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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

次世代の架け橋となる人びと
第51回
2020年、世界に発信したい日本スポーツ界の進むべき道

山口 香

第4回女子柔道体重別選手権
4連覇(1981年)

今回のゲストは日本の女子柔道界の第一人者、山口香氏。まだ「女子柔道」が競技として誕生していなかった時代から柔道を始め、小学生の時は男子相手にもまったくひけをとらなかったと言います。

日本で初めて女子の全日本選手権が開催されたのは、中学2年の時。50㎏以下級で見事優勝し、その後10連覇を果たしました。
さらに世界選手権にも第1回大会(1980年)から出場し、1984年には日本女子柔道界初の金メダルに輝きました。

公開競技として初めて女子柔道がオリンピックに登場した1988年ソウル大会では、銅メダルを獲得するなど、数々の功績を挙げ、日本女子柔道界をけん引してきた山口氏。その山口氏に日本柔道界、そして女性アス リートの現状と今後の課題について伺いました。

聞き手/山本浩氏  文/斉藤寿子  構成・写真/フォート・キシモト

メダルラッシュの裏側にあった男子柔道の変革

リオオリンピック男子73kg級 金メダル
大野将平(2016年)

―― 今年のリオデジャネイロオリンピックでは、日本の柔道がメダルラッシュに湧きましたね。

大会の前半に行われた柔道でメダルが続いたことで、日本選手団全体に勢いをつけることができたのではないかと思います。寂しい結果になった4年前のロンドン大会のことを考えると、今回はある程度、皆さんの期待に応えることができたのではないかなと、私自身、安堵しています。

―― 柔道の男女合わせて金3、銀1、銅8という今回の成績は、「メダルを獲るべき人が獲った」と言える結果だったのではないでしょうか。

そうですね。開幕前の予想と、そう違いはなかったかなと思います。ただ、オリンピックというのはやはり特別な大会で、「メダルを獲れると思っていた選手が逃してしまう」ということも少なくないんです。今回はメダルの総数に関して言えば、私が予想していた数よりも多かったのですが、金メダル数でいうと、特に男子はもう1つ2つ、獲れる階級もあったかなという印象でした。

リオオリンピック男子73kg級 金メダル
大野将平 (2016年)

―― ロンドン大会で金メダルゼロに終わった男子は、今回は2つ獲得しましたが、実力からすれば、もっと獲れたと。

はい、そう思います。「獲れたはずなのに、なんで獲れなかったのか」と言いたいわけではなく、金メダルを逃した81kg級の永瀬貴規や100kg級の羽賀龍之介といったところも、実力的には十分に可能性はあったなと。どちらに転ぶかわからない、まさに紙一重の結果だったと思います。いずれにしても、男子は全階級でメダルを獲りましたから、本当によく頑張りましたし、快挙と言っていいのではないでしょうか。

―― その快挙の裏側には、専門のトレーナーによるフィジカル強化がプラスの方向にいったという話もありますが、山口さんはどう見られていますか?

一つは、井上康生監督のチャレンジがあったと思います。例えば、従来柔道では畳の上が全てで、長時間柔道の練習をすることが良しとされてきました。しかし今の時代、やはりそれだけでは勝てなくなってしまった。
筋力や持久力をつけるには、それぞれ専門のトレーニングが必要で、そういう部分を畳の上での練習以外のところで補わなければいけません。選手自身も薄々は気づいていたとは思うのですが、「今までこれでやってきたんだから」という固定観念から抜け出せないところがあったと思うんです。
そこに井上監督が切り込んで、「こういうことをやってみようよ」ということでトライしてみたところ、海外の選手にも力負けをしなくなった、自分の技を出せるようになった、という自信につながったのだと思います。そして選手の実力が上がるのと同時に、井上監督への信頼も高まっていったのではないでしょうか。

嘉納治五郎 (左端)

―― 山口さんのご著書には嘉納治五郎先生が掲げた「形(かた)」「乱取り」「講義」「問答」という「四つの注文」のことが記されてあります。その中で、現代の柔道は乱取り重視になりすぎているということに警鐘を鳴らされていましたが、井上監督になって嘉納先生が大事にされていた柔道の本筋に少し戻ってきた感じでしょうか。

そうだと思いますね。実は、嘉納先生が講道館を創設された時は、まだ20代だったんです。井上監督は現在38歳ですが、現代の日本柔道界においてはまだまだ若手の部類に入ります。そういう意味で、井上監督を見ていて嘉納先生とシンクロするのは、若手の方が選手と一緒になって、さまざまなことに挑戦できるのかなと。
というのも、井上監督にしてみたら、自分もついこの間までは選手の立場でやっていて、不安も疑問もあったでしょうし、うまくいったこと、いかないことがあったはずです。だからこそ、上から「こうしなさい」ではなく、「こうしてみたらどうだろうか」と選手とディスカッションしながら、新しいことに取り組めたのかなと。それが、チームにまとまりをもたせた要因になったのではないでしょうか。

