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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

次世代の架け橋となる人びと
第53回
“日本柔道”と“JUDO”との融合

井上 康生

2016年リオデジャネイロオリンピックでは、柔道男子日本代表が、52年ぶりとなる全階級でメダルを獲得という快挙を成し遂げました。その“日本柔道復活”に導いたのが、井上康生氏です。

2012年ロンドンオリンピックで、史上初の金メダルゼロに終わり、まさにどん底からのスタートとなった中、若干34歳にして柔道男子日本代表監督に就任した井上氏。海外での経験を活かし、さまざまな取り組みに着手し、日本柔道界に新風を吹き込みました。今回は、伝統や日本柔道の良さを残しつつ、新しいことにも挑戦した“井上道”に迫りました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

監督として悔しい結果となったリオ

―― リオデジャネイロオリンピックでは、日本男子柔道は金メダル2つを含む、全階級でメダルを獲得するという好成績を挙げました。

リオデジャネイロ・オリンピック男子90kg級で金メダルに輝いたベイカー茉秋

リオデジャネイロ・オリンピック男子90kg級で金メダルに輝いたベイカー茉秋(2016年)

今回のリオでの結果については、皆さんから高評価をいただいているのですが、私自身は満足していないというのが正直なところです。ロンドンでは史上初めて金メダルゼロという結果に終わり、リオに向けてはゼロからのスタートでした。そういう意味では、金メダル2つを獲得し、また1964年東京オリンピック以来、52年ぶりに全階級でメダリストを輩出したということにおいて、選手たちが歴史的快挙を成し遂げてくれたという思いはあります。

しかし、監督という自分自身の立場からしますと、まだまだだったなと。選手たちの能力からすれば、もっといい色のメダルを獲得できたはずで、そういう部分では悔しい結果に終わったオリンピックでした。オリンピックの借りは、オリンピックでしか返せません。ありがたいことに、2020年まで男子日本代表の監督を続投させていただくことになりましたので、また4年後を見据えたうえで、これからさまざまな戦いに挑んでいかなければいけないと思っています。

リオデジャネイロ・オリンピック女子70kg級で金メダルに輝いた田知本遥

リオデジャネイロ・オリンピック女子70kg級で金メダルに輝いた田知本遥(2016年)

―― リオ前は、どんなふうに予想されていたのでしょうか?

昨年の世界選手権(カザフスタン・アスタナ)では、7階級で日本人選手9人が出場し、金3、銀2、銅2という結果でした。そのことを踏まえますと、全階級で十分に世界の頂を目指すことができるという手応えはありました。しかしながら、冷静に世界の流れを見た時、「戦ってみないとわからない」というのがありました。ですので、リオでは、「大体これくらいはいけるだろう」という予測は立てつつ、「もしかしたらメダルゼロに終わるかもしれない」という危機感もある中で戦っていました。

―― 前回のロンドンの時はコーチという立場で臨んだわけですが、監督とコーチとでは、違いましたか?

一番の違いは責任の重さだと思います。コーチというのは、いわば組織における長の下につく立場にあります。一方、監督というのは、組織すべてを請け負い、何かあった場合には自分の責任として考えていかなければなりません。どうすれば選手たちが本番の舞台で最高のパフォーマンスを出せるか。その選手たちを指導するコーチたちが指導しやすい環境を、いかにつくり出していけるか。さらには、日本柔道界がどうしていかなければいけないのか、というところまで、監督は見なければならない。視野という部分においても、監督とコーチとでは全く違いました。そうした中で、私が指揮官として心掛けているのは、決断力と統率力。そのためにも、さまざまなことを勉強したり、人の話を聞いたり、実際に体験したりすることが重要だと思っています。また、これは選手にも言い聞かせていることですが、しっかりと準備をしたうえで、その場に立ち、そしてそこで「これでやる」と決めたことに対しては、最後まで信じて突き進んでいくこと。これが大事だと思っています。

父の訓えと母から受け継いだ性格

大学時代父・明と自宅にて

大学時代父・明と自宅にて

―― 井上さんは3人兄弟の末っ子。上のお二人は、最初は剣道をされていたそうですが、井上さんだけは最初から柔道の道に行かれたと。その理由は何だったんですか?

一番は、父への憧れでしたね。私は末っ子ということもあって、とても甘えん坊でしたので、いつも両親の傍にべったりとくっついていたんです。父親の後を追いかけては、何をしているのかをじっくりと観察していました。そうすると、身長170センチ、体重も77、78キロくらいと、それほど大きな体でもない父が、内股など、得意の足技で投げている姿を見て、「かっこいいな」と思ったんです。

―― お父さんから柔道を勧められたりもしたんですか?

いいえ、父は子どもたちに対して何かを強制するということは、ほとんどなかったように思います。上の2人は、どちらかというとチャンバラのようなものがかっこよく見えて剣道に行ったようですが、私自身は柔道の投げる姿に格好良さを感じたので、自分は柔道をやりたいと思って始めました。

井上康生氏

インタビュー風景(2016年)

―― 実際にやってみて、いかがでしたか?

もう、柔道が好きで好きで仕方ないという感じでした。5歳で始めた当初はよく覚えていませんが、小学校に入って、中学年、高学年の時には、日々柔道がしたくて仕方なかったですね。

小学5年の時には、「自分はもっと強くなりたいから、鍛えてくれ」と父に頼んだ記憶があります。

実はその頃に、現在日本相撲協会の理事長である八角親方(元横綱・北勝海)に誘っていただいたのですが、「僕は柔道をやります!」とはっきり断っているんです。

小学生時代、次々に優勝を重ねていく(左から二人目)

小学生時代、次々に優勝を重ねていく(左から二人目)

―― やはり強かったからこそ、柔道にのめりこんだということでもあったのでしょうか?

