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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

1964東京大会を支えた人びと
第66回
間近で見た「オリンピック・ムーヴメント」

星野 綾子

日本が戦後初めて参加した1952年ヘルシンキオリンピック。72人の日本代表選手の中には、10代の若手が22人がいました。
その中の1人が、陸上競技代表の星野(旧姓・吉川)綾子さんでした。

そのヘルシンキから12年後の1964年東京オリンピックでは、コンパニオンとして国立競技場で接待係を務めました。
当時は国立競技場のすぐ近くに自宅があり、窓を開けると、赤々と燃える聖火が見えたと言います。まさに「ど真ん中」で東京オリンピックを迎えた星野さんにお話をうかがいました。

聞き手/佐塚元章氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

日本戦後初のオリンピックに出場

芦屋女子高時代、国体に出場した仲間と

芦屋女子高時代、国体に出場した仲間と
(後列中央、前列は野田先生)

―― 星野さんは本格的に陸上競技を始めた高校時代から、日本人として初のオリンピック金メダリストである織田幹雄さんに師事していました。どのようないきさつで、織田さんの指導を受けるようになったのでしょうか?

私は兵庫県の芦屋女子高等中学から高校に進学したのですが、陸上部はあったものの、練習環境には恵まれていませんでした。高校は山の中腹にあり、とてもグラウンドが狭かったんです。当時はソフトボール部が全国優勝するほど強くて盛んだったのですが、ソフトボール部が練習している周りをいろんな運動部が所狭しに練習しているような中、「ちょっと、どいてー」と言いながら走っているような状態でした(笑)。ですから、自校のグラウンドだけではなく、兵庫県の甲南大学や京都大学などでも練習をさせてもらっていました。
そんな中、後に同じヘルシンキオリンピックの三段跳びに出場された長谷川敬三さんが、大学で練習している私を見て、同じ朝日新聞社の記者だった織田幹雄さんに連絡をしてくださったんです。それが縁で、私の練習メニューを織田さんが作ってくださるようになりました。それを私が長谷川さんからいただいて練習していたんです。その練習の成果を、長谷川さんが織田さんに伝えてくださって、月に一度、週末に汽車で13時間かけて東京の織田さんのところに行って練習をし、日曜の夜行で戻って、そのまま学校に行くということをしていました。

奈良県橿原で開催されたインカレの100mスタート前(1951年)

奈良県橿原で開催されたインカレの
100mスタート前(1951年)

―― 織田さんの指導もあって、星野さんは1952年ヘルシンキオリンピックに、陸上競技の日本代表で出場しました。日本としては、久方ぶりのオリンピックの参加ということで、注目された大会だったと思います。

戦後、初めて開催された1948年ロンドンオリンピックには、第二次世界大戦の責任を問われた日本とドイツは招待されませんでした。ですから、ヘルシンキオリンピックが日本としては戦後初のオリンピックということで、国内でもクローズアップされた記憶があります。

ヘルシンキオリンピックの円盤投で4位に入賞した吉野トヨ子(1952年)

ヘルシンキオリンピックの円盤投で
4位に入賞した吉野トヨ子(1952年)

―― 日本全体が湧いていたと思いますが、選手としてはどんなお気持ちだったのでしょうか?

陸上競技で女子は、戦前、戦後にわたって日本選手権で20回も優勝した伝説の選手として知られている円盤投げの吉野トヨ子さん、私の2つ上のお姉さん的存在だった80mハードルの宮下美代さん、そして私の3人しか代表選手に選ばれませんでした。

ですから、とても誇りに思いましたし、私は陸上代表の中で最年少の19歳だったのですが、少女時代の夢が本当に叶ったんだと思うと、胸の高鳴りを抑えることができませんでした。

日本が戦後初参加したヘルシンキオリンピックの日本選手団入場(1952年)

日本が戦後初参加したヘルシンキオリンピックの日本選手団入場
(1952年)

―― 日本からは72人の選手団が送られました。ヘルシンキには、どのようにして向かわれたのでしょうか?

