2019.07.31
- 調査・研究
© 2020 SASAKAWA SPORTS FOUNDATION
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スポーツ政策研究所を組織し、Mission&Visionの達成に向けさまざまな研究調査活動を行います。客観的な分析・研究に基づく実現性のある政策提言につなげています。
自治体・スポーツ組織・企業・教育機関等と連携し、スポーツ推進計画の策定やスポーツ振興、地域課題の解決につながる取り組みを共同で実践しています。
「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。
日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。
2019.07.31
一人の人間が持つ力というのは、しばしば、想像をはるかに超えるほど大きなものとなり得る。たった一人であっても、周囲を、組織を、さらに社会さえも変えていくだけの力を発揮できるのだ。ただし、そこにはひとつの条件がある。けっして揺らがない情熱と、どんなに困難でも信念を貫き通す実行力がなくてはならない。それがあれば、一人で世の中を動かすこともできる。イギリスと日本で、障害者スポーツを、さらに進んでパラリンピック運動を興し、発展させていった二人は、まさしくそのような人物だった。
障害者に対する運動訓練は古くから行われていた。紀元前からあったようだ。近代では、19世紀に入って医療体操が発達し、義肢使用者や脚に障害のある人がスポーツをしたという記録も残っている。20世紀になると視覚障害、聴覚障害、身体障害の人々が競技の形でもスポーツを楽しむようになった。ただ、それらはごく一部のことであり、幅広い発展がみられたわけではなかったと思われる。
ルードウィヒ・グットマン博士
そんな状況のもとで、障害者スポーツ発展への扉を力強く押し開き、のちの隆盛に直結する確かな基礎を築いたのがルードウィヒ・グットマン博士だった。
ドイツに生まれ、ナチスの台頭によって英国に逃れたこの神経外科医が、ロンドン郊外のストークマンデビル病院に新設された脊髄損傷センターを率いることになったのは1944年のことだ。折しも第二次世界大戦のただ中である。病院には戦闘で下半身不随となった兵士が次々と運ばれた。患者たちの治療にあたったグットマン博士が確信を抱いたのが「スポーツの効用」である。
「障害者にとって、スポーツは最も自然な治療訓練であり、また在来の療法を補足して、より以上の効果をあげ得るものである。…筋力、共同運動、スピード、持久力を回復するために非常に有効である」
著書の記述だ。これに加え、スポーツにはその楽しみによって患者の心を開く効果があり、社会復帰のためにも有効であると説いている。これらの確信が確固たる信念を形づくり、治療とリハビリテーションにさまざまなスポーツを取り入れる方針をためらわず推し進めるに至った。パンチボール訓練、ロープクライミング、スヌーカー、車いすポロ、車いすバスケットボール、水泳、アーチェリー、卓球―。博士は多彩なスポーツを取り入れて目覚ましい成果を挙げ、スポーツによる治療・リハビリの方法を確立した。
この先駆者はさらに偉大な一歩を進めた。治療やリハビリにとどまらず、障害者のスポーツを競技の段階にまで進めたのは、まず医療面でのしっかりとした土台を築いたグットマン博士ならではの功績と言うべきだろう。
現在のストークマンデビル病院
1948年7月28日に開かれたストークマンデビル競技会は、アーチェリーにわずか16人の車いす選手が出場しただけの、しごくささやかな大会だった。が、博士はここでも確信を抱いていたようだ。著書にはこうある。
「この競技は、オリンピックがロンドンで開かれる同じ日に開催された。小規模ではあったが、その大会は競技スポーツが健常者の特権ではなく、脊髄性麻痺障害者のような重度障害者でも、その気になれば、スポーツができるということを世間に示した」
ここからストークマンデビル大会は毎年続いていく。少しずつ参加者数と競技数を増やし、国際化も果たしていく。病院で毎年欠かさずスポーツ大会を開き続けるのは簡単なことではなかったろうが、「重度障害者でもその気になればスポーツができる」の信念が困難を乗り越えるエネルギーとなったに違いない。その目は将来をも見通していた。著書の記述だ。
「1949年の表彰式において、著者はその年の大会の成功に感動して、将来を思いながら次のように述べた。『ストーク・マンデビル競技会が真に国際的となり、身体障害者にとってオリンピックゲームと同じように世界的に有名な大会になる時がくるだろう』」
