現在はフラットに見る助走期間
AFC女子U-16選手権で指揮をとる(2013年)
―― 今年4月に「なでしこジャパン」の監督に就任しましたが、それだけでなくさまざまな年代のカテゴリーに関わっていますから、さらに忙しい日々を過ごされているのでは?
これまでずっと、12、13、14、15、16、17、18とアンダー世代の子たちを見てきましたので、自分としてはそれに「なでしこ」が加わったという感じでいますね。自分自身が選手育成に関心が高いので、なでしこの監督になっても、できるだけ幅広く選手を見るようにしています。
―― 9月には、千葉県でなでしこジャパン候補選手の合宿が行われました。2019年フランスW杯、あるいは2020年東京オリンピックに向けて、なでしこジャパンが助走に入ったという感じでしょうか。
そうですね。まずは、できるだけ早く私自身が現状を把握するということが大事だなと思っています。初めて女子の日本代表チームが結成された自分たちの時代から、後輩たちがなでしことして世界一になって、日本女子サッカー界は、とてもいい流れで、ここまで来たと思います。その間、ずっと試合を見てきましたし、選手たちもよく知っていますが、やはり外から見ていたなでしこと、実際に中に入って見るなでしことでは、違うだろうと。なので、まずは先入観を持たずに、フラットに選手たちを見るようにしています。その中で、なるべく早く、不要なことは取り除いて、必要なことは取り入れていくという作業をどんどんやっていきたいと思っています。
―― 実際に内側からなでしこジャパンを見てみて、何か感じられるものはありましたか?
日本のサッカー自体が、この20年間で、状況も環境も大きく変化しましたよね。若い選手たちにしてみれば、サッカーを始めた当初からJリーグがあって、サッカーというスポーツが盛んな国に生まれ育ったわけです。一方で、これまでなでしことして活躍してきた選手というのは、厳しい環境の中で、自分自身で技術を身につけ、環境を得てきたという気持ちがあると思います。そういう感覚の違いが、世代によってあるなというのは感じています。
なでしこジャパン監督就任
(中央、右は田嶋JFA会長)(2016年)
―― これからはそういう異なる感覚の選手たちが入り交じって、一つのチームを作らなければいけないわけですね。その中で、世界に対して日本はどういうふうに対抗していくべきだと思われますか?
私たちの世代が特にそうだったと思いますが、日本人には外国人に対してのコンプレックスが何かしらあると思うんです。欧米人の方が何かと優れていると思ってしまう傾向があって、だから欧米人に何か強く意見されると「あぁ、そう ですね」と言ってしまうようなところがある。でも、私自身はコンプレックスは感じない方なんです。日本には日本の良さが、とても沢山あると思っているので、そこをうまく引き出していきたいなと思っています。
野球から一転、サッカーへ
―― 高倉さんはサッカー一筋かと思っていたら、実は子どもの頃最初に始めたスポーツは野球だったそうですね。
私が子どもの頃に流行っていたスポーツと言えば、やっぱり野球だったんですよね。両親もプロ野球が好きで、いつもテレビではプロ野球中継を観ていましたし、私自身も大の巨人ファンでした。
―― 幼少時代から、スポーツは得意だったんですか?
得意でしたね。走ればいつも一番でしたし、とにかく体を動かすことが大好きで、遊びと言えば野山を駆け回ったり、川にジャブジャブ入ってザリガニを取ったり……。だから友達は男の子ばかりでした(笑)。小学校2年生か3年生の時に、クラスで野球チームを作ったのを覚えていますね。その頃の将来の夢はプロ野球選手で、漫画の『野球狂の詩』に出てくる水原勇気(女性プロ野球選手)になると、勝手に思っていました。
―― そんな高倉さんが、サッカーを始めたきっかけは何だったのでしょうか?
通っていた小学校には、4年生から入れるスポーツ少年団がありました。それで4年生になった時に、野球をやっていた友達が、物珍しさもあって、ほとんどみんなその少年団のサッカーチームに入ったんですね。そしたら、放課後に遊ぶ人がいなくなってしまって、「じゃあ、私も入る」と。そしたらサッカーチームの先生に「本当にやるの?」って聞かれたんです。特に男の子限定となっていたわけではありませんでしたが、当然、男の子を対象としてサッカーチームを作ったでしょうから、先生もビックリしたと思います。でも、私が「入ります」って言ったら、「よし、じゃあいいよ」と言ってくれました。もし、その先生に「女の子はダメ」と言われていたら、その後の私のサッカー人生はありませんでした。だから、先生にはとても感謝しています。
小学生時代、仲間と
―― 実際にやってみて、楽しかったですか?
