日本とは異なった合理的な指導方法
インタビュー風景
―― ブルガリアへの交換留学は、どんなきっかけだったんですか?
大学3年の時に、体操部の顧問で元金メダリストの三栗崇教授が交換留学制度があることを教えてくれたんです。留学先はロシアやデンマークなど、いくつかあったと思うのですが、1980年当時はスポーツの強豪国と言えば共産圏で、その強さの理由を学びたいと思ったので、迷わずブルガリアに決めました。
―― 渡航費用は支給されたんですか?
いえいえ、自分でアルバイトをして貯めましたよ。ただ、学費も支払わなければいけなかったので、結局片道分しか貯まらなかったんです。現地に行けば奨学金がもらえたので、それを貯めて帰ればいいなと思っていました。行きは飛行機には手が出せなくて、船で横浜からロシアのハバロフスクまで行って、そこから1週間かけて列車でモスクワまで行きました。さらに1週間かけてヨーロッパ鉄道でブルガリアのソフィアへ。ほとんど言葉は話せませんでしたから、約2週間、飲まず食わずで列車に揺られていましたね。そんなんだから、おそらく頭が朦朧としていたのだと思います。ソフィアに着いたまでは覚えているのですが、言葉も話せないのに、どうやってそこから大学に行ったのか記憶にないんです。
リオデジャネイロオリンピック新体操団体で 銅メダルを獲得したブルガリアチームの リボンの演技(2016年)
―― 当時の将来設計はどんなふうに考えていたんですか?
体育の先生になろうと思っていて、どういう指導をしたら強い体操部をつくれるか、ということを学ぶためにブルガリアに行こうと。
―― 実際に行ってみて、いかがでしたか?
あっちでは大学の寮で生活をしていたのですが、2人1部屋で、パレスチナ人の留学生と同部屋だったんです。彼や他の日本人に色々と助けてもらって、なんとか生きながらえたという感じでしたね。
―― 大学の授業は、講義と実技があったんですか?
当時は、最初の半年間は語学学校に行かなければいけなかったんです。でも、ブルガリア人の先生がずっとブルガリア語で話をするだけで、こっちは一つもわからないわけです。それで「こんなことしてても時間の無駄だ」と思って、勝手に体操の練習場に行って怒られたりしましたね(笑)。でも、そんなんで1年後にはブルガリア語を話せるようになっていましたからね。それで、ブルガリアのナショナルチームで指導をしたり、逆に自分が教えてもらったりしていました。当時のブルガリア体操界では、男子よりも女子の方が強くて、私はその女子の方にずっと携わっていました。
―― ナショナルチームで、渡辺さんはどんな指導をされていたんですか?
最初はアシスタントコーチのような感じで、コーチの見様見真似でやっていたんですけど、一人、ジュニアのそこまでエリートでない選手がいたんですね。それで「彼女を教えてみるか?」と言われて、指導するようになったのですが、僕が帰国した後の1988年ソウルオリンピックでは床で銅メダルを取りました。
JOC主催の「ジャーナリストセミナー」 での講演風景(2017年)
―― 当時のブルガリアの指導というのはどういうものだったのでしょうか?
