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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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次世代の架け橋となる人びと
第58回
日本卓球界を復活に導いた「大改革」

宮﨑 義仁

卓球を始めたのは中学生の時と遅いスタートでしたが、高校、大学、実業団とそれぞれチームのエースとして活躍した宮﨑義仁さん。

卓球が初めてオリンピックの正式競技となった1988年ソウル大会にも出場し、日本の卓球界を牽引しました。現役引退後は、ナショナルチームの監督として低迷していた日本卓球界の復活に尽力してきました。

「大鉈を振るうのが得意」と語る宮﨑さんに、どのように改革を進め、日本卓球界再生の道を築いてきたのか、そして今後の日本卓球についてお話をうかがいました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

2001年、代表監督就任と同時にスタートした改革

リオデジャネイロオリンピック女子団体で銅メダルを獲得(2016)

リオデジャネイロオリンピック女子団体で銅メダルを獲得(2016)

―― 昨年のリオデジャネイロオリンピックでは、男子団体が銀メダル、女子団体と、水谷隼選手がシングルスで銅メダルと、目覚ましい活躍でした。そのリオ後、2020年東京オリンピックに向けての動き出しも、他競技に比べて早かったように感じられます。

2020年はもちろんですが、日本卓球界ではその先の2024年、2028年対策がもう既に始まっています。

―― 目先のことだけではなく、将来を見据えた動きというのは、以前から継続して行われていますよね。それが近年のオリンピックでの結果につながっていると。

木村興治氏

日本卓球協会名誉副会長 木村興治氏
(第21回スポーツ歴史の検証にご登場いただいています。)

そうですね。こうした流れは、2001年、私が男子日本代表の監督に就任した時に始まりました。
当時、日本卓球界は低迷が続いていて、私が就任要請を受けた際、当時の日本卓球協会専務理事の木村興治さん(現日本卓球協会名誉副会長)からはこう言われたんです。

「もう日本は男女ともに世界でベスト8に入ることはないかもしれない。それだけ日本卓球界を再生させることは至難の業。だけども、私は君に託してみたい。もう一度メダルが取れる日本卓球界に戻してほしい」と。

―― それほど厳しい状況下で、監督に就任するというのは、簡単には決められなかったのではないですか?

木村さんから言われたのは「365日、代表監督としての活動をすること」と「無報酬でやってほしい」ということでした。1週間後に「引き受けます」と返事をしたのですが、その際に私から3つの条件を出させてもらいました。「小学生のナショナルチームを作ること」「強化本部規程を改正すること」、そして当時、日本卓球協会は練習場を持っていませんでしたので、練習場を確保するために「ナショナルトレーニングセンターの建設検討委員会を設置すること」。これら3つの条件を受け入れていただけるのであれば監督を引き受けます、と。それが日本卓球協会の理事会で承認されて、2001年10月に男子の代表監督に就任しました。
私はすぐに動きました。10月中には強化本部規程が改正され、監督である私が自由に動けるようになり、11月には小学生のナショナルチーム創設の告知をしました。12月には全国から小学生の代表選手を招集してリーグ戦を行い、ホープスナショナルチームのメンバー8人を決めると、翌年1月には強化合宿をスタートさせたんです。

―― 小学生のナショナルチームは男女ともにスタートしているんですか?

私は男子の監督でしたから、最初は男子のみでスタートしました。当時、女子の監督は西村卓二さん(現東京富士大学教授)だったのですが、西村さんは小学生までは考えていらっしゃらなかったと思います。ただ、男子がそうやって動き始めて、ナショナルチームの監督から直接指導を受ける小学生の姿が大きく報道されましたので、「よし、女子もやろう」と決断されたのだと思います。それで、2002年の春には女子の小学生のナショナルチームがスタートしました。

―― そうした日本卓球界の迅速な動きには目を見張るものがあります。

私自身が、何でも速いんです。日常業務においても、メールが来たらすぐに返信をしますし、スタッフから相談があれば、その場ですぐに「じゃあ、こうしよう」というふうに答えを出しますしね。

―― プライベートでもそうなんですか?

即決ですね(笑)。家を建てる時も、新しい車を買う時も、すぐに「これ」って決めてしまいましたから。悩むことがあまり好きではないんですよ。ただ、最近では少し賢くなりまして、自分の中で答えが決まってはいるんですけど、1日おいて考える時間を作ってから答えるということを、ようやくこの歳でできるようになりました(笑)。
でも、基本的にはやはり「すぐに動く」「すぐに返答する」というのは変わらないです。

―― その速さに、なかなかついていけない人もいたりするのでは?