確かにそれもあったと思います。子どもの時から体が大きかったですからね。実は小学5、6年の部で全国チャンピオンになって以降、中学、高校、大学、社会人と、すべてのカテゴリーにおいて全国優勝しているのは、柔道界で私だけなんです。

でも、私が柔道を好きになれたのは、色々な要素があったと思います。例えば、小学生の時に全国優勝しても、あまりにも詰め込み過ぎてしまっていては、次のモチベーションが見つからずにバーンアウト状態になることもあります。でも、私の場合は、そういうことはありませんでした。だから勝っても勝っても、「まだまだ」というふうに思えたんだと思います。
とにかく、心の底から柔道が好きな少年でしたね。もちろん、時には遊びに行きたいとか、練習を休みたいな、と思ったこともありました。しかしながら、基本的な柔道への思いというのは全く変わらなかったですね。だからこそ、社会人までずっと日本チャンピオンになることができたのかなとも思います。

高2の時、静充館道場の荒川幸一館長(左)と

高2の時、静充館道場の荒川幸一館長(左)と (1995年)

―― 小、中学生の時には地元の静充館で稽古をしていたわけですが、そこでお父さんの指導を受けていたんですか?

静充館には、当時館長だった元刑務官の荒川幸一先生という方がいらっしゃって、その方の指導を受けていました。荒川先生は、とても厳しい方でしたが、心から柔道が好きで、また子どもが大好きな方でした。スキンヘッドだったので、私たちは「タコ先生」と呼んで慕っていましたね(笑)。荒川先生の指導で、私は大きく成長させてもらったと思っています。父は警察官でしたから、勤務の関係上、道場には来れたり来れなかったりしていたんです。ですから、父が来れる時には父に指導してもらい、その他は荒川先生に指導してもらうというかたちでした。

小学4年の時、全国小学生柔道大会に出場。先頭のプラカードを持っているのが井上康生

小学4年の時、全国小学生柔道大会に出場。先頭のプラカードを持っているのが井上康生

―― 子どもの時に、負けてしまって柔道をやめたくなったりとか、思うようにいかなくて投げだしくなったりすることはなかったんでしょうか?

もちろん、ありましたよ。試合に勝てなくて、何度も涙したこともありましたし、時にはうまくいかなくて柔道をやめたくなることもありました。でも、そんな状態が長くは続かなかったですね。その日調子が悪くて苦しんでも、寝てしまえば、翌朝起きた時には「よっしゃ、やってやろう!」という気持ちなることがほとんどでした。

それと、どんなに勝ってもモチベーションを保ち続けられたのは、父のおかげでもあったと思います。いつも「決して奢るなよ。オマエの目指しているのは、こんなところじゃないだろう。世界やオリンピックで優勝することなんだろう」ということを言い続けてくれましたし、それを信じ続けて指導してくれました。それが、子どもの私にとっては、非常に大きかったと思います。

―― 柔道家としてのお父さんからの影響は大きかったと思いますが、一方で、お母さんからの影響というのは、どういうものがありましたか?

母は、いい意味で子どもだった私に「逃げ道」を作ってくれた、そんな存在だったと思います。父は非常に厳格な人で、家にいる時は優しい父親だったのですが、こと柔道に関しては、容赦ありませんでしたので、よく叱られて落ち込んで帰ることもあったんです。そんな時には、母が優しく包んでくれましたし、もともと明るくて天然なところがありましたから、「そんなに落ち込んでもしょうがないじゃない。また次、頑張ればいいのよ」と母から言われると、「そうかな」と気持ちが楽になれました。

―― 性格はお母さん似ですか?

井上康生

インタビュー風景(2016年)

私は母に似ていると思いますね。父はどちらかというと、少し神経質な部分があるのですが、母は何かに動じることなく、淡々とやるタイプなんです。そういうところは、母に似たのかなと思います。また、この体格も母方の方だと思います。母と、母方の祖父が大きい人でしたから、そちらの方の遺伝子を受け継いだんでしょうね。


さまざまなスポーツに触れた小学時代

―― 子どもの時は、柔道以外にも何かスポーツはしていたんですか?

小学生の頃は、ソフトボールと水泳をやっていました。ソフトボールは、道場が休みの水曜日や、土曜日も午後からだったので、午前中にソフトボールをやって、そのまま道場に行ったりしていたんです。まぁ、当時はエネルギーが有り余って仕方ないという感じでしたからね(笑)。

―― ポジションはどこをやっていたんですか?

体が大きいからという理由でキャッチャーをやらされたり、あとは外野をやったりしていました。週に1、2回でしたので、それほど本格的にやっていたわけではありませんでしが、それでも楽しかったですよ。

イタリア国際柔道大会・中学の部83kg級で優勝

中3の時、イタリア国際柔道大会・中学の部83kg級で優勝(1993年)

―― パワーがあったでしょうから、4番打者で活躍したのでは?

いえいえ、4番ではありませんでした。何番かは忘れましたけど、そんな主軸ではなかったはずです。ただ、当たれば飛ぶ、というような選手でした(笑)。

―― 水泳の方は?

