2022.04.05
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2022.04.05
東京パラリンピックで史上初の銀メダルを獲得した車いすバスケットボール男子日本代表。それまでのパラリンピックでの過去最高成績は7位(1988年ソウル大会、2008年北京大会)。そして直近では、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロと2大会連続で決勝トーナメントに進出することができずに9位に終わっていたことからも、今回の歴史的快挙を「奇跡」と捉える人は少なくないかもしれない。しかし、それは事実とは異なる。今回は、その背景に迫りたい。
1964年第2回パラリンピック東京大会の車いすバスケットボール
車いすバスケットボールは、第1回ローマ大会(1960年)からパラリンピックの実施競技として行われてきた。男子日本代表が初めてパラリンピックに出場したのは1964年東京大会。しかし当時は「代表」というよりは即席で作られたチームでの出場で、金メダルを獲得したアメリカには6─60と惨敗するなど、世界にまったく太刀打ちできなかった。
その後、正式に代表チームが結成されて初めて臨んだのが、1976年トロント大会。それ以降、男子日本代表は12大会連続で出場を果たしてきた。しかし前述したとおり、過去最高成績は7位と、メダル争いに加わったことは一度もなかった。
そんななか、日本代表の強化を推し進めるきっかけとなったのが、日本のパラスポーツ界の環境を変える出来事となった、東京オリンピック・パラリンピック開催の決定だったことは言うまでもない。「パラリンピックの成功なくして東京大会の成功はなし」という認識が高まり、組織運営に必須である「人・モノ・カネ」へのサポートが充実したことが挙げられる。
例えばスポンサーについて、JWBF(日本車いすバスケットボール連盟)によれば、2013年度までは多くて2,3社程度だったスポンサー企業の数が、2014年度は6社、2015年度は10社と年々増え続け、ピーク時の2020年度は22社にまで増えた。またJSC(日本スポーツ振興センター)から競技力向上事業助成金が交付されることによって、JWBFによる日本代表の強化事業が拡大したことも大きい。
2012年度以前、強化指定選手による強化合宿は、週末の3日間にほとんど限られていた。初日は体力測定で終わり、最終日は帰宅する選手たちの移動を考えると半日で終えなければならない。そうすると実際に強度の高いトレーニングや内容の濃いプログラムを実施できるのは、わずか1日しかなかった。それを2013年度に新ヘッドコーチ(HC)に就任した及川晋平氏は、1回の合宿の日数を4、5日にまで延ばしたものの、合宿が実施できたのは、わずか4回だった。
海外遠征においては、さらに厳しい状況下にあった。2013年度まで海外遠征は年に1回あるかないか。2013年度においては、公式戦の世界選手権アジアオセアニア予選を除き、一度も海外には行っておらず、国際大会は国内で行われた北九州国際大会のみだった。
これらの要因の一つには、2013年度までは合宿にしろ海外遠征にしろ、自己負担が必要だったことが挙げられる。それこそ海外遠征には一人数十万円の費用が必要とされた。また公式戦においても、パラリンピックを除き、一人いくらかの費用が必要とされていたのだ。そのため、こうした費用を工面することができるか否かも、日本代表になれる一つの要素となっていた時代があった。
それが、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定を契機に、事情が一変した。競技力向上事業助成金で合宿や海外遠征の費用を賄うことができるようになったからだ。自己負担の割合も徐々に減少し、2016年度以降は自己負担はゼロとなった。
合宿の頻度や日数も徐々に増え、2016年度以降は月に1回、1週間程度の合宿が行われるようにまでなった。海外遠征も2014年度には3回に増え、公式戦や国内開催をあわせると、海外との対外試合は7回にまで急増。新型コロナウイルス感染症のパンデミックとなる前の2019年度までは、同程度に海外遠征が実施されてきた。
月に一度の合宿を積み重ね、海外との対外試合を何度も経験してきたことが、東京パラリンピックに向けてのチームビルディングにいかに重要だったかは想像に難くない。トレーニングの強度のみならず、「東京パラリンピックでメダルを獲得する」というマインドが常にキープされ、チームワークが築かれていったのだろう。今後もこうした充実した強化体制なくして、ハイパフォーマンス化が進むパラリンピックでのメダル獲得は難しいことが予想される。
また、自治体や民間の対応も、東京パラリンピック開催が決定したことによって大きく変化し、練習環境が改善されたことも挙げられる。それまで車いすユーザーの体育館やジムの利用は「床に傷がつくから」「対応できる人間がいないので」などという理由から断られるケースが少なくなかった。そのため、車いすバスケットボール選手たちは練習環境が限られ、十分なトレーニングを積むことができないという問題に直面していた。それは、日本代表が活動をするにも影響は大きく、合宿の候補地は限られていた。
それが、東京オリンピック・パラリンピックの開催決定をきっかけに、パラリンピック競技への理解が深まり、逆に自治体の方から合宿地としての施設利用を提案されるようにもなった。
また、2018年6月1日にパラスポーツの専用施設として「日本財団パラアリーナ」がオープンしたことも大きい。車いすバスケットボール男子日本代表では、関東圏内の選手に限られてはいたが、日常的にパラアリーナを練習拠点として活用することでトレーニングの強度を維持してきた。
日本財団パラアリーナのバスケットボールコート
