2022.09.13
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2022.09.13
日本の女子バスケットボールの原点は、20世紀開幕前後までさかのぼる。教育者の成瀬仁蔵が留学先のアメリカの大学から女性用に改良されたバスケットボールを持ち帰り、さらに日本女性向けにルールをデザインしたのがはじまりである。帰国後、1894年に梅花女学校校長となった成瀬は、同校の女子学生に「球籠遊戯」を指導する。さらに成瀬は、1901年に日本女子大学を設立し、同年10月22日の第1回運動会で「日本式バスケットボール」を披露した。この、日本できわめて初期の女子バスケットボールの試合は、王子の飛鳥山(東京都北区)にある渋沢栄一の邸宅で行われたという。
やがて、アメリカのYMCAで本格的なスポーツ指導法を学んだ大森兵蔵やF.H.ブラウンによって今日に連なる本格的なバスケットボールが伝えられ、日本国内で人気競技となる。しかし、時代の制約もあって、運動量の多い5人制バスケットボールへの女子の参画は後発だった。1936年のベルリン大会から男子バスケットボールは晴れてオリンピック種目となったが(日本代表も出場)、1972年のミュンヘン大会に至るまで、女子バスケットボールが採用されることはなかった。
1976年モントリオール大会のアメリカ戦で活躍した生井けい子
1976年のモントリオール大会から、ついに女子バスケットボールがオリンピック種目となる。前年に行われた世界選手権で女子日本代表は銀メダルを獲得し、モントリオール行きの切符を手にした。オリンピック前哨戦ともいえるこの大会で、日本のエース生井けい子はMVPを受賞し、世界にその名を轟かせる。
メダルの有力候補として迎えたオリンピック本番、日本の初戦の相手はアメリカだった。日本はスピードあるバスケットを展開し、84対71でアメリカを撃破する。今や絶対女王として君臨するアメリカのオリンピックの船出は、日本戦の敗北からスタートしている。
日本は2戦目でカナダにも勝利し、続くチェコスロバキアには敗れたものの、次戦でブルガリアに勝利すれば、最終戦で世界女王のソ連に歯が立たないことを見込んでも、メダルは十分に手に入る目算だった。前半をリードで折り返し、後半も日本のペースで試合が進む。しかし、やはりオリンピックには魔物が住んでいるのだろうか。残り8分で13点のリードを奪っていた日本は、ここから嘘のように攻撃の足が止まり、流れは一気にブルガリアに傾く。ついに、残り44秒で逆転を許し、63対66でまさかの敗戦を喫した。
こうして、つかみかけていたオリンピックのメダル獲得の夢は、手の中からすり抜けていった。当時、日本代表監督を務めた尾崎正敏は、この1戦を振り返り「日本の女子バスケット界に新しい歴史の1ページをつくることは、夢と消えた。」と悔しい胸の内を報告書に綴っている。モントリオール大会は5位で終えたものの、山脈のような海外選手を前に、日本勢で最も小柄な162cmの生井は得点王に輝いた。
時代は昭和から平成を経て令和となる。この間、日本の女子バスケットボールは1996年のアトランタ大会(7位)、2004年のアテネ大会(10位)、2016年のリオデジャネイロ大会(8位)に出場し、ベスト8入りを果たしながらも、ベスト4の壁を破れずにいた。しかし、モントリオールの悪夢から45年の歳月が流れた2021年、東京オリンピックで悲願のメダルを獲得する。
通称AKATSUKIFIVEの選手たちが放つスリーポイントシュートは、次々とネットを揺らした。東京大会の出場チームのうち、全6試合での日本のスリーポイントシュートの成功率は第1位の38.4%。成功数も第1位で、2位のフランス(49本)を大きく引き離す73本を記録している。数字のうえでも世界一だった日本の正確無比なスリーポイントシュートが、高さの不利を克服するうえで強力な武器になったことは間違いない。