母が元水泳選手だったので、その影響もあってやっていたんですけど、専門は自由形で、一応県大会に出場したこともあったんです。

―― 柔道を軸にしながらも、全く異なる種類のスポーツももされていたんですね。

子どもの自分にとっては、非常に良いことだったと思います。これからの日本のスポーツ界においても、一つの軸を作るというのは必要だとは思いますが、子どもの可能性というのは無限大で、何で芽が出るかはわかりません。
そういう中で、子どもの時にはさまざまな競技に携われるような環境づくりが必要なのではないかなと。そうすれば、もっと子どもたちの能力を引き上げられるのではないかと考えています。私自身、チームスポーツで、かつ球技であるソフトボールをやったり、あるいは水の中での競技である水泳をやったりした経験が、柔道でも活かされたのではないかと思っています。


心で通じ合えた初めての海外経験

―― 初めての海外遠征はいつでしたか?

中学生の時でした。私が通っていた静充館の出身の方が、フランスで道場を開いていまして、2年に一度、お互いを行き来する交流事業があったんです。静充館の生徒がフランスの道場に行って、その2年後にはフランスの道場から静充館に来るというようなことをしていまして、それで中学の時にフランスの道場に行ったのが初めての海外での柔道でした。大会ということでは、中学3年の時に「イタリアジュニア選手権」という大会に日本代表として出場したのが初めてでした。

パリ国際大会での王者リネール(右)と井上康生(2008年)

パリ国際大会での王者リネール(右)と井上康生(2008年)

―― 初めての海外で印象に残っていることはありますか?

海外の選手と組んだ時の違和感や、初めて触れた海外の文化についての驚きがありました。例えば、食事と言っても、主食はパンしか出てこなくて、「ご飯が食べたいな」と思ったのを覚えています。でも、「あぁ、言葉や文化は違っても、やっぱり人間同士なんだな」というふうに感じたことも強く印象に残っています。フランスに行った時は、ホームステイを1週間ほどしたのですが、言葉は全くわからなかったのに、最終日には号泣している自分がいたんです。また、逆にフランスの子どもたちが、私の自宅にホームステイに来た時も、お互いに涙を流し合って別れたんです。「あぁ、言葉が通じなくても、心は通じ合えるんだな」と思いましたし、あとあと振り返ると、柔道あるいはスポーツというのは、そういう力を持っているんだなということを感じました。

―― そういう経験を通して、早い時期から、世界に対して物怖じせずに、色々と吸収していたんでしょうね。

そうかもしれません。それと、「物怖じしない」というのは、やはり母からの遺伝子かなと思いますね。父は少し神経質なところがあって、海外の選手が来た時は戸惑っていたんですけど、母の方はどーんと構えていました。言葉なんかほとんど話せませんでしたが、ちょっとした単語をうまく使いながら、テキパキとおもてなしをしていたんです。そういう母の姿を思い起こすと、私自身、ちょっとした不安や動揺はあっても、最終的には開き直ってやれたのは、母から譲り受けたもののおかげだったのかなと。

高校で知った“世界の柔道”

東海大学湘南キャンパス

東海大学湘南キャンパス

―― 高校は地元の宮崎県を出て、神奈川県の東海大相模に進学しました。その理由は何だったのでしょうか?

兄も宮崎県内の強豪校に進んでいましたし、私にも県内から沢山誘いはあったのですが、それでも両親が「強くなりたいのなら、中央に行きなさい」と薦めてくれたんです。それで最終的に自分で決めました。

―― 不安はありませんでしたか?

希望や野望というものを強く持って行ったわけですが、不安がなかったというと嘘になります。内心では、不安は相当ありました。強豪校でしたし、初めて親元を離れての寮生活でしたから、「どんな世界が、待ち受けているんだろう」と。でも、宮崎を出る際、父からこう言われたんです。「いいか、オマエは強くなるために行くんだぞ。苦しいことや辛いことがあるだろうが、その思いだけは揺らいではいけないぞ」と。15歳の少年が、どれだけ理解していたかはわかりませんが、それでも「東海大相模に行くからには、必ずや日本、世界のチャンピオンになって宮崎に凱旋するんだ」という強い気持ちは持っていました。今考えると、一柔道家としても一人間としても必要な「覚悟」と「責任」というものを、その時父からいただいたんだな、と思っています。

―― 東海大相模に行ったことで、何か変化はありましたか?

それまでは片田舎でやっていたのが、東海大相模に行ってからは、世界というものをまざまざと見させてもらいました。それは非常に強烈ではありましたが、その後の人生においては、不可欠なものだったなと思います。

世界柔道選手権大阪大会100kg級で優勝(2003年)

世界柔道選手権大阪大会100kg級で優勝
(2003年)

―― 「世界を見た」というのは、どういうことですか?

まず一つは、東海大学の道場には、世界から一流の選手が多く集まって練習していますので、世界の柔道を肌で知ることができました。また、東海大学柔道部の礎を築かれ、13人もの世界チャンピオンを育てられた佐藤宣践先生や、世界選手権3連覇、1984年ロサンゼルスオリンピック金メダリストの山下泰裕先生からは、「世界で勝つための柔道」、また「世界で勝つための心構え」というものを指導していただきました。
ですから、その後の私の成績や、柔道家としての在り方というのは、東海大の指導なくしてはあり得なかったと思っています。

―― 「世界で勝つための柔道」とは?

