オリンピック3連覇をはじめ、世界大会16連覇、個人戦206連勝と、次々と記録を打ち立て、世界の女子レスリング界を牽引してきた吉田沙保里さん。
2012年には、個人の女性では高橋尚子氏(マラソン)に続いて2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。
そんな「世界の吉田沙保里」さんに、これまでのレスリング人生を振り返ると同時に、今後のレスリング界についてお話をうかがいました。
聞き手/山本浩氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
オリンピック3連覇をはじめ、世界大会16連覇、個人戦206連勝と、次々と記録を打ち立て、世界の女子レスリング界を牽引してきた吉田沙保里さん。
2012年には、個人の女性では高橋尚子氏(マラソン)に続いて2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。
そんな「世界の吉田沙保里」さんに、これまでのレスリング人生を振り返ると同時に、今後のレスリング界についてお話をうかがいました。
聞き手/山本浩氏 文/斉藤寿子 構成・写真/フォート・キシモト
桜花道場での練習風景(2015年)
―― 吉田さんは、3歳の時にレスリングを始められたそうですが、中学時代は陸上をされていたそうですね。
はい、中学校にはレスリング部がなかったので、陸上部に所属していて、主に短距離やハードルをやっていました。
―― やっぱり、相当速かったんでしょうね。
まぁまぁという感じでしたよ。私よりも速い選手は他にたくさんいましたので。ただ、体育の成績は良かったですね。運動会になると、いつもアンカーをやっていました。苦手なのは長距離で、マラソン大会の成績は、あまり良くなかったですね。
―― 中学校時代は、陸上部をやりながら、家に帰るとレスリングの練習をしていたと。
そうですね。中学校から自宅までは徒歩5分くらいで、自宅にレスリング道場がありましたので、部活を終えて、帰宅してからレスリングの練習という毎日でした。
滝に打たれて精神統一(左から二番目。中央は福田会長)(2005年)
―― その頃からクラスでも目立つ存在ではあったんですか?
いえいえ、もう本当に普通の女の子でしたよ。ただレスリングをやっているというところだけが、ちょっと他の女の子とは違っていただけで、クラスでも特に目立つような存在ではなかったと思います。
―― 当時、将来の夢は何だったんですか?
小学生の時は、ただ父親にレスリングをやらされていたという感じで、自分が将来何になりたいかなんて考えたことがなかったですね。
―― 子どもの頃は「やらされていた」という感覚だったんですね。
そうです。兄2人もやっていましたし、物心ついた時にはやらなくちゃいけない状況だったというか、やるのが当然という感じでしたから、私だけがレスリングをやらないという選択肢はなかったんです。吉田家にとってレスリングは生まれた時から必然的に行なわれる「日常」の一つでした。
吉田沙保里氏 インタビュー風景
―― 当時は、まだレスリング女子はオリンピック競技になっていませんでした。やはり、お父さんはお兄さん2人の方に力を入れていたという感じで、末っ子の女の子である吉田さんには少し甘かったところもあったりしたのでは?
確かに最初、父は兄たちに力を入れて指導していたのですが、私がどんどん力をつけていって、気付いたら家族が私中心になっていました。
―― 小学生の時から全国優勝ですからね。
全国大会で優勝していましたが、その頃はいつも必ず勝っていたというわけではなかったんです。男子の大会にも出ていたこともあって、勝ったり負けたりして、悔しい思いも何度もしました。
―― 「やらされている」レスリングでも、「楽しい」と思う時はありましたか?
やっぱり一番は試合で勝った時ですよね。毎日の練習は嫌でしたけど、試合に出れば勝つことが多かったので、楽しかったです。
高校1年、国際大会にて。(左から二番目。右端が父でコーチの栄勝氏)(1998年1月)
―― 吉田さんのお父さんは厳しい指導者で有名ですが、子どもの時はどのくらいの練習量だったんですか?
小学生に入ってからは、それこそ毎日でした。休みはお盆とお正月の2、3日ずつだけで、あとは平日も土日も休みはなかったです。道場で練習するか、出稽古に行くか、試合に出るか……。
とにかくレスリング漬けの毎日でした。
―― 友達と遊びたいと思ったこともあったのでは?
