2023.12.07
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2023.12.07
「雪と氷の祭典」に燦然と輝く偉業が達成されたのは、今から60年以上も前の1956年のことだった。舞台は2026年冬季オリンピックの会場にもなるコルティナダンペッツォ。イタリアで初めて開催された冬季オリンピックで、20歳のトニー・ザイラーがアルペンスキーの男子の滑降、大回転、回転の3種目全てに圧勝し、史上初の「3冠王」となった。
1956年コルティナダンペッツォ冬季オリンピック、大回転で優勝するザイラー
ザイラーは1935年、オーストリア西部チロル州キッツビューエルで生まれた。スキーを始めたのはわずか2歳の時だったという。スイスのアデルボーデン、ウェンゲンとともにワールドカップ(W杯)の3大レース会場と言われているのがキッツビューエル。この地で技術を磨き、順調に成長した。16歳となった1952年、フランスで行われた滑降レースで初めて国際大会優勝を果たすと、ほかの大会でも次々と優勝を手にした。この活躍に対して大きな冷蔵庫が贈られたという。国際スキー歴史協会が後に行ったインタビューに、ザイラーは「(第2次世界大戦からの)復興途上の時期に信じられないようなプレゼントをもらった。たぶんキッツビューエルで初めて、いやチロル州でも初めてキッチンに冷蔵庫を置いた家だったかもしれない。日曜日になると冷蔵庫を見るだけのために、我が家を訪ねてくる人たちがいた」と述懐している。
翌シーズンは脚を骨折して実力を発揮できなかったが、20歳で迎えた1956年のオリンピックで最高の輝きを放つことになる。この大会は冬季オリンピック史上初めてテレビの生中継が導入された。ザイラーはテレビを通じても、世界の人々に衝撃の滑りを披露した。
1月29日。まず大回転が行われた。2位となった同僚のアンドレアス・モルテラーに6秒以上という衝撃的な大差を付けての最初の金メダルを手にした。31日の回転は2回の合計タイム3分14秒7で2つ目の金メダル。この時の2位に食い込んだのが、日本選手で冬季オリンピック初のメダリストとなった猪谷千春だった。猪谷に4秒の差を付ける圧倒的な滑りで優勝したあとの最後の滑降は2月3日。こちらもスイスのレイモンド・フェライに3秒以上の差で難なく3種目制覇を達成して見せた。恐怖心と戦いながら、スピードに乗って長いコースを滑り降りる滑降から、狭い旗門の間をくぐり抜けるための高い技術を求められる回転まで、しかも大差での金メダル獲得に称賛の声が相次いだ。ザイラーの高いテクニックについて、緩い斜面でのスキーの滑らせ方が抜群にうまいと分析する専門家もいた。
1956年コルティナダンペッツォ大会の表彰式で。中央がトニー・ザイラー。右は猪谷千春
2人目の3冠王は12年後、グルノーブル冬季オリンピックで誕生した。地元フランスのジャンクロード・キリーが3種目を制したが、滑降、回転は2位の選手と0秒1ほどの小差の勝利だった。このあと、もっとも3冠に近づいたのは1976年インスブルック冬季大会でのロジ・ミッターマイヤー(当時西ドイツ)で、女子滑降、回転で優勝、大回転2位。1988年カルガリー冬季大会からは滑降と大回転の中間的存在のスーパー大回転と、滑降と回転の合計タイムで競うアルペン複合が加わって個人種目は5種目になった。これ以降でも5種目中3種目以上を制したのは2002年ソルトレークシティー冬季大会で女子の回転、大回転、アルペン複合を制したヤニツァ・コステリッツ(クロアチア)だけ。得意種目に特化する傾向が強まっている現在のアルペン界では3冠王の誕生は不可能に近いとも言われている。
トニー・ザイラー主演の映画「白銀は招くよ」のポスター。英文タイトルはTwelve Girls and One Man
