2022年9月14日
北村 薫(順天堂大学名誉教授/笹川スポーツ財団 特別研究員)
- 調査・研究
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2022年9月14日
北村 薫(順天堂大学名誉教授/笹川スポーツ財団 特別研究員)
2022年7月19日のAERAdot.に「ジュニアエラ7月号」からの紹介記事が載っていました。
タイトルは「小学生のスポーツ、全国大会がなくなる? 大声でしかりつけ、無理な減量…勝負にこだわる大人たち」です。
全柔連が「個人戦の全国小学生学年別大会」を廃止したことを受けてのものです。
廃止の大きな理由は「行き過ぎた勝利至上主義」でした。
記事では「試合で勝利ばかりを追い求めてしまうのが『勝利至上主義』」と規定し、その具体例として以下の状況を示しています。
・コーチや保護者がミスした子どもを大声でしかりつける。
・コーチや保護者が練習で細かいことまで口出ししたりする。
・指導者が子どもに無理な減量を強いる。
・保護者が審判に汚い言葉で抗議したりする。
確かに、これらの行為はスポーツが本来持つ価値を貶めるものです。
しかし、ここで疑問が湧きます。
これらが「行き過ぎた勝利至上主義」であるとすれば、「行き過ぎない勝利至上主義」は悪いことではないのでしょうか?
結論を先に言えば、筆者は、行き過ぎようと、行き過ぎていまいと、「勝利至上主義は悪いこと」という立場です。
その根拠を以下に述べたいと思います。
現在、スポーツには、教育的価値、経済的価値、興行的価値などなど、様々な価値が付与されています。
それぞれに意味があるのですが、全てに触れると煩雑になりますので、勝利至上主義で指摘される価値だけに焦点を当ててみましょう。
勝利至上主義で問題となるのは「勝利」という価値をどのように位置づけるかです。
スポーツを競技スポーツとしてとらえた場合、「競技に勝利すること」は何よりも重要な価値です。勝利のために努力すること、ライバルとの切磋琢磨などから得られる人間的成長などは何ものにも代えがたいものがあります。
ここで「勝利ばかり追い求めること」は悪いことでしょうか?
筆者は悪いこととは思いません。
「優勝だけが意味がある。2番手以下はみんな同じだ。」こういう考え方はかつて多くの指導者から聞いた言葉です。
こういう考え方が悪いのでしょうか?
筆者は悪いとは思いません。
この考え方のもと、スポーツ医科学の最先端の知識を駆使し、選手の思いに寄り添いながら最善の指導をして「勝利を勝ち取る」ならば、全く問題がないどころか、称賛に値するものです。
では、何が悪いのか。
悪いのは「勝利ばかり追い求める」あまり、「どなったり」「ののしったり」「殴ったり」「蹴ったり」することです。
社会学の観点からこれをみると、「勝利を追い求めること」は「文化的目標」です。その目標を達成するにはさまざまな手段が必要です。
この手段は多くの場合制度的に確立されていますので、これを社会学では「制度的手段」と呼びます。
「どなる」「ののしる」「殴る」「蹴る」は「制度的手段として認められている規範」から逸脱した行為です。
勝利至上主義は「社会規範から逸脱した行為」をともなうがゆえに「悪いこと」なのです。
社会学者のマートンは、制度的手段を否定するかたちで文化的目標を達成しようとすることを「革新的逸脱」とよび、社会の規範を混乱させる「逸脱行為」と規定しました。
これに対して、文化的目標に向かって制度的に認められた手段で努力することは、社会規範を安定させる「同調行為」と規定しました。
「同調行為」は悪いことでなく「逸脱行為」が悪いことなのです。
この考え方は、アノミー論と呼ばれ、社会学の一分野である「社会病理学」の理論のひとつです。
勝利至上主義の問題を、スポーツの内部的問題としてとらえると、勝利至上主義がもたらす「問題行動」とスポーツが本来持っている「勝利を目指して努力し、切磋琢磨する」ことの価値との間で揺れ動き、「行き過ぎが悪い」というあいまいな基準に落ち着いてしまいます。
これでは「どこまでが行き過ぎでなく、どこからが行き過ぎなのか」わからず、結局、個人の判断にまかせるようなことになってしまいます。
判断基準をスポーツの外、つまり社会規範におけば、社会規範から逸脱する行動をともなう場合が勝利至上主義であり、社会規範から逸脱しない場合は勝利至上主義でなく、スポーツに内在する「勝利を求める欲求」を健全に追求する行為となるという考え方ができるのです。
社会病理学の知見は、勝利至上主義だけに適用されるものではありません。
他のスポーツ関連の「様々な問題」に適用可能な理論があります。
スポーツに関わる諸問題を、スポーツの内部的問題という視点だけでなく、「社会病理学的アプローチ」といったより広い社会問題の次元からとらえ直し、問題の所在を明確にすることも必要なのではないでしょうか。