―― ひとえに井上監督の存在が大きかったと。

それはあったと思います。でも、井上監督が新しいことに踏み切れたのは、4年前のロンドンがあったからだと思うんです。企業でもそうですけど、老舗と言われるところほど、改革に踏み切るのは難しいですよね。「このままでは、時代に遅れる」という懸念はありながら、実際にはなかなか方向転換できない。船が大きいからこそ、舵を切るのが難しいわけです。
結局は、倒れてみて初めて実感するというようなところがあると思うのですが、そういう意味ではロンドンで金メダルゼロに終わったことで、日本の男子柔道は一度、どん底に突き落とされて現実を突きつけられました。そこでようやく、「ここで改革しなければ、日本の柔道自体が終わってしまう」という危機感を持ち、「みんなで盛り立てていこう」というふうになった。そのことが大きかったのではないかなと思います。

女子柔道界にとって大きかった田知本の金メダル

リオオリンピック女子70kg級 金メダル
田知本遥 (2016年)

―― 一方、女子の方ですが、70kg級の田知本遥が見事、金メダルを獲得しましたね。世界ランキング14位という事を考えれば、まさに大金星だったのではないでしょうか。

田知本の金メダルは、とても大きな意義があったと思っています。4年前のロンドンは、今回のリオと比べても、同等か、あるいはそれ以上だったのではないかと思えるくらいいいメンバーが揃っていて、どの階級でも金メダルの可能性がありました。ところが、実際の金は松本薫(57kg級)の1つに終わり、メダル自体も、杉本美香(78kg超級)の銀と、上野順恵(63kg級)の銅のみと、予想をはるかに下回る結果となりました。
「力のある選手を勝たせてあげられなかった」というのは、連盟や監督、コーチが責任を負うべき点だったと思います。そのロンドン後に、女子は様々な問題が浮上したことは周知の通りです。あの当時の女子チームは「上からやらされる」という雰囲気でした。しかし、選手にしてみれば、「一番勝ちたいと思っているのは自分たちなんだから、言われなくても練習する」という気持ちがありました。それが反発心となって表出したのが2013年。問題が表面化されたことで、女子柔道の指導のあり方もだいぶ変わっていきました。選手の意見も聞きながら、リスペクトするかたちで進められるようになったんです。

―― 選手が納得したかたちで行われるようになったわけですね。

はい。それ自体は良かったと思いますが、逆に言えば、新体制になって良かったということを証明しなければならなかった。それがリオだったんです。もし、ロンドンを下回る結果となれば、「甘やかすからこうなる」と言われかねない。そういう意味では、ロンドンでメダルを取れずに悔しい思いをして、今回のリオに臨んだ田知本が金メダルを取ったというのは、女子柔道界にとっても意義深いことでした。「あの変革は、やはり良かったんだ」という空気になったと思いますし、ロンドンで「獲れる力があったのに獲れなかった」選手たちの分も背負って、戦ってくれたんじゃないかなと思います。ですから、本人だけでなく、女子柔道界にとっても嬉しい金メダルでした。

―― 田知本と同じく、ロンドンで悔しい思いをしてリオに臨んだのが52kg級の中村美里でした。それこそ「金メダルを獲れたはずの」選手だったのではないでしょうか。

リオオリンピック女子52kg級金メダル
マイリンダ・ケルメンディ(コソボ)
(2016年)

そうですね。でも、準決勝で敗れたマイリンダ・ケルメンディ(コソボ)は、2013、14年と世界選手権で連覇している選手で、非常に強い相手だったんです。中村は昨年の世界選手権で優勝していますが、その時は彼女とは当たっていません。ですから、言ってみれば準決勝は「真の世界一決定戦」で、どちらが勝ってもおかしくなかったと思います。

―― 今回のリオはある意味、納得のいく結果だったわけですね。

うーん、そうとも言えないところがあります。というのも、あまり注目されませんでしたが、私が一番残念だったのは試合時間でした。ロンドンまでは男子と同じ5分だったのに、ロンドン後のルール改正で、女子は男子との体力差を理由に、4分と短くなってしまったんです。柔道において、この1分の差というのは、実に大きいものです。
これは「たら・れば」でしかありませんが、もう1分あれば、中村はあそこから十分に逆転できたと思います。4分というのは、先手必勝で、反則でもいいから先にポイントを獲れば、十分に逃げることのできる長さなんです。そういう意味では、今回のオリンピックは、「真の世界王者決定戦」ではなかったのではないかというのが、私の正直な感想です。