ほかの競技とは別に、陸上競技の選手団だけに用意されたプロペラ機で、羽田空港から旅立ちました。ユニフォームは、現在のように開会式での入場行進用と普段着用というふうには分かれていなくて、1着しかありませんでしたから、入場行進の時と同じ、男子は明るい紺のブレザーにグレーのズボン、私たち女子は同じ紺のブレザーにグレーのスカートという服装で、飛行機に乗り込みました。沖縄を経由して途中4カ国【バンコク(タイ)、カラチ(パキスタン)バスラ(イラク)、ローマ(イタリア)で給油をし、50時間の空の旅でした。

―― 当時は、報道陣も同じ飛行機だったそうですね。当時の記者の方にうかがうと、「まるで選手団の一員だった」と。

そうでしたね。飛行機に乗る選手団のリストには、どこどこ新聞社のだれだれ、というふうに、報道陣の名前も書かれてありましたので、私たち選手と一緒に行動していたんだと思います。

―― 開幕までは、どのように過ごされていたんですか?

スウェーデンの首都ストックホルムで、陸上と水泳は同じホテルに2週間滞在し、そこで最終調整ということで練習をしました。ストックホルムのオリンピックスタジアムでは記録会というかたちで競技をし、いよいよ本番ということで、ヘルシンキに乗り込んだんです。

星野綾子氏 インタビュー風景

星野綾子氏 インタビュー風景

衝撃を受けた世界の成長スピード

―― 星野さんは、100mと走り幅跳びに出場されました。初出場ということで、緊張はしませんでしたか?

よく「オリンピックには魔物がいる」と言われますが、いつも以上に緊張してしまって実力を出せない選手がいますよね。それで、ヘルシンキオリンピックの時には、ヘッドコーチの織田先生が「観客席を見て、人の顔がわかるようだったら、緊張していない証拠だから大丈夫」とおっしゃったんです。実際、フィールドに立った時に観客席を見たら、遠くではありましたけど、ボート代表の日本人選手たちが最前列で日の丸の小旗を振ってくれているのが見えたんです。それで「よし、私は緊張していないから大丈夫」と思うことができました。

アムステルダム大会800mで日本人女子初のメダル(銀)を獲得した人見絹枝(1928年)

アムステルダム大会800mで日本人女子初の
メダル(銀)を獲得した人見絹枝
(1928年)

―― 100mでは、前年の第6回広島国民体育大会で、1928年アムステルダムオリンピックで日本人女子初のメダリスト(800mで銀メダル)となった人見絹枝さんの記録を23年ぶりに破る、12.0秒の日本新記録を樹立されていました。ですから、国民からの期待も非常に大きかったと思いますが。

当時は今のような電気計時の計測システムはありませんでしたので、手動式での計測だったのですが、実はもう1人の計測では「11.9秒」と出ていたそうなんです。今では日本人男子が「10.0秒」の壁を破るのに注目されているのと同じように、もし「11.9秒」が正式記録でしたら、「日本人女子初の11秒台」ということで、もっと喜んだんでしょうけど、当時の記録としては「12.0秒」でした。それでも長い間、人見さんの12.2秒が破られていなかっただけに、やっぱり嬉しかったですね。

ヘルシンキオリンピックの100mに出場(右から二人目、1952年)

ヘルシンキオリンピックの100mに出場(右から二人目、1952年)

―― 走り幅跳びの方も、好記録を出されていたんですよね。

ヘルシンキの4年前のロンドンオリンピックでは、5m69㎝が金メダリストの記録でした。私は、当時5m78㎝が自己ベストでしたので、国内ではメダル争いに入れるんじゃないかというふうに言われていたんです。

私自身も「オリンピックで絶対に活躍する」と胸に誓って、ヘルシンキに乗り込んだんです。どちらかというと、100mよりも走り幅跳びの方が期待されていましたので、私も走り幅跳びが本番だと思っていました。100mは、その本番のために、会場の雰囲気に慣れるという感じでしたね。でも、思っていたような活躍はできませんでした。100mは12秒6で予選落ち。走り幅跳びは予選は一発でクリアしましたが、決勝では5m54㎝で16位に終わりました。今思うと、参加しただけの大会になってしまったなぁ、という気がしています。

