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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

オリンピアンかく語りき
第25回
次代へつなぐスポーツのバトン

小野 清子

第22回オリンピック冬季競技大会(2014/ソチ)では、3人の女子選手が話題になった。カーリングの小笠原歩選手、船山弓枝選手、フリースタイルスキーの三星マナミ選手だ。

この3人の共通項は、“ママさん選手”であるということ。結婚、出産、子育てをこなしながら、アスリートとしての研鑽を積み続けていくには、どれほどの努力と強い意思、そして周囲の理解・協力が必要なことだろう。

日本のスポーツ界を牽引してこられたキーパーソンから貴重な証言をいただく「スポーツ歴史の検証」。第2シリーズ最終回のゲストは、1964年東京オリンピック競技大会の女子体操団体銅メダリスト、小野清子さんにお願いした。

笹川スポーツ財団の理事長でもある小野さんに、社会環境の整備が現在とは比べようもない50年も前にママさん選手として臨んだ東京オリンピックの思い出、政界入りの事情、尽力されたスポーツ振興くじなどについて伺った。

聞き手/西田善夫 文/山本尚子 構成・写真/フォート・キシモト

 

スポーツ振興くじ(toto)に取り組む

 スポーツ振興くじ(toto)助成事業

スポーツ振興くじ(toto)助成事業

―― 思い起こすと、この「スポーツ歴史の検証」の企画がスタートしたときの第1回ゲストがご主人の小野喬さんでした。第2シリーズの集大成として、いよいよ小野清子笹川スポーツ財団理事長にご登場いただくということでございます。

あら、そうですか。恐れ入ります。

―― 小野先生は、2児の母として出場した1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得。その後、社会体育の現場で活躍されながら、政界入り。とくにスポーツ界に多大なるご尽力をされ、国家公安委員長、内閣府特命担当大臣という重責も担い、日本オリンピック委員会の副会長等、各方面で活躍されて今日に至っております。なんといっても小野さんは、スポーツ振興くじ(toto)の立役者です。成立までの道のりは大変だったでしょうね。

スポーツの現場が恒常的に金銭的に苦しい状況にあることを、私は肌身で知っています。予算をなんとか増やしていかなければならない。それも一度きりではなく、コンスタントに資金を得るためにはどうすべきかという課題がありました。そこで1998年に、スポーツ議員連盟の仲間との議員立法で「サッカーくじ法」を成立させました。スポーツ振興くじ(toto)の根拠となる法律です。

―― この制度による財源があるからこそ、いま日本のスポーツ界は経済的に成り立っているのですよね。

そのとおりです。

totoの本場イタリアを自費で視察

国会における質問

国会における質問

当時、海外に学ばなければと、私はtotoの本場イタリアに勉強しに行きました。1人では心細いので、主人(小野喬氏)に一緒に行ってもらい、関係者に話を聞いてまわりました。老若男女がくじを買い、よりサッカーへの興味が増し、同時にスポーツ振興の財源になっていくその姿を見て、覚悟を決めました。自費で行った甲斐がありました。

―― トトカルチョの本場ですものね。

帰国してから、各競技団体の皆さんのご意見を伺ったら、大賛成と。でも一部の議員の先生方、PTAや女性団体から「賭博だ」という声が根強く挙がっていました。
そこで、各地方の体協関係者から地元国会議員に訴えかけてもらう作戦をとりました。毎日出る国会広報に、県単位で「スポーツ振興くじを是非実現させてほしい」という意見を掲載し、その際にその地方出身の先生の名前入れるようにしたのです。各先生は次の選挙を考えると「NO」とは言いづらい。そうやって確実な支持者を増やしていきました。

―― 踏み絵ですな。

まさにそう。この踏み絵が効いて、国会でやっと可決されたときは感無量でした。

くじのシステムを変え、たった1年で赤字を解消

 大臣就任祝いに贈られた楯

大臣就任祝いに贈られた楯

―― これ、立派な盾ですね。「スポーツくじの立役者」「祝内閣府特命担当大臣 小野清子殿」とあります。

伊藤公介前衆議院議員がつくってくださったんです。本当にうれしかった。

―― 素晴らしい彫り物です。いい記念になりますね。

はい。ところが2001年度から本格的に始まったスポーツ振興くじですが、いいことばかりではなくて、当初こそ売れたものの次第に売上げが伸び悩みましてね。文部科学省の銭谷眞美事務次官から、「あなたがつくったくじなんだから責任を取ってくださいよ」と言われて、事業を運営する日本スポーツ振興センターの理事長に就任することになったんです。

―― 今度は赤字解消が使命になった小野さん、そこで起死回生の一打を出しましたね。

ええ、一つひとつ勝ち負けをマークするのが面倒だったのではないかと考え、マークを完全に機械化して、買いやすいスタイルに変えたのです。シンプルな方式にしたら、なんと10年かけて解消するはずの赤字がたった1年で解消できました。

―― 小野さんが起こした奇跡ですね。

童謡を歌いながら振り付けをして踊ることが大好き

得意のダンスでポーズを決める(左)

得意のダンスでポーズを決める(左)

―― 秋田県のご出身でしたっけ。

いえ、生まれは宮城県岩沼市です。一等航海士だった父は私が生後3ヵ月のときに結核で亡くなったので、秋田市で耳鼻科を開業していた伯父のもとへ身を寄せました。

―― ご兄弟は?