私は高校時代から身長が183センチあって、体重も100キロありましたから、国内では大きい選手でした。しかし、世界に行けば、身長が2メートル以上あって、体重も120キロある選手もいるわけです。私自身は100キロ級の試合に出ていましたが、それでも無差別級への憧れがありましたから、そういう体格で劣る選手に、どうすれば勝てるのか、得意技の内股ひとつで、果たして勝てるのかと考えた時に、「いや、そうではないな」と。やはり時には、自分より大きな選手の懐に入って、相手が技を繰り出せないような担ぎ技も必要になってくるなと。そういう技術的な部分において、特に変わっていったように思います。

また、常にグローバルな視野を持ったのも、高校に入ってからでしたね。例えば、小、中学の時には、しっかりと組んで、相手の技を受けたり抑え込んだりしていました。これは、柔道というスポーツにおいて絶対に必要な土台です。しかしながら、そういう柔道だけで世界で勝てるかというと、そうではありません。相手はまともに組んではくれませんし、いわゆる反則技を狙ってくる。それにどう対応するのかというのは、世界を視野に入れた時には、必ず考えなければいけないことです。そういう世界で戦っていくためには、どういう心構えや技術を持っておかなければいけないか、ということを、高校時代からみっちりと指導していただきました。

母親が立ち返らせてくれた原点

ロサンゼルス・オリンピック無差別級で金メダルに輝いた山下泰裕(1984年)

ロサンゼルス・オリンピック無差別級で金メダルに輝いた山下泰裕(1984年)

―― 井上さんは世界選手権に4回出場し、そのうち3回優勝(3連覇)されています。井上さんにとって、世界選手権とはどういうものでしたか?

私の中では、初出場で初優勝した1999年の世界選手権(イギリス・バーミンガム)が最も思い出深いですね。もちろん、どの世界選手権もすべて思い出はあります。ただ、全日本選手権やオリンピックもそうですが、「初優勝」というのは、やはり格別でした。

―― 当時は、「井上康生に敵なし」というくらい、とにかく強いイメージがありました。

いえいえ、そんなことは決してありません。余裕なんてものはなかったですし、全ての試合がギリギリのところでの勝負でした。結果的に、すんなり勝つこともあれば、瀬戸際での勝利ということもあるだけで、試合に臨む心構えとしては、常に最悪な想定をしていました。もちろん一番いいのは、試合開始早々にパッと投げて終わり、という試合で、そういうものもイメージはしていましたが、スポーツというのは生き物ですから、どうなるかはやってみないとわかりません。ですから、もう一方では、ギリギリの試合になった時にどうするのか、どういう部分で勝負しに行くのか、というところも準備をして試合に臨んでいました。ですから、楽だったという試合は一つもありませんでした。

シドニー・オリンピック100kg級で金メダルを獲得し、母の遺影を掲げて表彰式に臨む。(2000年)

シドニー・オリンピック100kg級で金メダルを獲得し、母の遺影を掲げて表彰式に臨む。
(2000年)

―― 99年は、春までは不調でしたよね。それがいきなり世界選手権で優勝し、翌年にはシドニーオリンピックで金メダルを獲得してしまった。何かきっかけになるものがあったのでしょうか?

確かに、99年は大スランプに陥っていました。国際大会に出場しても、すぐに負けてしまいましたし、国内大会においても優勝することができず、ある意味、どん底に落ちた感じでした。自分の中では日々一生懸命に過ごすようにはしていたんですけども、それでもなかなかスランプから脱出することができずに苦しみました。

そんな中、一番の苦しみというのは、やはり母の死でした。その年の6月に母が亡くなり、「なんでこんなに苦しまなくちゃいけないんだ」という思いがあったんですけども、その一方で、母から大きなエネルギーをもらっていたんです。母の死によって、内面的な部分での変化が生じたというのところはあったと思います。

―― 何か気持ちの変化があったのでしょうか?

柔道に対して、自分にうぬぼれがあったのかなと。当時は非常に注目されていて、それこそ「山下二世」というふうにも言っていただく中で、何か勘違いしている部分があったのではないかと思ったんです。決して練習の中で手を抜いたりということはありませんでしたが、柔道を心から好きでやっているというよりは、使命として「勝たなければいけない」「練習しなければいけない」と思いながら柔道をやっている自分がいたんです。

それが母の死によって、もう一度柔道が好きで仕方なかった頃の自分を思い出すことができました。一柔道家として、一人間としての死生観を母が与えてくれたのかなと。
それは何かというと、やはりがむしゃらに、精一杯、そして生き抜くために考え抜いてやる、ということ。そういう部分を取り戻させてくれたというところがあって、その後は見違えるように調子が上がっていきました。そして、10月の世界選手権でチャンピオンになることができたんです。

世界柔道選手権ミュンヘン大会100kg級で優勝。(2001年)

世界柔道選手権ミュンヘン大会100kg級で優勝。(2001年)

―― シドニーオリンピックまでの道のりというのは、そういう内面的な部分においての成長があったと。

そうですね。99年の世界選手権で優勝した後というのは、自信に満ち溢れていた状態でした。選手には、強い時期というのがあって、それがずっと続くわけではなくて、3~5年の間だと思うのですが、それが私にとってはシドニーの年から翌年にかけての時期だったかなと。それこそ一日一日、特に日本代表の合宿の時なんかは、毎日のように「また、オレ強くなっちゃったな」と感じていました。

―― 当時というのは、それまで日本の柔道にはなかったものが国際ルールとして出てきて、様々な変更がありました。そういうものに戸惑いはなかったのでしょうか?