第3回女子柔道体重別選手権 3連覇
(1980年)

勝敗だけではなかった柔道の訓え

―― 山口さんとは、これまで何度もお話をさせていただいていますが、いつも考え方にブレがありません。一本筋が通っているような印象を受けます。

子どもの時に教わった柔道の先生の影響が大きいかもしれませんね。非常に厳しい方でしたが、単に勝ち負けではなく、柔道というのは何を目指すものなのか、ということを教えてくれました。それが今、財産になっているのだと思います。

―― 山口さんが柔道を始めたのは6歳の時。ちょうど日本社会が「見失ってしまったものを取り戻そう」などという議論が至るところで巻き起こっていて、その中で世界とのつながりが色濃くなっていく時代だったと思うんです。

そうですね。柔道も、私の世代が育っていく中で、いわゆる横文字の「JUDO」との違いとか、「武道」なのか「スポーツ」なのか、あるいは「ガッツポーズはいいのか」とか、さまざまな議論が沸き起こっていた時代だったんです。
そういう中で、私が教わった世代の先生方には、それぞれしっかりとした信念があったように思います。「来たくなければ来なくていい。オレはこのやり方でやるから」というような頑固さがある中で、「柔道とは何を目指すのか」ということを教えてくれました。
それともう一つは、女子の試合が解禁となったのが、私が中学2年の時で、初めて女子の全日本選手権が行われたんです。それまでは「女子柔道競技」というものがなかったんですね。だから、女子で柔道をやっているのは本当に珍しい時代で、女子柔道の先駆者的な存在として、メディアからの取材もよく受けていたんです。そういう中で、「女子柔道をもっとよく知ってもらうために」と、スポークスパーソン的役割も担っていました。こちらから発信しなければ、誰にもわかってもらえないわけですから、自分の思いを積極的に相手に伝えようとする努力はしてきましたね。そういうことが、私の土台になっているのだと思います。

―― 子どもの頃は、どのくらい練習していたんですか?

自宅から歩いて10分くらいのところにあった道場に通っていたのですが、必ず週に6日、練習に行かなければいけませんでした。

―― たまには友達と遊びたいとは思わなかったですか?

友達と遊んでいて、私だけ柔道に行かなければいけなくなったりすると、やっぱり残念だなという気持ちはありましたね。でも、休むという選択肢はなかったんです。とにかく厳しい先生で、「休みたい」とはとても言えなかった。たとえ休めたとしても、次に行くのが怖いので(笑)。でも、道場に行けば、特に怖いことはないんです。普通に一生懸命練習していれば、怒られることもなかったですしね。

インタビューに答える山口香氏
(2016年)

―― 当時からオリンピックに憧れはありましたか?

子どもの頃は、特になかったですね。オリンピックは見てはいましたけど、自分が柔道をやっているからと言って、特に憧れを抱くということはありませんでした。というのも、当時は女子の競技はなくて男子だけでしたから、自分とあまりにもかけ離れた存在だったんです。

―― 同じ道場には、他に女子はいたんですか?

いませんでした。小学生の時は、大会でも一度も女子を見たことはありませんでしたね。

―― じゃあ、相手はいつも男子だったんですね。

はい。私にとってはそれが当たり前でしたし、小学生の頃は男子にもほとんど負けたことがなかったんです。でも、中学に入ってからは、やはり身体的に差がどんどん出てきて、男子にかなわなくなっていきました。だから中学で柔道はやめるつもりだったんです。
ところが、中学2年の時に女子柔道が解禁になって、全日本選手権が開催されるようになった。しかも第1回大会で優勝したものですから、「じゃあ、次も」ということで続けたんです。ただ、町の道場というのは中学までで、高校でも続ける人は学校の柔道部に入るのが普通でした。ところが、当時はまだ女子を受け入れてくれるような柔道部のある高校は皆無でした。それで、そのまま地元の道場に通い続けたんです。

柔道人生で最も過酷だった1年間がもたらした世界の金

第7回女子柔道体重別選手権
7連覇(1984年)

―― 筑波大学では柔道部に所属されました。

私にとって初めての「部活動」でしたが、あまりの環境の違いに、衝撃を受けました。中学1年からずっと全日本選手権で優勝していたので、地元の道場では先生は厳しかったものの、周りからは「女王様」のように(笑)、結構大事にしてもらっていたんですね。
当然、大学でもそうなのかなと思っていたら、全く違いました。考えてみれば、男子のチャンピオンがゴロゴロいる世界ですから、私は別に特別ではなく、ただの一部員にしか過ぎなかったんです。
ですから、他の男子部員と同様に、1年生の時は先輩よりも1時間以上前に道場に行って掃除をして、練習後も最後まで残って片づけをしなければいけませんでした。他の大学に比べれば、筑波はそれほど厳しくはなかったのですが、それでも私にとっては何もかもが初めてですから、カルチャーショックを受けました。

―― 一気に世界観が変わったのでは?