兄と姉がおりまして、私は末っ子です。

―― 体操に興味を持ったのは何かきっかけがありましたか。

私は小さいときから、童謡に合わせて、勝手に振り付けをして踊るのが大好きでした。「お猿のかごや」だと「エッサ、エッサ、えっさほいさっさ」とか、もうありとあらゆる童謡を歌いながら、踊って楽しんでいた子どもだったんです。

―― それほど体を動かすことがお好きだったのですね。

はい。体操は久保田中学校で始めました。校舎がウナギの寝床のように細長くて、体育館はなく、幅広くつくられている廊下で体育をやっていました。当時の体操種目は平均台と、跳び箱と、ゆか運動を数人で一緒にやる“団体徒手”でした。 自分で振り付けをして、技をちょこちょこ入れて試合に出ていました。 2年生のときの試合で、平均台で落下して4位かになってべそをかいている写真が残っていますよ。

―― その悔しさから、高校で体操を本格的にやろうと……?

いえ、秋田北高ではバスケットボールをやりたいと思っていました。入部しようと部室の前でうろうろしていたら、隣の体操部の部室にいた先輩に「あんた何してんの、こっちでしょう」と連れていかれて、その目論見はあっけなく終わりです。

―― あはは、いい先輩でしたね。

弱点克服のため、雑巾掛けで腕力アップ

―― 高校での成績はどうだったのですか。

高校に入学してみると、先輩たちの動きはとても美しくて刺激を受けました。 秋田県の中では能代北高が強豪でした。県大会でその能代北の相沢弘子さんという優勝候補の選手が平均台から落下して、私が優勝してしまったことがあったんです。もう番狂わせ扱いですよ。「間違って勝った」なんて言われて、しょんぼり帰宅したものでした。

―― どんな練習をしていましたか。

体操の演技は自分で好きなように構成できますでしょう。ふだんは柔軟運動や足振りなどの基本運動をして、試合が近づくと一つの演技としてまとめあげるという感じでやっていました。 私は平行棒が苦手でした。腕と脚の力が弱くてね。平行棒は2種類あったんですよ。段違い平行棒とふつうの平行棒です。

 東京オリンピック参加者体力測定

東京オリンピック参加者体力測定

―― 男子と同じ平行棒があったのですか。

そう、平行棒が規定演技、段違い平行棒が自由演技のようになっていました。秋田北高は女子校なものですから、終業のベルが鳴ると帰らなければいけないくらい厳しかったんです。そこで朝早く登校して、体育館の雑巾がけをしました。雑巾掛けをしながら体育館の中を這いずり回っていると、疲れてだんだんしびれてくるんです。これで足腰の筋力がアップすると実感しました。

―― 時間が少ない中で工夫をされていたのですね。

東京教育大学に入学、いきなりインカレで優勝

―― 高校卒業後は、東京教育大学(現・筑波大学)へ進学されましたね。

私は父親がいませんでしたから、進学なんて全然考えていなかったんですよ。それがだんだん、周囲から「受けてくれ」という話になってきて。東京教育大学が女子体操部を正式に発足させるにあたり、女子選手を迎え入れたかったらしいんです。国立大学なら授業料は安いし、合格するかはわからないけれど受けるだけ受けてみようかとなりました。あの当時って受験は8教科だったんです。

―― そうだ、懐かしい時代ですね。

それまで東京教育大学には体操部員が歴代で150人もいて、女子は4~5人しか在籍していなかったそうです。これからは女子体操にも力を入れていく予定だから、受験は0点取らなければ大丈夫なんて言われて、とにかく女子6人が入学できました。

―― 大学生活はいかがでしたか。

大学は東京の渋谷区幡ヶ谷というところにありまして、私は当初、足立区にある姉の家にお世話になっていました。大学の一般教養の講義は豊島区大塚で受け、授業が終わると幡ヶ谷で練習をして、足立区まで帰る道のりというのは大変でした。

―― 行ったり来たりじゃないですか。

そうなんです。終バスがなくなってしまうので、早く帰らなければならず、後片付けができなかったり。仕方ないので大学の近くで下宿屋さんの3畳間を借りることにしました。何もないので、リンゴ箱に紙を貼ってテーブル代わりにしたりして。

