メダルラッシュの裏側にあった男子柔道の変革
リオオリンピック男子73kg級 金メダル
大野将平(2016年)
―― 今年のリオデジャネイロオリンピックでは、日本の柔道がメダルラッシュに湧きましたね。
大会の前半に行われた柔道でメダルが続いたことで、日本選手団全体に勢いをつけることができたのではないかと思います。寂しい結果になった4年前のロンドン大会のことを考えると、今回はある程度、皆さんの期待に応えることができたのではないかなと、私自身、安堵しています。
―― 柔道の男女合わせて金3、銀1、銅8という今回の成績は、「メダルを獲るべき人が獲った」と言える結果だったのではないでしょうか。
そうですね。開幕前の予想と、そう違いはなかったかなと思います。ただ、オリンピックというのはやはり特別な大会で、「メダルを獲れると思っていた選手が逃してしまう」ということも少なくないんです。今回はメダルの総数に関して言えば、私が予想していた数よりも多かったのですが、金メダル数でいうと、特に男子はもう1つ2つ、獲れる階級もあったかなという印象でした。
リオオリンピック男子73kg級 金メダル
大野将平 (2016年)
―― ロンドン大会で金メダルゼロに終わった男子は、今回は2つ獲得しましたが、実力からすれば、もっと獲れたと。
はい、そう思います。「獲れたはずなのに、なんで獲れなかったのか」と言いたいわけではなく、金メダルを逃した81kg級の永瀬貴規や100kg級の羽賀龍之介といったところも、実力的には十分に可能性はあったなと。どちらに転ぶかわからない、まさに紙一重の結果だったと思います。いずれにしても、男子は全階級でメダルを獲りましたから、本当によく頑張りましたし、快挙と言っていいのではないでしょうか。
―― その快挙の裏側には、専門のトレーナーによるフィジカル強化がプラスの方向にいったという話もありますが、山口さんはどう見られていますか?
一つは、井上康生監督のチャレンジがあったと思います。例えば、従来柔道では畳の上が全てで、長時間柔道の練習をすることが良しとされてきました。しかし今の時代、やはりそれだけでは勝てなくなってしまった。
筋力や持久力をつけるには、それぞれ専門のトレーニングが必要で、そういう部分を畳の上での練習以外のところで補わなければいけません。選手自身も薄々は気づいていたとは思うのですが、「今までこれでやってきたんだから」という固定観念から抜け出せないところがあったと思うんです。
そこに井上監督が切り込んで、「こういうことをやってみようよ」ということでトライしてみたところ、海外の選手にも力負けをしなくなった、自分の技を出せるようになった、という自信につながったのだと思います。そして選手の実力が上がるのと同時に、井上監督への信頼も高まっていったのではないでしょうか。
嘉納治五郎 (左端)
―― 山口さんのご著書には嘉納治五郎先生が掲げた「形(かた)」「乱取り」「講義」「問答」という「四つの注文」のことが記されてあります。その中で、現代の柔道は乱取り重視になりすぎているということに警鐘を鳴らされていましたが、井上監督になって嘉納先生が大事にされていた柔道の本筋に少し戻ってきた感じでしょうか。
そうだと思いますね。実は、嘉納先生が講道館を創設された時は、まだ20代だったんです。井上監督は現在38歳ですが、現代の日本柔道界においてはまだまだ若手の部類に入ります。そういう意味で、井上監督を見ていて嘉納先生とシンクロするのは、若手の方が選手と一緒になって、さまざまなことに挑戦できるのかなと。
というのも、井上監督にしてみたら、自分もついこの間までは選手の立場でやっていて、不安も疑問もあったでしょうし、うまくいったこと、いかないことがあったはずです。だからこそ、上から「こうしなさい」ではなく、「こうしてみたらどうだろうか」と選手とディスカッションしながら、新しいことに取り組めたのかなと。それが、チームにまとまりをもたせた要因になったのではないでしょうか。
―― ひとえに井上監督の存在が大きかったと。