歴史はその予見の通りに進んでいく。1960年、オリンピックの直後にローマで開かれた国際ストークマンデビル競技大会。21カ国から400人の選手が11の種目に参加し、初めて英国外で開かれたこの大会は、国際パラリンピック委員会が設立されたのち、第1回のパラリンピック大会として認定された。その後のことは、いまや誰もが知っている。夏季大会に加えて冬季大会も開かれるようになったパラリンピック大会は発展の一途をたどり、2016年のリオ夏季大会では159カ国・地域と難民選手団から4316人が参加し、22競技、528種目が行われるというスーパーイベントにまで成長したのだ。
ルードウィヒ・グットマン。この人物がいなければ、障害者スポーツとパラリンピック大会のこれほどの発展は望めなかったかもしれない。まさしく彼は「パラリンピックの父」だった。一人の先駆者の信念と情熱が道を切り開き、前へ進む原動力ともなり、自ら抱いた壮大な夢を現実のものとしたのである。
中村裕博士
そして日本でも同じように、一人の人物が未踏の道を開いた。2020東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まって以来、再び注目を集めるようになった中村裕博士の足跡を振り返るたびに、その功績の偉大さをあらためて思わずにはいられない。
1960年、国立別府病院整形外科科長を務めていた中村博士は、リハビリテーション研究のために欧米に派遣された。その途次、英国のストークマンデビル病院を訪れた時にすべてが始まった。「脊損患者の85パーセントが、平均6カ月で社会復帰する」というグットマン博士の成果を目の当たりにして、自らの進むべき方向をはっきりと見定めたのである。
「私は、このストークマンデビルではじめて一つの大きな目標を与えられたように思った」「グットマン博士の『手術よりスポーツ』という治療方針も、リハビリテーション医学として最も正しいことが理解できた」
その時の思いを書いた著書の記述である。日本ではまだ「リハビリテーション」という言葉さえ一般的でなかったころだ。よりよい医療を模索していた中村博士の鋭敏な感覚は、英国の先達の差し示したものをしっかりと受け止めた。何をなすべきかの確信を抱いて帰国したところから、33歳の若き整形外科医の奮闘が始まり、日本の障害者スポーツ発展の幕が上がる。
中村裕という人物の並外れたところは、思い立ったことをすぐさま実行に移し、どんなに困難があってもひるまず邁進していく強さにある。この時もそうだった。翌1961年、大分県身体障害者体育協会を設立。その年の秋には第1回大分県身体障害者体育大会を開いた。1962年には国際ストークマンデビル競技大会に、国立別府病院と国立別府療養所から二人の車いす選手を選んで赴き、日本選手の国際大会初参加を実現させた。大分県の幹部らを巻き込んでの活動だったが、中村博士の抜群の行動力が何よりのエネルギーとなったのは言うまでもない。
1964年の東京オリンピックのあとに国際身障者スポーツ大会を開くことを関係者に強く働きかけたのも彼だった。のちに第1回パラリンピックと認定された1960年大会は、オリンピック開催後に同じローマで開かれている。そういう流れができつつあった中で、「東京でも」との話は出てきていた。しかし、具体的に動き出していたわけではないようだ。中村博士が関係団体や新聞社に働きかけて、大会の準備がようやく始まったのである。
1962年のストークマンデビル大会参加では資金調達に苦慮した。多くの協力もあって派遣が可能になったのだが、それでも足りない資金を補うために、博士が自分の車を売り払ったのはこの時の話だ。そこにも、なすべきことは必ずなし遂げずにはおかないという中村博士の信念と情熱が垣間見えている。
初めてストークマンデビルを訪れた時、中村博士はグットマン博士にこう言われた。
「いままでにも何人もの日本人がやって来て、みんながここのやり方を真似したいと言って帰っていった。ところが、いまだに一人として実行していないようだ」
しかしここに例外が、それも決断と実行にかけては飛び切りの例外がいたのである。おそらくグットマン博士は、短い間にこれだけのことが日本で実現するとは思っていなかったのではないか。二人の選手を連れて参加した中村博士に、グットマン博士は「君は実行力のある数少ない日本人だ。今後も頑張ってほしい」と最上級の賛辞を送った。「障害者スポーツを世界に広めたい」と念願していた先駆者は、東洋の若き後輩に大いなる可能性を見出したに違いない。
奮闘は続く。ストークマンデビル大会には毎年、選手を率いて参加。1963年にはオーストリアで開かれた第1回の国際身障者競技大会にも5人の選手を送った。下半身麻痺の車いす使用者に限られたストークマンデビルに対し、こちらは視覚障害や四肢切断なども含む大会だった。
1964年東京パラリンピックのときのグットマン博士と中村裕博士