そうですね。でも、もし周りがやらなければ、自分一人でもやってしまいます。例えば、2001年に小学生のナショナルチームを作りましたが、次に中学や高校のように、春に小学生の全国選抜大会を作ろうと思って、すぐに日本卓球協会の理事会でその申し入れをしました。でも、2年間、断られ続けたんです。「だったら、自分でやります」と言って、2003年に全国の小学校に案内を出して、栃木の体育館をおさえ、全国から来る小学生の片道交通費と宿泊費を賄うために500万円の資金を集めました。
日本卓球協会からは「全国」という名称の使用は許可されませんでしたので、「第1回ホープス選抜卓球大会」という名称で開催したところ、47都道府県のうち、43の地域から子どもたちが集まってくれました。
それを知った木村さんが、理事会で「これは立派な全国大会。これほどの規模の大会を日本卓球協会ではなく民間がやっているなんてことはあり得ない」と言ってくれまして、誰一人反対する人もいなかったので、翌年の第2回からは「全国ホープス選抜卓球大会」という名称で、日本卓球協会の主催で行なわれるようになりました。

エースの大泣きから始まった競技人生

宮崎義仁氏 インタビュー風景

宮崎義仁氏 インタビュー風景

―― 子どもの頃から、一人でも大鉈を振るうような、大胆な性格だったんですか?

いいえ、私の今の性格は、大学時代に形成されたものだと思いますね。子どもの頃は体が弱くて、いつも教室と保健室を行ったり来たりしていたんです。決して活発ではなかったですね。
中学に入って、卓球に巡りあってから、ようやく人前で話せるようになって、少し活発なところが芽生えた感じでした。高校で県や九州のチャンピオンになって、「全国」というところに足を踏み入れようというところまでいきましたが、九州弁が恥ずかしくて、全国大会に行っても人とあまり話すことができなかったんです。
それが大学に入って、少しずつ九州弁が抜けて、さらに先輩から「大阪城の前で一人で大学の校歌を歌え」というような、いわゆる「肝試し」みたいなことをやらされる中で、徐々にこういう大胆な性格になっていった感じですね。

―― 体が弱かった小学生の頃は、スポーツはしていなかったんですか?

何もしていませんでした。私は5人兄弟の末っ子なのですが、家庭の経済事情が苦しくて、上の4人は誰も高校に行っていないんです。とても貧しくて、子どもの時は朝起きると、すでに両親は働きに出ていて、しかも朝ご飯は用意されていませんでした。空腹の状態で学校に行くものですから、いつも3時間目か4時間目には、気付くと保健室で寝ていたんです。ただ、運動神経は良くて、運動能力テストではいつもトップの成績でした。

―― 中学で卓球部に入った理由は何だったんですか?

クラスメイトが教室で机を並べ、真ん中に本を立てて、卓球をやっていたんです。それで面白そうだったので「僕にもやらせて」と言ったら、「オマエは卓球部じゃないからダメだ」と。それが理由で、卓球部に入りました。
ところが、学校に卓球台は2台しかなくて、1台は男子、1台は女子に割り当てられていたのですが、男子の部員は80人もいるわけです。1、2年の時は1球も打たせてもらえませんでした。3年になって、ようやく少し打たせてもらえるようになって、全国大会の県予選に出場しました。当時は、団体戦で優勝しなければ全国大会に行くことができなかったのですが、その全国に行ったチームの中から2名だけがシングルスに出ることができるというシステムだったんです。
県予選でうちのエースの子は1点も落とさずに勝ったのですが、私ら残りの5人は全員が負けてしまって、結局全国大会には出ることができませんでした。そしたら、エースの子がラケットを割って、大泣きし始めたんです。みんな驚いて「どうしたんだ?」と聞いたら、「僕は全国大会で優勝するために、365日1日も休まずに練習してきたんだ」と言うんです。そんなふうに努力しているだなんて知らなかったものですから、「それはオレたちが悪かった」と謝って、翌日からみんなで練習するようになりました。

―― でも、男子には卓球台が1台しかなかったんですよね。どうやって、練習時間を確保したんですか?

そのエースの子に聞いたら、毎日町の卓球センターに通っていると。それで、私らもそこに行って練習するようになったんです。それが中学3年の6月。私の卓球人生のスタートでした。

―― 高校は、卓球の強い鎮西学院高校に進学しました。これはどういういきさつがあったのでしょうか?

中学3年の夏に、当時長崎県で卓球が一番強い先輩に「強くなりたかったら、毎日早朝ランニングをしろ」と言われたんです。それで5時半に起きて、毎朝走り始めました。自宅から、県予選でラケットを割って泣いたエースの自宅の前を折り返すというのがコースだったのですが、エースの子のお母さんが私の姿を見ていたらしいんです。
実は、そのお母さんは鎮西学院高校の卓球部で顧問をしていた川崎奈賀子先生で、走っている私の姿を見て「宮崎くんは本当に頑張っているから、特待生として、うちの高校に来ない?」と言ってくれました。高校に行けるとは思っていませんでしたから、すごく嬉しかったですし、卓球で高校に入ったわけで、自分の人生がかかっているわけですから、高校に入ってからも必死に努力しました。それで、1年の時に県大会で優勝し、2年の時に九州大会で優勝というところまでいきました。