とにかく日本とは違っていたことは確かです。日本は良くも悪くも教科書通りの指導ですよね。1をやったら2、その次は3というふうに順序良く進んでいくのが日本のやり方。ところが、これは欧米全体がそうだったと思いますけど、「1~5は要らないんじゃない?」という考えが普通だったんです。
例えば、鉄棒で言えば、日本では前回り、後回り、蹴上がり、大振りをマスターした後に、車輪に行くんですね。ところが、ブルガリアでは最初から鉄棒に手を握らせて、飛ばないように固定をした状態でグルグル回すんです。「それはまずいんじゃないの?」と言うと、「蹴上がりと車輪、どちらの方がマスターするのに時間がかかるかと言えば車輪。だったら、先に車輪からスタートすべき」というわけです。とても合理的ですよね。
ただ、それが良いか悪いかは一概には言えないと思うんです。今の体操では、美しさを重んじられるので、基礎の部分を飛ばしたことによる弊害というのは出てきますよね。でも、時代によって求められるものが違っていて、欧米ではそういう4年後、8年後という先を見据えた指導をしている感じがしますね。
―― 最後は、新体操を指導されていますよね。
帰国する間際に、「一度見てみたら」と言われて、新体操の練習を見に行ったんです。そしたら、すごく面白くて、ひきこまれました。新体操というのは、まずは音楽から入るんですね。その音楽で何を表現したいのかが問われる。ですから、歴史や作曲家の人生を勉強するわけです。「これはすごい世界だな」と思いましたね。当時のブルガリアは、経済的には貧しいけれど、人の心は豊かでした。日本もいつかは精神文化になっていくだろうと。その時に必要なのが、音楽や芸術を理解することだろうと。そういう面からも、新体操というスポーツはいいなと思って、日本でも普及させたいと思いました。
ジャスコにあった継続的なスポーツ事業への理解
ロサンゼルスオリンピック新体操で8位入賞した山﨑浩子。日本における新体操ブームのきっかけを作った。(1984年)
―― 帰国後は、やはり学校の先生になろうと思っていたんですか?
そうですね。それで、母校の戸畑高校に教育実習に行ったんですけど、そこで「あぁ、これはオレのやる仕事じゃないな」と思ってやめました。もちろん、生徒たちはかわいかったですよ。ただ、世界を見てきてしまったものですから、自分自身が学校という枠におさまれなかったんです。「もっと世界に羽ばたく子どもたちを育てたいな」と。
―― それでジャスコ(現イオン)に就職したのは、どういう経緯だったのでしょうか?
留学時代、僕が指導しているのを取材してくれていた新聞社の記者がいて、その人に「僕はこれから新体操というスポーツを広めていきたいので、小売り企業に提案してみようと思っているんです」と言ったら、「だったら、ジャスコという企業に話をしてみようか」と言ってくれたんです。
他にもいくつかの企業に話をしてくれたのですが、ジャスコにはこう言われました。「渡辺くん、ぜひうちでやってみたらいいじゃないか。ただし、お金は出さないよ」と。どういうことだろう、と思っていたら、「企業の経営状態が悪くなれば、まず切られるのはスポーツ部門。でも、君が提案した企画書のように、スクール事業で自ら稼いで利益を出して、その利益で企業スポーツを運営するのであれば、切られる心配はない。だからジャスコの名前は貸すから、それをバックにして、あとは自分の力で好きなようにやってみなさい」と言われたんです。
他の企業からは「専門の体育館をつくろう」と、億単位の出資の話がありました。そんな中、「なんてジャスコはケチなんだろうな」と思いましたよ(笑)。ただ、逆に言えば「あぁ、この会社ほど、本気で僕のことを考えてくれている所はいないのかもしれないな」とも思ったんですね。それで決めたんですけど、最初はテニスコートを間借りして、新体操教室を開いたんです。ところが、会員は3人くらいしか集まらなくて、よく事業部長から怒られました(笑)。
選手の支えとなるべき連盟の存在
アテネオリンピック体操男子種目別平行棒で銀メダルを獲得した冨田洋之(2004年)
―― 日本体操協会との関わりは、どういうところからだったのでしょうか?