ヘルシンキオリンピックの走幅跳に出場(1952年)

ヘルシンキオリンピックの走幅跳に出場
(1952年)

―― 日本は16年もの間、オリンピックに参加することができませんでした。選手にとっても、その16年というブランクは、相当な影響を受けていたんですね。

そうだったと思います。国際大会の経験と言えば、ヘルシンキオリンピックの前年3月にニューデリー(インド)で行われた第1回アジア大会の1度きりだったんです。ですから、アジア以外の欧米の選手たちがどのくらいのレベルでいるのか、世界の実情というものをまったく知りませんでした。日本で自分自身が出した記録が、そのまま世界で通用すると思い込んでいたんです。ところが、実際は自分が思っていたよりも、世界ははるか遠くにあることがヘルシンキに行って初めてわかりました。

走り幅跳びでは、金メダリストは6m24㎝を記録して、しかも9位の選手までが当時のオリンピック新記録でした。実は、私も決勝では2回目の跳躍の時に、自分でも驚くほど助走でスピードに乗ることができて、5m80cm近くまで跳んだんです。もう大喜びして、後ろを振り返ったら、ファウルを意味する赤旗が振られていました。すぐに踏み切り板を確認しましたら、本当にわずかにスパイクの先が1cmほど出ていたんです。それで「次こそは」と思って臨んだ最後の3回目の跳躍では、ちょうど向かい風が吹いていました。途中でやめて、助走をし直せば良かったのですが、そのまま行ってしまって、そしたらやっぱり最後の踏み切りの足が合わなくて、まったくダメでした。「もし2回目の跳躍がファウルでなかったとしたら」あるいは「3回目の助走をやり直していたら」と思うと、今でも悔しいですね。ただ、それでも入賞できたかどうかギリギリのところだったんです。それほど、ロンドンオリンピックからの4年間でいかに世界がレベルアップしていたかということだったんですね。あまりにも世界のレベルが高すぎて、「ここまで進んでいるのか」と、もうびっくりしました。私たち日本人は「井の中の蛙」だったんです。

56年ぶりにオリンピックの女子100mに出場を果たした福島千里

56年ぶりにオリンピックの女子100mに出場を果たした福島千里(北京、2008年)

―― ただ、そのヘルシンキ以降、日本人女子はオリンピックで100mに出場することさえできませんでした。2008年北京オリンピックで福島千里選手が56年ぶりに出場した時は、大きな話題となりましたが、それほど100mに出場するということは難しい。そう考えれば、あの時代に星野さんが出場したというのは、本当にすごいことだったのではないでしょうか。

ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいですね。福島さんが北京に出場した時は、ヘルシンキ以来ということで、私にも少しスポットが当たりましたが、私自身も本当に嬉しかったです。

―― ヘルシンキでの一番の思い出は何ですか?

高校野球で球児たちが甲子園の土を持って帰るように、私も走り幅跳びの砂場の砂を日本に持って帰ろうとしたんです。ところが、帰りに寄ったイタリアで、バッグごと盗まれてしまいました。もし、持って帰ってきていたら、今ごろは一番の記念の品になっていたと思うのですが……。

第1回アジア競技大会(ニューデリー)への出発前(1951年)

第1回アジア競技大会(ニューデリー)への出発前(1951年)

―― 19歳という若さでオリンピックを経験したわけですが、今振り返ると、世界最高峰の舞台はどう映りましたか?

今思えば、私が本格的に陸上競技をやったのは、高校3年間と短大の2年間で、わずか5年間でしかないんです。その間に、第1回アジア大会に出場し、翌年にはオリンピックにも出場することができたというのは、周囲の環境が本当に恵まれていたからだったと思います。でも、オリンピックではまざまざと「世界」というものをつきつけられた気がしました。国内で少しばかりいい記録を出して喜んでいましたが、世界の成長スピードは非常に速くて、オリンピックに出るための私の努力はまったく足りていませんでした。体力面においても、技術面においても、全ての面で劣っていたんです。

ヘルシンキ後に襲った突然の「燃え尽き症候群」

―― ヘルシンキオリンピック後は、どうされたんですか?