例えば、カラー道着においては98年にテストマッチ、99年からは正式に導入されたわけですが、実は高校時代から「カラー道着というものが導入されるから」と言われて、既にカラー道着を着て練習をしていたんです。ありがたいことに、そういうグローバルな視点というものが東海大にはあって、いち早く新しいことにも取り組んでいましたので、何かルール的な変更があったとしても、あまり戸惑いを感じることはありませんでした。逆に、今の私が新しいものを取り入れることにちゅうちょせずに、「次はこれ、次はこれ」という発想を抱けるのは、もともとの性格に加えて、東海大で育ったということが大きいのだと思います。

シドニー・オリンピック100kg級で金メダルを獲得。(右)(2000年)

シドニー・オリンピック100kg級で金メダルを獲得。(右)(2000年)

―― 当時の日本柔道界は、カラー道着には大反対でしたよね。

そうでしたね。経済的な問題もありましたし、何よりこれまでの日本柔道の伝統という部分において、柔道着を替えるということに対しての違和感というものはあったと思います。確かに、変えてはならない伝統というものはあります。しかし、今はスピーディに物事が動いていく時代ですから、柔道がそういう流れに置いていかれてしまうようなものであってはいけないのかなと。カラー道着を肯定するというわけではないのですが、同じような体格の選手同士が、同じような動きをしていれば、見えにくいという部分は、正直あったと思うんですね。逆に白と青の道着に分けることによって、非常に見やすくなりました。

現在、196の国と地域が国際柔道連盟に加入し、いわば全世界で柔道が行われています。それだけ柔道が世界的なスポーツになったという証でもあります。そういう中で、我々日本としても、残しておかなければいけないものは残しつつ、しかしながら、世界的な視野を見ながら柔軟に対応していく部分も必要なのではないかと、私自身は考えています。

―― 「柔道の父」である嘉納治五郎先生を例にとっても、柔道はいち早く世界を視野において発展してきたスポーツですよね。

文献などを拝見すると、嘉納先生というのは、非常に柔軟な考えの持ち主でいらっしゃったようですね。嘉納先生は柔道の発展を考えていく中で、その時代その時代で、さまざまな新しいものを取り入れていった方だったのだと思います。

例えば、まだスポーツ科学という概念が日本には皆無だったあの時代に、既にウエイトトレーニングや交代浴、あるいはアイシングのシステムといったものを取り入れていらっしゃるんです。ですので、嘉納先生という方は残しておくべきものは残しながらも、「いや、これは柔道のためだ」と思ったものは、率先して変えていくような、先見の明と大きな器量を持たれていた方だったのではないかなと、勝手に想像しています。そして、私自身もそうでありたいと考えています。

近代柔道の始祖嘉納治五郎

近代柔道の始祖嘉納治五郎

自らの限界を悟っての引退表明

―― 2004年、日本選手団の主将として臨んだアテネオリンピックでは、準々決勝で敗れるという残念な結果に終わりました。しかし、柔道家としてはシドニーから4年を経て、さらに大きく成長していたのではないでしょうか?

本来は、そうでなければいけなかったと思います。しかしながら、全てにおいて自分自身の未熟さが出た大会でした。経験という積み重ねがあって、メダル獲得するチャンスは十分にあったにもかかわらず、自分の弱さというものが露呈してしまい、メダル争いさえもできなかったというのは、自分の未熟さ以外の何物でもありませんでした。

アテネ・オリンピックでは日本選手団の主将を務める。

アテネ・オリンピックでは日本選手団の主将を務める。
左は旗手の浜口京子(2004年)

―― 戦術面、技術面からすると、どうだったのでしょうか?

シドニーオリンピック以降、2001年の世界選手権(ドイツ・ミュンヘン)、2002年のアジア選手権(韓国・釜山)、2003年の世界選手権(大阪)では、すべて一本勝ちしているんです。そのために、2004年アテネオリンピックでは「一本を取らなければいけない」というある種の驕りがあって、投げ急ぐようなところがありました。相手に隙を与えるような柔道をしていたんです。もっと堅実的に攻めていきながら、最後は自分の形で仕留めるとか、そういうような流れに持っていければ、また試合の展開は変わっていたと思います。

アテネでは、実は1回戦から本調子ではなく、自分の柔道ができていませんでした。しかし、それを受け止め、踏まえたうえで、あの一日を過ごしていれば、結果は変わっていたのかなと。しかし、当時の私は、1回戦で調子が出なかったのだから、2回戦では上げていかなければいけない、3回戦ではもっと上げていかなければいけない、という焦りがありました。それが相手に隙を作ってしまったんです。本番当日に、調子が上がらない自分を冷静に受け止めるというのは、なかなか難しいことではあるのですが、世界で勝つためには、やはりそういうこともできなければなりません。現役時代にそういう経験をしたからこそ、今、指導者として選手たちには準備の重要性をを伝えています。
オリンピックというのは、4年に一度しかないわけで、柔道の選手にしてみれば、1461日分のたった1日でしかありません。その1日を100%の状態で臨めるかというと、それは非常に難しいわけです。だからこそ、調子がいい悪いに関係なく勝てる準備というものをしっかりとしていかなければ、あのたった1日を制することはできないんです。

アテネ・オリンピック100kg級(右)

アテネ・オリンピック100kg級(右)(2004年)

―― アスリートにとって、引き際というのは非常に難しい問題で、悩む選手は少なくありません。しかし、井上さんは2008年の全日本選手権で敗退して、わずか3日後には、あっさりと引退を表明されました。あの時は「負けたら引退」と決めていたんですか?

柔道人生の一つの区切りとして、29歳11カ月で迎える北京オリンピックを最後にしようというふうには考えていました。ですから、アテネで負けた後、この悔しい思いを次の北京で絶対に晴らして区切りにしよう、という思いでやっていたんです。

そういう中で全日本で敗れた時に、「あ、これはもうやめた方がいいな」というふうに思いました。その気持ちに素直に従ったということです。

アテネ・オリンピック100kg級準々決勝で敗れる。(右)(2004年)

アテネ・オリンピック100kg級準々決勝で敗れる。(右)(2004年)

―― しかし、「まだまだやりたい」というお気持ちもあったのではないですか?

