2024年1月9日
浅川 伸 (公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)
- 調査・研究
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2024年1月9日
浅川 伸 (公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)
様々なスポーツにおいて国際統括組織のもとに統一された競技規則が存在し、一つの規則のもとで国際的な協調、調和が確保されているように、ドーピング対策においても国際的に統一された規則と管理体制が必要とされ、1999年にIOCを中核とするスポーツ界と世界各国の政府が共同でアンチ・ドーピング活動を統括する世界アンチ・ドーピング機構(World Anti-Doping Agency: WADA)を設立した。その後、2003年にはWADAにより史上初のアンチ・ドーピングにおける国際的な統一規則である世界アンチ・ドーピング規程(世界規程)が策定された。
各競技種目の国際競技連盟をはじめ、国際オリンピック委員会(IOC)、国際パラリンピック委員会(IPC)がこの世界規程を批准していることに加え、それぞれの国(及び地域)においてはこの世界規程が求めるアンチ・ドーピング体制構築、施策実践のための国内アンチ・ドーピング機関の設置が求められており、それぞれの国におけるアンチ・ドーピング活動が推進されている。
世界アンチ・ドーピング機構(World Anti-Doping Agency: WADA)のウェブサイト
2015年11月、WADAが設置した独立調査委員会によってロシアの組織的なドーピング違反が摘発された。その結果、ロシアの国内アンチ・ドーピング機関であるRUSADAに対して資格停止処分が課された。
この組織的ドーピング違反問題が契機となり、管理・監督する側の組織が当然に規則を遵守するものであるという前提の見直しを余儀なくされ、2018年4月には国際競技連盟、各国アンチ・ドーピング機関、IOC、IPC等の主要競技大会主催者等における世界規程に対する遵守状況をWADAが監査し、必要に応じて制裁を課すことを可能とする新たな国際基準が導入された。
WADAによる監査の結果、世界規程に対する不遵守事項が確認された場合には、当該国のアスリートがオリンピック、パラリンピック大会をはじめ、世界選手権等の競技大会への参加が禁止される、または参加が許可されたとしても国旗の掲揚が禁止される等の不遵守に対する厳格な制裁が課されることになった。これらの施策により、国際的に統一されたアンチ・ドーピング体制の基盤が強化されている。
ロシアの組織的ドーピング違反問題は、新たな国際基準の導入のみならず、アンチ・ドーピング活動に関わる組織の独立性、中立性の更なる強化へと繋がった。IOCは、オリンピック大会のドーピング検査を競技大会主催者であるIOCから完全に独立した立場で遂行するための独立検査機関(International Testing Agency: ITA)を設立し、東京大会以降の検査活動を完全移管させ、検査の独立性確保の流れを加速させた。オリンピック競技種目をはじめ多くの国際競技連盟についても検査活動の独立性確保を重要視したことから、2023年12月時点で61の国際競技連盟がその検査活動の全て又は一部をITAに外部委託している状況となっており、検査活動の外部委託化がデファクトスタンダードとなっている。
我が国においても、2018年に実施されたWADAによる監査が起点となり、検査実施体制が改編されている。2018年時点の検査実施体制では、ドーピング検査が実施されるそれぞれ競技種目の競技団体がスポーツ振興くじ助成への申請を行っていたことから、検査の実施の有無、及び検査件数を競技団体がコントロール可能な環境にあり検査立案に競技団体側の介入が生じ得る状況と判断され、重大な世界規程・国際基準に対する不遵守状態にあると評価された。これを受けて、競技団体から独立した立場で検査方針策定とスポーツ振興くじによる財源確保を実現させ、世界規程・国際基準が求める検査体制の独立性・中立性を確保するための機関として、一般社団法人日本スポーツフェアネス推進機構(J-Fairness)が設立された。また、同機構のもとに体制審議委員会が設置され検査に関する基本指針を審議・決定し、これに基づき公益財団法人日本アンチ・ドーピング機構(JADA)が個別具体な検査計画を立案、遂行する体制が構築されている。また、2023年4月からは、JADAの活動基盤を強化するため、スポーツ振興くじ助成による「国内ドーピング防止機関組織基盤整備事業」が開始され、国内のアンチ・ドーピング体制の更なる独立性・中立性の確保がなされている。
アンチ・ドーピングを推進する側の組織に対する厳格な管理体制が導入されると同様に、ドーピング検査についても体制が強化されてきている。