黒いレーシングスーツで試合に臨むことが多かったため、「キッツ(ビューエル)から来た黒い稲妻」のニックネームで呼ばれるようになっていた。2年後、地元オーストリアのバートガシュタインで行われた1958年の世界選手権では滑降と大回転を制し、回転は2位で惜しくも「3冠王」を逃した。脂の乗ってきた時期で、さらなる躍進が期待されていたが、ザイラーはこのシーズンを最後に突如として引退してしまう。端整な顔立ちに目を付けた映画関係者が出演を打診し、1957年に映画出演した。このことが当時のアマチュア規定に触れる恐れがあり、1960年に米国のスコーバレーで開催される冬季オリンピックに出場できない可能性が生じた。再び目標にしていたオリンピックでの金メダル獲得が実現できないのであればと、ザイラーは違う道を進むことを決断した。
本格的に俳優業に取り組んだザイラーは数々の映画に出演した。1959年に公開された主演映画「白銀は招くよ」は広大なアルプスの山岳地帯が舞台で、軽快なリズムの主題歌は日本語にも翻訳され、国内でも多くの歌手が歌って流行した。1960年の日本映画「銀嶺の王者」では、日本に約5か月滞在し、山形県の蔵王スキー場で撮影された滑走シーンでは有名なスノーモンスター、樹氷の間を華麗に滑り降りた。翌年の「白銀に躍る」では、1950年代に活躍した当時西ドイツの女子フィギュアスケート選手、イナ・バウアーとメインキャストとして共演している。同選手の名前がついている上体を後ろに反らす技は、2006年トリノ冬季オリンピックで金メダルに輝いた荒川静香が取り入れたことで、日本国内でも一躍有名になった。ただ、ショービジネスの世界を中心に活動したのは1960年代半ばまでで、自分の名前のブランドでスキー板を販売するなど、再びスキー界に戻ってきた。
1970年代に入ると後進の育成に尽力するようになった。1972年の札幌冬季オリンピックで、オーストリアのアルペン陣は金メダルなしに終わった。ザイラーが3冠王になって以降、3大会連続で金メダルを手にしてきたアルペン王国にとっては屈辱的な結果だった。ザイラーは札幌オリンピック終了後からインスブルック大会の1976年まで、オーストリア・スキー連盟でアルペンチームの責任者を務めた。強化は徐々に実を結び、地元インスブルックでの大舞台では「滑降王」と呼ばれたフランツ・クラマーが金メダルに輝いた。
1993年に岩手県雫石スキー場で行われたアルペンスキー世界選手権のあとに、スキーの世界的統括団体の国際スキー連盟(FIS)でアルペンスキーの最高責任者である委員長に就任した。5年後には日本で2度目となる冬季オリンピック長野大会が控えていた時期だった。このあと、大きな議論を呼ぶことになる男子滑降のスタート地点引き上げ問題が起きることとなる。
長野オリンピックの男子滑降は、自然保護地域への侵入を避けるため大会組織委員会側はスタート地点を1680mとしたいと主張。ザイラー委員長が「滑降という競技の特性を考え、スタート地点を1800mに引き上げてほしいという姿勢は変わらない」と話していたようにFISは引き上げを求める姿勢を崩さなかった。4年あまりにわたって紛糾してきた対立は開幕2カ月前になって1765mとすることで解決した。実際に本番のレースでは優勝候補筆頭のヘルマン・マイヤー(オーストリア)がライン取りを誤ってコース外に飛び出す大波乱が起きた。難度を保持できたコース延長をアルペン委員長のザイラーは「いい折衷案だった」と振り返っていた。
オーストリアに留学経験があり、長年にわたってスキー界の発展に貢献してきたFISの村里敏彰副会長は「ヨーロッパ全体でも間違いなくスポーツ界のビッグネームの1人。自らが細かいことをやるというよりは、まとめ役として力を発揮していた」とアルペン委員長時代を思い起こした。また、2021年に亡くなったFISのジャンフランコ・カスパー前会長から聞いた秘話を披露してくれた。
世界のトップに上り詰めたザイラーは若い頃からスキーのトレーニングに明け暮れていたこともあるが、実は勉強があまり好きではなかったというのだ。銀幕のスターになってからもスキー界の王者としてのイメージが先行し、ベールに包まれていた部分もあったという。ただ、それだけスターだったという裏返しでもある。
プライベートでは1976年結婚した最初の妻は2000年にガンのためにこの世を去った。2番目の妻とは2006年に結婚した。2008年1月にザイラーは咽頭がんであることを公表し、療養に努めた。しかし、翌年8月に73歳でその生涯を閉じた。葬儀は彼のスキー人生の出発点であるキッツビューエルのスキー場、ハーネンカム・コースのゴール付近で営まれた。