いえいえ、「正直これは限界だな」というふうに思いましたので、あの時負けた時点で引退しようと決めました。

―― 私も含めて、誰もが引退するとは予想していなかったと思います。

私にとっては、何の迷いもありませんでした。アテネ後、「北京までは戦い続けよう」と思って精一杯やりましたし、それで負けたんだから、もうやめようと。もちろん、当時はまだ戦える力はありましたが、それでもこれから先を考えた時に、「もう、厳しいな」と思ったんです。

学び多きスコットランドへの留学

ロンドン・オリンピック100kg超級金メダルのテディ・リネール(仏)(2012年)

ロンドン・オリンピック100kg超級金メダルのテディ・リネール(仏)(2012年)

―― 引退後は、スコットランドに指導者海外研修員として留学されました。「目から鱗」的なものもあったのではないでしょうか?

海外で学んで一番良かったなと思ったのは、自分の無学さというものに気づかせてもらったということでした。これは決して悲観的な思いからだけではなくて、逆に「自分はまだまだ伸びしろがあるんだな」というふうにポジティブにも考えられましたし、「世界には、自分がまだ知らない、面白いものがこんなにも沢山あるんだな」ということを感じ取ることができました。

そのことによって学ぶことの大事さだったりとか、「自分は世界チャンピオンやオリンピック金メダリストになったけれども、そんなのってたかが知れているんだな」というような多くの気づきが、スコットランドでの2年間にはありました。

―― 「たかが知れている」とは?

例えば、一歩日本を出てしまえば、私のことなんか誰も知りませんし、街を歩いていても誰も気に留めないわけです。また、言葉を話すことができなければ、柔道を教えるにも、どうすることもできません。「あぁ、自分って柔道は強かったけれど、それ以外は何もできないんだな」ということを痛感させられました。

―― しかし、言葉が話せなくても、畳の上に立てば、通じ合うものがあったのでは?

確かにそうですね。言葉が話せなくても、通い合うものというのはありました。ただ、深いところを説明しようとした時には、やはり語学が必要になってきますので、私も少しずつではありましたが言葉を覚えていく中で、指導していったというかたちでした。

―― 日本人との違いを感じたことはありましたか?

はい、ありました。大方の日本人は、全日本チャンピオン、世界チャンピオンが「こうしなさい」と言ったら、みんなその通りにやろうとしますよね。でも、向こうの人たちは、自分が理解して、納得しなければ、世界チャンピオンであろうと誰だろうと、やろうとしません。「何でそうなの?」と。まず説明を求めてくるんです。しかし、だからこそ納得してやり始めると、理解している分、吸収するのが速い。

そこが日本とは違うなと。日本はどちらかというと、まずは言うことに従ってやってみてから考える、という感じだと思うんです。それも一つの方法だとは思いますが、例えば、自分の長所と短所をきちんと理解している人と、していない人とでは、壁に当たった時の対応力が違うと思うんですね。きちんと「こうだから、こうなる」というふうに、言葉で説明できるくらい理解していないと、壁を乗り越えることはできません。オリンピックの世界なんかは、特にそうだと思います。ですから、今後はジュニア世代から、そういう「自分で理解して、自分で納得して、行動する」という力を養っていくことが必要になってくると思います。


「最強」かつ「最高」の選手育成

全日本男子日本代表強化合宿で指導にあたる。(2012年)

全日本男子日本代表強化合宿で指導にあたる。(2012年)

―― 帰国後の2011年には、東海大学の副監督に就任されて、いよいよ指導者としてスタートされました。

副監督とは言っても、それまで責任ある立場で指導した経験はありませんでしたので、1、2年目というのは、自分自身も学びながら学生と共に成長していく、というようなスタンスでした。ただ、私自身が学生時代に学んだことを伝えたいとは考えていました。例えば、東海大学の目標は「最強かつ最高の選手を育成する」ということにあります。日本一、世界一を目指すと同時に、人生をしっかりと生き抜くことのできる力を養っていこうと。

ですから、私が現役時代もそうでしたが、まず第一に優先すべきは学生の本分である授業であって、クラブ活動というのはそのうえで成り立つものなんだということを指導しています。

―― 日本代表においては、ロンドンの時にコーチを務め、リオに向けてというタイミングで監督に就任されました。当時は35歳。ご自身でも驚いたのでは?

大学時代、よく佐藤先生に「もし○○だったらどうするか」「それはなぜなのか」という「If」と「Why」を考えられるような人間になりなさい、と指導されていました。また、スコットランドに留学する際には、「この2年間で、いろんなことを考えて、いろんなことを練っておけよ」と言われて送り出されたんです。

スコットランドでの2年間というのは、学びの時間であったと同時に、思考を巡らす時間でもありました。例えば「東海大学の監督になったら」と想定した時に、まずコーチの人選をどうするか、あるいはどういうものを取り入れていくか、ということを多少なりとも考えていました。
ですから、ロンドンオリンピック後に、いきなり全日本の監督になった私にとっては、そういう時間を持っていたということは、非常に大きかったですね。

井上康生氏

インタビュー風景(2016年)

―― ロンドンの時の篠原信一監督は、畳の上での練習というものを非常に重視していたと思います。もちろん、それも必要なことだと思いますが、井上さんはそれに新しいことも加えていくという作業をしていかれましたね。