1日12時間、血尿が出るほど練習に明け暮れた大学時代

リオデジャネイロオリンピック男子団体で銀メダルを獲得(2016)

リオデジャネイロオリンピック男子団体で銀メダルを獲得(2016)

―― 九州チャンピオンとなって、日本一の近畿大学へ。まさにエリートコースまっしぐらですね。

いえいえ、私は近畿大学からは全くお呼びはかからなかったんです。福岡大学や九州産業大学からは特待生として声がかかっていたのですが、私自身は九州におさまるつもりはありませんでした。それで顧問の川崎先生には「将来は世界に出て戦うつもりなので、日本で一番強い近畿大学に進学したい」と言ったんです。そしたら川崎先生が、近大の大内征夫監督に手紙を書いてくれました。私はその手紙を読んだことはないのですが、大内さんが言うには10枚ほどの大作で、「中学、高校の6年間、無遅刻・無欠席であり、大変真面目で卓球一筋の努力家です」というふうに書いてあったと。実は、その時既に近畿大学は翌年に入る新人15人は決まっていたそうなんです。でも、そんな熱のこもった手紙をもらってしまったら無視するわけにはいかなかったと。それで、「一度、大阪に来てみなさい」というハガキをいただいたんです。

―― 実際に行って、テストされたんですか?

はい。ちょうどその日、翌年の新入生15人が揃っていて、彼ら全員と試合をさせられました。そしたら私が全勝してしまって、次に現役大学生と試合をやったのですが、2人に勝ったんですね。でも、3人目のカットマン*注1 に、ゲームオールデュース*注2 で負けたんです。私は「あぁ、これで近大には入れないんだろうなぁ」と思いました。
ところが、大内監督からまっさらなユニフォームを渡されて、「合格だ。他は受けるんじゃないぞ」と。私はその当時知らなかったのですが、3人目のカットマンは日本代表の五藤秀男さんだったんです。そんな日本のトップ選手と互角に渡り合ったものだから、大内さんも喜んでいたみたいですね。

注1  ボールに後退回転(俗に逆回転)あるいは横回転を与えること。
注2 「10オール(10対10)」がコールされた後、そのゲームを獲得するためには、プレイヤーは1点を取った後、さらに続けてもう1点を取らなければならない。

―― 大学に入って、すぐにレギュラー格だったのでは?

当時の近大には、春のリーグの第1試合目に必ず1年生が出るという伝統がありました。その選手こそが、今年の一番期待している新人であるという証だったんです。その第1試合目に選んでもらいました。その時の対戦相手が、後に私が代表監督だった時に、ジュニアの監督となった、当時天理大4年生だった河野正和さん(現上宮高校総監督)でした。その河野さんに勝って、そのまま全勝したんです。

―― 大学での練習は厳しかったですか?

そうですね。朝7時からトレーニングを始めて、卓球場を出るのは、早くても夜の12時。遅い時には夜中の1時でした。冗談でなく、1日12時間くらい打ち合っていました。それこそ気が狂うほどに練習していましたね。
私が1年の時に4年生には、後に世界選手権で優勝し、ソウルオリンピックにも一緒に出場した小野誠治さんがいたんです。その小野さんに、私はよく「宮﨑、練習相手してくれ」とつかまえられて、夜の11時、12時頃までずっと小野さんと練習していました。

ソウルオリンピックに出場した小野誠治(1988)

ソウルオリンピックに出場した小野誠治(1988)

―― 周りは代表クラスの強い選手ばかりで、最高の練習環境だったのでは?

そうですね。ただ、近大には卓球台が5台しかなく、部員は60人ほどいましたから、大変でした。夕方5時に練習が終わると、みんなが卓球台に集まってきて、1人1時間の予約を入れるんです。1、2年生はその練習相手をさせられるのですが、私は全部の時間帯に「宮﨑、頼む」と言われて、夜の12時、1時まで休みなく練習することになるわけです。
当時、私は1年生ながら体が大きくて、パワーもありましたし、上級生にとっては恰好の練習相手だったんでしょうね。おかげで、みんなは個人練習は1時間しかできないのに、私は毎日7、8時間もできたんです。その練習量のおかげで、一気に強くなりました。2年生の時には西日本のチャンピオンになって、近大のエースになりました。

―― それだけ練習をして、ケガはしなかったんですか?