はい、友達と遊べないのが嫌で、レスリングをやめたいと何度も思いました。でも、我が家は父親が言うことは絶対でしたし、すごく怖かったので、逆らうことはできなかったんです。だから友達から「遊ぼう」と言われても、「ごめんね。レスリングの練習があるから」と泣く泣く断るしかありませんでした。そのうち「沙保里ちゃんは、レスリングがあるから、遊べないんだ」と、友達からも誘われなくなりました。
―― 逆に言えば、家族との絆が深かったんでしょうね。
そうかもしれないですね。とにかく、いつも家族で一緒にいましたからね。
高校2年、フランス国際大会で優勝しガッツポーズ。(1998年)
―― お父さんに「やらされていた」レスリングから、自分で「やる」レスリングへと変わっていったのは、いつ頃だったんですか?
中学生になってからです。2年の時に、アトランタオリンピックで田村(現谷)亮子選手が戦っている姿をテレビで観て、「私も、こんなふうに強い選手になりたい」と思いました。それからは、レスリングをやめたいと思ったことは一度もなかったです。
―― その頃から、新聞記事にはコンスタントに吉田さんの名前が登場するようになるのですが、当時はメディアに取り上げられることは意識していましたか?
まだ、それほど意識はしていなかったですね。ただ、中学に入ってから国際大会に出るようになって、そこで優勝したりすると、市長さんに挨拶に行くことがありました。それで「新聞に記事が載っていたよ」と言われたりすると、ちょっと嬉しかったりしたというのは覚えています。
―― 中学1年から毎年、フランスの国際大会に出場していたようですね。海外の選手はどんな印象でしたか?
中学1年の時が初めての国際大会で、外国人を見たのも初めての経験だったんです。まるでテレビの世界のようで、ドキドキしながら「あぁ、こういう人たちとも戦っていくんだなぁ」と思ったのは覚えています。
とにかく見た目が強そうに映って、戦うのが怖いな、と思いました。でも、いざやってみたら、「あれ?」という感じでした(笑)。海外の選手は強そうな雰囲気もありましたし、リーチの長さとかは確かにあるんですけど、でも、やってみたら日本人の選手の方が全然強いな、と。国内大会よりも楽に勝てたので、楽しかったですね。
―― 海外の選手は、体が大きい分、腰高で、タックルに入りやすかったのでしょうか?
はい、おっしゃる通りです。もちろん、今はもうどの選手も低く構えてくるので、なかなかタックルに行くのも至難の業ですが、当時はみんな腰高で、結構簡単にタックルに入れたんです。私の得意技が決まりやすかったので、国際大会では負ける気がしなかったですね。
高校2年、フランス国際大会に出場し優勝。(1998年)
―― 高校は三重県立久居高校に進学しました。吉田さんの自宅からは、およそ10キロほどと、割と近いところにあると思いますが、この高校を選んだ理由は何だったんですか?
父が選びました。スポーツ科学コースもありましたし、家から近くて、レスリング部があったということが大きかったのだと思います。
―― 練習拠点は、高校と自宅の道場と、どちらだったんですか?
どっちもです。放課後、高校で部活動の練習をして、帰宅後に自宅の道場で父親から指導を受けていました。
―― 高校時代にはもう絶対的な自信を持って、レスリングをしていたんですか?
全日本選手権では勝つことができていなかったので、まだ自信とうい自信はありませんでした。ただ、自分のレスリングに迷いはなかったです。やめたいとも思っていなかったですし、とにかく「勝ちたい」一心でやっていました。
北京オリンピック。父から授かった高速タックルを決める。(2008年)
―― その頃、お父さんからよく言われたのはどんなことでしたか?
ただただ「タックルで攻めろ」と。そのひと言だけでしたね。私はどちらかというと、言われたことはすぐにできるタイプだったので、練習中もそれほどうるさくは言われなかったんです。逆に、兄はよく注意されていましたけど、私には言わなかったですね。試合の時も、細かいこと言うというよりは「とにかく攻めろ」と。
―― 例えば、相手の弱点のつき方や、時間の使い方など、いろいろと戦略があると思いますが、お父さんからアドバイスされたこともあったのでは?
