1日12時間、血尿が出るほど練習に明け暮れた大学時代
リオデジャネイロオリンピック男子団体で銀メダルを獲得(2016)
―― 九州チャンピオンとなって、日本一の近畿大学へ。まさにエリートコースまっしぐらですね。
いえいえ、私は近畿大学からは全くお呼びはかからなかったんです。福岡大学や九州産業大学からは特待生として声がかかっていたのですが、私自身は九州におさまるつもりはありませんでした。それで顧問の川崎先生には「将来は世界に出て戦うつもりなので、日本で一番強い近畿大学に進学したい」と言ったんです。そしたら川崎先生が、近大の大内征夫監督に手紙を書いてくれました。私はその手紙を読んだことはないのですが、大内さんが言うには10枚ほどの大作で、「中学、高校の6年間、無遅刻・無欠席であり、大変真面目で卓球一筋の努力家です」というふうに書いてあったと。実は、その時既に近畿大学は翌年に入る新人15人は決まっていたそうなんです。でも、そんな熱のこもった手紙をもらってしまったら無視するわけにはいかなかったと。それで、「一度、大阪に来てみなさい」というハガキをいただいたんです。
―― 実際に行って、テストされたんですか?
はい。ちょうどその日、翌年の新入生15人が揃っていて、彼ら全員と試合をさせられました。そしたら私が全勝してしまって、次に現役大学生と試合をやったのですが、2人に勝ったんですね。でも、3人目のカットマン*注1 に、ゲームオールデュース*注2 で負けたんです。私は「あぁ、これで近大には入れないんだろうなぁ」と思いました。
ところが、大内監督からまっさらなユニフォームを渡されて、「合格だ。他は受けるんじゃないぞ」と。私はその当時知らなかったのですが、3人目のカットマンは日本代表の五藤秀男さんだったんです。そんな日本のトップ選手と互角に渡り合ったものだから、大内さんも喜んでいたみたいですね。
注1 ボールに後退回転(俗に逆回転)あるいは横回転を与えること。
注2 「10オール(10対10)」がコールされた後、そのゲームを獲得するためには、プレイヤーは1点を取った後、さらに続けてもう1点を取らなければならない。
―― 大学に入って、すぐにレギュラー格だったのでは?
当時の近大には、春のリーグの第1試合目に必ず1年生が出るという伝統がありました。その選手こそが、今年の一番期待している新人であるという証だったんです。その第1試合目に選んでもらいました。その時の対戦相手が、後に私が代表監督だった時に、ジュニアの監督となった、当時天理大4年生だった河野正和さん(現上宮高校総監督)でした。その河野さんに勝って、そのまま全勝したんです。
―― 大学での練習は厳しかったですか?
そうですね。朝7時からトレーニングを始めて、卓球場を出るのは、早くても夜の12時。遅い時には夜中の1時でした。冗談でなく、1日12時間くらい打ち合っていました。それこそ気が狂うほどに練習していましたね。
私が1年の時に4年生には、後に世界選手権で優勝し、ソウルオリンピックにも一緒に出場した小野誠治さんがいたんです。その小野さんに、私はよく「宮﨑、練習相手してくれ」とつかまえられて、夜の11時、12時頃までずっと小野さんと練習していました。
ソウルオリンピックに出場した小野誠治(1988)
―― 周りは代表クラスの強い選手ばかりで、最高の練習環境だったのでは?
そうですね。ただ、近大には卓球台が5台しかなく、部員は60人ほどいましたから、大変でした。夕方5時に練習が終わると、みんなが卓球台に集まってきて、1人1時間の予約を入れるんです。1、2年生はその練習相手をさせられるのですが、私は全部の時間帯に「宮﨑、頼む」と言われて、夜の12時、1時まで休みなく練習することになるわけです。
当時、私は1年生ながら体が大きくて、パワーもありましたし、上級生にとっては恰好の練習相手だったんでしょうね。おかげで、みんなは個人練習は1時間しかできないのに、私は毎日7、8時間もできたんです。その練習量のおかげで、一気に強くなりました。2年生の時には西日本のチャンピオンになって、近大のエースになりました。
―― それだけ練習をして、ケガはしなかったんですか?
休むほどの大きなケガはありませんでしたが、練習が終わると、いつも右肩が全く上がらず、食事は左手で食べていました。ただ練習になると、最初は痛いのですが、5分ほどやっていると、だんだんと体が温まってきて痛みがなくなっていくんです。そうすると、もう何時間でも平気でラケットを振れました。
ところが、練習を終えた途端に、急に肩が上がらなくなるんです。当時はアイシングという知識もありませんでしたからね。アイシングをやっていれば、まだ良かったのだと思いますが、何もしないものだから、いつも炎症を起こした状態で、パンパンに腫れあがっていました。睡眠時間も5、6時間と選手にしては短かかったからか胃腸をやられたり、それからあまりに練習が激しいものですから、よく血尿が出て、病院に運ばれたこともありました。でも、それほどまでしないと、世界チャンピオンにはなれないと思っていたんです。
―― 大学時代の将来設計とはどういうものだったんですか?
何も考えていなかったですね。とにかく、世界チャンピオンになることしか考えていませんでした。ちょうど、私が1年の時、4年生の小野さんが世界チャンピオンになったんです。その小野さんの練習相手をしていたので、小野さんがどれほど練習していたかを肌で知っていたわけです。ですから、自分はそれ以上やろうと思って、ずっとやっていました。まぁ、結局は世界のベスト8が最高で、チャンピオンにはなれませんでしたけどね。でも、そこに近づくまでは努力していた、ということは言えると思います。
―― 大学卒業後も、卓球で生きていこうと思っていましたか?