休むほどの大きなケガはありませんでしたが、練習が終わると、いつも右肩が全く上がらず、食事は左手で食べていました。ただ練習になると、最初は痛いのですが、5分ほどやっていると、だんだんと体が温まってきて痛みがなくなっていくんです。そうすると、もう何時間でも平気でラケットを振れました。
ところが、練習を終えた途端に、急に肩が上がらなくなるんです。当時はアイシングという知識もありませんでしたからね。アイシングをやっていれば、まだ良かったのだと思いますが、何もしないものだから、いつも炎症を起こした状態で、パンパンに腫れあがっていました。睡眠時間も5、6時間と選手にしては短かかったからか胃腸をやられたり、それからあまりに練習が激しいものですから、よく血尿が出て、病院に運ばれたこともありました。でも、それほどまでしないと、世界チャンピオンにはなれないと思っていたんです。

―― 大学時代の将来設計とはどういうものだったんですか?

何も考えていなかったですね。とにかく、世界チャンピオンになることしか考えていませんでした。ちょうど、私が1年の時、4年生の小野さんが世界チャンピオンになったんです。その小野さんの練習相手をしていたので、小野さんがどれほど練習していたかを肌で知っていたわけです。ですから、自分はそれ以上やろうと思って、ずっとやっていました。まぁ、結局は世界のベスト8が最高で、チャンピオンにはなれませんでしたけどね。でも、そこに近づくまでは努力していた、ということは言えると思います。

―― 大学卒業後も、卓球で生きていこうと思っていましたか?

実は大学4年の時に、当時の大学のスタッフとぶつかってしまって、1年近く、卓球から離れてしまったんです。その時は卓球界に戻るとは思っていなかったのですが、卒業間近の冬にアルバイトをしていたら、2学年上で、昨年のリオまで女子日本代表の監督だった村上恭和さん(現日本生命保険女子卓球部監督)が来て「宮﨑、もう一度、卓球をやらないか?オマエほど努力している選手なら、1年やっていなくても絶対にできるから、うちの銀行に来て一緒にやろうよ」と声をかけてくれたんです。それがきっかけで、卒業後は和歌山銀行に就職して、再び卓球をやることになりました。

インタビュー風景

インタビュー風景

―― 村上さんが宮﨑さんを卓球界に戻してくれたんですね。

そうなんです。だから村上さんは盟友なんですよ。ただ、1年間全く練習していませんでしたから、和歌山銀行に入った当初は、チームで6番手、7番手くらいの選手で、リーグ戦が5試合ある中で、1、2試合しか出させてもらえませんでした。そこでもう一度努力し直して、2年後にチームのエースという座に復帰することができました。

代表辞任の要請からナショナルチーム監督へ

―― 銀行では仕事もされていたんですか?

もちろんです。ですから、このままずっと銀行マンとして生きていこうと思っていました。

―― その時は、「自分が日本を強くしていこう」というような考えはなかったと?

そういう考えはありませんでした。当時、日本リーグの幹事はしていましたので、将来的に日本リーグは自分がリードしてやっていくんだろうなということは考えていましたが、「日本代表を」ということは頭にはなかったですね。

ソウルオリンピックに出場した宮崎義仁(1988年)

ソウルオリンピックに出場した宮崎義仁(1988年)

―― では、日本代表監督として白羽の矢が立った背景には何があったのでしょうか?

卓球が初めてオリンピックの正式競技に採用されたソウルオリンピックに、私は29歳で出場しました。その翌年、ドルトムントでの世界選手権の時に、当時国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗さんに「宮崎、日本代表を降りてくれないか」と言われたんです。荻村さんとしては、世代交代が必要で、当時はまだ大学生で全日本ランクにも入っていなかった松下浩二や渋谷浩を育てたいと思っていたんです。そのためには、私が代表権を得ていては、いつまでたっても彼らが代表にまで上がってこられないというんですね。だから、自ら辞退してくれと。

―― 宮﨑さんとしては、わざわざ代表を辞退するなんて、考えられなかったのでは?

いえいえ、私はその場で荻村さんに「わかりました。辞退します」と答えました。当時は中国に勝てなくなってきていて、日本が低迷の時代に入っていましたから、私としても世代交代は必要だと思っていたんです。
そしたら、その返事をした数時間後に、荻村さんから電話がかかってきて、「松下と渋谷が代表に決まったから、オマエが男子のコーチをやってくれ」と。当時、私は和歌山銀行で役員秘書をやっていましたので、まずは専務に聞かないといけないと思って、「こんな話が来ているんですけど」と言ったら、専務も「いいんじゃないの?」と言うものですから、それで引き受けることにしました。それが、ソウルオリンピックの翌年、1989年でした。

世界選手権混合ダブルスで江口富士枝と組んで2連覇を果たした荻村伊智朗

世界選手権混合ダブルスで江口富士枝と組んで2連覇を果たした
荻村伊智朗

―― そこからスタッフとして、日本代表に関わっていくんですね。

はい。翌1990年には、荻村さんからの要望でナショナルチームを作りました。それまでは全日本選手権の結果で代表になった選手が、そのまま世界選手権に行くというかたちだったんです。でも、それではもう日本は勝てない。ナショナルチームを作って、1年間きちんと強化していこうということになったんです。それで、私が女子のナショナルチームの初代監督に30歳でなりました。男子の方は、伊藤繁雄さんが就任しました。

