イベントの成功には、競技施設などのハード面の充実に加え、その不備を補い、さらに好印象をプラスしてくれるボランティアなどソフト面の豊かさが欠かせない。リオ大会は、この部分で過去大会とは違う特長があったように思う。
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
イベントの成功には、競技施設などのハード面の充実に加え、その不備を補い、さらに好印象をプラスしてくれるボランティアなどソフト面の豊かさが欠かせない。リオ大会は、この部分で過去大会とは違う特長があったように思う。
リオ空港ボランティア:リオデジャネイロ国際空港担当のボランティアたちは各国の選手団や観客、関係者のスムーズな出入国をサポート。
彼らの笑顔が、リオでの第一歩と最後の一歩を印象づけるという意味で重要なポジションに、「試合は見られないけど、より近くで選手と接することができて感激したし、やりがいがあった」
ボッチャ会場:ある日のボッチャ会場では、夕方からの試合が始まるまでの空き時間に、開場担当ボランティアをほぼ全員を集めて記念撮影を行っていた。約160人ほどが、この広い会場を担当し、会場整備や案内、チーム補助からメディア支援などを分担したという。写真は記念として配布される予定らしい。
リオ大会は開幕前、現地経済の悪化などもあり、チケット販売も伸び悩み、現地の大会への関心度の低さも心配されていたが、こちらもいい意味で予想を裏切られた。オリンピックでのブラジルチームの健闘も追い風となり、同じく世界最高峰のスポーツイベントとしてパラリンピックへの興味も日増しに高まっていったようである。開会式から、どの会場も熱狂的な大声援がこだまし、驚かされた。それは過去に観たどの大会と比べても、はるかに熱かった。
大会4日目の9月10日は土曜日でもあり、オリンピック公園の入場者が17万人を超えた。これはオリンピック期間も含め、リオ大会最高の来場者数だったという。チケット販売も順調に伸び、最終的には210万枚以上と、ロンドン大会(約270万枚)につぐパラリンピック史上第2位の枚数を売り上げた。
会場での観戦を誘引した一つはチケット料金の設定だろう。競技や座席位置によって幅はあったが、最低料金が1枚約300円と安価だった。この価格はオリンピックの約5分の1とも言われ、場内販売のソフトドリンクと同程度であり、気軽に訪れやすかったはずだ。実際、全売上の8割はブラジル国民が購入しており、会場では家族連れや車いす利用者など障害のある方の姿も目立った。
障害者スポーツの初観戦者も多かったと聞く。スポーツの魅力を感じるのは生の観戦が一番だと思うが、今回、ブラジルチームが金14個を含む計72個のメダルを獲得しメダル個数で世界第8位に入る健闘を見せたり、大会全体では世界記録が200以上、大会新記録も400以上が誕生するなどパラリンピックの競技性の高まりも示した。今回の観戦を通して、ブラジルの障害者スポーツファンも増えたのではないだろうか。
リオデジャネイロ空港の出発ゲートにつづく通路に特設された「私たちのパラリンピック選手たちに、サンキュー」と書かれたボード。よく見ると、10cmx5cmほどのブロック状に仕切られていて、誰でも自由にメッセージを書いた付箋紙を貼ることができる。試にパラパラとめくってみたら、さまざまな言語でメッセージが……。戦い終えた選手には素敵な癒しになったことだろう。
もう一つ有意義だったのは、組織委員会とリオデジャネイロ州政府が提携し、特別支援学校を含む、州内の小中高校に全33,000枚のチケットを配布した取り組みだ。子どもたちがパラリンピック選手の雄姿を目の当たりにすることで障害者理解につなげたいという教育的効果も期待していたと聞く。おかげで、平日の午前中も観客席は子どもたちの集団で埋まり、その声援は選手たちの大きな力になった。