それはあったと思います。でも、井上監督が新しいことに踏み切れたのは、4年前のロンドンがあったからだと思うんです。企業でもそうですけど、老舗と言われるところほど、改革に踏み切るのは難しいですよね。「このままでは、時代に遅れる」という懸念はありながら、実際にはなかなか方向転換できない。船が大きいからこそ、舵を切るのが難しいわけです。
結局は、倒れてみて初めて実感するというようなところがあると思うのですが、そういう意味ではロンドンで金メダルゼロに終わったことで、日本の男子柔道は一度、どん底に突き落とされて現実を突きつけられました。そこでようやく、「ここで改革しなければ、日本の柔道自体が終わってしまう」という危機感を持ち、「みんなで盛り立てていこう」というふうになった。そのことが大きかったのではないかなと思います。
女子柔道界にとって大きかった田知本の金メダル
リオオリンピック女子70kg級 金メダル
田知本遥 (2016年)
―― 一方、女子の方ですが、70kg級の田知本遥が見事、金メダルを獲得しましたね。世界ランキング14位という事を考えれば、まさに大金星だったのではないでしょうか。
田知本の金メダルは、とても大きな意義があったと思っています。4年前のロンドンは、今回のリオと比べても、同等か、あるいはそれ以上だったのではないかと思えるくらいいいメンバーが揃っていて、どの階級でも金メダルの可能性がありました。ところが、実際の金は松本薫(57kg級)の1つに終わり、メダル自体も、杉本美香(78kg超級)の銀と、上野順恵(63kg級)の銅のみと、予想をはるかに下回る結果となりました。
「力のある選手を勝たせてあげられなかった」というのは、連盟や監督、コーチが責任を負うべき点だったと思います。そのロンドン後に、女子は様々な問題が浮上したことは周知の通りです。あの当時の女子チームは「上からやらされる」という雰囲気でした。しかし、選手にしてみれば、「一番勝ちたいと思っているのは自分たちなんだから、言われなくても練習する」という気持ちがありました。それが反発心となって表出したのが2013年。問題が表面化されたことで、女子柔道の指導のあり方もだいぶ変わっていきました。選手の意見も聞きながら、リスペクトするかたちで進められるようになったんです。
―― 選手が納得したかたちで行われるようになったわけですね。
はい。それ自体は良かったと思いますが、逆に言えば、新体制になって良かったということを証明しなければならなかった。それがリオだったんです。もし、ロンドンを下回る結果となれば、「甘やかすからこうなる」と言われかねない。そういう意味では、ロンドンでメダルを取れずに悔しい思いをして、今回のリオに臨んだ田知本が金メダルを取ったというのは、女子柔道界にとっても意義深いことでした。「あの変革は、やはり良かったんだ」という空気になったと思いますし、ロンドンで「獲れる力があったのに獲れなかった」選手たちの分も背負って、戦ってくれたんじゃないかなと思います。ですから、本人だけでなく、女子柔道界にとっても嬉しい金メダルでした。
―― 田知本と同じく、ロンドンで悔しい思いをしてリオに臨んだのが52kg級の中村美里でした。それこそ「金メダルを獲れたはずの」選手だったのではないでしょうか。
リオオリンピック女子52kg級金メダル
マイリンダ・ケルメンディ(コソボ)
(2016年)
そうですね。でも、準決勝で敗れたマイリンダ・ケルメンディ(コソボ)は、2013、14年と世界選手権で連覇している選手で、非常に強い相手だったんです。中村は昨年の世界選手権で優勝していますが、その時は彼女とは当たっていません。ですから、言ってみれば準決勝は「真の世界一決定戦」で、どちらが勝ってもおかしくなかったと思います。
―― 今回のリオはある意味、納得のいく結果だったわけですね。
うーん、そうとも言えないところがあります。というのも、あまり注目されませんでしたが、私が一番残念だったのは試合時間でした。ロンドンまでは男子と同じ5分だったのに、ロンドン後のルール改正で、女子は男子との体力差を理由に、4分と短くなってしまったんです。柔道において、この1分の差というのは、実に大きいものです。