―― ナショナルチームでの指導が中心になったんですね。

ところが、私がまだ選手として入っていた1989年には日本リーグで優勝した和歌山銀行のチームが、ナショナルチームの監督になった状態で臨んだ翌90年に2部に落ちてしまったんです。それで、銀行から「監督をやめて、選手として、もう一度戻ってきてくれ」と言われたので、監督を辞めて、チームに復帰しました。結局、37歳まで現役を続けたんです。

岸川の言葉で感じた意識改革の成功

北京、ロンドンの両オリンピックに日本代表として出場した岸川聖也(写真は2015)

北京、ロンドンの両オリンピックに日本代表として出場した岸川聖也
(写真は2015)

―― 2001年に和歌山銀行を退職して、卓球場とショップを経営するようになりました。これは、どういう狙いがあったのでしょうか?

その年の春、大阪で世界選手権が行なわれたんです。その時、NHKの解説をしたのですが、男子日本は史上最低の結果でした。その日の夜、仲間うちで食事をした時、「もう日本の男子はダメだ。これは誰かが立ち上がって改革しないといけない」という話になって、みんなが「それができるのは宮﨑、オマエだぞ」と言うわけです。

その時に、「小学生から強化していくのはどうだろうか」という話が出て、小学生のナショナルチーム作りにつながっていくわけですが、とにかくみんなが「オマエ以外に誰が日本の卓球界を変えていくんだ。立ち上がってくれ」と言うものですから、その日自宅に帰って女房に「銀行に辞表を出してもいいか?」と聞いたんです。そしたら、「いいわよ」と言ってくれたので、翌日、社長に「日本の卓球界を変えたいので、銀行を辞めさせてください」と辞表を出しました。役員秘書を11年間務めていて、とてもかわいがられていたものですから、社長も相当驚かれていました。でも、すぐに役員会が開かれて、承認していただきました。

リオデジャネイロオリンピック男子シングルスで銅メダルを獲得した水谷隼(2016)

リオデジャネイロオリンピック男子シングルスで銅メダルを獲得した水谷隼(2016)

―― その時、日本代表の監督の話はあったんですか?

いえいえ、全くありませんでした。でも、「いつかは来るだろう」という予測はしていたんです。何の根拠もなかったのですが、「自分しか大鉈を振るって、卓球界を変えられる人間はいないだろう」と思っていたので、5年後か10年後かはわからないけれど、いつか必ず打診が来るはずだと。その時のために銀行を辞めて準備をしておこうと思ったんです。
そしたら、辞めて2カ月後に木村さんから電話がありました。「宮﨑、オマエ銀行辞めたんだって?今、何をしているんだ?」と言うので、「はい。将来、日本の卓球界を変えるために銀行を辞めて、今はママさんたちを教えるアルバイトをしながら下準備をしています」と答えました。そしたら木村さんが「そうか。だったら、今すぐに監督をやってくれ」と。それで、先ほどお話した3つの条件を言って、引き受けたというわけです。

―― その年から小学生のナショナルチームがスタートしていますが、当時も小学生から優秀な選手が続々と出てくるという感じだったんですか?

おそらく優秀な選手はいたんでしょうけども、実際は当時小学生でチャンピオンになった選手のほとんどが、その後、日本代表として活躍しませんでした。

―― それは何が要因だったのでしょうか?

当時の小学生は、「勝つ卓球」に固執してしまっていました。私がナショナルチームの監督になった時に、全国でベスト32に残って、16強をかけた試合を観に行ったところ、16試合中14試合で、ボールを高く上げて、しゃがみこみながらラケットの裏側で縦に切る、いわゆる「王子サーブ」をしていて、サーブだけで得点を取っていました。こっちでも、あっちでも、そんな試合ばかりで、「あぁ、これでは日本はダメだ。こんな小手先のことをやっているから、世界で通用しないんだ」と思いました。
小学生の時はそれで勝てるからいいかもしれませんが、シニアになれば、一発で返されてしまうのがオチですからね。そこで、小学生のナショナルチームでは、「しゃがみこみ禁止。ノーマルサーブのみ」にしました。それと併せて「バックサイドに来たボールを周りこんでフォアで打つことも禁止、必ずバックハンドで返す」ということを徹底させました。

NTCでのJOCエリートアカデミー練習風景(2014)

NTCでのJOCエリートアカデミー練習風景(2014)

―― 技術以外に、小学生のナショナルチームにおいて大事にしてきたのは何ですか?