周囲からは「4年後のメルボルンオリンピックでは」というふうに、期待されていました。確かに、それはそうだったと思います。当時はまだ19歳でしたし、戦前の日本人メダリスト、例えば日本人初の金メダリスト織田幹雄さん(1928年アムステルダムオリンピック、男子三段跳び金メダル)、南部忠平さん(1932年ロサンゼルスオリンピック、男子三段跳び金メダル・男子走り幅跳び銅メダル)、田島直人さん(1936年ベルリンオリンピック、男子三段跳び金メダル・男子走り幅跳び銅メダル)といった方たちも、初出場のオリンピックではメダルを取れず、2度目のオリンピックで金メダルに輝いているんです。ですから、私に対しても周囲は、2度目のメルボルンオリンピックでは成果を挙げてくれるだろうと、両親や指導してくださっていた織田先生をはじめ、みなさん期待してくれていました。ところが、私自身は今で言う「燃え尽き症候群」のようになってしまって、競技を続ける意味がわからなくなってしまったんです。普通は、スタートラインに着くと、ほんの少しの高揚と緊張感が出てくるものなのですが、ヘルシンキオリンピック後は、そういう気持ちが湧いてこなくて、単に「あのゴールテープを切ればいいんだな」というような、冷めた気持ちしか出てこなくなってしまいました。その理由は、未だに自分でもよくわかりません。

アムステルダム大会三段跳で日本人初の金メダルに輝いた織田幹雄(1928年)

アムステルダム大会三段跳で日本人初の金メダルに輝いた織田幹雄(1928年)

―― オリンピックに出場して「やり切った」という気持ちが、一部にはあったのでしょうか?

いいえ、ヘルシンキオリンピックでの自分には、まったく納得していませんでした。ですから、「メルボルンでは今度こそ」と思っても良かったと思うのですが、なぜかそういう気持ちが湧いてこなくて、陸上競技に対する気持ちが薄らいでいってしまったんです。そういうタイミングで、主人が現れたと言うんでしょうか(笑)、競技からは引退をして結婚しました。

星野綾子氏 インタビュー風景

星野綾子氏 インタビュー風景

―― そういう選手の気持ちというのは、私たちには計り知れないものがあるんでしょうね。

陸上というのは、本当に孤独な競技なんです。特に当時は、今とは違ってさまざまなトレーニング器具はありませんから、毎日毎日、ひたすら走り、ひたすら跳ぶだけ。もう、自分との戦いなんですね。正直に言えば、練習は楽しくはありません。ですから、本当に陸上競技が好きでなければできないと思います。そういう孤独な戦いに、疲れてしまったという面もあったかもしれませんね。

―― ご家族は残念がっていらっしゃったのではないでしょうか?

そうですね。両親も期待してくれていましたからね。私は5人兄弟の末っ子なのですが、すぐ上の姉が私以上に足が速くて、「弾丸」という異名で呼ばれていたほどだったんです。でも、彼女がピークの時に時代は戦時中でオリンピックどころではありませんでしたから、姉にはそういうチャンスが巡ってこなかったんです。私と同じ時代に生まれていれば、私以上の素質がありましたから、きっとオリンピックに出場していたと思います。そんな姉の分も、という気持ちが家族にはあったと思いますので、私にとても期待していたと思います。

―― お父さまが特製のカンガルーの皮で作ったスパイクを星野さんに贈られたということからも、どれだけ応援していたかがわかりますね。

カンガルーの皮は軽くて柔らかいので、足にフィットするんです。それを父が東京にいる靴職人の名人に注文してくれました。実は、私は幼少時代は体が弱くて、私が陸上をやることに、最初両親は反対していたんです。それを織田先生がわざわざ自宅まで来てくださって、陸上の素晴らしさを説明してくださったんです。それで両親は許可してくれたのですが、それからは2人そろって、私の一番のファンになって応援してくれました。それこそ全国津々浦々、北海道から鹿児島まで、すべての競技会に来てくれました。

来賓接待係を務めた田島麻さん(田島直人夫人、左)と娘の和子さん(1964年)

来賓接待係を務めた田島麻さん(田島直人夫人、左)と娘の和子さん(1964年)

東京オリンピックで始まった「コンパニオン」

―― 結婚を機に、大阪から東京に引っ越されたわけですが、陸上競技とのつながりというのはあったのでしょうか?

