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セミナー「子供のスポーツ」

沖縄の「誇り」としてのバスケット

SPORT POLICY INCUBATOR(37)

2024年2月14日
奈良部 光則 (日本経済新聞社那覇支局長)

「プロスポーツ不毛の地」。沖縄はそう言われてきた。もちろんバスケットボールを除いてはだ。Bリーグの地区優勝を重ねていた琉球ゴールデンキングスは、202223シーズンに初の日本一に輝いた。観客動員数はリーグトップである。支える裾野が広いからで、22年度の県内競技者数は1万4630人。人口比率で全国で最も多く、新型コロナウイルス禍の一時期を除けば10年以上も増加傾向にある。

 ミニバスケットと呼ばれる12歳以下の登録チーム数は344で、小学校の数より多い。沖縄のバスケ熱を感じたいなら、那覇空港から車で40分ほどの北谷(ちゃたん)町アラハビーチに行くといい。まぶしい日差しを浴びながら子どもらが球と戯れている。周辺には米軍向けの住宅も多く、外国人が飛び入り参加して一緒にゲームを楽しむ光景を見かける。

強かった基地の影響

北谷町アラハビーチでは、子どもたちが気持ちよくバスケットを楽しんでいる

北谷町アラハビーチでは、子どもたちが気持ちよくバスケットを楽しんでいる

 高まる沖縄のバスケ熱の歴史を振り返るとき、基地の影響を抜きには語れない。

 琉米親善と6チャンネル――。23年夏の男子ワールドカップ(W杯)の関連報道で、この言葉を知った向きも少なくないだろう。

 米軍統治下では融和策の一環として、基地に地元高校生らを招いて野球やテニス、水泳など各種スポーツで交流試合を行った。バスケの親善試合は1954年に始まったとされ、令和の今に至るまで続いている。

 56年生まれの日越延利・県バスケットボール協会会長は、米国の高校生と手合わせした一人だ。「体の大きい彼らを負かそうと、いろいろ工夫した。おかげで本土で試合をしても物おじすることはなかった」と語る。復帰前、65年の模様は沖縄県公文書館のホームページで視聴できる。頭一つ以上大きな選手もいる相手にドリブルで切り込み、豊富な運動量と機敏なパスワークで得点を奪う姿は、W杯の日本代表の奮闘ぶりと一脈通じるものがある。

 より幅広く影響を与えたのが6チャンネルだろう。米軍基地向けに放送されていたアナログ地上波で、2011年のデジタル地上波スタート前まで一般家庭でも見ることができた。画面で躍動していたのがマイケル・ジョーダンやマジック・ジョンソンら米プロバスケットボール協会(NBA)のスター選手。子どもたちは華麗でトリッキーなプレーに見入り、校庭や公園で喜々として彼らの動きをまねた。

それは「遊び」から生まれた

米軍嘉手納基地の近くで育った安谷屋さんは「6チャンネル」でNBA選手のプレーに接した(沖縄市コザで)

米軍嘉手納基地の近くで育った安谷屋さんは「6チャンネル」でNBA選手のプレーに接した(沖縄市コザで)

 スター選手への憧れは、バスケと真摯に向き合う姿勢を生み、高度な技を小さな体に落とし込む知恵と工夫を育んだ。高校のインターハイの好結果につながったことも何度かあった。準優勝に駆け上がった1994年の北中城(きたなかぐすく)高がそのひとつ。中心メンバーの安谷屋(あだにや)健太・県高体連バスケットボール専門部専門委員長は、自分たちが独特のプレースタイルを持っていることを、全国大会に出て初めて気づいたという。

 受け手の移動先を見ずにパスを出すノールックパス。ボールを体の後ろで持ち替えるバックビハインド。チームの仲間は6チャンネル仕込みの流れるような動きを身に着けて戦った。「本土のどんな強豪校でもタップシュートさえしなかった。彼らはミスをするなと教えられ、基本に忠実なプレーを守るよう指導されていたのでしょう」と安谷屋さんは語る。