そうですね。全日本選手権※1でずっと連覇していましたし、2年に一度の世界選手権でも高校1年と3年の時には銀メダルを獲得していたんです。ですから、大学に入るまでは「世界の2位に2度もなっている日本の女王」という自負がありました。ところが、筑波では、その自分が一番弱いわけです。男子ばかりで、しかも柔道の専門家ばかりですから、当然のことなんですけど、そのことが何よりショックでした。

※1 現在は全日本体重別選手権

―― 相当、差はありましたか?

はい。推薦ではなく、一般入試で入った選手でさえも、大学まで柔道を続けているわけですから、それなりに強い選手ばかりでした。だから、女子に負ける選手なんて一人もいないわけです。それまでは柔道とは投げるものだと思っていましたが、筑波に入ってからは投げられる柔道の毎日に変わってしまいました(笑)。

―― 心が折れなかったですか?

大学1年生の時は、柔道人生の中で一番辛い1年だったと思います。でも、辛いからと言って、「じゃあ、やめてどうするんだ?」ということもありましたね。全日本選手権や世界選手権では、勝つことを期待されていましたし、やり続けていくしかないなと思っていました。
それに、同級生に恵まれたということもありました。みんないろいろな場面で、かばってくれましたし、面倒を見てくれたんです。彼らには本当に感謝しています。

第3回女子柔道体重別選手権 3連覇
(1980年)

―― 毎日男子相手にやっていれば、相当強くなったのでは?

おそらく強くはなっていたと思うのですが、自分では正直、わからなかったです。相手があまりにも強くて、ずっと投げられっぱなしなので、自分の技術が磨かれているという手応えが感じられないんです。柔道だけでなく、ランニングやウエイトトレーニングなど、何をやってもビリ。
だから「毎日必死で練習しているけど、果たして自分は強くなっているんだろうか」と思いながらやっていましたね。でも、やっぱり男子と毎日やっているわけですから、確実に強くはなっていたんですよね。大学2年の時に世界選手権で優勝できた時に初めて「あぁ、1年生の時の過酷な1年があったからだな」と感謝しました。

―― 他に女子部員はいなかったんですか?

はい、いませんでした。筑波の柔道部では、私が第1号の女子部員だったんです。長い歴史の中で初めての女子で、しかもメディアも取材に来るので、先輩たちにしてみれば「アイツは何なんだ」ということになるわけです。いい気になっていると思われたんでしょうね。
1年生の時は、一度も口をきいてくれない先輩も何人かいました。でも、練習相手は先輩と組まなければいけなかったんです。1年生同士ではなれ合いになるからと禁止されていたんですね。
でも、みんな自分よりも上手い人と組んで強くなりたいと思っていますから、誰も私なんかと組んでくれないわけです。それで一人余ってしまうと、連帯責任で1年生全員が練習後に説教されるんです。だからいつも偶数であることを祈っていました。偶数であれば、必ず練習相手が見つかりますからね(笑)。誰と組みたいとかではなく、100㎏級の人だろうが何だろうか、とにかく誰でもいいから近くの人を捕まえるのに必死でした。

―― 山口さんの柔道人生というのは、ほとんど男性社会の中で築かれたものだったということですね。

そうですね。私はよく女子を代表するという意味で「フェミニズム」的考えを持っていると思われがちですが、実際は私を育ててくれたのは男性社会なんです。私の面倒を見てくれた同級生も全員が男子でしたし、当時指導してくれた柔道家の方たちには、本当によくしていただいたと思っています。

 英国留学で見た、スポーツのあるべき姿

―― 大学院2年生の時に、ソウルオリンピックに出場されました。公開競技ではありましたが、初の女子柔道ということで、注目度も高かったのでは?

当時はやはり男子の方が注目度は高かったですね。ただ、その男子が期待されたような成績があげられず、まるでお通夜のような状態だったのを覚えています。

インタビューに答える山口香氏
(2016年)

―― 初めてのオリンピックで何か新たな発見はありましたか?

男子を見ていて思ったのは、なぜ日本の男子柔道がこんなに注目されているのかといえば、やっぱり強いからなんだろうなということでした。だから女子も強くなれば、きっと注目されるに違いないと思いました。それがきっかけで、だんだんと「勝たなければいけない」という気持ちが私の中で強くなっていきました。

―― 現役引退後には、1年間、英国へのコーチ留学に行かれました。これもまた、大きな転換期となったのではないでしょうか?