うーん、あまり覚えていないですね。それほど、言われなかったんだと思います。中学、高校の頃は、もう試合慣れをしていましたし、そういう細かいことは試合中に自分で考えて、自分で判断していました。
それと、私が末っ子というのも少し関係しているかもしれないです。というのも、私自身は覚えていないのですが、母が言うには、小さい頃に兄を見ていて、「あぁ、お兄ちゃん、あんなふうにしたら、お父さんに怒られちゃうのに。こうしたらいいのになぁ」というようなことをよく言っていたらしいんです。それが父に聞こえて「オマエはやらんのやったら、黙ってろ!」って怒られたらしいんですけど(笑)。
兄とか周りを見て、色々と覚えたり吸収したりすることもあって、観察力みたいなものが養われていたのかもしれません。
オリンピック新競技となったアテネ大会で金メダルを獲得(2004年)
―― お父さんからは、攻めのレスリングを教わったと。
はい、そうですね。「タックルを制する者は、世界を制する」が口癖で「とにかく攻めろ」の一点張りでした。「タックル」や「攻める」ということにおいてのこだわりを、嫌というほど叩きこまれましたね。父は自分が現役時代はタックルではなく、投げ技、返し技の方を得意とする選手だったんです。それで、タックルに入られてやられることが多かったそうです。そういう自分の失敗を踏まえて、私には「タックルが上手い選手が最後は勝つんだ」と言っていたようです。今思うと、自分とはスタイルが違うレスリングを指導するなんて、父親ながらすごいなぁと思います。
―― お父さんは、勝敗へのこだわりも強かったのでは?
勝ったか負けたかよりも、父の基準は、攻めたか、攻めなかったか、でしたね。もちろん勝つことに越したことはありませんが、たとえ勝った試合でも、練習通りに技を出して攻めていなかったら叱られましたし、逆に負けても、きちんと攻める姿勢を見せていれば、褒める人でした。
北京オリンピックで連覇をはたす(2008年)
―― でも、疲れてくると、攻めるふりして行かないということもあると思うのですが、そういうのは叱られるんですか?
試合中の駆け引きはありますから、タックルに入るばかりではなく、当然ポイントにつながる「振り」みたいなものもあります。でも、それは攻めの中の「守り」なので、そういうのはもちろん父親もOKです。でも、終始守りに入ってしまって、一度もタックルに入りに行かないとか、そういう消極的な姿勢を見せた場合は、こっぴどく叱られましたね。
―― 吉田さんは左利きだったことも大きかったみたいですね。
そうですね。今はどちらかというと左利きの選手の方が多いくらいで、珍しくなくなりましたので、どちらが有利ということは全くなくなりましたが、私が子どもの頃は左利きの選手はほとんどいなかったので、有利だったと思います。普段、右利きとばかりやっている選手が、試合になって急に左利きとやるわけですから、戸惑いますよね。右と左とでは、タックルの入る形からして逆になるわけで、対応の仕方も違いますからね。でも、私は普段から右利きとやっているので、試合になっても何も困ることがなかったんです。おそらく父はそういうことを見越して、私を左利きにしたのだと思います。
―― ということは、吉田さんは「作られた左利き」ということですか?
はい、そうなんです。実はレスリング以外は、全部右利きなんですよ。
―― いつ左利きにしたんですか?
最初からです。3歳で始めた時から、左利きのレスリングを教えられました。だから私にとって、レスリングは左利きが普通で、逆に右利きのレスリングは全くできないんです。
―― やはり左利きの方が有利だなと思っていましたか?