これは「たら・れば」でしかありませんが、もう1分あれば、中村はあそこから十分に逆転できたと思います。4分というのは、先手必勝で、反則でもいいから先にポイントを獲れば、十分に逃げることのできる長さなんです。そういう意味では、今回のオリンピックは、「真の世界王者決定戦」ではなかったのではないかというのが、私の正直な感想です。
第3回女子柔道体重別選手権 3連覇
(1980年)
勝敗だけではなかった柔道の訓え
―― 山口さんとは、これまで何度もお話をさせていただいていますが、いつも考え方にブレがありません。一本筋が通っているような印象を受けます。
子どもの時に教わった柔道の先生の影響が大きいかもしれませんね。非常に厳しい方でしたが、単に勝ち負けではなく、柔道というのは何を目指すものなのか、ということを教えてくれました。それが今、財産になっているのだと思います。
―― 山口さんが柔道を始めたのは6歳の時。ちょうど日本社会が「見失ってしまったものを取り戻そう」などという議論が至るところで巻き起こっていて、その中で世界とのつながりが色濃くなっていく時代だったと思うんです。
そうですね。柔道も、私の世代が育っていく中で、いわゆる横文字の「JUDO」との違いとか、「武道」なのか「スポーツ」なのか、あるいは「ガッツポーズはいいのか」とか、さまざまな議論が沸き起こっていた時代だったんです。
そういう中で、私が教わった世代の先生方には、それぞれしっかりとした信念があったように思います。「来たくなければ来なくていい。オレはこのやり方でやるから」というような頑固さがある中で、「柔道とは何を目指すのか」ということを教えてくれました。
それともう一つは、女子の試合が解禁となったのが、私が中学2年の時で、初めて女子の全日本選手権が行われたんです。それまでは「女子柔道競技」というものがなかったんですね。だから、女子で柔道をやっているのは本当に珍しい時代で、女子柔道の先駆者的な存在として、メディアからの取材もよく受けていたんです。そういう中で、「女子柔道をもっとよく知ってもらうために」と、スポークスパーソン的役割も担っていました。こちらから発信しなければ、誰にもわかってもらえないわけですから、自分の思いを積極的に相手に伝えようとする努力はしてきましたね。そういうことが、私の土台になっているのだと思います。
―― 子どもの頃は、どのくらい練習していたんですか?
自宅から歩いて10分くらいのところにあった道場に通っていたのですが、必ず週に6日、練習に行かなければいけませんでした。
―― たまには友達と遊びたいとは思わなかったですか?
友達と遊んでいて、私だけ柔道に行かなければいけなくなったりすると、やっぱり残念だなという気持ちはありましたね。でも、休むという選択肢はなかったんです。とにかく厳しい先生で、「休みたい」とはとても言えなかった。たとえ休めたとしても、次に行くのが怖いので(笑)。でも、道場に行けば、特に怖いことはないんです。普通に一生懸命練習していれば、怒られることもなかったですしね。
インタビューに答える山口香氏
(2016年)
―― 当時からオリンピックに憧れはありましたか?
子どもの頃は、特になかったですね。オリンピックは見てはいましたけど、自分が柔道をやっているからと言って、特に憧れを抱くということはありませんでした。というのも、当時は女子の競技はなくて男子だけでしたから、自分とあまりにもかけ離れた存在だったんです。
―― 同じ道場には、他に女子はいたんですか?
いませんでした。小学生の時は、大会でも一度も女子を見たことはありませんでしたね。
―― じゃあ、相手はいつも男子だったんですね。
はい。私にとってはそれが当たり前でしたし、小学生の頃は男子にもほとんど負けたことがなかったんです。でも、中学に入ってからは、やはり身体的に差がどんどん出てきて、男子にかなわなくなっていきました。だから中学で柔道はやめるつもりだったんです。
ところが、中学2年の時に女子柔道が解禁になって、全日本選手権が開催されるようになった。しかも第1回大会で優勝したものですから、「じゃあ、次も」ということで続けたんです。ただ、町の道場というのは中学までで、高校でも続ける人は学校の柔道部に入るのが普通でした。ところが、当時はまだ女子を受け入れてくれるような柔道部のある高校は皆無でした。それで、そのまま地元の道場に通い続けたんです。