監督に就任するにあたって、もう二度と同じ失敗を繰り返すことはできない中で、必ずやリオで結果を出さなければならないというプレッシャーはありました。それでも私はいい意味で、「ゼロからのスタートだ」というふうに捉えていましたので、「だったら、思い切ってやっていこう」と考えていました。何が良くて何が悪いかということではなく、監督が代われば、方針も替わるのが当然です。その中で、私自身が取り組んだのが、意識、練習内容、体力面における、改革というよりは確認ですね。それと組織力の重要性、科学の活用。大きく分けて、この5つでした。

―― 例えば、体力面においては専門家を入れて、科学的根拠からなる筋力作りというものをされましたね。

これは、意識や練習内容という面においても言えることなのですが、日本のスポーツ文化には「きつい」「辛い」「苦しい」ことが練習なんだ、という考え方が非常に根強くあると思うんです。しかし、果たしてそうなのだろうかと疑問を持ったわけです。例えば、走り込みは見た目からして苦しそうで、いかにも練習をしているという感じがしますよね。一方、ウエイトトレーニングは見た目はそれほどきつそうには思えない。しかしながら、世界を見渡すと、筋骨隆々の選手ばかりで、彼らを相手にした時に、果たして走って心肺機能を強化するだけで勝てるのかというと、そうではないだろうと。そういう疑問点における改善はしていこうということで、専門家の意見を取り入れました。

 また、精神論というものも非常に強くあって、吐きながらでも練習してこそ強さが養われるんだというようなところがあったのですが、そうではないだろうと。やはり強くなるためには、練習だけでなく、食事や休養も必要で、いわゆる三位一体でなければならないわけです。そういう面においても、やはり変えていかなければいけないということで、選手たちに問い質して、改善していきました。

 もうひとつは、オールジャパンで戦っていくということですね。どんどん強くなっている世界を相手に戦うためには、各分野におけるプロの人たちの力が必要だろうということで、元柔道選手のボディビルダーや、柔道に精通した管理栄養士というような方々に指導していただいたということも大きかったと思います。

アテネ・オリンピック前に長野で行われた全日本男子強化合宿。(2004年)

アテネ・オリンピック前に長野で行われた全日本男子強化合宿
(2004年)

―― 井上さんご自身が、これまでの日本柔道界にはなかった考え方ができたというのは、やはり海外留学のご経験が大きいのでしょうか?

確かに、それはあると思います。私自身は、時代的なこともあると思いますが、もともとは気合いや根性で乗り切ろうという考えが非常に強い人間でした。そんな中で海外の選手を見た時に、練習の時間は日本人選手の半分もないんです。なのに、強い。
一体、なぜなんだろうと思ってよく見てみると、練習が非常に効率的なんですね。いわば、試合に近い形の練習を、事細かにやっていたんです。「なるほど、こういう練習の仕方があるのか」と学んだ部分が大きかったですね。

もちろん、日本人選手がやっている長時間の練習というのも大事ではあるんです。そこで地力というものができてきて、強さというものが身に付く。しかし、今の世界の柔道において「強さ」と「試合で勝つ力」というのは違うものだと思うんです。ですから、試合で勝つための準備においては、海外のように質の高い、事細かな練習というのが必要になってくるのかなと。そういう部分での改革というのは、必要だったと思います。

新国立競技場完成予想図

新国立競技場完成予想図
大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所JV作成/JSC提供

―― その取り組みの成果が、リオでは出たわけですが、逆に2020年に向けて残された課題というのは何かありましたか?

メンタル面においては、まだまだだと感じています。それこそ、国内開催である2020年には、これまでとは全く違うプレッシャーが待ち受けていると思いますので、そういう意味では、これからもっと取り組んでいかなければいけません。どういうメンタルが必要かは、競技の特性によって違うと思いますので、柔道に適したメンタルサポートというものを考えて、取り入れていかなければいけないと思っています。

―― 柔道の社会貢献についてはどういうふうに考えていますか?

私が監督になったうえで一つの指針としているのは、先ほども申し上げました「最強かつ最高の選手の育成」です。単に柔道が強いだけではダメ。勝てば何でも許されるというふうにはしたくありません。なぜなら、勝つためには沢山の人たちの協力や応援が必要です。また、日本代表の使命ということを考えれば、選手たちの試合内容や立ち居振る舞いというものが、今後の日本柔道界を大きく左右します。試合でしっかりとした柔道を見せ、インタビューではきちんとした対応で答える。そういう姿を見て、「あぁ、やっぱり代表は違うな」「メダリストは立派だな」「自分もああいうふうになりたいな」というふうに、夢や目標、希望を持ってもらえる、そういう選手であってほしいと思っています。それが、お世話になった人たちへの恩返しでもありますし、また社会貢献にもつながると考えています。

―― 最後に、2020年東京オリンピックでは、日本柔道のどんな部分を世界に発信していきたいと思っていますか?