そうですね。日本の柔道界では、留学させてもらったのも女子では初めてでしたし、何よりそれまでは日本から世界を見ることはあっても、世界から日本を見ることはありませんでしたから、自分にとって大きな変化だったと思います。当時、日本の女子柔道は世界ではトップではなくて、ヨーロッパの方が力があったんです。ですから、ヨーロッパが強い理由を知るチャンスにもなりました。

―― 実際に行ってみて、いかがでしたか?

まずわかったのは、柔道に関して日本ほど恵まれた環境はないということでした。日本であれば、町の道場にも、高校や大学の部活動にも、どこに行ったって、それなりの人数が揃っていますし、強い選手もいて、練習相手にも事欠きません。
ところが、英国では練習相手を探すだけでも大変なんです。それこそ、「この環境で世界チャンピオンが生まれたの?」って驚くくらい。合同練習があっても、「え、これで合同なの?」って思うほどの人数しか集まらないんです。だからトップ選手が、白帯のおじさんと練習していることも珍しくありませんでした。でも、だからこそみんなすごく研究熱心なんです。理論で考えて、それを実践してみる。乱取りも量は少ないけれども、やれるところでしっかりと集中してやる。とても効率がいいなと思いました。

―― 当時の英国では、指導者と選手との関係はどうだったんですか?

指導者と選手とが、普通にディスカッションしているのには驚きました。対等とまではいきませんが、どちらが上とか下とかという関係ではなく、お互いにリスペクトしているように感じられました。

―― 自分自身が経験してきたものとは違う世界だったと。

そうですね。でも、振り返ってみると、私も好きで柔道を始めて、最初はオリンピックとかではなくて、ただ自分でコツコツとやっていただけでした。それが幸運にも色々と機会を与えてもらって、という感じだったんですよね。
でも、最後の方はどちらかというと「オリンピックに出たい」「勝ちたい」という気持ちの方が強かったですし、指導者から指示されることが多かった。でも、英国に行ったら、環境が恵まれていない分、やらされて柔道をやっている選手は一人もいませんでした。
監督から言われて無理やりやっているなんてことはないんです。自分が嫌だったら好きに休みますしね。でも、試合での結果は勝っても負けても、すべて自分が責任を持つ。「スポーツとはこうあるべきなんだな」と痛感させられました。やらされてやるなんて、成熟していない証拠だなと強く思いましたね。

―― 選手の自主性を重んじているわけですね。

だからこそ、海外の選手は本番に強いんだと思います。試合になれば、一人ですから、その時に、「自分でやってきたんだ」と自信を持って、腹をくくれるんです。「これでは強いはずだ」と思いましたね。

体罰問題に潜んでいた日本柔道界の危機

JOCフォーラムで講師を務める
(2016年)

―― 先ほども少し話に出ましたが、日本の女子柔道界を騒がせた2013年の体罰問題では、山口さんは「暴力は言語道断」とはっきりと意見を述べられていました。
あれは、ご自身が体罰を受けてこなかったからこそ、というところもあったのでしょうか。

そうですね。私は正直、監督やコーチの気持ちも理解できる部分はありました。当然、監督もコーチもプレッシャーがあるわけです。だから「何とか勝たせたい」という気持ちが強くなるんですね。それが間違って体罰という方向に向かってしまったのだと思います。
でも、そもそも女子柔道というのは、男子と比べて恵まれてはいない環境の中で、それでも自分で努力してやってきたという選手がほとんどだと思うんです。そういう中で内面を磨いてきたわけです。それなのに、殴られたり蹴られたりしなければ強くなれないなんて、逆に言えば、内面の強さが失われた証拠で、そっちの方がよっぽど問題にすべきことだと思うんです。
実際はそうではないわけですから、選手たちには「なんで、こんなふうにやらされるんだ」というフラストレーションがたまっていました。でも、不満を言えば、代表選考に響いてしまうからと、ロンドンまでは我慢していたらしいんです。
ただ、選手側にも全く非がなかったわけではなかったと思います。実際、選手たちにも言いましたが、殴られたり蹴られたりした時に、選手がどういう態度を示したかということもあったと思うんです。選手たちがそれを許してしまったからこそ、相手は「これでいいんだ」と思い、どんどんエスカレートしていった部分は少なからずあったんじゃないかなと。ですから、どちらか一方の責任というわけではなかったと思います。ただ、やはりあの状態のままでは良くないことは確かでしたから、絶対に変革しなければいけないという考えは一貫していました。