教育です。まずは、シューズをきれいに並べるところから始まって、好き嫌いなく食事をするとか、きちんと睡眠をとるとか、卓球以外のところをしっかりと教えるようにしています。そういうことができてくると、練習に集中するようになるんです。まず教えるのは技術ではなく、卓球台に向かう前の姿勢。これがきちんと出来上がると、卓球自体が変わってくるんです。
ですから、私はよく強化合宿では、卓球台の準備が終わったら、すぐにアップではなく、まずは黙とうから始めるんです。ラケットを置いて、両手を卓球台について、全員で黙とうします。そうすると、静まり返りますよね。そこで、私が語りかけるんです。
「この前の試合、悔しかったよな。その悔しさをどうやって晴らすかは、試合じゃなくて、この練習なんだよな。練習での最初の1本、ここに勝負がかかっているかもしれない。その1球に集中できるかどうかが、君たちの卓球人生にかかってくるんだぞ。いいな。じゃあ、集中していこう!」と、ポンと手を叩いて、練習がスタートします。

―― そういう指導の下、今では続々と世界レベルの選手が登場してきているわけですが、日本卓球界が変わり始めたなと思ったのはいつ頃ですか?

2002年から7年間、日本の男子選手をドイツのリーグに送り込んでいたのですが、その一人が岸川聖也でした。岸川が中学3年の時、「オマエ、今年の全中(全国中学校選手権大会)はどうする?」と聞いたら、彼はこう言ったんです。「宮﨑さん、僕はもう日本人の中学生同士の争いをしたって仕方ないと思っているんです。僕は全中には出るつもりはありません。このままドイツにいます」と。
これを聞いて、「あぁ、オレがやってきたことが実を結び始めているな」と思いました。結局、世界を目指すのに、全中やインターハイで勝つことにこだわったって仕方ないんです。岸川の視線の先には、全中を通り越して、世界があった。日本人選手の意識が変わってきたと思いましたね。

JOCエリートアカデミー入校式。前列左端。前列中央は張本選手。(2016)

JOCエリートアカデミー入校式。前列左端。前列中央は張本選手。(2016)

―― JOCのエリートアカデミーにいち早く手を挙げたのも卓球でしたね。

はい。JOCからエリートアカデミーの話が来た時に、手を挙げたのは、最初卓球の男子だけでした。その後、レスリング、卓球の女子が続いて、初年度がスタートしたんです。そして翌年にフェンシングが加わりました。
私としては「ようやく来た!」という思いで、真っ先に手を挙げました。というのも、2001年にナショナルチームの監督に就任した際、「ナショナルトレーニングセンターの建設検討委員会」を要望するほど、トレセンの必要性を訴えてきたわけです。そのトレセンが2008年にようやくでき、私は一目散に住居を和歌山から東京のトレセン近くに移しました。
365日、自由に使える拠点ができたわけですから、自分も動きやすい環境にしたかったんです。でも、そんなふうにトレセン近くに引っ越してきたなんて、他の競技団体も含めて私一人。「あれ?」と思いましたけどね(笑)。
エリートアカデミーにおいても、最初手を挙げたのは私一人でしたから、他の競技団体とはかなり意識が違っていたのだと思います。私は「きっと近い将来、卓球は日本のスポーツ界で先端をいく存在になるな」と確信していました。そして今、ちょっとそういう時代になりつつあるのかなと。

NTC卓球専用体育館開始式。後列左から4番目。(2008年)

NTC卓球専用体育館開始式。後列左から4番目。(2008年)

―― エリートアカデミーはうまくいっているように感じられますが、課題もあるのでしょうね。

喫緊の課題は、選手たちの教育です。アカデミーの選手たちは、近隣の公立の中学校に通っているのですが、学校の先生からすれば、選手たちは「登校拒否」同然なんです。そりゃ、そうですよね。遠征や大会があって、学校に行けるのは強い選手になると年間40日しかないわけですから。正直、公立の学校では取り扱いが難しいと思います。
ですから、私はやはりトレセンの中にスクールを設置すべきだと思っています。そもそもトレセンは文部科学省の下でつくられたわけですから、学校問題においても責任を持ってやるべきです。

―― 高校はどうされているんですか?

大原学園の通信制に通っているので、こちらはきちんと学校から課題が出ますし、とてもうまくいっています。遠征の時には、選手に家庭教師をつけて、毎日1時間、その課題をやるようにしているんです。
ですから、年に何回かの試験の成績は、みんなとてもいいですよ。もともと勉強も優秀な選手が多いですからね。きちんと課題さえ与えてあげれば、両立できるんですよ。

日本卓球界の牽引役となる新エースの存在

ロンドンオリンピック女子団体で銀メダルを獲得(2012)

ロンドンオリンピック女子団体で銀メダルを獲得(2012)

―― 卓球は今、男女ともに中国を倒さない限りは世界の頂点に立てない状況になっているわけですが、中国対策についてはどうしているんですか?

