手はみんな、3、4年で引退するのが当たり前でしたからね。ですから、3、4年頑張って、その後はそのまま新日鐵で鉄鋼マンとして働くなり、あるいは東京に戻って家業を手伝うなりしようと考えていたんです。まさか9年もプレーするなんて思いもよりませんでした。人生わからないものですね(笑)。
新日鐵釜石時代。日本選手権で学生日本一の同志社大学を破り3連覇(1981年)
―― 松尾さんが入社した1年目に、新日鐵釜石は日本選手権で初優勝しました。
そうなんです。しかも相手は大学時代の最大のライバルだった早大でしたから、嬉しかったですね。その翌年はトヨタ自動車に負けてしまったのですが、3年目からは7連覇しました。
―― 勝ち続けるということは、本当に大変なことだったと思います。
大変でしたね。トップに立てば、当然相手チームから研究されますので、それでも勝てるようにしなければいけないわけです。そのためにはどんどん自分自身を磨かなければいけないし、チームも変化して、さらなる強化を図っていかなければならない。実際、私へのマークも厳しくなっていきましたし、ほかの選手もそれまでは簡単に抜けていたのが、相手が研究してきたことによって、なかなか抜けなくなっていったりもしました。でも、そこで今度はそれまでほとんどマークされていなかった選手が活躍したりしたんです。停滞しなかったことが、勝ち続けられた最大の要因だったと思います。
日本選手権大会決勝の同志社大戦で相手を翻弄
―― そうした中で、松尾さんの華麗なプレーはラグビーファンを魅了し続けました。特にタックルをしに来た相手に対して、フッとタイミングをずらして、スッと狭いところを抜け出していくあのステップはすごかった。あの独特のステップは、どのようにして体得したものだったのでしょうか?
理屈ではなかったと思いますね。子どものころからラグビー一筋でやってきた中で、自然と身に付いた技術だったと思います。
―― 意外にも、それほど足が速かったわけではなかったとか。
まったく速くはなかったですよ。むしろ遅い方だったと思います。私よりも足が速かった選手はごまんといました。
ラグビーとの決別を覚悟した"7連覇"秘話
新日鐵釜石時代。日本選手権で7連覇を達成試合後胴上げされる。(1985年)
―― 現役最後の2年間は、新日鐵釜石の監督を兼任されました。グランド内外でチームを牽引する立場となり、まさに"松尾雄治のチーム"という中でまとめあげて勝利に導いたわけですが、苦労も多かったのではないでしょうか。
監督に就任した時に、まず自分自身のラグビー哲学を貫き通しながら、どのようにしてチームを一つにまとめあげたらいいのかなと考えました。そこで選手起用において心に決めたのは「調子の悪いベテランではなく、調子の良い若手を使う」ことでした。やはり組織というのは、常に新陳代謝が必要で変わり続けていかなければいけません。実際、当時の新日鐵釜石はそういうチームだったから強かったんです。私が在籍した9年間で、ずっとレギュラーとして試合に出場したのは、わずか3人しかいませんでした。そのほかは、毎年のように激しく選手が入れ替わっているんです。「これまで活躍したベテランだからといって、試合に出られる保証はない」という緊張感があったからこそ、選手がどんどん成長したし、チームも強くなっていって、"日本一の座"を守り続けられていた。だから、私もそうしようと思っていました。
ところが、たった一度、私はその哲学に反したことをしたんです。それが現役最後の試合となった日本選手権決勝でした。当時、私はケガをしていてドクターストップがかかっていました。手術をしたばかりで、ほとんど足首が動かない状態でしたし、まだ傷口がふさがっていなかったんです。医師からも「試合に出場するなんて絶対に無理」と言われていました。そんな状態だったにもかかわらず、監督である自分はケガして本調子でない「松尾雄治」を出場させてしまったんです。
松尾雄治氏(インタビュー風景)
―― しかし、当時の状況からすれば、大スターの松尾さんが出場しなければ、ファンは納得しなかったのではないでしょうか。
確かにそれはあったかもしれません。でも、私自身は神聖なアマチュアスポーツを汚すようなことをしてしまったとしか思えなかったんです。私の後釜には佐々木和寿という若手選手がいて、彼は「松尾さんに何かあれば、いつでも僕が頑張ります!」というふうにして一生懸命練習してきていたわけです。にもかかわらず、その佐々木選手を出さずに、本調子でない私が出場してしまった。つまりは彼を裏切ってしまったんです。ラグビーの人気取りに走った自分自身が恥ずかしいし、今でも佐々木選手には「松尾雄治は嘘つきだ」と言われているような気がしてなりません。現役引退後は、一切、ラグビーボールを持つことも、グランドにも足を踏み入れてもいけないと思いました。
―― 松尾さんが引退した2年後には、第1回ラグビーW杯(1987年)が開催されました。日本のラグビーファンは誰もがそのW杯に松尾さんは出場するものだとばかり思っていたはずです。ところが、松尾さんは日本選手権7連覇を最後に現役引退を表明し、ラグビーの現場から姿を消してしまった。それがとても残念でなりませんでした。
結局、あの試合で私はラグビーに対して"嘘つき人間"になってしまったんです。あれだけ「調子のいい選手を起用する」という方針でやってきたのに、最後の最後に、調子の悪い自分を出してしまったわけですからね。ラグビーというのは1人だけが目立ってしまっては、チームにはなりません。そのことを選手にずっと言ってきたのに、ケガした松尾雄治が試合に出場して、しかも国立競技場で胴上げされたわけです。もう自分はラグビーに携わる資格はないなと思いました。試合の後、まっすぐ病院に行ったのですが、ベッドの上で「あぁ、自分はなんてことをしてしまったんだろう……」と。もちろん、7連覇を達成してファンや会社の皆さんの喜ぶ姿は嬉しかったけれど、一ラガーマンとしての自分を考えると「絶対にしてはいけないことをしてしまった」という気持ちしかありませんでした。ラグビーの神さまから「オマエは、もう終わりだ」と告げられたような気がして、そこで"ラグビーとの決別"を決心したんです。私が現役を引退して19年間、ラグビーに直接かかわらなかったのは、それが理由です。