―― 指導体制に問題があったことは明らかで、背景には「必ず勝たねばならぬ」という頑なな「勝利第一主義」とでもいうべきものが、そういう体罰へと向かわせたのではないでしょうか。

まさに、その通りだと思います。もちろん、自分たちが日本の柔道界をけん引してきたんだという自負はあると思いますし、勝たなければ世界が認めてくれないということも事実あります。ただ、哲学なき指導は、逆に選手たちを弱くさせてしまいます。
昔は、勝つ負けるではなく、「これが大事なんだ」ということを教えるような先生が多かったからこそ、「勝たせよう」と思わなくても、自然と強い選手が育っていった。ところがあの頃は、勝たせよう、勝たせようと思うあまり、小さなところにばかり目がいってしまって、もっと大事なことを見逃してきてしまったと思うんです。それが顕著に表れたのがロンドンだったのではないかなと。
当時は選手が負けると、「やる気がないからだ」とか、「勝利に対する執念がなかった」とか、すぐに精神論に走る風潮がありました。武道であることを逃げ道にしていたところがあった。でも、それで勝てるほど甘い世界ではありません。
負けたらなら負けたことを受け入れて、何が足りなかったのか、というところを検証すべきです。そこを検証しないから、どんどん泥沼にはまってしまって、ロンドンの惨敗にぶち当たったんだと思います。

―― それをこの4年間で、いい方向に転じることに成功したと。

そう思いますね。男子の井上監督や鈴木桂治コーチは、それこそ黄金時代も経験していれば、日本柔道が落ちていくのも経験している。その両方を見てきた彼らが、「これからどうすべきなのか」ということを真剣に考えたんだと思うんです。
日本のいいところは残しつつ、変えるべきところは変える。それができたのがリオでしたし、あの世代でなければできなかったのではないかとも思いますね。30代という若い世代に託せたことが、日本柔道界が変わる大きな第一歩だったと思います。

女子柔道体重別選手権・筑波大学監督
(2002年)

女子選手に必要な指導者としての覚悟

―― さて、近年では女性アスリートが現役引退後も、指導者になるなど、活躍できるようにすることも喫緊の課題と言われています。

少しずつ、いい方向には進んでいると思います。椅子取りゲームのように男性と争うというのではなく、意見や考え方が違った場合、女性の競技力や注目度が高まっている今日においては、もっと女性のアイディアも取り入れるべきではないかなと。それは男性社会にもスポーツ界全体にも必ず寄与するはずです。

―― 指導者という点では、女性がもっと増えてもいいのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

女性の指導者が増えるというのは、とてもいいことだと思います。ただ一方で、必ずしも女子のチームには女性の監督が適しているとは限りません。男性でもいい場合はあると思います。
しかし、監督選びをする際に、談合的スタイルで無条件に男性に決めるのではなく、コンペをして誰が適任者かを選んでほしいなと。
そのためにも、女性はいつオファーが来ても引き受けられるような準備がもっと必要だと思います。男性は準備している人が多いですよね。だからオファーが来た時には断らない。そういう部分では、女性は男性を見習うべきです。男性だって、自信を持って引き受ける人なんてそれほどいないと思うんですね。ただ、「オファーが来たらやらなければいけない」という覚悟を持っている。
井上監督だってそうだったと思いますよ。当時は留学先の英国から帰国したばかりで、しかも34歳という若さでしたから、「本当に自分はやれるのか」という不安は少なからずあったはずです。男子柔道の監督という日本柔道界を背負う立場になるわけですから、大変な覚悟が必要だったと思います。女性はまだ、その覚悟が足りないような気がしますね。選手としての覚悟はしっかりと持っていると思いますが、指導者としての覚悟を持っているのは、オリンピック競技として女性のみの新体操かシンクロナイズドスイミングくらいかなと。他の競技でも、女性が覚悟を持つことが重要になってくると思います。

―― 女性の指導者が増えることは、日本スポーツ界にとっても大きいことですよね。

私は2020年東京オリンピック・パラリンピックが、一つの転換期になるのではないかなと期待しています。女子サッカーでは高倉麻子さんが女性初の代表監督に就任しましたし、他の競技でも女性が代表監督になるのではないかという空気感が出てきています。
ぜひ柔道界も、女性の指導者が抜擢されて欲しいなと切に願っていますね。それこそ、今を逃せば、この先100年はないかもしれません。2020年は、それくらい大きなチャンスだと思っています。だからこそ、女性たちにもオファーが来たら引き受けるだけの覚悟を持って準備してほしい。それこそが、この先50年、100年先の女子スポーツ界を大きく転換させるきっかけになるはずです。
各競技とも、1人出てくれば、女性が代表監督になることを難しく考えることはなくなると思うんです。ただ、その1人目が大変なんですよね。だからこそ、私たちOGも全力でサポートしていかなければいけないし、選手も含めて、みんなで協力し合っていこうという体制を築いていかなければいけません。また、女性の代表監督が増えるというのは、世界に向けても大きな発信力になるはずです。どちらかというと保守的な日本が、2020年を機に、大きく変わったということをアピールするチャンスです。