とにかく、どれだけ中国人と多く対戦するかが重要だと思っています。そうして、中国に対しての特別意識をなくしていくんです。中国を意識するということは、それだけ「怖い相手」と思っている証拠ですから。意識することなく戦えるほど、慣れさせることがまずは必要だと思っています。
それともうひとつは、中国ラバーに対応すること。ボールが跳ね返りやすい日本のラバーと違って、中国ラバーは非常に粘着力が強いものなんです。そうすると、ボールの回転が全く違うものになりますので、それにも慣れる必要があります。ですから、可能な限り選手を中国に行かせて試合をさせています。ただ、もう少しすると入国禁止の選手が出てくると思います。

日本選手権女子シングルスで史上最年少優勝を果した平野美宇(2016)

日本選手権女子シングルスで史上最年少優勝を果した平野美宇(2016)

―― それはどうしてですか?

平野美宇が、昨年ワールドカップで優勝しましたよね。あの時は中国人選手が出場していなかったのですが、今度、中国人選手が出場している大会で、平野が中国人選手を1人、2人と倒していったら、もう彼女は中国に入国できなくなると思います。
実は以前、平野は遼寧省リョウネイショウという所によく練習に行っていたんです。そこには私が監督時代、北京オリンピックで日本代表だった韓陽がいるので、彼に言えば、日本人選手を引き受けてくれていました。
ところが昨年、韓陽から「宮﨑さん、ごめんなさい。中国の卓球連盟から目をつけられていて、もう平野の面倒は見られない」という連絡が来たんです。それで今は河北省に行かせていますが、おそらくそのうち河北省も、平野は出入り禁止になるでしょうし、来年あたりは中国のどこにも行けなくなると思います。

―― 今後は、どうするんですか?

もう既に手を打ち始めています。中国に行けないのなら、日本に中国人選手を呼べばいいわけです。それで今、中国人の若い選手をスカウトして、日本に連れてきているんです。

―― それは、2020年を見越してということでしょうか?

そうです。また、2020年対策という点では、女子についてはリオの結果を見てもわかるように、カットマン対策も必須です。そこで、数少ないカットマンの男子大学生をトレセンで雇用することも考えています。さらに、カットマンや中国人選手の研究のために、アナリストやカメラマンも、4月からスタッフに加わります。トレセンを「虎の穴」にしていこうと計画しています。

エリートアカデミーで力をつけた張本智和(2016)

エリートアカデミーで力をつけた張本智和(2016)

―― 2020年に向けた選手の育成・強化という点ではいかがでしょうか?

男女ともに新エースが必要です。今のところ、男子は張本智和、女子は平野美宇でしょうね。
そのトップ2人が高みを目指して頑張ることによって、必ず周囲も引っ張られるはずです。それだけのポテンシャルを、今の選手はみんな持っていますから、日本全体のレベルアップにつながります。
ですから、いかに張本と平野を引き上げることができるかが、2020年に向けての重要なカギになってくると思っています。また、2024年、2028年を見据えて、全国の小学4年生以下の男女188名と、その指導者188名を2016年7月から強化し始めました。成果は10年後ぐらいから出てくると確信しています。

―― これまでいろいろと改革してきたわけですが、今後やろうとしていることは何でしょうか?

指導者の育成もそうですし、トレセンも今は東京の1カ所ですが、できれば全国に分散化していきたいと思っています。とにかく、やりたいことはまだまだたくさんあります。
日本卓球協会の定年は70歳ですから、残り13年しかありません。ですから、誰に何を言われようと、日本卓球界のためになることでしたら、どんどん大鉈を振るっていきたいなと(笑)。
ただ、私の定年までに全てを成し遂げるのはおそらく無理でしょうから、私の後を継いでくれるような人材づくりもしなければいけないなと思っています。

  • 卓球・宮崎義仁氏の歴史
  • 世相
1921
大正10
日本初の統括的な卓球組織「大日本卓球協会」が大阪に創設される
統一ルールが制定され、公式試合が行われる
1931
昭和6
日本卓球協会の前身「日本卓球会」が発足
1937
昭和12
「日本卓球会」が「日本卓球協会」に改称される

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第1回全日本選手権が開催される

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
日本卓球協会が国際卓球連盟へ再加盟する 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
全日本実業団卓球選手権大会が行われる 

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
日本人選手が世界卓球選手権大会に初出場
7種目中4種目で優勝を果たす
1954
昭和29
第21回世界卓球選手権ロンドン大会開催
                            
日本は卓球競技の男女団体、男子シングルスで荻村伊智朗氏が優勝する

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
第23回世界卓球選手権大会が日本で初開催される
日本は荻村伊智朗氏の男子シングルス優勝をはじめ、4種目を制覇する
1957
昭和32
第24回世界卓球選手権ストックホルム大会開催
日本は男子団体、女子団体、混合ダブルス、男子シングルス、女子シングルス、の5種目で優勝という新記録を樹立
1958
昭和33
第25回世界卓球選手権ドルトムント大会開催
日本は男子シングルス以外の6種目に優勝し記録を更新する
1959
昭和34
  • 1959宮崎義仁氏、長崎県に生まれる
1962
昭和37
「日中交歓卓球大会」が始まる
当時国交がなかった日中両国の代表チームが、お互いに遠征し交流試合を行い注目される