さらに、チケット販売の促進策として組織委員会と国際パラリンピック委員会(IPC)は開幕前に、「Fill The Seats(席を埋めよう)」という名のキャンペーンも行っていた。これは、ブラジルの子どもたちに観戦チケットをプレゼントするためクラウドファンディングを通じて世界中から寄付を募るもので、最終的に約44万米ドルの寄付金が集まり、15,000人の子どもたちが観戦機会を得たという。
こうして、平日には学校単位で、週末には子どもを含んだ家族連れで観客席はにぎわった。直接話は聞けなかったが、彼らの笑顔や歓声からみて、パラリンピアンの躍動が子どもたちに大きな衝撃と感動を与えたことは間違いないだろう。
清掃スタッフ:清掃やバス運転など専門職のスタッフは、ボランティアではなく有償スタッフとして、パラリンピックでは約3,000人が雇用されていたという。会場内はどこも清潔だったし、バスの運転は少々手荒だったが、時間はほぼ正確に運行されていた。
近年のスポーツイベントでは、ボランティアがその成功のカギを握る重要な要素となっているが、“リオのボランティア”はそうした役割を改めて印象づけたように思う。
資金不足のため人数は当初予定より削減されたようだが、15,000人のボランティアが大会を支えた。公募から書類選考を経て、オンライン研修などで知識を蓄え、15年に行われたプレ大会等を通じて実地経験を積んだボランティアの大半はリオ市民、または他地域からのブラジル国民で、南米特有の陽気さと大らかさに満ちていた。現地のポルトガル語しか話せない人が多かったが、温かみと思いやりで言葉の壁を越え、こちらの要望に懸命に応えようとする姿勢は好印象だった。
杖を突いたり、義足や車いすを必要とする障害者ボランティアの姿もさまざまな部署で目にした。全体では約300人が活動していたらしく、選手だけでなく彼らの活躍もまた、障害者に対する市民の意識を変えるきっかけにもなったことだろう。
また、ボランティアは全119カ国から参加していたといい、日本人ボランティアの姿もあった。日本から、または在住中の海外から、通訳ボランティアとして活動している方が多かったが、「一緒に働くボランティア仲間たちが素晴らしく、楽しい」「パラリンピックは初めて観たが、選手のパフォーマンスがすごい」など、生き生きと楽しそうで充実の活動ぶりがうかがえた。
外から見た限り、組織体制については他の大会とほぼ同様で、競技会場や役割ごとにリーダーを中心とした体制が整備されていたと思う。朝早く会場に行くと、朝礼に出くわすこともあったし、手伝いを頼むとリーダーを通じて、より的確な担当者が指名されるなどの対応が見られた。
もう少し詳しく取材しようと、ある会場のリーダーに打診したところ、取材は受けてもらえたが、詳しい活動体制や内容などの質問には答えてもらえなかった。その理由は明かしてくれなかったが、他の取材機関も同様に断られたとも耳にした。大会運営について事前に批判報道などもあったから警戒されていたのだろうか。“リオのボランティア”たちが明るくテキパキと仕事をこなし好印象だっただけに、もう少し裏側を知りたかったので、少し心残りだ。
ともかく、リオ大会は観客とボランティアというソフト面に、「リオ式」ともいえる特長があり、力を感じた。どんな力だったのか、次のパートでお伝えしたい。
新潟県生まれ。大学卒業後、一般企業勤務を経て、1994年から米国留学。大学でジャーナリズム学、大学院でマス・コミュニケーション学を修めたのち、2000年からシリコンバレーのウェブサイト運営会社で編集業に就く。01年末に帰国後、フリーランスのライターとして活動開始。
03年スポーツボランティアを初体験し、視覚障害者の伴走ボランティアと出会ったことを機に、「障害者のスポーツ」の取材・執筆をはじめる。パラリンピックは08年北京大会から10年バンクーバー冬季、12年ロンドン、14年ソチ冬季、16年リオデジャネイロを現地で取材。著書に『いっしょに走ろっ!~夢につながるはじめの一歩』『伴走者たち~障害のあるランナーをささえる』(ともに大日本図書)など。
公式サイト:hoshinokyoko.com
星野氏の2014年ソチパラリンピック 現地レポートはこちら