ジャスコでは新体操は事業として成長を遂げましたが、1社だけが一生懸命になっても新体操は発展しないと思うようになっていました。それで、もっと民間の体操クラブをたくさん作らなければ、ということで、現在の「日本新体操連盟」の前身である「全日本新体操クラブ連盟」を設立しました。民間クラブの育成と、指導者の育成に注力し、普及のために「経営セミナー」や「分家制度」を啓蒙しました。
現役を引退した選手はクラブで指導経験を積んだら暖簾分けしてもらい、自由に独立して構わないと。連盟設立当時は、全国に12、13クラブしかなかったのが、現在では800ほどにまで増えました。
そんなふうにして、新体操は順調に広がりを見せていたので、それなりの評価を受けて、1998年に日本体操協会の理事に入ったんです。
そんな中、体操は1996年アトランタ、2000年シドニーとオリンピックでは2大会連続でメダルなしに終わったわけです。そしたら当時会長の徳田虎雄さんが理事会で「全員、辞表を出せ」と言われ、みんな辞任をしました。それで、その日の夜に徳田さんに呼び出されまして、「何か怒られるのかな」と思っていたら「あとはオマエに任せる」と言うわけです。
「いやいや、ちょっと待ってください。僕は理事をやめられてほっとしているくらいなのに、なんで僕がやらなくちゃいけないんですか?」と言ったら、「理事の中で一番若いからだ。君の好きな人を呼んで会長にしたらいいんだよ。とにかく4年後にはメダルが取れるようにしてくれ」と。もちろん全力でお断りしましたよ。
「待ってください。他にメダリストがたくさんいる中で、僕なんかが無理です」と言ったんですけどね。最終的に説得されまして、イオンの会長を務められた二木英徳さんに会長になっていただいて、2004年のアテネでは金メダルが取れましたから、良かったですけどね。いずれにしても、日本体操復活の一番の功労者は徳田さんだと思います。
アテネオリンピック体操男子団体で28年ぶりに金メダルを獲得した日本チーム(2004年)
―― 新体制になって、何が一番変わりましたか?
とにかく、「選手が一番」ということですね。例えば、2003年の世界選手権からは、選手はビジネスクラス、役員はエコノミーとしました。まぁ、猛反発をくらいましたけどね(笑)。
でも、その結果がその世界選手権でも、翌年のアテネオリンピックでも出たわけですからね。やはり、どれだけ選手のことを大事にしてあげられるかということが、協会が示すべき姿勢だと思うんです。何ために協会があるかといえば、選手を支えるためですからね。メダルが取れなかったアトランタ、シドニーの時も、決して選手が弱かったわけではなかったと思うんです。メダルを取れる力は十分にあったはずです。
ただ、メダルを取るには、やっぱり選手とそれを支える協会との両輪がガッチリとかみ合っていなけれいけないんだと思います。そういう考え方は、FIGの会長になった今でも全く変わっていません。
―― 日本体操協会の専務理事時代に注力してきたこととは何だったのでしょうか?
僕は、スポーツの発展のサイクルという持論があります。まずは、協会がハイクオリティな大会を開催すること。そうすると、選手のモチベーションが上がり、見ている人も楽しいと思える。つまり、選手がハイパフォーマンスを見せれば、ファンが増えるわけです。そしたら利益が生まれて、その利益をまたクオリティの高い大会に投資していく。このサイクルを、徐々に大きくしていくことでスポーツは発展していくと思うんです。
リオデジャネイロオリンピック体操男子 個人総合で2連覇を果たした内村航平(2016年)
僕が協会の役員になった当初、事業担当の常務理事をやっていたんですけど、全日本選手権とNHK杯の2つの大会しかなくて、そのうちの全日本は各地域で持ち回りで行なわれていて、国民体育大会の予選となっていたんです。これではダメだと思い、もっとブランド化しないといけないということで、毎年代々木体育館で行うことにしたんです。そのうちに全日本も人気が出てきたので、「個人総合」「個人種目別」「団体」という3つに分けて、それぞれ違う民放のテレビ局で放映するようにしました。
さらに世界選手権は、それまでNHKだったのを、大会前からの露出度を考えて民放に代えました。こういうふうに、大会をハイクオリティにすることで底辺が広がっていくと。そうすると、受け皿が必要になってくるわけですが、それはもう学校では賄いきれませんから、この1、2年で民間クラブを増やしていって、いざ2020年の時に選手に憧れて「体操をやりたい」という子どもたちが出てきた時に、すぐに受け入れられるような体制にしておきたいと思っています。その道半ばで私はFIGの会長に就任してしまいましたので、あとは後任がやってくれると期待しています。
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―― 渡辺さんの中では、最終的なビジョンというのはどこに置かれているのでしょうか?
僕自身は、体操をサッカー並みにしたいと思っています。ですから、底辺の数だけはサッカーより増やそうということで、新しくチアリーディングやパルクールを「体操ファミリー」として仲間に迎え入れたりしています。