最初は何もわからずやっていました。「あ、私は他の子と違って、左利きなんだ」と、ようやく違いについて気付いたのが、小学校3、4年生くらいだったと思います。自分では特にアドバンテージとは感じていなかったのですが、父親がなぜ左利きにしたのか、ということを理解したのは中学生になってからだったと思います。「左利きが少ないということを見越していたんだな」と。それがわかった時は、「お父さん、すごいなぁ」と思いましたね。
父でコーチの吉田栄勝氏
―― 高校卒業後は、中京女子大学(現至学館大学)に進学しました。
この時も、父の鶴の一声で決まりました。私の人生は、本当に父がすべて決めてきたんです(笑)。
―― なぜ、お父さんは中京女子を選んだのでしょう?
自宅に近いので、練習を見たり教えたりすることができる、というのが一番にあったみたいですね。
―― 吉田さんにとっては、「大学生になってまで」というのはなかったですか?
ありましたよ。ちょっと、父に縛られていた感じがあったので、離れたいなと。本当のことを言うと、高校も大学も志望する学校はあったんです。高校は、鹿児島の鹿屋高校に行きたいと思っていました。そこには、兄も仲のいい友達もいたんです。大学は国士館大学とか東京の方に行きたいと思っていました。でも、父が「中京女子に行け」と。当時は地元で、しかも女子大だったので、正直嫌でしたけど、父が言うことだったので、行くしかありませんでした。
―― お父さんに自分の希望は言わなかったんですか?
言いましたよ。「私は、○○に行きたいと思っているんだけどなぁ」って、小さい声で(笑)。でも、父に「ダメだ」と言われれば、それまででしたから。たとえ母に相談しても、結局は「お父さんが言っているんだったら、仕方ないねぇ」で終わってしまうので、私としても「どうしようもないな」というふうになってくるんですよね。反抗して何かをするなんて、怖くて考えたこともなかったです。
―― でも、鬱憤もあったのでは?
当時は、「なんで自分の人生なのに、自分で決められないんだろう。なんで、お父さんが全部決めてしまうの?」という不満はすごくあって、正直、父が大嫌いだった時もありました。でも、もう一度人生をやり直すと言われても、私は同じ道を歩みます。最終的には、父のおかげで成功した今があるわけですからね。今は父の言うことを聞いてきて本当に良かったな、と思っています。
全日本選手権でライバルの山本聖子(左)を破って優勝(2003年)
―― 吉田さん自身が、オリンピックというものを意識したのはいつ頃だったのでしょうか?
私が中学生の頃から、父がよく「いつかきっと、女子もオリンピック競技になるから頑張れ」と言っていたんです。その言葉を信じて、「いつかは」という気持ちでやっていました。
―― 2001年9月に、2004年アテネオリンピックで初めてレスリング女子が正式競技として採用されることが決定したわけですが、その時はどんな思いでしたか?
もちろん、オリンピック競技になったことは嬉しかったのですが、まだ現実のものとしてとらえられていなかったですし、自分が行けるかもわからない立場だったので、私自身はそれほど何か強く感じたというものはありませんでした。
―― 当時、吉田さんにとって、「ライバル」だったのは、同じ階級で2つ年上の山本聖子さんでした。
はい。ですから、オリンピックに採用された喜びよりも、聖子ちゃんを倒さない限りはオリンピックに出られないんだ、という思いの方が強かったですね。とにかく、聖子ちゃん対策を立てるのに必死でした。いつも負けるパターンというのは決まっていたので、その弱点を克服する練習を繰り返しました。
―― 吉田さんはタックルで攻めるレスリングだったわけですが、山本選手はどんなレスリングだったんですか?
聖子ちゃんも攻めるタイプだったと思いますが、私の方が攻めに対してはこだわりが強い感じでした。聖子ちゃんは、身体能力が高かったので、タックルというよりは、投げ技や返し技の方を得意としていましたね。私は投げ技も練習していましたが、父からは「投げ技は最終手段だから」と言われていて、まずはタックルで攻めていくのが鉄則でした。
―― 2003年12月に行われた全日本選手権で、延長戦の末に、山本選手に勝ちました。あの試合は、すごかったですね。
その前年の全日本で、初めて聖子ちゃんに勝ったんです。ただ、まだ「必ず勝てる」という自信はありませんでした。「勝ちたい」「勝つんだ」とは思ってはいましたが、実力的には拮抗していたんです。2003年の時も、「やってみないとわからないな」という感じでした。
―― 2004年4月の「ジャパンクイーンズカップ」では、結果的にはあっさりと山本選手を破りました。あの勝利で、自信もついたのでは?