いいえ、まったくありませんでした。というのも、東京には東京の陸上競技界の「縦割り社会」がありましたので、関西から急に来た私が入れるような組織はなかったんです。ですから、陸上競技とは無縁の生活を送っていました。

―― そんな中、ヘルシンキから12年後の1964年、アジア初開催となった東京オリンピックではコンパニオンを務められました。これは、どういういきさつからだったのでしょうか?

「メイン会場である国立競技場での接待係とメダルセレモニーの時のホステス係が必要だ」ということで、陸上競技関係者から選ぼうということになったみたいですね。それで、ロサンゼルスオリンピック金メダリストの田島さんの夫人(旧姓・土倉麻、1932年ロサンゼルスオリンピック陸上100m女子日本代表)とお嬢さん、安川第五郎東京オリンピック組織委員会会長のお孫さん、それから各都道府県の陸上競技連盟の会長さんのお嬢さんなどから推薦され、私もその1人として選ばれました。招集がかかったのは、開幕1年前、1963年の9月でした。

女子走幅跳の表彰式。和服姿のコンパニオンがアシスタントを務めた(1964年)

女子走幅跳の表彰式。和服姿のコンパニオンがアシスタントを務めた(1964年)

―― 「東京オリンピックのコンパニオン」と言えば、やはり思い出されるのが、後にプロ野球・読売巨人軍の大スター長嶋茂雄さんの奥様になられる旧姓・西村亜希子さんですが、同じ「コンパニオン」でも、星野さんは「国立競技場専任」ということだったんですね。

1964年6月にコンパニオンの公募がありまして、それこそ「才色兼備」ということで、長嶋茂雄さんの奥様や、池田勇人首相(当時)の2人のお嬢様が選ばれました。その方たちは、国際オリンピック委員会(IOC)の委員などVIPの方たちに付かれていたようで、日給1万円だったとうかがっています。私たちは、国立競技場での接待やメダルセレモニーでのお手伝いということで、陸上関係者の中でお声がかかったというかたちでして、交通費とお弁当は出ましたが、ボランティアでした。

和服を着て勢ぞろいしたコンパニオン(右から6人目、1964年)

和服を着て勢ぞろいしたコンパニオン(右から6人目、1964年)

―― 当時は「コンパニオン」とは呼ばれていなかったのでしょうか?

開幕1年前にお声がかかった時には、「コンパニオン」という言葉は、日本では使われていませんでした。それで、どういう名称にしようかということで、東京オリンピック組織委員会総務局国際部部長の北沢清さんが、辞書などでいろいろと調べたところ、「貴婦人の接待役」という意味で使われている「companion(コンパニオン)」という言葉を見つけられたのです。その提案に私たちが賛同し、それで「コンパニオン」という言葉が日本で使用されるようになったんです。今では、いろいろと広い意味で「コンパニオン」という言葉が使用されていて、私たちからすれば、あまり気持ちの良くない使われ方をする時もあります。でも、本来「コンパニオン」は東京オリンピックを支えた人たちに使われていた大事な言葉。それをむやみに使用してほしくないなと思いますし、逆に言えば、2020年東京オリンピックでコンパニオンを務める人たちには、より誇りを持ってお仕事をしていただきたいと思っています。

笑顔と誠意を心がけた「おもてなし」

外国の陸上競技役員・選手とコンパニオン(後列右から3人目、1964年)

外国の陸上競技役員・選手とコンパニオン(後列右から3人目、1964年)

―― コンパニオンとしての初めてのお仕事はどういうものだったのでしょうか?