―― 3畳間があった時代ですよね。できたての女子体操部はどんな様子でしたか。

1年生女子部員は四国から3人、静岡から1人、能代から1人、そして私の6人でした。そのほか編入というのかしら、東京女子体育大学から1人、3年生として入ってこられて、全部で7人。これが、インカレ(全日本学生体操選手権)でいきなり優勝してしまったんですよ。なのに男子体操部のほうは、日本体育大学などが強くて優勝できなかったから、私たちは「よかったねー!」と喜ぶこともできず、みんなで下を向いてまるでお通夜なの。男女でアベック優勝できたのは、4年生になってからでした。

―― ああ、やっと晴れて喜べたんだ。

ええ、「万歳」しましたよ。

メルボルンオリンピック出場はならず

1960ローマオリンピック開会式・日本選手団入場

1960 ローマオリンピック開会式・日本選手団入場

―― 1956年のメルボルンオリンピックは、日本女子体操チームが初参加した大会でした。小野さんはその次の1960年のローマ大会が初出場ですよね。

メルボルンの大会のとき、私は大学3年生でした。東京体育館で行われた最終予選会の平均台で落下してしまって、個人総合9位。同級生の関鈴子さんと曽我部和子さんはメンバーに選ばれ、私は国内残留組になりました。 「しょうがない、帰ろう」と思ってふと観客席を見たら、夕日が差し込む逆光の中、まるで観音様のようなシルエットがぱっと浮かびました。「あれ?」と思ったら母でした。

―― なんの連絡もなしに?

そうです。母は優しく「ご苦労さん、私はすぐ帰るからゆっくり休みなさい」とだけ言葉をかけて帰っていきました。涙がぽたぽたこぼれました。今度は母を喜ばせたい、親孝行をしたい!そんな気持ちでいっぱいになりました。

―― 素晴らしい母子の思い出ですね。

大学卒業後に結婚

 1964 東京オリンピック選手村にて夫の喬氏と

1964 東京オリンピック選手村にて夫の喬氏と

―― それから4年後、1960年のローマオリンピックに初出場したとき、小野さんは24歳。小野喬さんとの同時出場でしたが、ご結婚は?

もうしていました。大学を卒業した1958年11月に挙式しました。

―― ああ、ご夫婦での出場だったのですね。小野喬さんとは同郷で、大学の先輩・後輩の間柄ですよね。

4学年違いなので入れ違いなんですけどね。私が大学に入学したときは、主人は卒業して慶應義塾大学の3年生に編入していたはずです。

―― そもそも、どこで知り合ったのですか。

高校2年生のときに出場した山形県での国民体育大会(1952年)です。小野はヘルシンキオリンピックから帰国したばかりで、模範演技を披露するために来ていました。そして東京教育大学に女子体操部をつくるためのスカウティングもしていました。私に「受験してもらいたいから」と問題集を送ってくるようになったんです。答えを記入して送り返すと、○Xがついて返ってくる。まあ、家庭教師のようなものですね。

ローマオリンピックは惜しくも団体4位

1960 ローマオリンピック 体操日本代表選手(前列左から二人目)

1960 ローマオリンピック 体操日本代表選手(前列左から二人目)

―― 初めて出場したローマオリンピック、当時のメンバーはどなたでしたか。

池田敬子さん、虻川(千葉)吟子さん、白須(相原)俊子さん、曽我部和子さん、塚田紀美子さんと私の6人でした。今は閉鎖して入れませんが、会場があの遺跡で有名なカラカラ浴場だったんです。空気穴が開いていて、屋根がない代わりにテントの布が1枚だけ。

―― 雨が降ったらどうするんですか。

さあ、降りませんでしたから。ローマの空気は乾燥しているのですが、踏み切り板が素の板で、乾燥しているとかえって滑るんです。踏み切ったときに滑ると蹴り上げがうまくいきません。ですから跳馬の演技前、板を雑巾でぬらして、炭酸マグネシウムをすり込んで滑らないようにしていたのに、メンバーの一人が「踏み切り板、滑るわ」と口に出してしまったんです。体操競技者が一番嫌うのは「滑る」ことです。その言葉を耳にした途端、チームは失速してしまって、尻餅をついたり前に飛び出してしまったり、6人中3人が失敗。団体種目は終わってみればたった0.6点差で4位でした。

―― なるほど、頭のほうが滑っちゃってメダルを逃したわけですね。

言っていいことと悪いこと、言葉の重さというものを痛感しましたね。学んだことはもう一つありました。ルールブックの解釈のしかたです。平均台の点数が思ったよりも伸びなくて、途中で抗議をしたんです。そうしたら「静止」の解釈の読み違いをしていたことがわかりました。細かいのですが、ポーズをとって静止するときは2秒きっちり止まらなければいけません。その静止は3回まではよいのですが、4回目からは逆に0.2点減点になることを知らなかったんです。途中で気がついても、練習と違うことを急にするのは難しくて、そんなことも4位に留まった原因でした。

―― ああ、ルールの情報不足による読み違いについてはこのスポーツ歴史の検証シリーズ第1回のとき、小野喬さんも話されていましたよ。1952年のヘルシンキオリンピックで跳馬で3位になったのに、表彰台に上がれなかったんですよね。(第1回P5参照)

NHKのテレビ体操に出演

NHK シェイプアップ体操

NHK シェイプアップ体操

―― 大学を卒業されて結婚もされて、お仕事のほうは?

