「形態は機能に従う」ことを学んだ少年時代
村越愛策氏 インタビュー風景(2017年)
―― 村越さんは、戦時中に満州で生まれて、15歳の時にお姉さんと二人で日本に引き揚げられました。
私が14歳、中学2年の時に終戦を迎えまして、その1年後の昭和21年(1946年)、日本に引き揚げてきました。ですから、日本の小学校に入学するまでは「友だち」と言えば、ほとんど満州の人しかいなかったんです。だからなんでしょうかね。絵など、言葉の代わりになるものに対して、非常に興味がありました。
―― まさに言語の代わりである「ピクトグラム(絵文字)」そのものですね。子ども時代のそうした境遇が、将来の仕事へとつながっていったというわけですね。
そうかもしれませんね。中国語がわかりませんでしたから、遊びひとつにしても、とにかく言語の代わりになるもので対応しなければいけなかった。そうした環境が、大きく影響したのかもしれません。
―― 14歳で迎えた「敗戦」は、村越さんの心に何をもたらしたのでしょうか?
戦時中、私は子ども心に飛行機に憧れを抱いていまして、ずっと飛行兵になろうと思って、空ばかり見ているような子どもでした。そうしたところ、昭和20年(1945年)に敗戦となって、米軍から貸与したジープというものに出合ったんです。私は正直、「形の悪い車だな」と思いました。当時のデザインは飛行機に代表するように「流線形」が主流だったからです。しかし、よく観察してみると、実に機能的だということがわかり、それを機に考え方がガラッと変わりました。このことが、後にデザインの道に進んだ時に、「形」以上に重要な何かがあると考え、それを求めていったことにつながったのだと思います。その後、大学時代に「形態は機能に従うもの」ということを教わり、自分の考えが間違っていなかったことを確認することができました。
「オリンピック景気」で高まった商業デザインの需要
中国で見た米軍から貸与されたジープのイラスト(自叙伝「70年を超えて」村越愛策/2016より)
―― 具体的には、どのようにしてデザインの道に進まれたのでしょうか?
日本に引き揚げてきた後、私は神奈川県小田原市の旧制・神奈川第二中学校に入りまして、新制・小田原高校を卒業した後は、千葉大学工学部に進学しました。もともと東京の芝浦には東京高等工芸学校(昭和20年に「東京工業専門学校」に改称)というデザイン教育を行っていた学校がありました。しかし、昭和20年5月の東京大空襲で建物が全焼してしまったんです。それで、千葉県松戸市にあった陸軍工兵学校の校舎に移転をしまして、昭和24年(1949年)に「千葉大学工芸学部」、昭和26年(1951年)に「工学部」となったという経緯があります。私が千葉大学に入学した当時、工学部には小池新二という先生がいました。小池先生は東京大学文学部で美学美術史学を学ばれた方で、戦後に千葉大学工学部工業意匠学科の学科長として招かれたんです。私はその小池先生に師事しました。
―― なぜ、千葉大学を選ばれたのでしょうか?
ほかに、デザインを専攻できるところがなかったからです。東京芸術大学には当時「図案科」がありましたが、工業とは無関係で絵のみを学ぶところでした。
イラストで書籍に掲載された“図記号の世界”(「目でみることばの世界」一般財団法人日本規格協会/1983年 より)
―― まだ「工業デザイン」というものが認知されていなかった時代において、千葉大学工学部工業意匠学科は先駆け的な存在だったというわけですね。
そうなんです。「工業デザイン」と言っても、一般的には「何それ?」と言われるくらいで、そうした時代において小池先生はパイオニア的存在でした。私はそこで「工業デザイン」の基礎を学ばせていただきました。しかし、1956年(昭和31年)の就職の時には、まだデザインと言えば服飾系の時代だったので、面接で「君はミシンは踏めるのか?」という質問を受けました。
―― 大学卒業後は、すぐに独立されました。お一人でデザイン事務所を構えられたんですか?