開幕1年前に行われたプレオリンピックが、私たちにとっては「リハーサル」のようなものでした。当時はまだコンパニオンのユニフォームであるブレザーコートがありませんでしたから、パーティーなどでは着物で接待をしました。

―― 当時、テレビではよくVIPの方たちの隣に和服姿の女性がいらっしゃるのが映し出されていた記憶があります。

和服姿のコンパニオンは、私たち国立競技場のコンパニオンだったと思います。当時私が住んでいたのは東京都の北青山で、国立競技場からも徒歩で10分くらいのところでした。家の塀を超えると、秩父宮ラグビー場があって、明治神宮球場があって、その先に国立競技場があるという感じだったんです。ですから、家の裏の窓を開けると、国立競技場の聖火が見えていたんです。そんな便利な所に住んでいたものですから、皆さん、コンパニオンの方たちは、私の家で着替えをしたりしていました。

―― 子育てとコンパニオンのお仕事との両立は、大変だったのではないですか?

息子が8歳と6歳でしたから、子育て真っ盛りの時でした。今思うと、当時私はどうやって両立させていただんだろうなぁと思うのですが、私の両親が大阪から来てくれていましたし、家政婦さんに子どもたちの面倒を見てもらって、なんとかやっていたのだと思います。

―― 開幕してからのコンパニオンとしてのお仕事は、どのようなものだったのでしょうか?

国立競技場に来られたVIPの方たちをスタンドの席にご案内をして、プログラムを見ながら「今、あなたの国の選手は、どの種目に出場していますよ」というような簡単な説明をしました。あまり英語が得意ではありませんでしたから、それこそ身振り手振りで(笑)。それから、メダルセレモニーの時に、プレゼンターにメダルを渡す係をしました。競技場内にはラウンジもありましたので、そこではお酒をつくったりすることもありました。当時の日本陸上競技連盟会長だった青木半治さんの奥様が、お手製のちらし寿司を持ってこられたりしていましたが、私も来ていただいた方に少しでも気持ちよく過ごしていただこうと、競技場内のお手洗いに一輪の花を飾ったりもしていましたね。

日本陸連功労賞を受賞した夫・星野敦志氏と

日本陸連功労賞を受賞した夫・星野敦志氏(左)と(2012年)

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックでは「おもてなし」が言われますが、星野さんたちはまさに心のこもった「おもてなし」をされていたんですね。

そうですね。その日を気持ちよく過ごしていただけるように、どんな時も笑顔で、誠意をこめて接しようということは心がけていました。

―― オリンピック後も、その時のご経験が生かされたそうですね。

東京オリンピックでコンパニオンを務めたことがきっかけで、その後も国立競技場での接待役に、陸連から依頼をいただいて20年させていただきました。また、1991年に行われた世界選手権では海部俊樹首相(当時)をロイヤルボックス席にご案内したり、メダルセレモニーの際にはプレゼンターの方々を表彰台まで先導する役を務めさせていただきました。

―― 東京オリンピックを契機に、何度も国際大会のコンパニオンを務められたわけですが、そのご経験から、コンパニオンに求められているものとは何だと感じられていますか?

一つは、やはり語学だと思います。私自身が身を持って経験しましたが、いくら気持ちがあっても、言葉が通じないと、伝わらないものってあるんですね。ですから、今では当然だと思いますが、2020年東京オリンピック・パラリンピックでコンパニオンをやりたい、という人は、語学を頑張ってほしいなと思いますね。そして、誠意と真心をもって接してほしいと思います。

スター選手の登場に期待したい2020年

リオデジャネイロ大会4×100mリレーで銀メダルを獲得した日本チーム(2016年)

リオデジャネイロ大会4×100mリレーで銀メダルを獲得した日本チーム
(2016年)

―― さて、2020年東京オリンピック・パラリンピックまで3年を切りました。1964年をご経験されている星野さんは、どんな思いを抱いていますか?