私、NHKの朝の「テレビ体操」を学生時代からのアルバイトとしてやっていたんです。ちょうど私が卒業する年に女子の体操選手を4人採用することになって、私はその一人になりました。そのときに隣のテーブルには西沢さんというアナウンサーの方がいらして……。

―― 西沢祥平。

はい。大きなスタジオでの生放送で、段上に西沢さんがいらしてニュースを読まれる。真ん中には私たちがいてテレビ体操をする。左側では別の番組がという流れでした。私たち4人は、3人がテレビ体操をして、1人はキュー出し担当。キュー出しは全員ができるように仕込まれていて、半分、NHK職員のようなものでしたね。

―― テレビ体操は何時からだったのですか。

朝の5時40分からです。早朝にNHKに行って、テレビ体操が終わった後、お化粧を落として食事をして、局の運動部のお茶くみなどをして、お昼に帰るという毎日でした。その中で、私だけは慶應義塾大学にも勤めていたので、そのあと出勤していました。

―― 教えていたのですか。

はい、一般体育の授業を持ち、女子の指導もしていました。

―― いやあ、そんな前からNHKとつながりがあったとは知りませんでした。

長女を出産してわずか4カ月後、秋田国体に出場

家族とともに(1965)

家族とともに(1965)

―― 出産されたのは、ローマオリンピックの後ですか。

そうです。ローマ大会の翌1961年6月に長女の貴子、1963年8月に長男の憲一が生まれました。

―― ではローマ大会が終わったあと、4年後の東京オリンピックのことは?

いえ、全然。自分ではもういいと思っていましたから。復帰しなければいけなくなったのは、地元・秋田で国体があったからです。体操関係者から「平均台だけでも出て」と頼まれて、最初はお断りしたんですよ。でも平均台だけならできるかなと思い始めて、そうなると「あとの種目は知りません」とは言えないでしょう?

―― それはそうですよね。秋田国体は出産からどのくらい後でしたか。

4カ月後の10月です。出産して2カ月後から練習を再開しましたが、体があちこち重くて重くて。腹筋も腕力も背筋の力も落ちてしまって、腰ががくがくして走れないの。それでもなんとか体を回復させていきました。

2人目を出産後、東京オリンピックを目指すことに

―― お2人目は秋田国体のあとですよね。

秋田国体に出場したあと、体調も戻ったので、1962年の世界体操選手権(プラハ)に出場したんですよ。それでいよいよ現役は終わり、と考えての2人目でした。

―― それがなぜ1964年の東京オリンピックに?

ローマ大会で逃した団体でのメダルをねらうにあたり、新人だけではチームにならないということで、池田敬子さんと私に出場してくれというお話がありました。さすがに子どもも2人目になると、体を戻す食事の摂取のしかたなど要領はわかってきたんですけど、体力的には1人目のときよりさらに落ちましたね。だからほかの選手に迷惑をかけないように、国立競技場のサブ体育館で必死に練習しました。

―― 僕は伝説のようになっている話を聞いたことがあります。小野さんが練習をしている間、上のお子さんを裏返した跳び箱の中で遊ばせておいたとか。「心配ないんですか」とだれかが聞いたら、「大丈夫。中で子どもが暴れると、揺れるからそれで子どもは喜ぶの」とおっしゃったと言う。

まさに現場発想ですよ。逆さにした跳び箱はゆらゆらとしばらく揺れていますでしょう。1歳の憲一は母たちが面倒を見てくれたんですが、3歳の貴子は泣きながら追いかけてくるので連れていくしかなかったんです。 跳び箱と、あとは甘栗ね。貴子は甘栗が好きでね、栗ってむくのが大変でしょう。半分位むいて渡しておくと、自分で必死にむきながら食べるの。そのように、どうすれば退屈することなく過ごしてくれるか知恵を絞りながら、私は確認練習を続けていました。

―― 東京オリンピックで「やれる!」と確信を持てたのはいつごろですか。

はじめは腰が不安定でこわさがあってなかなか踏み切れないんですよ。それが動かしていくうちに、何となく落ち着いてくるのがわかりました。そこであまり腰に負担のかからない技を考え、難度を組み合わせて演技を構成するようにしました。

―― 体操は自分の演技を自ら設計していくわけですから、面白い作業ですよね。

銅メダリストになったのにメダルはもらえなかった

 1964 東京オリンピック 体操女子団体総合表彰式(銅メダル/ 右)

1964 東京オリンピック 体操女子団体総合表彰式
(銅メダル/ 右)