 沖縄のバスケが独特の発展を遂げた理由は、遊びの延長だったから、との声とも聞く。この遊びというプロセスは実に重要で、元陸上選手の為末大さんは、遊びをアスリートが熟達に至るための大事な第一歩と位置づけている。定義は「主体的であり、面白さを伴い、不規則なものである」(新潮社「熟達論」)。当時の沖縄の小中高の年代は、この段階を濃密に過ごし、躍るようなリズムや間合い、奔放な攻め手を身に着けた。

根付きつつある幸せな循環

元プロバスケ選手の山城さんは、中学の部活動の担い手としても活躍する

元プロバスケ選手の山城さんは、中学の部活動の担い手としても活躍する

 時は移り、衛星放送やユーチューブなどが普及すると沖縄の優位性は崩れた。前述の北中城高の後はインターハイ上位に入るチームは出ていない。しかし、米軍から染み出たバスケ文化を源とする、楽しくて豊かなプレーを生み出そうとする気風まで消えたわけではない。

「地元で切磋琢磨していた先輩や後輩が、今や小学校のコーチ、大会役員としてバスケに携わっている。6チャンネルや諸先輩が積み上げた歴史、そういったものがレガシーとなり、その時感じた何かを伝える側に回ってきている」。85年生まれで、琉球や埼玉などで選手として活躍し、現在はバスケスクールを主宰する山城拓馬さんはそう語る。

 6チャンネルで育った山城さんのような元プロが子どもを指導するスクールは本島にいくつもある。個性を重んじ自由なプレーを是とする価値観が指導者に脈打っており、それを次の世代へと受け継ぐという幸せな循環が生まれている。

 今、山城さんの関心は、中学の部活動に向く。バスケスクールとは別に文部科学省が進める部活動の地域移行の担い手として、小学生チームとの連携の必要性を痛感しているという。「小中の指導に一貫性が出てくれば、沖縄のバスケのカルチャーはもっと盛り上がるはず。僕がグラスルーツ(草の根レベル)にこだわる理由です」

 部活動の地域移行は容易でない。指導する人材の確保、スキルの担保、財源、ケガをした際の補償……。どれも一筋縄ではいかない問題だが、沖縄なら現状に風穴を開けてくれるかもしれない。

 大役をバスケが担う

琉球ゴールデンキングスの試合には多くのファンが詰めかける(沖縄市の沖縄アリーナで)

琉球ゴールデンキングスの試合には多くのファンが詰めかける(沖縄市の沖縄アリーナで)

 もちろん、バスケ熱はプレーする側のものだけではない。202312月、沖縄アリーナで出会った78歳のおばあのことが強く印象に残っている。対戦相手のフリースローでは「ウォー」と声を張り、両手をたたいてノイズを起こす。琉球のダンクシュートには立ち上がらんばかりの喜びようだ。ノイズで歓声で、大勢の観客とつながり合うことを心底楽しんでいた。「試合に来るとね、元気をもらえるんですよ。まだ4回目だけどね」。おばあは若い娘のような笑みで語った。「琉球のバスケは明るくていいよ。沖縄の誇りです」

 彼女の幸せそうな笑顔とは対照的に、沖縄の現状はしんどい。米軍普天間基地(宜野湾市)の名護市辺野古への移設が示すように、基地は大きな問題であり続けている。1人あたりの県民所得は全国で最も低く、子どもの貧困や、若年層の妊娠など直面する課題は深刻だ。こうした社会に住む人々が前を向くための何かを求めたとき、スポーツから力をもらえたとしたら素晴らしい。琉球ゴールデンキングスを「誇り」と語る人と接して、沖縄のバスケはその大役を担っていることを知った。

  • 奈良部光則 奈良部 光則   Mitsunori Narabu 日本経済新聞社那覇支局長 1989年日本経済新聞社入社。社会部で警視庁、厚生省、宮内庁、オウム真理教、阪神大震災、薬害エイズ事件などをカバー。運動部でプロ野球、ゴルフ、Jリーグを担当。アテネ五輪、米男子ゴルフのマスターズ・トーナメントを取材。2022年春から那覇支局。沖縄アリーナを舞台に行われた23夏のバスケットボール男子W杯は、地域経済活性化との関連性の視点で取材。