光州ユニバーシアード大会 結団式
日本選手団総監督 (左端)(2015年)

―― また、指導者以外にも、現役引退した選手たちの役割というのは大きいと思うのですが、どのようにして社会に還元していくべきでしょうか。

「自分がここまで来られたのは沢山の人たちのおかげ」と感謝の気持ちを伝える選手は、本当に多いですよね。それは、とてもいいことだと思います。ただ、その感謝の気持ちを言葉で伝えるだけではなく、どう形に表すかが大事だと思うんです。競技をしている間は難しいところもありますが、現役引退後にはそのことを考えていく必要があると思います。

―― 具体的にどんなふうに形にしていくべきでしょうか?

例えばフランスでは、現役引退後は1年間ほど、協会から各地域に派遣されて、ボランティアで指導したりするんです。さまざまな地域を巡回していくのですが、世界で活躍した選手が来てくれることで、その地域で競技が普及していくきっかけになっているんですね。
日本でも、ぜひそういうことをやっていってほしいなと思います。「何か自分たちができることはないだろうか」ということを考えて、それを実践してほしいんです。特にメダリストたちは、自分たちが受けた恩恵を、どこかで返していくべきだと思いますね。オリンピックが終わってパレードするのも、とても喜ばれることだと思いますが、本当に大事なのは、活躍した後に何をしていくのかということ。
選手一人ひとりが、そういう活動をしていけば、スポーツの価値というのは知らず知らずのうちに広がっていくものなんです。「あの選手が、この地域出身で良かったね。スポーツ選手を育てていくと、やっぱり自分たちが得られるものも大きいね」というふうに思ってもらえれば、また次の世代の選手を育てていこうという空気に自然となると思うんです。

―― 日本でも選手たちが社会に還元していくことが当たり前のようになれば、スポーツの普及・発展はさらに進むでしょうね。

はい、そう思います。今回のリオでは41個のメダルを獲ったわけですが、そのメダリストたちが1年間で1人2、3カ所回るだけでも、全体ではすごい数になる。それこそ、入賞した選手も加えれば、あっという間に広がっていくと思います。そうすれば、日本のスポーツ界はもっともっと発展していくことができるはずです。

柔道・山口香氏の歴史

  • 山口香氏略歴
  • 世相
1882
明治15
嘉納治五郎師範が東京・下谷北稲荷町の永昌寺で講道館柔道を創始
「精力善用・自他共栄」の柔道の原理を確立
1916
大正5
第1回九州学生武道大会を福岡市で開催

  • 1945第二次世界大戦が終戦
  • 1947日本国憲法が施行
1948
昭和23
嘉納治五郎師範十年祭を記念して全国都道府県代表選手による第1回全日本柔道選手権大会を講道館で開催
1949
昭和24
嘉納履正講道館長の呼び掛けを受け、全日本柔道連盟を創立
1950
昭和25
第5回国民体育大会(愛知大会)から柔道が正式種目として参加

  • 1950朝鮮戦争が勃発
1951
昭和26
第1回全日本勤労者柔道選手権大会を神奈川体育館にて開催

  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
第1回全国高等学校総合体育大会柔道競技大会を水戸市の県総合グラウンド体育館にて開催
第1回全日本学生柔道優勝大会を東京・蔵前国技館で開催
第1回全国青年大会・柔道競技開催
国際柔道連盟(IJF)臨時総会にて全日本柔道連盟がIJFに加盟
嘉納履正講道館長がIJF会長に就任
1953
昭和28
第1回全日本産業別柔道大会を講道館で開催

  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
第1回世界柔道選手権大会を東京・蔵前国技館で開催
1964
昭和39
東京オリンピック・パラリンピック開催
日本は柔道の階級別で金メダル3個を獲得
柔道無差別級はアントン・ヘーシンク(オランダ)が優勝

  • 1964山口香氏、東京都に生まれる
  • 1964東海道新幹線が開業
1966
昭和41
第1回全日本招待選抜柔道体重別選手権大会を福岡市・九電記念体育館にて開催
1969
昭和44
第1回全国警察柔道選手権大会を警察大学校にて開催