―― さあ、そして迎えた東京オリンピック。近づいてくるにつれて、メダルへの希望のようなものは膨らんできましたか。

「3位になりたいね」というのが私たちの悲願でした。冷静に見て、ソビエト連邦にはエースのラリサ・ラチニナがいる。チェコスロバキアには、体操の名花とうたわれたベラ・チャスラフスカがいましたからね。しかし、好事魔多し。直前になって、練習で追い込みすぎてケガ人が出だしたんです。地元開催ということで力が入りますでしょう。筋肉疲労、肉離れやアキレス腱を切ったりね。そのほかに模範演技会を各地でやったんです。せっかく見ていただくのだからとつい力が入ってしまう。知らず知らずのうちに疲労がたまってケガにつながったのでしょうね。

―― それは計算外でしたね。しかし貴重な銅メダルでしたよね。

「ああ、よかった! やり終えた」という安堵以外の何物でもありませんでした。

―― ローマ大会では惜しいところでメダルを取り損ねた。その経験を東京オリンピックで活かすことができたのですね。

そう、「何としてもメダルを取る」という私たちの気概は、ローマ大会とは比べものにならないほど大きなものでしたから。なのに、メダルはチームに1個だけ。“東洋の魔女”で優勝した女子バレーボールチームは全員もらえているのにですよ。

―― え、それは残念……。

体操だけチームに1個では不平等ではないかということで、国際オリンピック委員会に掛け合いましたが、結局、ダメでした。その代わりに何かプレートみたいなものをくれましたけど、「メダルじゃなくちゃ喜びも湧かないね」とみんなで言い合いました。

1964 東京オリンピック ゆかの演技

1964 東京オリンピック
ゆかの演技

―― そうだったのですか。それでも、小野さんと池田敬子さん、相原敏子さん、中村多仁子さん、辻宏子さん、千葉吟子さんという6選手で勝ち取った3位という順位は、女子体操界にとっては誇りであり宝物ですよ。

いま思うと大変な価値ですよね。有り難いことです。

大好きなゆか運動は山本直純氏編曲の「さくら変奏曲」で

個人的には、大好きなゆか運動で作曲家の山本直純先生に「さくら変奏曲」のアレンジをお願いしました。日本開催なのだから「さくら」の曲を使おうと。本当は、東京芸術大学の宅孝二先生が各選手の編曲を担当してくださることになっていたんです。でもチーム全員だと1分20~30秒のアレンジを6人分で大変だったのでしょう。それで私だけ山本先生になりました。
山本先生は体操が大好きな方でね、いきなり向こうから走ってきて、踏み切り板で踏み切って、マットの上にポーンって。「先生、ケガするからやめてください」なんてブレーキをかけなければいけないようなダイナミックな方でした。

―― へえ、目に浮かぶようだな。

つい最近、自分の演技を初めてテレビで見る機会がありましてね、「ここをもうちょっとこうすればよかったな」なんて反省はありながらも、自分で構成した演技ですから非常に懐かしい思いがしました。

―― その映像はカラーでしたか。

いえ、白黒でした。

―― そうですよね。あのとき、カラー放送は1日1種目だったのです。NHKにカラー放送車は1台しかありませんでしたから。開会式は当然カラーでした。翌日からカラー放送車は競技会場を渡り歩きました。僕はバレーボール担当でしたが、女子バレーでカラー放映は決勝戦だけだったのではないでしょうか。会場の駒澤体育館は照明が少し暗くて、カラーがあまり鮮明ではなかった記憶があります。

ジャイアンツの長嶋茂雄さんと王貞治さんが観戦に来られていたこともいい思い出です。ちょうど跳馬の着地地点に近いところで応援してくださっていました。

民間スポーツクラブ第1号「池上スポーツ普及クラブ」を立ち上げ

 池上スポーツ普及クラブでの指導風景

池上スポーツ普及クラブでの指導風景

―― 東京オリンピックを区切りにご夫婦ともども引退されたのですね。

そうです。その後、次女・暢子、三女・彰子、次男・仁久を生み、5人の子どもの母となりました。

―― 1965年5月には、「池上スポーツ普及クラブ」を創設されました。

はい、現役時代から、学校体育以外に、子どもたちや働きながらスポーツに取り組みたい人たちのための社会体育の場が必要だと考えていました。 スポーツの普及を目的として、それを実現するために、小野が『週刊新潮』に「スポーツによって青少年のからだづくりにお役に立ちたいと思います。どなたか施設を提供してくださる方はいませんか」と投稿したのです。すぐに数件反応があって、大田区池上にある実相寺住職の酒井謙祐さんから、約200坪の庭と鉄筋コンクリート造りの庫裡(くり)の2階部分(約70坪)を提供していただきました。

―― それが民間のスポーツクラブ第1号として、日本のスポーツクラブの先がけとなったのですね。

はい、1988年ソウルオリンピック体操代表の小西裕之くん、幻になりましたが1980年モスクワオリンピック体操代表の北川淳一くんたちを輩出しています。現在は大田区池上の別の場所に移転し、幼児・青少年・成人・選手育成のカテゴリー別に、それぞれの目的に応じたコースを運営しています。

国立オリンピック記念青少年総合センター改築のため政界へ進出

センター全景(写真提供:国立オリンピック記念青少年総合センター)