1964年東京オリンピックで初めて正式採用された柔道が、2020年には56年ぶりに再び東京で行われ、そこに携われることに大きな喜びを感じています。確かに大きなプレッシャーが待ち受けているとは思いますが、私自身はとてもポジティブに考えていまして、2020年は日本柔道の素晴らしさ、柔道を通じて日本人の技術や心の素晴らしさを、改めて世界に広げていくことのできるチャンスです。そういう使命感を持って、選手やスタッフと共に戦っていきたいと思っています。

柔道・井上康生氏の歴史

  • 井上康生氏略歴
  • 世相
1882
明治15
嘉納治五郎師範が東京・下谷北稲荷町の永昌寺で講道館柔道を創始
「精力善用・自他共栄」の柔道の原理を確立
1916
大正5
第1回九州学生武道大会を福岡市で開催

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
嘉納治五郎師範十年祭を記念して全国都道府県代表選手による第1回全日本柔道選手権大会を講道館で開催
1949
昭和24
嘉納履正講道館長の呼び掛けを受け、全日本柔道連盟を創立
1950
昭和25
第5回国民体育大会(愛知大会)から柔道が正式種目として参加

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
第1回全日本勤労者柔道選手権大会を神奈川体育館にて開催

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
国際柔道連盟(IJF)臨時総会にて全日本柔道連盟がIJFに加盟
嘉納履正講道館長がIJF会長に就任
1953
昭和28
第1回全日本産業別柔道大会を講道館で開催

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
第1回世界柔道選手権大会を東京・蔵前国技館で開催
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
東京オリンピックにて日本は柔道の階級別で金メダル3個を獲得
柔道無差別級はアントン・ヘーシンク(オランダ)が優勝

  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
第1回全日本招待選抜柔道体重別選手権大会を福岡市・九電記念体育館にて開催
1969
昭和44
第1回全国警察柔道選手権大会を警察大学校にて開催

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
第1回全国高等学校定時制通信制柔道大会を日本武道館にて開催
1971
昭和46
第1回全日本実業柔道個人選手権大会を大阪市立修道館にて開催

  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
第1回国際試合強化選手選考会を開催、2003年から男女同時開催
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
第1回全国教員柔道大会を講道館で開催
1978
昭和53
第1回嘉納治五郎杯国際柔道大会を日本武道館で開催

  • 1978井上康生氏、宮城県に生まれる
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
1986年女子個人、1988年男子個人、2006年女子団体試合を順次導入
1981
昭和56
第1回全国少年柔道大会を講道館にて開催
1982
昭和57
全日本学生柔道選手権大会から独立して、第1回全日本学生柔道体重別選手権大会を日本武道館にて開催

  • 1982東北、上越新幹線が開業
1984
昭和59
山下泰裕氏、ロサンゼルスオリンピックに出場し、柔道無差別級で金メダルを獲得
1986
昭和61
第1回全日本女子柔道選手権大会を愛知県体育館で開催
八戸かおり氏が優勝を果たす
女子柔道はその後、学生、職域、体重別など、男子柔道と同様に発展
フランスで国際視覚障害者柔道選手権大会を開催
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催 
第1回近代柔道杯全国中学生柔道大会開催

1990
平成2
第1回全日本選抜少年柔道大会開催        
1991
平成3
国際視覚障害者柔道選手権東京大会開催        
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催        

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1996
平成8
  • 1996井上康生氏、全日本ジュニア柔道体重別選手権大会(95kg超級)優勝
1997
平成9
第1回全日本柔道形競技大会、講道館にて開催

  • 1997 井上康生氏、全日本学生柔道体重別選手権大会(95kg超級)優勝
      講道館杯全日本柔道体重別選手権大会(100kg級)優勝
  • 1997香港が中国に返還される
1998
平成10
  • 1998 井上康生氏、全日本学生柔道体重別選手権大会(100kg級)優勝
      バンコク・アジア大会柔道競技(100kg級)優勝
1999
平成11
第1回全日本学生柔道体重別団体優勝大会、大阪府立体育会館にて開催

  • 1999 井上康生氏、バーミンガム世界柔道選手権大会(100kg級)優勝
2000
平成12
  • 2000 井上康生氏、フランス国際柔道大会(100kg級)優勝
      全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級)優勝
      シドニーオリンピック(100kg級)に出場し金メダル獲得
2001
平成13
  • 2001 井上康生氏、全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級)優勝
      全日本柔道選手権大会優勝
      ミュンヘン世界柔道選手権大会(100kg級)、2連覇達成
2002
平成14
  • 2002 井上康生氏、全日本柔道選手権大会、2連覇達成
      釜山・アジア大会柔道競技(無差別級)優勝

2003
平成15
  • 2003 井上康生氏、ドイツ国際柔道大会(100kg級)優勝
      全日本柔道選手権大会、3連覇達成
      大阪世界柔道選手権大会(100kg級)、3連覇達成
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催
第1回全国小学生学年別柔道大会、伊勢原市体育館にて開催

  • 2004 井上康生氏、全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg級)優勝
      全日本柔道選手権大会準優勝
      アテネオリンピック(100kg級)出場
2005
平成17
  • 2005 井上康生氏、嘉納治五郎杯国際柔道大会優勝
      講道館杯全日本柔道体重別選手権大会優勝
2007
平成19
  • 2007 井上康生氏、フランス国際柔道大会(100kg超級)優勝
      全日本柔道選手権大会関東予選(群馬県)優勝
2008
平成20
  • 2008 井上康生氏、全日本選抜柔道体重別選手権大会(100kg超級)優勝
      北京オリンピック代表の最終選考会である、全日本選手権大会にて準々決勝で敗退
      その翌月に引退を表明

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
国際柔道連盟(IJF)が世界ランキング制を導入
2010
平成22
東京で52年ぶりに世界柔道選手権大会が開催され、日本は金メダルを10個獲得
参加国・地域111、参加選手848名で史上最大規模となった

  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
松本薫氏、柔道女子57kg級に出場し金メダルを獲得
男女合わせて銀メダル3個、銅メダル3個を獲得

  • 2012 井上康生氏、柔道男子日本代表監督に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催