  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
第1回全日本柔道ジュニア選手権大会を講道館にて開催
第1回全国高等学校定時制通信制柔道大会を日本武道館にて開催
第1回全国中学校柔道大会を講道館にて開催
1971
昭和46
第1回全日本実業柔道個人選手権大会を大阪市立修道館にて開催

  • 1971山口香氏、環太平洋柔道選手権大会、強化選手選考会に出場し優勝
  • 1973オイルショックが始まる
1976
昭和51
第1回国際試合強化選手選考会を開催、2003年から男女同時開催
          
  • 1976ロッキード事件が表面化
1977
昭和52
第第1回全国教員柔道大会を講道館で開催
1978
昭和53
第1回嘉納治五郎杯国際柔道大会を日本武道館で開催

  • 1978山口香氏、全日本選抜柔道体重別選手権大会に出場し優勝
      以降、1987年まで10連覇を果たす
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
第1回全国高等学校柔道選手権大会を開催
1986年女子個人、1988年男子個人、2006年女子団体試合を順次導入
第1回全日本少年武道練成大会(柔道)を開催

  • 1979山口香氏、強化選手選考会に出場し優勝
1980
昭和55
  • 1980山口香氏、世界柔道選手権大会に出場し銀メダルを獲得
第1回全国少年柔道大会を講道館にて開催
1981
昭和56
第1回全国少年柔道大会を講道館にて開催

  • 1981山口香氏、環太平洋柔道選手権大会、強化選手選考会に出場し優勝
1982
昭和57
全日本学生柔道選手権大会から独立して、第1回全日本学生柔道体重別選手権大会を日本武道館にて開催
  • 1982山口香氏、世界柔道選手権大会に出場し銀メダルを獲得
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1983
昭和58
  • 1983山口香氏、強化選手選考会に出場し優勝
1984
昭和59
山下泰裕氏、ロサンゼルスオリンピックに出場し、柔道無差別級で金メダルを獲得

  • 1984山口香氏、世界柔道選手権大会に出場し、日本人女性柔道家として史上初の金メダルを獲得
1985
昭和60
  • 1985山口香氏、強化選手選考会に出場し優勝
1986
昭和61
第1回全日本女子柔道選手権大会を愛知県体育館で開催
八戸かおり氏が優勝を果たす
女子柔道はその後、学生、職域、体重別など、男子柔道と同様に発展
第1回全日本視覚障害者柔道大会、講道館にて開催
フランスで国際視覚障害者柔道選手権大会を開催

  • 1986山口香氏、世界柔道選手権大会に出場し銀メダルを獲得
1987
昭和62
  • 1987山口香氏、世界柔道選手権大会に出場し銀メダルを獲得
1988
昭和63
ソウルオリンピック・パラリンピック開催 
第1回近代柔道杯全国中学生柔道大会開催

  • 1988山口香氏、ソウルオリンピックに出場し銅メダルを獲得
1990
平成2
第1回全日本選抜少年柔道大会開催        
1991
平成3
国際視覚障害者柔道選手権東京大会開催        
1992
平成4
バルセロナオリンピック・パラリンピック開催        
1993
平成5
  • 1993山口香氏、日本オリンピック委員会の在外研修制度を使用しイギリスに留学する
  • 1995阪神・淡路大震災が発生
1997
平成9
第1回全日本柔道形競技大会、講道館にて開催

  • 1997香港が中国に返還される
2004
平成16
アテネオリンピック・パラリンピック開催
第1回全国小学生学年別柔道大会、伊勢原市体育館にて開催
2008
平成20
  • 2008山口香氏、筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ健康システム・マネジメント専攻准教授に就任
  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
国際柔道連盟(IJF)が世界ランキング制を導入
2010
平成22
東京で52年ぶりに世界柔道選手権大会が開催され、日本は金メダルを10個獲得
参加国・地域111、参加選手848名で史上最大規模となった

2011
平成23
  • 2011山口香氏、筑波大学体育系体育専門学群スポーツ健康システム・マネジメント専攻准教授、 日本オリンピック委員会理事に就任
  • 2011東日本大震災が発生
2012
平成24
ロンドンオリンピック・パラリンピック開催
松本薫氏、柔道女子57kg級に出場し金メダルを獲得
男女合わせて銀メダル3個、銅メダル3個を獲得
2013
平成25
  • 2013山口香氏、全日本柔道連盟監事・強化委員、東京都教育委員会委員、日本バレーボール協会理事に就任
2014
平成26
  • 2014山口香氏、コナミホールディングス株式会社 取締役(社外)取締役に就任
    上月スポーツ教育財団評議員、茨城県スポーツ推進審議会委員、つくば市スポーツ振興審議会委員に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催