こうした強化体制の充実化が進む中、2013年に男子日本代表のHCに及川晋平氏が就任したことも欠かすことはできない。及川氏は自身も日本代表として2000年シドニーパラリンピックに出場した経験を持つ。そして、名将マイク・フログリー氏(カナダ)の指導を、日本人で初めて受けた人物でもある。
フログリー氏は、1996年から2004年まで男子カナダ代表のHCを務め、2000年シドニー、2004年アテネと母国をパラリンピック連覇達成に導いた。また、アメリカのウィスコンシン大学ホワイトウォーター校、母校のイリノイ大学でもコーチを務め、12度の全米大学選手権優勝と、世界を代表する指導者として知られている。
そのフログリー氏の指導によって、及川氏が現役時代に習得したことの一つが「ベーシックス」。科学的根拠に基づき、バスケットボールというスポーツを成立させるための車いすの基本的動作のことだ。男子日本代表HCに就任後、及川氏はフログリー氏が開発した「ベーシックスプログラム」を導入すると同時に、日本人に適したベーシックスを開発し、その実践と強化を図った。
その成果は、2016年リオデジャネイロパラリンピックで出ている。成績こそ9位と振るわなかったが、日本代表に対する世界の意識はわずかながらも確実に変化の兆しを見せ始めていた。それまで日本に対して余裕さえ感じられていた欧州の強豪国が、リオでは本気で勝ちにきていたことを、日本代表は敏感に感じ取っていたのだ。結果が伴うのはまだ先のことだが、及川氏の指導の下、リオまでに積み上げてきた「ベーシックス」が、東京パラリンピックに向かううえでの重要な素地となったことは間違いない。
さらに、及川氏の人脈の広さもチーム強化には欠かすことはできなかっただろう。なかでも、戦略コーチの東野智弥氏とメンタルコーチの田中ウルヴェ京氏の存在は、及川氏がチームビルディングを進めていくうえで欠かすことができなかったように思う。
東野氏は、NBAのサマーリーグでアシスタントコーチを務めたこともあり、車いすバスケットボール男子日本代表の戦略コーチに就任した当初は、bjリーグの浜松・東三河フェニックスHCを務めていた。2016年には日本バスケットボール協会技術委員会委員長に就任し、東京オリンピックで44年ぶりに出場を果たした男子日本代表、そして史上初めて銀メダルを獲得した女子日本代表の活躍を裏で支えてきた人物だ。男子のフリオ・ラマスHC(当時)、女子のトム・ホーバスHC(現・男子日本代表HC)の手腕を見抜き、日本代表の指揮官に抜擢するなど日本バスケットボール界の躍進における功績は計り知れない。
実は東野氏は、1998年に車いすバスケットボールの日本代表スタッフに入っていたこともあった。そのため、車いすバスケットボールにも精通する東野氏からのサポートが、及川氏が世界基準のチームをつくるうえで大きな支えとなっていた。
一方、ソウルオリンピックシンクロナイズドスイミング銅メダリストで、メンタルトレーニング上級指導士コーチとして活躍する田中ウルヴェ京氏を、及川氏が日本代表のメンタルコーチに招聘したことも欠かすことはできない。田中氏のトレーニングのもと“強くてしなやかなメンタル”が作り上げられた。
2018年、男子日本代表が世界選手権で当時欧州王者だったトルコを破った際、IWBF(国際車いすバスケットボール連盟)は「大番狂わせ」と表現し、「今大会最もエキサイティングな試合だった」と称した。さらに、敗れはしたもののリオパラリンピック銀メダルの強豪スペインとの決勝トーナメント1回戦では、3Qを終えた時点で15点のビハインドを負いながら日本は4Qで猛追し、一度は逆転するなど接戦に持ち込み、最後は2点差にまで迫った。
この時、田中氏はこう語っている。
「選手一人ひとりが、弱い自分も強い自分も、きちんと知って、そして認めるということができるようになった。だから相手のことも深く知ろうとするし、本音が言い合える仲間としての意識が高い。どんなに点差が離れても、みんなでなんとかしようとする力というのは、リオ前にはなかったもの」
長年かけて行ってきたメンタルトレーニングによって、どんなに劣勢な局面においても、“今すべきことに集中する”ことができた男子日本代表。それが数々の逆転劇を生み出す基盤となった。
そのほか、及川氏がパラリンピックを目指すA代表と、ジュニア代表との間に共通認識を図ることで、将来を見据えた継続的な強化につながるというビジョンのもと、リオパラリンピック後、男子U23日本代表のHCに、A代表のアシスタントコーチ(当時)だった京谷和幸氏(現HC)を登用したことも大きかったと言える。そして、京谷氏もまた及川氏の期待に応えるかたちで、2017年男子U23世界選手権ではU23日本代表をベスト4に導いた。それをきっかけにして多くの若手がA代表に抜擢。世代交代が進み、最終的にはベテランと若手が融合した非常にバランスのとれたチームとなった。
及川氏が監督、京谷氏がHCと立場を代えて臨んだ東京パラリンピック。畑を耕し、種をまいて芽が出たところで及川氏からバトンを渡された京谷氏のもと、男子日本代表は銀メダルという実を結んだ。
東京2020大会で銀メダルを獲得した日本男子チーム
このように、東京パラリンピック開催が決定したことによってもたらされた「人・モノ・カネ」すべてがそろって初めて、「銀メダル獲得」という結果につながったと考えられる。
もちろん、この先について楽観視することは決してできない。2021年11月にはIPC(国際パラリンピック委員会)から2024年パリパラリンピックの各競技の実施種目および出場枠・人数が発表された。最も厳しい状況に追い込まれたのは、車いすバスケットボールだろう。東京パラリンピックまで男子は12あった出場枠が、8に激減することになったのだ。開催国枠を除けば、わずか7の出場枠を世界で争うことになる。そして、初めて“追う立場”から“追われる立場”となった日本が、世界の厳しいマークにあうことも予想される。
果たして、「人・モノ・カネ」の3大要素をどのようにして維持し、もしくは引き上げていくことができるのか。特に、日本代表活動の事業を担うJWBFの手腕が問われることになりそうだ。