まぁ、事務所を構えるというようなたいそうなことではなかったのですが、当時二階建ての友人の家に下宿をして、そこで仕事をしていました。千葉大同期の仲間と一緒に広告やグラフィックの展示会を開いたりすると、そこにスポンサーがつくこともあったんです。当時依頼が多かったのは事務用品のカタログや宣伝物などの「商業デザイン」でしたね。
東京オリンピックを期に整備された首都高速道路
―― 時代は、1950年代。朝鮮戦争勃発で日本は特需で好景気となり、その後、高度経済成長の時代へと入っていきます。そうした時代背景もまた「商業デザイン」が求められたことと関係していたのでしょうか?
そうですね。朝鮮戦争による好景気の影響を大きく受けていたと思いますし、さらに、1959年にはアジア初となる東京オリンピックが1964年に開催されることが決定しました。高速道路や新幹線の開通に向けての工事が始まり、また次々と建物の建設、改築が始まったわけです。それもまた、「商業デザイン」の必要性が高まっていく契機となったのだと思います。
―― 当時、オリンピックが東京で開催されるというのは、日本国民にとってはやはり大きなインパクトのある出来事だったのでしょうか?
それは大きなものでしたよ。東京オリンピック開催が決定して以降、さまざまなことが急激に動きましたからね。例えば、高速道路や新幹線の開通も、東京オリンピックが開かれるからということで実現したものです。
―― 当時から村越さんのご自宅兼仕事場は、東京の原宿にあったそうですが、街の変化も激しかったのでしょうか?
当時の原宿は、まだ今のように若者の人気スポットというわけではなく、デザイナー仲間が結構住んでいました。私は東京オリンピック開催の2年前、1962年から原宿に住んでいたのですが、2年間で街の様子は一変したんです。例えば、ついこの間まで女性服を扱うテナントが入っていたビルが、いつの間にか壊されて駐車場になっていたり……。住んでいる者としては寂しい思いもありましたが、東京オリンピックに向けては仕方なかったんでしょうね。でも、今でも原宿は2、3年すればあったはずのお店がなくなっていたりと、「変わりゆく街」。55年も住んでいる原宿の変貌は面白いなと思いながら見ています。2020年東京オリンピックに向けては、どんなふうに変わっていくのでしょうかね。
欧州発祥の「ピクトグラム」を整備、統一
東京オリンピックに向けて整備された羽田空港
―― その東京オリンピックでは、村越さんは海外の人々を最初に出迎える「空の表玄関」東京国際空港(羽田空港)に携わられました。これは、どのようなことがきっかけだったのでしょうか?
東京オリンピック開催の際には、海外から大勢の選手団や関係者、観客が来られるということで、「羽田空港の看板をなんとかしなければならない」という話が持ち上がったんです。当時の羽田空港の看板といえば、「禁煙」を示すもの一つとっても、手書きのものが乱雑に標示されていただけでした。それも文字だけのものでしたから、非常にわかりにくかったんです。「これではいかん」ということで、建設業界から東京オリンピック組織委員会に設けられた「デザイン連絡協議会」に依頼がありました。そこで日本のデザイン界の第一人者であり、東京オリンピックのデザイン専門委員会委員長を務めた勝見勝先生の出番となったのです。その勝見先生からご指名をいただいた私の作業は1962年から始まって、約1年間の期間しかありませんでした。勝見先生は代々木の競技場周辺すべてのデザインを受け持たれていて、私にも「羽田空港だけじゃなくて、他の施設においても、密接に携わってくれよ」と言われましたけども、私はもう羽田空港だけでいっぱいいっぱいでした。ずっと朝から晩まで仕事場のある自宅かもしくは空港に詰めているような日々を過ごしました。デザイン連絡協議会の事務所は旧赤坂離宮の小部屋に設けられていましたが、私は一度もそこに伺うことすらできないくらい、羽田空港の作業で手一杯だったんです。