ちなみに、モントリオール大会の頃は、まだスリーポイントルールは存在しなかった。歴史に「たら・れば」は禁物だが、もしこの当時スリーポイントルールが採用されていたら、日本はどのような戦い方を見せたのだろうか……、などと想像は尽きない。
東京2020大会フランス戦の町田瑠唯
銀メダルの立役者の1人が、司令塔の町田瑠唯である。今大会ベスト8以上の選手の中で最も小柄な162cmの町田は、世界の強豪相手に臆せずドリブルで切り込み、ディフェンスを引き付けて味方に絶妙なアシストパスを送り、シュートチャンスをクリエイトした。バスケットボールは足でボールを扱うことが禁じられているため、足が長い海外選手たちの手が届きにくい膝下を通すバウンドパスもきわめて有効だった。
町田がスターティングガードの座に就いたのは、意外にも東京オリンピックの直前である。それまでは、吉田亜沙美、藤岡麻菜美、そして東京オリンピックでも活躍した本橋菜子らのバックアップのイメージが強かったが、吉田と藤岡の引退や本橋の怪我により、町田にメインガードとしての出番が回ってくる。
トム・ホーバス監督が浸透させた、5人全員がコートの外側に広がり積極的にスリーポイントシュートを打つシステムは、町田がスピードを生かしてドリブルで中に切り込んでいくスペースを作り出すことにもなった。加えて、町田のコート全体を見渡せる広い視野、味方や相手の動きを予測する能力、そしてたゆまぬ練習が生んだチームの連係が、ワールドクラスのアシストの量産を支えていた。大会を通して町田が積み上げたアシスト数は驚異の75。準決勝のフランス戦では、オリンピック新記録となる18アシストをマークし、大会ベスト5に選出される。遅咲きのポイントガードは、世界が認めるアシスト女王へと成長を遂げた。
東京2020大会ベルギー戦の林咲希
東京オリンピックの快進撃の中でも、ハイライトとして多くの人の記憶に刻まれたのが、激闘になった準々決勝のベルギー戦、残り15.2秒で逆転勝利に導いた林咲希のスリーポイントシュートである。
全6試合で林が決めたスリーポイントシュートは17本、成功率は48.6%。一般的に40%入れば上出来とされるなか、初戦のフランス戦では60%(5本中3本成功)、3戦目のナイジェリア戦では63.6%(11本中7本成功)、準決勝のフランス戦では100%(2本中2本成功)と、圧倒的な数字を叩き出した。林はオリンピックの重圧をはねのけるため、シュートを打つ瞬間にこれまで応援してくれていた人たちの顔を思い浮かべていたという。
大会を通して、林よりも多くのスリーポイントシュートを沈めたのが宮澤夕貴である。6試合で19本、成功率は43.2%を記録している。
長い時間をかけて磨いてきたワンハンドシュートが大一番で物を言った。高校時代、長身の宮澤はセンタープレイヤーだったが、卒業後に飛び込んだ実業団チームには日本代表のインサイドの柱である渡嘉敷来夢がいて、宮澤が出番を得るにはアウトサイドのプレーを習得する必要があった。その宮澤にワンハンドシュートの手ほどきをしたのが、当時チームスタッフの1人だったトム・ホーバスである。ホーバス直伝の高い打点から放たれるスリーポイントシュートは、東京オリンピックの大舞台でも放物線を描いて次々とリングに吸い込まれていった。
ほかにも、大黒柱として活躍したキャプテンの髙田真希をはじめ、銀メダル獲得に貢献したヒロインをあげればきりがない。指揮官のホーバスが「スーパースターはいませんが、スーパーチームです。」と選手たちを称えたように、まさにチーム一丸となって戦う姿がそこにはあった。
