2021年11月17日
青島 健太 (スポーツジャーナリスト/笹川スポーツ財団 理事)
- 調査・研究
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2021年11月17日
青島 健太 (スポーツジャーナリスト/笹川スポーツ財団 理事)
それは講義を担当している大学でのことだ。
学生たちの予想外の反応に、私は、彼らが子どものころから感じてきた「不自由な思い」を知った。それは「豊かさとは何か」を考えることでもあった。
講義では、テレビ取材で訪れたドミニカ共和国の野球事情に関するテレビ番組(録画)を学生と一緒に見た。ドミニカは野球が非常に盛んで、男の子たちはみんなメジャーリーガーを目指している。ピッチャーの目標は、メジャーリーグを代表する投手として活躍したペドロ・マルチネスであったり、バッターの憧れはメジャー通算609本のホームランを放ったサミー・ソーサであったりする。いずれもドニミカの国民的ヒーローだ。そして今も、ドミニカ出身の多くの選手がメジャーリーグで活躍を続けている。私の取材の目的は、「なぜドミニカからそんなに多くのメジャーリーガーが輩出されるのか?」というところにあった。
ドミニカ共和国の野球少年たち
映像では、学校にも行かず靴磨きで家計を助けながら、平日の日中、野球をする少年たちが紹介されていた。彼らが集まって練習するのは、首都サントドミンゴにある野球公園。誰もが自由にプレーできる野球場が10面以上広がっている。多くの少年たちは、ユニフォームすら着ておらず、使っている道具もボロボロの古いものばかりだった。私はそんな彼らに将来の夢を聞いて回ったのだが、誰に聞いても答えは同じだった。もちろん「メジャーリーガー」だ。彼らの家も訪れて、決して豊かとは言えない暮らしぶり(お湯のシャワーもなければ水洗トイレもない)も見せてもらった。
そんな映像を見て、学生たちがどんな感想を持つのか。
私がこの講義で想定したテーマは「ハングリー」だった。
ところが驚くことに学生たちの関心は、そこにはなかった。彼らが注目したのは、野球公園の存在だった。街の真ん中に野球ができる公園が何面もある。自由にボールを投げたり打ったりできる。それが羨ましいと数人の学生が言った。彼らが遊んできた公園では、野球だけでなくほとんどの球技が禁じられていたと言うのだ。
確かに、私の住む東京でも球技を禁じていない公園がないような気がする。自由に球技ができるのは、公園に隣接した鳥かごのようにネットを張り巡らした空間の中だけだ。それでも子どもたちが喜々としてボールを打ったり投げたりしている姿を見かけるが、私には気が晴れる光景ではなかった。
小さな公園でバットを振ることやキャッチボールをするのは確かに危険だ。乳児や幼児、お年寄りがいたらなおさらだ。ただ、周囲を見回して公園に誰もいなかったらどうだろうか。そんな時間帯もきっとあるはずだ。サッカーでも空いたスペースでドリブルやリフティングをするくらいなら、人の迷惑になるようなこともないだろう。せっかくの公園なのに、なぜか窮屈な居心地を覚えるのは、あらゆることが一律に禁止されているから…だろう。アメリカやイギリス、オーストラリアなど、私の知っている海外の公園では、そうしたストレスを感じることがない。そこには広さの問題もあるが、基本的には何でも好きなことができる。日本では犬の入園さえ禁じている公園があるが、海外では考えられない。むしろペットのために公園がある。
日本の公園の閉鎖性は、とりわけ都市部の公園で禁止事項が多いのは、自治体に寄せられたクレームへの対応だと聞く(もちろん公園で遊ぶ人のマナーの問題もある)。近年は、スケートボードの乗り入れが大きな問題になっている。苦情がありながら何もしないのは「行政の怠慢」と言われてしまう。それで出来上がった歩くこと以外何もできないような公園を、果たして地域の人たちは本当に望んでいるのだろうか。
気になる「現象」がある。
それはまさに「減少」だ。
子どもたちの野球人口が激減しているのだ。
全日本軟式野球連盟によれば、1980年に小学生(学童)の野球チームが全国に2万8,115チームあったのに2019年には1万1,146チーム(60%減)になっている。中学生(軟式)の選手数も、2009年に30.7万人だったのが2017年には17.4万人(43%減)になっている。当然、高校球児も減っている。例えば埼玉県高校野球連盟によると2010年に2,715人の新入部員があったのに対し、2019年には1,313人(52%減)になっている。ざっくり言えば、野球少年は21世紀になって半減しているのだ。もちろんこうした減少は、少子化のスピードをはるかに上回っている。
野球界の危機を訴えるのは、別の稿にしよう。
ここで考えたいのは、公園と野球少年の関係だ。
野球に限らず、子どもたちのスポーツは公園や空き地での遊びから始まっていく。
幼児がゴムのボールをビニールのバットで打つ。その上達をお父さんやお母さんが喜ぶ。ゴロやフライも素手で捕れるようになる。そうした遊びを繰り返していくうちに、チームに入って野球をやってみたくなる。動機や始まり方にはいろいろあるだろうが、多くの場合、公園での遊びが子どもたちをさまざまなスポーツに導いていく。その意味で、私は日本の公園でまったく球技ができない(鳥かごのような施設を除いて)ことを危惧している。野球少年の減少にも、少なからず影響があると思えてならない。公園からスポーツが始まらないのだ。
こうした硬直した日本の公園の在り方に、新しい変化も始まっている。もう5年前のことになるが、東京都豊島区の池袋駅からほど近い「南池袋公園(7,819㎡)」は、使い方やルール作りを地域の関係者で構成される「南池袋をよくする会」に任せた。地域のニーズに合わせて柔軟に公園を活用する。広い芝生の公園にはカフェも併設されて、さまざまな人が自由に利用している。ただ、ここでもボール遊びやペットの入園は禁止されている。その代わりに近隣のさらに広大な「イケサンパーク(1万7,000㎡)」では、球技もペットも可能にしている。利用目的によって2つの公園が補完し合うように運営されているのだ。
ドミニカの映像を見た大学生たちは、公園で自由に野球ができる彼の地の環境に豊かさを感じた。経済的な発展を遂げたはずの日本だが、ハード(公園)は立派でも、それをうまく活用するソフト(ルール)が貧しい。彼らが子どものころから感じてきた不自由さはそこにあるのだろう。私は、どちらが「ハングリー」なのかわからなくなってきた。スポーツの論理だけで公園の開放を訴えたいわけではない。すべてを禁止する公園に貧しさを感じるのだ。公園の大きさによって使い方を考える。時間帯によって使い分ける。公園ごとに目的や利用方法に特長を出す。自治体と地域の人たちと子どもを含めた利用者が話し合うことで、もっと豊かな公園が作れないか。日本の公園には、まだまだ可能性があると思う。
限られた地域の空間(公園や学校、体育館やホールなど)が、楽しさや豊かさ、住みやすさを生み出すコンテンツだ。こうした地域の財産を使い方を含めてどうやってデザインしていくか。これは行政、地域社会、スポーツ界にとって大事なテーマだ。このままでは、野球少年も絶滅しそうな勢いだ。せめて子どもたちにキャッチボールくらいさせてあげたい。