実は大学4年の時に、当時の大学のスタッフとぶつかってしまって、1年近く、卓球から離れてしまったんです。その時は卓球界に戻るとは思っていなかったのですが、卒業間近の冬にアルバイトをしていたら、2学年上で、昨年のリオまで女子日本代表の監督だった村上恭和さん(現日本生命保険女子卓球部監督)が来て「宮﨑、もう一度、卓球をやらないか?オマエほど努力している選手なら、1年やっていなくても絶対にできるから、うちの銀行に来て一緒にやろうよ」と声をかけてくれたんです。それがきっかけで、卒業後は和歌山銀行に就職して、再び卓球をやることになりました。
インタビュー風景
―― 村上さんが宮﨑さんを卓球界に戻してくれたんですね。
そうなんです。だから村上さんは盟友なんですよ。ただ、1年間全く練習していませんでしたから、和歌山銀行に入った当初は、チームで6番手、7番手くらいの選手で、リーグ戦が5試合ある中で、1、2試合しか出させてもらえませんでした。そこでもう一度努力し直して、2年後にチームのエースという座に復帰することができました。
代表辞任の要請からナショナルチーム監督へ
―― 銀行では仕事もされていたんですか?
もちろんです。ですから、このままずっと銀行マンとして生きていこうと思っていました。
―― その時は、「自分が日本を強くしていこう」というような考えはなかったと?
そういう考えはありませんでした。当時、日本リーグの幹事はしていましたので、将来的に日本リーグは自分がリードしてやっていくんだろうなということは考えていましたが、「日本代表を」ということは頭にはなかったですね。
ソウルオリンピックに出場した宮崎義仁(1988年)
―― では、日本代表監督として白羽の矢が立った背景には何があったのでしょうか?
卓球が初めてオリンピックの正式競技に採用されたソウルオリンピックに、私は29歳で出場しました。その翌年、ドルトムントでの世界選手権の時に、当時国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗さんに「宮崎、日本代表を降りてくれないか」と言われたんです。荻村さんとしては、世代交代が必要で、当時はまだ大学生で全日本ランクにも入っていなかった松下浩二や渋谷浩を育てたいと思っていたんです。そのためには、私が代表権を得ていては、いつまでたっても彼らが代表にまで上がってこられないというんですね。だから、自ら辞退してくれと。
―― 宮﨑さんとしては、わざわざ代表を辞退するなんて、考えられなかったのでは?
いえいえ、私はその場で荻村さんに「わかりました。辞退します」と答えました。当時は中国に勝てなくなってきていて、日本が低迷の時代に入っていましたから、私としても世代交代は必要だと思っていたんです。
そしたら、その返事をした数時間後に、荻村さんから電話がかかってきて、「松下と渋谷が代表に決まったから、オマエが男子のコーチをやってくれ」と。当時、私は和歌山銀行で役員秘書をやっていましたので、まずは専務に聞かないといけないと思って、「こんな話が来ているんですけど」と言ったら、専務も「いいんじゃないの?」と言うものですから、それで引き受けることにしました。それが、ソウルオリンピックの翌年、1989年でした。
世界選手権混合ダブルスで江口富士枝と組んで2連覇を果たした
荻村伊智朗
―― そこからスタッフとして、日本代表に関わっていくんですね。
はい。翌1990年には、荻村さんからの要望でナショナルチームを作りました。それまでは全日本選手権の結果で代表になった選手が、そのまま世界選手権に行くというかたちだったんです。でも、それではもう日本は勝てない。ナショナルチームを作って、1年間きちんと強化していこうということになったんです。それで、私が女子のナショナルチームの初代監督に30歳でなりました。男子の方は、伊藤繁雄さんが就任しました。
―― ナショナルチームでの指導が中心になったんですね。
ところが、私がまだ選手として入っていた1989年には日本リーグで優勝した和歌山銀行のチームが、ナショナルチームの監督になった状態で臨んだ翌90年に2部に落ちてしまったんです。それで、銀行から「監督をやめて、選手として、もう一度戻ってきてくれ」と言われたので、監督を辞めて、チームに復帰しました。結局、37歳まで現役を続けたんです。
岸川の言葉で感じた意識改革の成功
北京、ロンドンの両オリンピックに日本代表として出場した岸川聖也
(写真は2015)
―― 2001年に和歌山銀行を退職して、卓球場とショップを経営するようになりました。これは、どういう狙いがあったのでしょうか?
その年の春、大阪で世界選手権が行なわれたんです。その時、NHKの解説をしたのですが、男子日本は史上最低の結果でした。その日の夜、仲間うちで食事をした時、「もう日本の男子はダメだ。これは誰かが立ち上がって改革しないといけない」という話になって、みんなが「それができるのは宮﨑、オマエだぞ」と言うわけです。
その時に、「小学生から強化していくのはどうだろうか」という話が出て、小学生のナショナルチーム作りにつながっていくわけですが、とにかくみんなが「オマエ以外に誰が日本の卓球界を変えていくんだ。立ち上がってくれ」と言うものですから、その日自宅に帰って女房に「銀行に辞表を出してもいいか?」と聞いたんです。そしたら、「いいわよ」と言ってくれたので、翌日、社長に「日本の卓球界を変えたいので、銀行を辞めさせてください」と辞表を出しました。役員秘書を11年間務めていて、とてもかわいがられていたものですから、社長も相当驚かれていました。でも、すぐに役員会が開かれて、承認していただきました。