メダル獲得をかけて臨んだ準決勝のフランス戦では、日本の得意なスピーディな展開に持ち込み、格上を寄せつけず87対71で快勝する。これにより銀メダル以上が確定し、下馬評を覆す躍進ぶりに日本中が歓喜に包まれた。モントリオールオリンピックで、あと一歩でつかみそこねたメダルを45年越しで手中に収め、金メダルへの挑戦権をものにした瞬間である。
リオデジャネイロ大会後に代表監督に就任して以来、ホーバスは東京オリンピックでは「決勝でアメリカを倒して金メダルを取る」と公言してきた。舞台は整い、役者はそろった。
いざ決勝がはじまると、オリンピック7連覇を狙う絶対女王アメリカは、序盤からエンジン全開で日本に襲いかかる。とくに、林、宮澤という日本が世界に誇る2大シューターを完璧に抑え込んだアメリカのディフェンスは圧巻だった。間合いを詰めた徹底マークにより、林も宮澤も決勝でのスリーポイントの成功数は0本、打った本数も2人合わせて3本にとどまる。シューターを生かす日本のセットプレーは、アメリカの前にことごとく封じられた。攻撃のバランスを崩された日本は、最後までリズムに乗り切れない苦しい展開を強いられる。徹底的な分析で知られるアメリカ代表の百戦錬磨の強みを目の当たりにした。
攻めては203cmのブリトニー・グライナー(30得点)、193cmのアジャ・ウィルソン(19得点)を中心にインサイドを制圧する。日本の守りの意識がインサイドに集中したと見るや、これを待っていたかのように自身5連覇を狙うスー・バードやダイアナ・トーラジが外からゴールを射抜き、日本を沈黙させた。191cmのブレアナ・スチュワートは、1人で14本のリバウンドをもぎ取り、日本に付け入る隙を与えない。日本もディフェンスを変えて対抗するが、アメリカの徹底したインサイドゲームを最後まで止めることはできなかった。アメリカが日本のシュートをはたき落としたブロックショットの数は12本に及ぶ。
しかし、女王の圧倒的なパワーを前にしても、AKATSUKIFIVEはひたむきにプレーし続けた。何度もブロックショットを浴びせられながらも、果敢に体を当ててファウルを誘う。100パターン以上あるというセットプレーを駆使してスター軍団を揺さぶり、粘り強いディフェンスでアメリカのミスを誘発し、必死の追い上げをみせる。
最終スコアは75対90。目標とした金メダルには届かなかったが、男女通じて日本のバスケットボール史上初の12名のオリンピック銀メダリストが誕生した。
日本は、ここ数年で急に強くなったわけではない。東京オリンピックで見せたスリーポイントを生命線とするスピーディな攻撃は1996年のアトランタ大会でも十分に通用していたし、足を使ってコート狭しと相手を追いかけ回すフルコートのディフェンスは1976年のモントリオール大会でも世界の強豪を苦しめていた。
バスケットボール女子日本代表には、試行錯誤を繰り返して編み出した、サイズ不足を克服して世界と真っ向勝負できる戦い方の土台が、途切れることなく脈々と受け継がれている。先人たちのたゆまぬ研鑽と蓄積のうえに花開いた銀メダルだった。
もちろん、ただ歴史を継承しただけではない。ホーバスはNBAのゴールデンステート・ウォーリアーズやヒューストン・ロケッツなど、海外の男子トップチームから最先端のエッセンスを取り込んで日本の攻撃戦術を練り上げていた。指揮官が大会後に「日本のバスケットボールを世界のスタンダードにしたい」と語ったように、これからは日本が世界のトレンドをJAPAN MODELとして発信する番なのかもしれない。
東京オリンピックからわずか2か月。新指揮官の恩塚亨監督率いる日本女子代表はアジアカップに挑み、前人未踏の5連覇の偉業を成し遂げた。幸先の良い船出である。
2024年のパリオリンピックで、さらなる高みを目指すバスケットボール女子日本代表が再び世界を驚かせる日が、待ち遠しくてしかたがない。