もうあと3年しかないんですよね。本当に月日が経つのは速いなぁと思います。ただ、1964年東京オリンピックの3年前は、全てにおいてもっと盛り上がっていた記憶があるんです。先ほども申しましたように、当時私の自宅は国立競技場のすぐ近くにありまして、すぐ目の前の青山通りがそれまでの倍以上に拡がったんです。私の長男が小学校低学年だったのですが、あまりにも道幅が広がりすぎて、小学生の足では信号が青中に渡り切れなかったんです。それで「急いで」なんて言ったことを覚えています。毎日、外からは工事の音が聞こえてきて、テニスコートがなくなったり、大きな建物が並んだりして、青山一帯が一変しました。その様子を間近で見ていましたから、オリンピックに向けて、非常に盛り上がっているという雰囲気を感じていました。「いよいよ、日本に、東京に、オリンピックが来る!」というような感じが、あちらこちらで見受けられたんです。ところが、今はそういう機運があまり感じられません。3年後は、本当に盛り上がるのかなぁなんて、心配になってしまいます。

―― 星野さんご自身は2020年が待ち遠しいですか?

はい、とても楽しみにしています。現在、主人は91歳で、私が84歳なのですが、私たち家族の間では「とにかく2020年東京オリンピック・パラリンピックまでは元気でいよう」というのが合言葉なんです(笑)。おそらく競技場に行くというのは年齢的に無理でしょうから、テレビで見ることになると思いますが、やっぱり臨場感を味わいに競技場で見たいなぁという気持ちはありますね。

男子100mで日本人初の9秒台を出した桐生祥秀(2017年)

男子100mで日本人初の9秒台を出した桐生祥秀(2017年)

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックに期待することとは何でしょうか?

やっぱり開催国の選手が強くなければ、盛り上がらないと思うんですね。そういう意味では、陸上競技では、日本人で初めて9秒台を記録した桐生祥秀を筆頭に、サニブラウン・アブデル・ハキーム、ケンブリッジ飛鳥、山縣亮太、多田修平と、何人もの選手が彗星のごとく出てきている男子100mは非常に楽しみです。私の周囲でも、普段はまったく陸上に興味のない方たちまでが、「9秒台が出たんですよね」なんて話をしているくらいですから、2020年の陸上競技は相当な盛り上がりを見せるでしょうね。他の競技でも、彼らのようにスター選手が出てくるといいですよね。いずれにしても、若い人たちには、世界のスター選手の活躍を目に焼き付けてほしいなと思います。

―― パラリンピックについてはいかがでしょうか?

2012年ロンドンパラリンピックでは、多くの観客が入って、非常に盛り上がったと聞いていますので、東京でも沢山の方に見に行ってもらいたいなぁと思います。ただ、まだ日本ではパラリンピックの競技や選手の知名度は低いですよね。ですから、これからもっともっと知ってもらって、ロンドンのように、たくさんの人が会場に足を運ぶようになってほしいなと思います。

  • 星野 綾子氏とオリンピック 年表
  • 世相
1912
明治45

ストックホルムオリンピック開催(夏季)
日本から金栗四三氏が男子マラソン、三島弥彦氏が男子100m、200mに初参加

1916
大正5

第一次世界大戦でオリンピック中止

1920
大正9

アントワープオリンピック開催(夏季)

1924
大正13
パリオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の入賞となる6位となる
1928
昭和3
アムステルダムオリンピック開催(夏季)
織田幹雄氏、男子三段跳で全競技を通じて日本人初の金メダルを獲得
人見絹枝氏、女子800mで全競技を通じて日本人女子初の銀メダルを獲得
サンモリッツオリンピック開催(冬季)
1932
昭和7
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
南部忠平氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)

  • 1933星野 綾子氏、大阪府に生まれる
1936
昭和11
ベルリンオリンピック開催(夏季)
田島直人氏、男子三段跳で世界新記録を樹立し、金メダル獲得
織田幹雄氏、南部忠平氏に続く日本人選手の同種目3連覇となる
ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック開催(冬季)
1940
昭和15
第二次世界大戦でオリンピック中止
1944
昭和19
第二次世界大戦でオリンピック中止