WADAが設立された直後の2000年代のドーピング検査では、競技大会の成績上位者を対象に検査を行う競技会検査が主体であったが、高度化するドーピング違反に対応するため、競技会での検査に加え、競技大会以外の場面での競技会外検査が重視される体制へとシフトしている。競技会以外の場面での検査は、2009年の世界規程の改定を契機にアスリートの居場所情報を収集し、事前の通知をせずに検査を実施する活動が本格導入された。その後、極少量の禁止物質を使用する“マイクロドーズ”と言われる手法によりドーピング検査をすり抜けようとする動きが出てきたこと等を受けて、一回のドーピング検査により禁止物質を検出するのではなく、継続的にアスリートの検体を採取し生体的プロファイルの変化を精査することにより、禁止物質の使用を特定する「アスリートバイオロジカルパスポート」が導入されている。これらの体制強化に加え、税関や警察等の行政機関が所持する情報を活用して検査の対象者を絞り込むインテリジェンス対応や、検体の分析に拠らない「禁止物質の売買」、「違反への支援」等の違反行為の取締りが強化されている。
これらのドーピング検査体制の強化施策は、アスリートが公平・公正な環境の下で競技に参加するという、アスリートに当然に提供されるべき権利を擁護することにつながるものであり、スポーツの現場におけるアスリートの人権擁護の要請に応えるために対応が拡充されてきたという側面もある。ロシアの組織的ドーピング違反が発覚して以降、オリンピック・パラリンピック大会や世界選手権等のメジャーイベントに関連して、WADA、IOC、IPC、個々の競技種目のアスリート委員等から、検査体制を強化することによるドーピング排除を求める声明が発せられており、クリーンなアスリートが率先して、ドーピング検査の厳格化に賛同している状況がある。
意図的な違反者に対する厳格な検査体制が求められている一方で、意図的ではない違反に対する対応の必要性も議論されている。
サプリメント製品に禁止物質が混入した事例や、治療目的で薬品を使用したものの正当な手続きを踏んでいなかった場合等、意図したドーピング違反では無いものの制裁の対象となる事案が多数発生している。この様な事情に直面したアスリートが、アンチ・ドーピング規則を踏まえた弁明をおこない、公正な聴聞手続きを経て、制裁期間の短縮措置等を得るための支援等をおこなうための「アスリートのためのアンチ・ドーピングオンブズ制度(Athletes’ Anti-Doping Ombuds)」が、WADAによって設置されている。現状ではパイロットプロジェクトの位置づけであるものの、将来的には恒常的な機関としての設置が期待されている。WADAが推進するアスリートのためのアンチ・ドーピングオンブズ制度は、ドーピング違反が疑われる状況になった場合を含め、あらゆるアンチ・ドーピング関連事項に対する支援を行う制度であり、アンチ・ドーピング規則に精通した弁護士が多言語での支援を無償で提供している。
日本国内では、J-Fairnessが、アスリート支援事業の一環として「クリーンアスリートソリダリティ」を運営しており、クリーンスポーツに関するニュース配信と共に、定期的な競技会外検査のために居場所情報の提出が義務付けられているトップレベルアスリートを対象として、ドーピング違反などのアンチ・ドーピングの手続きやアンチ・ドーピングに関するルール、また薬やサプリメントについて、アスリートメンターが関係組織や専門家と連携の上で相談を行うアスリートサポートデスクを設置している。
我が国では、2015年度から2022年度の間に34件のドーピング違反が発生しているが、そのうち15件については聴聞手続きを経て「意図的なドーピング違反では無い」との評価を受け制裁期間の短縮措置が認められている。なお、15件の内訳は、9件が医薬品使用に起因するもの、6件がサプリメント使用に起因するものである。
意図性の有無に係る判断については、聴聞会におけるアスリートの弁明内容を踏まえて判断される。意図的な禁止物質の使用では無いことを立証し、資格停止期間の短縮を受けるためには、聴聞会における主張のための証拠(原因物質がどの様に体内に入ったかの経路の特定等)を確保したうえで、アンチ・ドーピング規則に沿った論理的な弁明をおこなうことが求められる。これをアスリート本人のみで対応することは、困難であるため規則に精通した弁護士等の支援が必要となる。
先述の通り、厳格なドーピング検査実施体制は、競技における公正さ、公平さを担保するものであり、競技大会の完全性の確保の視点からも必須の要件となる。一方で、意図的ではないものの、サプリメント製品等における禁止物質の混入等の偶発的事情からドーピング違反に問われるアスリートに対しては、支援の機会が提供されることが理想的である。国際的にも、また国内においてもアスリートが意図しないドーピング違反に直面することになった場合に、アスリートの人権への配慮と共にアスリートを孤独にさせない支援の取り組みの必要性は増大しつつある。
アスリートの検体から禁止物質が検出され聴聞手続きが開始されると、JADAはアスリートを訴追する立場に立つことになる。よって、JADAがアスリートを支援する活動に参画することは、利益相反が発生するため適切な構造とはならない。
我が国では、J-Fairnessが中立的な立場でアスリート支援事業の一環として「クリーンアスリートソリダリティ」を運営しているが、この活動の重要性に鑑みれば、スポーツ界全体でこの活動を支えていく、またはスポーツ庁や独立行政法人日本スポーツ振興センター等がその活動を支えていく体制の検討が必要であろう。
トップスポーツの振興とスポーツの健全性を支えるアンチ・ドーピング活動の拡充と並び、アスリートの人権を保護するための活動への関心が高まり、アスリートを支援する体制が強化されることが望まれる。