そうですね。あれでオリンピック出場が決まりましたし、初めてのオリンピックで金メダルを取ることができたので、自分のレスリングに対する自信が出てきました。連勝記録は2002年から始まっていましたが、自信を持って「吉田沙保里のレスリングはこれだ」というふうに思えるようになったのは、2004年がスタートだったと思います。
―― 自信が持てるようになった要因はどこにあったのでしょうか?
特に技術的に上手くなったとか、スピードが速くなったとかではなかったと思うんです。やっぱり、ライバルだった聖子ちゃんを倒してオリンピックという舞台を踏み、そこで金メダルを取った、という「経験」が大きかったのだと思います。それまでは「負けるかもしれない」という気持ちが少なからずあったのが、ようやく「自分は強いんだ」というふうに確信できたことが自信につながったのかなと。
ロンドンオリンピックで3連覇の偉業を達成(2012年)
―― それ以来、2008年1月のワールドカップ団体戦で敗れるまで、公式戦では119連勝という大記録を樹立しました。あの時は、全く負ける気がしていなかった?
そうですね。「絶対に負けない」と思って、いつも試合をしていました。もちろん、手強い相手もいて、試合後に「危なかったぁ」と、ほっと胸をなでおろすこともありましたが、試合中は自分のレスリングさえすれば、絶対に勝てると信じ切っていたので、負けるとは一切思っていなかったです。
―― 勝ち続けることで、プレッシャーがのしかかることはなかったですか?
確か74連勝した時に、記者の方から「あと10連勝すれば、谷亮子さんの84連勝と並びますが、どう思われますか?」という質問があったんです。その時まで連勝記録なんて全く頭になくて、ただ「勝ちたい」という思いでやっていたのですが、その時に初めて意識するようになって、プレッシャーになっていきましたね。
―― そのプレッシャーは、吉田さんにとってプラスでしたか。それともマイナスになりましたか。
うーん、どちらでもありましたよね。プレッシャーでもありましたけど、それもまたモチベーションの一つになっていたと思います。
ロンドンオリンピックで3連覇の偉業を達成(2012年)
―― アテネオリンピックで金メダルを獲得して、その後は燃え尽き症候群にはなりませんでしたか?
私は、そういうのは全くなかったです。むしろ「よし、4年後の北京では絶対に2連覇するぞ」というふうに、すぐに次に向かっていました。北京の後もそうでしたが、「少し休みたい」という選手の気持ちがわからなくて、すぐにトレーニングを始めていましたね。
―― 3度目のロンドンオリンピックは、アテネ、北京とは違い、苦しみながらの金メダルでしたね。
そうですね。ただ、4度のオリンピックで一番強かったのはロンドンの時だったと感じています。アテネの時と同じ相手と対戦もしているのですが、アテネの時は勢いはありましたが、まだレスリング自体は初々しさが抜けていない感じでした。でも、ロンドンの時は経験を積んでいる分、きちんと考えてレスリングができていました。そういう戦いができたロンドンでの金メダルは本当に自分にとって大きかったんです。でも、だからこそ4年後のリオのことはなかなか考えられませんでした。アテネ、北京の時とは違って、ロンドンの後は、すぐには「次は4連覇だ」とは思えませんでした。年齢を考えても30歳を過ぎていますから、そこでの金メダルを想像することができなかったんです。長期休養を取ったのは、ロンドン後が初めてでした。
リオデジャネイロオリンピックで4連覇を逃し銀メダル(2016年)
―― 昨年のリオデジャネイロは、いかがでしたか?