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
ロンドンオリンピック開催(夏季)
サンモリッツオリンピック開催(冬季)

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951星野 綾子氏、第1回アジア競技会(ニューデリー)出場 4×100mリレーで金メダル、走幅跳で銀メダルを獲得
  • 1951日米安全保障条約を締結
1952
昭和27
ヘルシンキオリンピック開催(夏季)
オスロオリンピック開催(冬季)

  • 1952 星野 綾子氏、ヘルシンキオリンピック出場
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルンオリンピック開催(夏季)
コルチナ・ダンペッツォオリンピック開催(冬季)
猪谷千春氏、スキー回転で銀メダル獲得(冬季大会で日本人初のメダリストとなる)
1960
昭和35
ローマオリンピック開催(夏季)
スコーバレーオリンピック開催(冬季)
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
円谷幸吉氏、男子マラソンで銅メダル獲得 
インスブルックオリンピック開催(冬季)

  • 1964 星野 綾子氏、東京オリンピック・パラリンピックにてコンパニオンを務める。
    ヘルシンキオリンピックに出場した知識と経験を買われ、大会組織委員会競技補助員として、世界各国から訪れた競技関係者やその家族をもてなす
  • 1964東海道新幹線が開業
1968
昭和43
メキシコオリンピック開催(夏季)
テルアビブパラリンピック開催(夏季)
グルノーブルオリンピック開催(冬季)
1969
昭和44
日本陸上競技連盟の青木半治理事長が、日本体育協会の専務理事、日本オリンピック委員会(JOC)の委員長に就任

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
ミュンヘンオリンピック開催(夏季)
ハイデルベルクパラリンピック開催(夏季)
札幌オリンピック開催(冬季)

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
モントリオールオリンピック開催(夏季)
トロントパラリンピック開催(夏季)
インスブルックオリンピック開催(冬季)
 
  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
8カ国陸上(アメリカ・ソ連・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア・ポーランド・日本)開催  

  • 1978日中平和友好条約を調印
1980
昭和55
モスクワオリンピック開催(夏季)、日本はボイコット
アーネムパラリンピック開催(夏季)
レークプラシッドオリンピック開催(冬季)
ヤイロパラリンピック開催(冬季) 冬季大会への日本人初参加

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルスオリンピック開催(夏季)
ニューヨーク/ストーク・マンデビルパラリンピック開催(夏季)
サラエボオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1985 星野 綾子氏、トータル・オリンピック・レディス(オリンピック出場女子選手の会)の 発足に携わり、幹事、副会長などの役職を歴任
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
鈴木大地 競泳金メダル獲得
カルガリーオリンピック開催(冬季)
インスブルックパラリンピック開催(冬季)

  • 1991 星野 綾子氏、世界陸上競技選手権大会(東京)で式典表彰係を担当し、 メダル・プレゼンターのエスコート係を務める
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて日本女子陸上選手64年ぶりの銀メダル獲得
アルベールビルオリンピック開催(冬季)
ティーユ/アルベールビルパラリンピック開催(冬季)
1994
平成6
リレハンメルオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アトランタオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
有森裕子氏、女子マラソンにて銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
長野オリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2000
平成12
シドニーオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
高橋尚子氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2002
平成14
ソルトレークシティオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
野口みずき氏、女子マラソンにて金メダル獲得
2006
平成18
トリノオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2007
平成19
第1回東京マラソン開催
2008
平成20
北京オリンピック・パラリンピック開催(夏季)
男子4×100mリレーで日本(塚原直貴氏、末續慎吾氏、高平慎士氏、朝原宣治氏)が3位とな り、男子トラック種目初のオリンピック銅メダル獲得

  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
バンクーバーオリンピック・パラリンピック開催(冬季)

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催(夏季)
2020年に東京オリンピック・パラリンピック開催を決定
2014
平成26
ソチオリンピック・パラリンピック開催(冬季)
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催(夏季)