これらの活動を土台として、1964年の国際身体障害者スポーツ大会(国際ストークマンデビル競技大会)、すなわち東京パラリンピックの開催が実現したのである。この年、大会に先立ってグットマン博士が来日したのも中村博士の要請があったからだ。国内初の大会を開き、海外遠征も重ね、グットマン博士との厚い信頼関係も築いてきたからこそ、パラリンピック開催への道が順調に開けていったのだった。
欧州以外での初めての開催。5日間の会期で、22カ国からおよそ400人の選手が参加し、日本からも53人の選手団が出場するという充実した内容になった大会は、のちに第2回パラリンピックと認定された。中村博士は日本選手団長を務めたが、全体を見通してみても、大会を実現させ、成功に導いた最大の功労者が彼だったのは間違いないだろう。
グットマン博士に大いなる刺激を受け、帰国して治療・リハビリにスポーツを取り入れた時点では、まだ賛同の声ばかりではなかったと思われる。障害者のための競技会を開くという計画に至っては、強い批判にさらされてばかりだった。まして、中央からは遠く離れた九州の一医師なのである。絶対に崩れない信念と並外れた実行力があってこそ、時にはほとんど独力に近い形で、またパラリンピック開催にあたっては関係者の先頭に立つ牽引車として、これだけの大事業をなし遂げることができたのだ。グットマン博士の場合と同じく、中村裕という人物がいなければ、日本の障害者スポーツの発展は大きく遅れていたに違いない。
彼は徹頭徹尾、実践の人だった。論ずるのではなく、何ごともためらわずに実行に移した。
東京パラリンピック開催のあとに全精力をつぎ込んだのは、1965年の「太陽の家」設立である。「保護より機会を」「世に身心障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」という考えのもとに、障害のある人々が仕事について自立していく場を大分県別府市につくったのだ。これもまったくゼロからの出発だったが、「働いて自立していくことが絶対に必要」の信念は揺らがず、さまざまな人々や団体を巻き込んで前進させていった。これはいまや、多くの大企業との共同出資会社や協力企業をつくる一方、別府のほかにも愛知、京都など5カ所の事業本部を設けて、幅広い就労支援と生活支援を行う一大組織に発展している。他に例を見ないチャレンジであり、成功であると言っていいだろう。これもまた、思い立ったことは必ずやり遂げる強さの成果に違いない。
「自分の思ったことを実現しなければ気がすまない。多少、無理があってもやってしまう。そうすると、周りも支援しないわけにはいかないんですね」
「不可能を可能にするという生き方でした。そうしていると、周りの人も引き込まれてしまう。渦を巻いて、周りを引き込んでいくんですよ」
「情にもろい。健常者には厳しかったけど、障害者にはいつもやさしかった」
太陽の家で間近に接していた人々は、中村像をそんなふうに語る。ワンマンで、少なからず強引なところも。ただ、自分の思うところをけっして曲げず、時として強引なまでにものごとを押し進めたのも、障害者が暮らしやすい世の中を目指す情熱ゆえのことだ。障害者に親身に寄り添う姿勢は常に変わらなかった。その姿勢が揺らがなかったからこそ、多くの人々や組織が共感して博士のもとに集まり、力を貸したのだろう。
「太陽の家」の運営のかたわら、障害者スポーツでも新たな道を切り開き続けた。中でも特筆すべき功績としては、1975年の「フェスピック」(極東・太平洋身体障害者スポーツ大会)創設を挙げておきたい。大分市で開かれた第1回大会にはアジア・オセアニアから18カ国が参加した。さまざまな面で発展途上にある国々。とりわけ、障害のある人々の立場は苦しいものだったろう。そこに、障害者福祉へとつながっていく種をスポーツという形でまいたのである。これがアジアの障害者スポーツ発展の第一歩となり、現在のアジアパラ競技大会の源流ともなった。その大仕事を大分という一地方を中心としてなし遂げたのは、まさしく歴史的な偉業と言うべきだ。
インドネシアのジャカルタで開催された2018年アジアパラ競技大会
1981年には大分車いすマラソン大会の開催にも尽力した。東京以来、1980年のアーネム(オランダ)大会まで、5回にわたってパラリンピックの日本選手団長も務めた。持病で体は弱りつつあったが、彼はけっして立ち止まらなかった。
1984年、57歳の若さで死去。力強い牽引車を失ったのは実に大きな痛手だったが、それでも太陽の家の活動や障害者スポーツの振興は変わることなく続いた。大先達がしっかりと発展への道筋を指し示しておいたからである。
ルードウィヒ・グットマン。中村裕。強固な信念と並外れた情熱を併せ持った一人の人間の力がどれほど大きいかを示した先駆者。二人の足跡は、そのまま障害者スポーツの歴史である。