センター全景(写真提供:国立オリンピック記念青少年総合センター)

―― 1986年7月、小野さんが参議院議員になられたのは、どんな理由からでしょうか。

国立オリンピック記念青少年総合センター(東京・代々木)の改築問題があったからです。シャワーのお湯が出ない。壁に寄りかかると壁が抜けたり、窓枠が落ちたりする。もう施設が古くてボロボロで危なくなっていたんですよ。

―― 東京オリンピックから22年ですものね。

なんとかあの施設を改築して充実させ、青少年スポーツの拠点としたかったんです。私はセンターの運営委員として取り組んでいましたが、総理府の青少年問題審議会委員を務めていらした末次一郎さんという方が、「国会議員になって質問して改築を進めないとダメだね」とおっしゃって、いつの間にか私にお鉢が回ってきたわけです。それまでも2度出馬を要請されていて、遂に3度目にお受けすることになってしまいました。

―― そして当選された。

私ね、「人生他動説」なんです。自分でやりたくてやるというよりも、やらされる運命。人に動かされて能力以上のことをやってきたと感じているんです。だって私がまさか政治家なんてね。しかし選ばれた以上はやらなければと、国会の右も左もわからないまま手を挙げて質問をしました。すると当時の文部大臣だった塩川正十郎先生は、私の話をじっくり聞いてすっと立ち上がり「ようござんす!」。そう一言発して、またすっと座ったんです。

―― へええ。

基本設計から実務設計に始まり、事務棟、スポーツゾーン、体育館、プール、会議室、宿泊棟などが形になるのに、1年ずつ予算を取ってという手順で進んでいくので、12年以上かかりましたけれども、なんとか完成させることができました。

スポーツ界初の旭日大綬章を受章

―― 小野さんは1982年3月に日本オリンピック委員会の理事に就任され、2005年4月には副会長になられました。これはいずれも女性として初のことでした。それから2008年4月、旭日大綬章をスポーツ経験者として初めて受章されましたね。

私はね、そういうものをいただくほどの人間ではないというのは、本人がいちばんよくわかっているんですよ。感謝はしていますが、もったいないことです。ですからいただいてどうのということはなくて、これからも今までどおり、一人の人間として責任を感じながら生きていかなければいけないと思っています。

―― 2012年のロンドンオリンピック・パラリンピックで、日本代表選手団は大活躍しましたが、その陰に、マルチサポートハウスの存在があったと言われています。コンディショニング、疲労回復など選手をサポートするために国が費用を出し、国立スポーツ科学センターが設置した支援拠点です。 選手村から歩いてすぐのところに位置し、日本人の口に合って栄養面までケアした食事ができたり、リカバリープールがあったりと充実した施設だったそうですね。小野さんはその設置に尽力をされ、調印式にも行かれたとか。

はい。でもちょっと広さが足りなかったかしらという思いはありますね。

―― あの試みの成功が、ソチ大会にも継承されました。

ああいう施設も使い方一つなんです。あまりにもリラックスしすぎるとかえって疲労をためたり、筋肉が緩んだりもする。利用する選手にとって、いつもどおりの力をコンスタントに発揮できる、その手助けとなる施設であってほしいですね。

女性アスリートの活躍を見て次の女性アスリートが育つ

―― ソチ冬季オリンピックが終わりました。活躍を見せてくれた日本代表選手団は、人数比でいうと男子選手が48人、女子選手は65人と女子のほうが多くなりました。このような傾向は、ある意味では歓迎されていますよね。

女子種目が増えてチャンスが増えたという事情もありますけどね。女性ってね、何か集中しなければいけない場面になったときに、それに懸けるパワーをより上手に強く出せるのではないかと思うんですね。仕事や家庭を持つ女性アスリートはとくに、日々の生活を大切にしながら、かつ練習にも打ち込む必要があるわけですよ。

―― 今回もママさんアスリートの活躍がありましたね。

 2014 ソチオリンピックカーリング小笠原選手

2014 ソチオリンピックカーリング小笠原選手

そう、彼女たちは無我夢中でその場を過ごしているというよりも、将来のことも考えながら、今という時間を強い意思を持って集中して過ごしていると思うんです。そんな彼女たちの向上心と背中を見て、また後から来る若い方々も「よし、私もやってみよう」「私もできるはず」と勇気づけられるのではないでしょうか。 そもそも海外を見ると、男女比の話なんてあまり出ないんじゃないですか。

―― そこに注目が集まること自体が、まだ遅れている部分といえるのかもしれませんね。それにソチでは、フィギュアスケート男子シングルの金メダリスト羽生結弦選手をはじめ、人数では劣勢だった男性アスリートが頑張った印象があります。
小野さんのお宅では、小野さんはお仕事を続けられながら、5人のお子さんの子育てもされてということで、ご主人は家事の協力などは?