オリンピックに向かう過程の中で、ちょっとしたケガが多かったなというのはありましたが、それでもロンドンほど調子は悪くなく本番を迎えることができていました。それと同じ代表に至学館の後輩たちもいたので、自分のモチベーションも高くて、「全員で金メダルを取って帰ってきたい」という強い思いで臨みました。
ただ、決勝は順当にいけばソフィア・マットソン(スウェーデン)が来るだろうとにらんでいたのですが、彼女ではなく、ヘレン・マルーリス(米国)が上がってきたので、それは少し驚きました。実際に戦ってみて、予想以上に彼女は強かったです。
4連覇は逃しましたが、もうそれは勝負の世界なので仕方ありません。あの時は、彼女の「吉田沙保里に勝ちたい」という思いの方が強かったのだと思います。
―― リオ後は、現役を続けながら、指導者の方の道にも足を踏み入れ始めたわけですが、自分自身の気持ちとしては、どこに軸を置いているのでしょうか?
正直、まだ確立されていない部分の方が大きいですね。ただ、リオの前から後輩の指導はしていたので、それほど何か変わったということはないです。自分の練習をしながら、他の選手たちにアドバイスをしたり、相談に乗ったりしています。
―― 指導者としての「吉田沙保里」をどう感じていますか?
いやぁ、難しいですよね。正直、教えるよりも、自分でやる方が何倍も楽しいです(笑)。私は、叱り切れないところがあるんです。もちろん、きちんと注意すべきところは言いますが、それでも厳しくし切れないですね。単に技を教えるだけでなく、選手を強くさせるんですから、指導者って本当にすごいなぁと思います。
銀座で行われたリオ大会メダリストパレード。左は土性。右は登坂。(2016年)
―― これからの日本のレスリング女子をどう見ていますか?
競技人口も増えていますし、成績を見ていただければ一目瞭然ですが、世界で勝てる若い選手たちが次々と出てきているので、未来はとても明るいなと思っています。みんな、本当に練習熱心ですし、すごく頼もしく感じています。2020年東京オリンピックまで3年ありますから、いつどんな強い選手が出てくるかわかりません。そういう層の厚さも、日本の強さだと思います。
―― 2020年東京オリンピック以降に残したいレガシーとは何でしょうか?
まずは、これまでの伝統を受け継いで、今の強さを維持し続けていくことが重要だと思っています。そういう中で、レスリングで得たものを活かしてほしいなと思います。私自身、レスリングをしてきたからこそ学ぶことが多かったですし、貴重な経験もすることができました。
まだまだ現役で頑張るつもりですが、ゆくゆくは自分が得てきたものを、次の世代に伝えて、子どもたちが「私もレスリングをやりたい」と思えるようにしたい。そうして、さらにレスリング界を盛り上げていきたいと思います。
1929 昭和4 | 早稲田大学柔道部がアメリカに遠征した際にレスリングと出合う |
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1931 昭和6 | 八田一朗氏らによって早稲田大学にレスリング部が創設される |
1932 昭和7 | 大日本アマチュアレスリング協会設立 ロサンゼルスオリンピック開催 日本からレスリング競技に6選手が参加するも、上位入賞はなし |
1935 昭和10 | 大日本アマチュアレスリング協会が大日本体育協会に加盟 レスリング日本代表、初めての欧州遠征を実施 |
1936 昭和11 | ベルリンオリンピック開催 風間栄一氏と水谷光三氏が入賞を果たす |
1941 昭和16 | 太平洋戦争突入により、スポーツ競技の存続が厳しくなる |
1942 昭和17 | 戦前最後となったレスリング全日本選手権が東京・軍人会館にて開催 |
1945 昭和20 | 終戦により早稲田大学レスリング部の活動が再開
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1946 昭和21 | 大日本アマチュアレスリング協会が「日本レスリング協会」に改称
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1949 昭和24 | 国際レスリング連盟(FILA)理事会がトルコで行われる 日本レスリング協会の復帰加盟が認められる
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1952 昭和27 | ヘルシンキオリンピック開催 石井庄八(いしいしょうはち)氏、レスリング競技で金メダルを獲得 |
1954 昭和29 | 笹原正三氏、東京体育館にて行われたレスリング世界選手権にて優勝
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1956 昭和31 | メルボルンオリンピック開催 笹原正三氏、池田三男氏がレスリング競技で金メダルを獲得 |
1962 昭和37 | レスリング世界選手権がトレドにて開催 渡辺長武氏、市口政光氏が優勝 |
1963 昭和38 | レスリング世界選手権がソフィアにて開催 渡辺長武氏、堀内岩雄氏が優勝 |