ボールを足で扱う感覚が初めてだったのもありましたし、とにかく野球以上に動き回るというのが楽しかったですね。それと、だんだんとボールがうまく扱えるようになって、ドリブルで人を抜いたりするのも楽しくて、すぐにのめりこみました。
―― 試合にも出ていたんですか?
5年生から試合にも出ていました。小学生の時は、男の子よりも女の子の方が体の発育が早いというのもあったかもしれませんが、男の子の中にあっても、チームでは結構巧い方だったんです。
中学時代から週末は東京へ
―― 中学時代には、福島から東京のチームに練習に通っていたということですが、もっとうまくなりたいという思いからですか?
小学校時代は、ずっと男の子と一緒にやっていたのですが、やっぱり中には「女のくせに生意気だ」と言って意地悪するような男の子もいたんですよね。スポーツ少年団は最後まで続けましたが、さすがに中学校では男の子ばかりのサッカー部に入るのは難しいなと。当時は女子サッカーなんてものはなかったので、そうすると続ける術がなくなってしまって、中学では最初、ソフトボール部に入りました。でも、サッカーに比べるとつまらなかったんです。先輩、後輩の訳の分からない上下関係が全く理解できなかったですし、サッカーと違って「待つ」ということが多いのがダメで、1学期で辞めてしまいました。それから何もすることがなくて、家で「つまらない!サッカーがやりたい!」と言っていたら、母がサッカーの雑誌で「女子選手募集」というのを見つけてきてくれました。当時、東京では少しずつ女子チームができていて、その一つ「FCジンナン」というチームが選手を募集していたんです。そこで週末、月に1回でも2 回でもボールを蹴れれば、という感じで入りました。
小学生時代、サッカーを始めたころ
―― 当時にしてみれば、福島の中学生が東京に通うというのは大変珍しかったのでは?
そうかもしれませんね。ただ、母の実家が東京だったので、夏休みとかにはよく行っていたんです。それもあって、私の家族には、「東京が遠い場所」という感覚は特になかったのだと思います。でも、今考えると、よくうちの両親も出してくれましたよね。本当にありがたいなと思います。
―― あの頃は、特急で3時間以上かかったのでは?
上野まで3時間15分だったと思います。始めの2、3回は母親も一緒に来てくれましたけど、そのうちに一人で行くようになって、よく上野駅で「家出少年」と間違われました(笑)。駅員さんや婦人警官に、「何やっているの?」ってよく止められましたね。「サッカーです」って答えながらカバンの中からスパイクやボールを出すと、怪訝そうにしながらも「そうか。気を付けて帰りなさい」って(笑)。大きなカバンを背負って、野球帽をかぶっているもんだから、男の子か女の子かわからなかったと思いますね。
―― FCジンナンでは、すぐにレギュラーになれたんですか?
大学生や社会人ばかりでしたが、私は足も速かったですし、女の子で小学生からサッカーをやっていた人は少なかったので、入ってすぐに試合にも出させてもらえるようになりました。「女子がサッカーなんて」という時代に、わざわざサッカーをやるくらいですから、面白い人が多かったですよ。東大生もいましたし、婦人警官もいましたね。変な人たちの集まりでした(笑)。
インタビュー風景(2016年)
―― その頃、将来はサッカーでという思いはありましたか?
全くなかったです。当時は、とにかくボールを蹴っていることが楽しくてやっていただけで、将来のためにとかっていう考えは全くありませんでした。もちろん、両親も「将来のために投資している」ということで東京に出させてくれていたわけではなく、「好きなことをやらせてあげたい」という、ただそれだけだったと思います。
―― 高校時代には、男子校のサッカー部で練習をしたそうですね。
はい。サッカーは続けたいとは思っても、当時はとにかく女子がサッカーをする環境を見つけることが大変でした。それで、色々と探していたら、小学校の時にスポーツ少年団でお世話になった先生が、福島工業高校のサッカー部の顧問と知り合いで、私のことをお願いしてくれたんです。それで、平日は学校の授業が終わると、毎日自転車で30分くらいかけて工業高校に行って、一緒にボールを蹴らせてもらっていました。ただ、自分のところにボールが回ってくることはほとんどなかったですし、やはり男子と比べると当たりが弱かったですから、正直そこではただ走っていることの方が多くて、技術のレベルアップのための練習というのはなかなか難しかったですね。