いえ、当時はほとんどできませんでした。子どもを扱うのには慣れていませんでしたから。

“団体スポーツの強化”という課題

2014 ソチオリンピック  女子アイスホッケー日本チーム  “ スマイルジャパン”

2014 ソチオリンピック
女子アイスホッケー日本チーム“ スマイルジャパン”

今回のソチではアイスホッケーやカーリングなど、男子は出場権を取れずに女子だけが出場できたといった事情もあります。この二つで出場権を取れていれば、男女比はほぼ五分五分だったでしょう。このときに、人数のところにだけ注目しておしまいなのではなくて、団体競技で日本は劣っているというところに着目しなければいけないんですよ。夏の競技にも関係することですし、チームスポーツをどう強化していくかという課題に読み替えて取り組んでいくべきだと思います。

―― これは企業が景気に左右されてスポーツから徐々に手を引いてきていることも、一因としてあると思うんですよ。

大きいですね。日本は今まで企業に頼りすぎてきたところは確かにあると思うんです。しかしどこの国にもその国流のやり方がありますからね。そのへんを私たちはもう少し分析し、研究していく必要があろうかと思います。例えば、日本で最も企業の協力の少ない競技はどれか。その点、外国はどうなっているのか。協力の多い競技の場合、その理由は何か。強いからなのか、弱いので補強しようという意図が働くのか等ですね。不思議なもので強くなると人は集まりますから。

 2014ソチオリンピック開会式

2014ソチオリンピック開会式

―― なるほど、それはわかります。

そういう意味では女性だから、男性だからというよりも、例えば今回、男子が出場権を獲得できなかった競技は、一般の人がそのスポーツに親しめるかたちをどう増やしていくかなどを新たな視点にすべきではないでしょうか。

―― 何もかも性差の問題にしていると、見えなくなることもありますね。

はい、トップアスリートの強化だけに気を取られるのではなくて、小さな種をまいて芽を育てる機会をどう増やしていくか。とくに冬のスポーツの場合はそこが大切だろうと思います。スポーツへの入口を広げることで、強化につなげるという考え方ですね。

2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて

―― さて2020年の東京オリンピック・パラリンピックまで、あと7年ではなく6年となりました。どんな夢を持っていらっしゃいますか。

今のペースではどうなんでしょうね。もっと迫力ある夢をみんなが持てるようなかたちに環境整備をしていくべきでしょう。新しい競技種目ほど、専門性、技術性が上がっています。ですから環境整備をする場所とセッティングと協力体制をしっかりしておかないと、6年なんてすぐですよ。

―― 僕はナショナルトレーニングセンターのある東京都北区に住んでいるんですよ。ここは宿泊施設もありますし、人気がすごく高いんですね。ヨーロッパのほうからもこの施設に来たがっている人たちは多いと聞いています。日本でも使いたいと思っている選手たちは多くいます。もっと間口を広げて、外国の選手を受け入れると同時に、日本の若い芽を受け入れてほしいということを痛感しているんですよ。

そうかと思うと、陸上競技場はガラガラでしょう。せっかくつくったグラウンドなので、トラックのタータンはそのままにしておいて、その中の使い方をもう少し立体的にいろいろ工夫してみるとかね。例えばアーチェリーが使えるようにするとか、各競技団体別に柔軟な発想をして、ダメだったら壊すという方向性でいいと思うんですけどね。あえて中途半端はやめて、伸びるものを選んで、有効に使うべきでしょう。

―― 拡張も課題ですが、限られたスペースをアイデア次第で広く使うことができそうですね。

楽しく気持ちよく仲間を増やし人生を豊かにすることがレガシー

子どもたちの笑顔に明るい未来が

子どもたちの笑顔に明るい未来が

―― オリンピアンのセカンドキャリア、アスリートが引退後に果たせる役割についてはどうお考えですか。

スポーツの楽しさを伝えていってほしいですね。

―― 最後に、スポーツの価値について伺います。小野さんにとってのスポーツマンスピリットはどのようなものでしょうか。

人間は動物です。“動く物”と書くでしょう。だから、いい動きをして健康で素敵な人生を送りたい。そして心地よく楽しく、また時には技術的に、時には体力的に多様な活動していく中で友を得て友情を深めたり、様々なことが出てくる。上手とか下手とか、勝つとか負けるというのは、もうそれは一部の人間の問題であって、一般の人はやはりいかに気持ちよく仲間を増やし、人生を豊かに充実させていくかというのが、一番のレガシーだと思っています。

―― なるほど、本当にどうもありがとうございました。

  • 小野清子氏 略歴
  • 世相
1930
昭和5
日本体操連盟の名称で創立
 第1回全日本器械体操選手権大会を開催
1931
昭和6

FIG国際体操連盟に加盟

1932
昭和7
 ロサンゼルス 五輪に初参加、男子団体5位    
1936
昭和11
ベルリン五輪参加、男子団体9位

  • 1936小野清子氏、宮城県に生まれる
1939
昭和14
日本体操競技連盟設立
1942
昭和17
全日本体操連盟と日本体操競技連盟を統合、(財)大日本体育会体操部設立
1943
昭和18
大東亜戦争開戦、体操競技は体操戦技となり、学徒動員や役員の出征で体操競技界は自然消滅