1964 昭和39 | 東京オリンピック・パラリンピック開催 吉田義勝氏、上武洋次郎氏、渡辺長武氏、花原勉氏、市口政光氏が、レスリング競技で金メダルを獲得
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1965 昭和40 | レスリング世界選手権がマンチェスターにて開催 吉田嘉久氏、福田富昭氏が優勝 |
1966 昭和41 | レスリング世界選手権がトレドにて開催 金子正明氏が優勝 |
1968 昭和43 | メキシコオリンピック開催 中田茂男氏、上武洋次郎氏、金子正明氏、宗村宗二氏が、レスリング競技で金メダルを獲得 |
1969 昭和44 | レスリング世界選手権がマル・デル・プラタにて開催 田中忠道氏、森田武雄氏が優勝
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1970 昭和45 | レスリング世界選手権がエドモントンにて開催 柳田英明氏、藤本英男氏が優勝 |
1971 昭和46 | レスリング世界選手権がソフィアにて開催 柳田英明氏が優勝し、2連覇を果たす |
1972 昭和47 | ミュンヘンオリンピック開催 加藤喜代美氏、柳田英明氏が、レスリング競技で金メダルを獲得
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1974 昭和49 | レスリング世界選手権がイスタンブールにて開催 高田裕司氏が優勝 |
1975 昭和50 | レスリング世界選手権がミンスクにて開催 高田裕司氏、荒井正雄氏が優勝 |
1976 昭和51 | モントリオールオリンピック開催 高田裕司氏、伊藤治一郎氏が、レスリング競技で金メダルを獲得
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1977 昭和52 | レスリング世界選手権がローザンヌにて開催 高田裕司氏、佐々木禎氏が優勝 高田裕司氏はオリンピックを含めて世界4連覇を果たす
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1982 昭和57 |
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1984 昭和59 | ロサンゼルスオリンピック開催 宮原厚次氏、富山英明氏が、レスリング競技で金メダルを獲得 |
1985 昭和60 | フランスにて世界初の女子国際大会が開催される 日本からは大島和子氏が出場 |
1988 昭和63 | ソウルオリンピック・パラリンピック開催 小林考至氏、佐藤満氏が、レスリング競技で金メダルを獲得 |
1989 平成元 | レスリング世界女子選手権がマルティニーにて開催 吉村祥子氏、清水美弥子氏が優勝 |
1991 平成3 | レスリング世界女子選手権が東京にて開催 山本美憂氏、飯島晶子氏、浦野弥生氏が優勝 |
1992 平成4 | バルセロナオリンピック・パラリンピック開催 赤石光生氏がレスリング競技で銅メダルを獲得
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1996 平成8 | アトランタオリンピック・パラリンピック開催 太田拓弥氏がレスリング競技で銅メダルを獲得
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2000 平成12 | シドニーオリンピック・パラリンピック開催 永田克彦氏がレスリング競技で銀メダルを獲得
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2004 平成16 | アテネオリンピック・パラリンピック開催 レスリング競技にて、伊調馨氏が金メダルを獲得 田南部力氏、井上謙二氏が銅メダル、伊調千春氏が銀メダル、浜口京子氏が銅メダルを獲得
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2008 平成20 | 北京オリンピック・パラリンピック開催 レスリング競技にて、伊調馨氏が2連覇を果たす 松永共広氏が銀メダル、湯元健一氏が銅メダル、伊調千春氏が銀メダル、浜口京子氏が銅メダルを獲得
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2009 平成21 |
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2010 平成22 |
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2012 平成24 | ロンドンオリンピック・パラリンピック開催 レスリング競技にて、伊調馨氏、小原日登美氏、米満達弘氏が金メダル、松本隆太郎氏、湯元進一氏が銅メダルを獲得
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2016 平成28 |
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