  • 1964東海道新幹線が開業
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1972
昭和47
日本は旧アジア卓球連盟を脱退し、中国他協会と共にアジア卓球連合を創設する

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
創立45周年を機に日本卓球協会が財団法人化する
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
日本卓球リーグ(実業団)が発足
1978
昭和53
第1回家庭婦人大会(現・全国レディース卓球大会)開催
レディース種目の競技人口が飛躍的に増加する

  • 1978日中平和友好条約を調印
1982
昭和57
日本卓球協会への登録人数が10万人を突破
卓球クラブの進行を図るため全日本クラブ選手権を発足

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1985
昭和60
第38回世界卓球選手権イエテボリ大会開催

  • 1985宮崎義仁氏、世界卓球選手権にて団体3位、シングルス5位、ダブルス5位となる
1986
昭和61
アジア競技大会、ソウルにて開催

  • 1986 宮崎義仁氏、アジア競技大会にてシングルス3位となる
1987
昭和62
第39回世界卓球選手権ニューデリー大会開催

  • 1987宮崎義仁氏、世界卓球選手権にてシングルス9位、ダブルス5位となる
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催
卓球が夏季オリンピックの正式種目となる

  • 1988宮崎義仁氏、ソウルオリンピックに出場する
1989
昭和64
  • 1989宮崎義仁氏、ナショナルチーム男子コーチに就任
1990
平成1年
  • 1990宮崎義仁氏、ナショナルチーム女子監督に就任
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
アジア卓球選手権大会、カランにて開催
小山ちれ氏が女子シングルスで金メダル獲得
松下雄二氏・仲村綿治郎氏ペア、高志亮氏・森本洋治氏ペアが男子タブルスで銅メダルを獲得

1997
平成9
第44回世界卓球選手権マンチェスター大会開催
松下浩二氏・渋谷浩氏ペア、男子ダブルスで銅メダル獲得

  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
アジア卓球選手権大会、大阪にて開催
偉関晴光氏が男子シングルスで銀メダル、小山ちれ氏が女子シングルスで銅メダル獲得
武田明子氏・川越真由氏ペアが女子タブルスで銅メダルを獲得
アジア競技大会卓球競技で、男子団体が銅メダル、遊澤亮氏・岡崎恵子氏ペアが混合タブルスで銅メダルを獲得

1999
平成11
日本各地の温泉でラージボール卓球を楽しむ「温泉卓球大会」が始まる
2000
平成12
第45回世界卓球選手権クアラルンプール大会開催
日本は男子団体で19年ぶりに銅メダルを獲得
2001
平成13
第46回世界卓球選手権大阪大会開催
武田明子氏・川越真由氏ペア、女子団体・女子タブルスで銅メダルを獲得

  • 2001宮崎義仁氏、ナショナルチーム男子監督に就任
2003
平成15
アジア卓球選手権大会、バンコクにて開催
小西杏氏・福原愛氏ペアが女子タブルスで銀メダル、女子団体が3位となる
鬼頭明氏・小西杏氏ペアが混合タブルスで銀メダルを獲得
日本ろうあ者卓球協会が日本卓球協会に加盟
2004
平成16
第47回世界卓球選手権ドーハ大会開催
日本は女子団体が銅メダルを獲得
2005
平成17
テレビ東京系列6局ネットにて世界選手権大会の放送が開始
2006
平成18
第48回世界卓球選手権ブレーメン大会開催
日本は女子団体が3大会連続となる銅メダルを獲得
2008
平成20
第49回世界卓球選手権広州大会開催
日本は男子団体が8年ぶりに銅メダル、女子団体が4大会連続の銅メダルを獲得
日本知的障害者卓球連盟と日本肢体不自由者卓球協会が日本卓球協会に加盟

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
第50回世界卓球選手権横浜大会開催
水谷隼氏・岸川聖也氏ペア、男子ダブルスで12年ぶりに銅メダルを獲得
2010
平成22
第50回世界卓球選手権モスクワ大会開催
日本は2大会連続の男子団体、女子団体で銅メダルを獲得
2011
平成23
第51回世界卓球選手権ロッテルダム大会開催
日本は男子団体が3大会連続の銅メダルを獲得

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
日本は卓球競技にて、女子団体が銀メダルを獲得

  • 2012宮崎義仁氏、JOCエリートアカデミー総監督に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
日本は卓球競技にて、水谷隼氏が男子シングルスで銅メダル、男子団体が銀メダル、女子団体が銅メダルを獲得  
    
  • 2016宮崎義仁氏、協会常務理事・強化部長・強化本部長に就任