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1946
昭和21
第1回近畿国体兼第 1回全日本個人選手権大会を開催  

  • 1947日本国憲法が施行
1950
昭和25
FIG29回総会(バーゼル)で日本体操協会仮加盟が承認される 

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結

1954
昭和29
第13回世界体操競技選手権ローマ大会に初参加、竹本正男が徒手、田中敬子が平均台で金メダル獲得 
                            
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
メルボルン五輪で小野喬が初めてのオリンピック金メダルを鉄棒で獲得。その他団体総合、個人総合、あん馬で銀メダル、平行棒銅でメダル獲得
1960
昭和35
ローマ五輪で男子団体悲願の初優勝

  • 1960小野清子氏、ローマ五輪に出場
1962
昭和37
第15回世界体操競技選手権大会(プラハ)で男子団体初優勝。女子団体で銅メダル獲得
1964
昭和39
東京五輪で男子団体連覇達成。男子個人で遠藤幸雄が日本人として初優勝。女子団体で銅メダル獲得

  • 1964小野清子氏、東京五輪で体操女子団体銅メダル獲得
  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
アジア体操連盟会長に栗本義彦が就任
1968
昭和43
メキシコ五輪で男子団体優勝、個人で加藤澤男が優勝
1969
昭和44
第1回NHK杯を開催。第4回世界新体操選手権大会(バルナ)に初参加

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
日本体操協会、財団法人に認可

1972
昭和47
ミュンヘン五輪で、日本がメダルを量産。加藤澤男が個人総合連覇、塚原光男が月面宙返りを発表          

  • 1973オイルショックが始まる
1974
昭和49
第7回アジア競技大会(テヘラン)で体操競技が正式種目として採用され、男子個人で堀井一夫が優勝
          
第18回世界体操競技選手権大会(バルナ)で男子団体優勝、男子個人で笠松茂が優勝
1976
昭和51
モントリオール五輪で男子五輪5連勝達成

  • 1976ロッキード事件が表面化
1978
昭和53
第19回世界体操競技選手権大会(ストラスブール)で男子団体が優勝し、世界選手権5連勝達成

  • 1978日中平和友好条約を調印
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
ロサンゼルス五輪、男子個人で具志堅幸司が、鉄棒で森末慎二が金メダル獲得    

  • 1984香港が中国に返還される
  • 1986小野清子氏、参議院議員初当選(以降3期務める)
1988
昭和63
ソウル五輪で男子団体が銅メダル獲得。池谷幸雄、西川大輔が高校生として初めて日本代表に選ばれる           
1990
平成2
創立60周年。世界スポーツアクロ体操選手権大会(アウグスブルグ)に参加        
1992
平成4
バルセロナ五輪で男子団体銅メダル獲得          
1995
平成7
アジアで初となる世界体操競技選手権大会を鯖江で開催。男子団体は銀メダル獲得

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1998サッカーくじ法(スポーツ振興投票の実施等に関する法律)成立
1999
平成11
世界新体操選手権大会を日本(大阪)で初めて開催
2003
平成15
第37回世界体操競技選手権大会(アナハイム)で鹿島丈博が日本人として初めてあん馬で優勝            

  • 2003小野清子氏、国家公安委員長、内閣府特命担当大臣に就任
2004
平成16
アテネ五輪で、男子団体28年ぶりに金メダル獲得       
2005
平成17
第38回世界体操競技選手権大会(メルボルン)男子個人総合で冨田洋之が優勝

  • 2005小野清子氏、日本オリンピック委員会副会長 に就任
2007
平成19
第25回世界トランポリン選手権大会(ケベック)男子シンクロで上山容弘・外村哲也組が金メダル獲得     
        
  • 2007小野清子氏、日本スポーツ振興センター理事長に就任
2008
平成20
北京五輪で男子団体が銀メダル、内村航平が男子個人総合で銀メダル。女子団体は5位入賞

  • 2008小野清子氏、旭日大綬章受章
  • 2008リーマンショックが起こる
2010
平成22
内村航平が日本史上初めて世界体操競技選手権大会個人総合連覇を達成。女子として初めて田中理恵がロンジンエレガンス賞を受賞
2011
平成23
日本国内では2度目となる世界体操選手権大会(東京体育館)を開催。内村航平が史上初の世界選手権個人総合3連覇を達成      
2012
平成24
ロンドン五輪、男子個人総合で内村航平が金メダル、男子団体、男子種目別床で銀メダル獲得       
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
体操男子団体、金メダル獲得
内村航平氏、体操男子個人総合にて金メダル獲得
白井健三氏、体操男子種目別跳馬で銅メダル獲得

  • 2008小野清子氏、国際オリンピック委員会(IOC)より、オリンピック・オーダーを授与