国会内で早大・雄弁会時代の先輩議員と(中央)
―― 高校卒業後、子どもの頃から憧れ続けてきた早大ラグビー部の一員になられました。
嬉しかったですよ。ですから意気揚々と入部したわけですが、言い方は悪いけれど、全くと言っていいほどチャンスをもらえませんでした。もう初めから「今年はこのポジションには誰々」というふうに全て決められてしまっていて、一軍、二軍、三軍とありましたが、三軍にさえも入れてもらえない我々のような「その他大勢の選手」には、いつまでたっても何も声がかからなかったんです。いつもボール拾いのようなことばかりさせられていました。それに耐えるべきだったのかもしれないけれど、やっぱりラグビーをするために入ったわけですから、だんだんとイライラが募りまして、それが胃にきて体調を崩してしまったんです。それで大西先生に相談すると「少し休みなさい」と言われました。でも、それでなくてもメンバーに入れてもらえないのに、休んでしまったらなおさら入れてもらえなくなってしまう。それで「もう、ダメだな」と思ったんです。
今思えば、少し結論を出すのが早すぎたかもしれないけれど、その時は「いつまでたっても状況が変わらないのに、続けていても仕方ない。ここでラグビー以外の次の道を考えなければいけないな」と思いました。もし、その時にやめずに最後まで続けていたら、どこかのタイミングで起用してもらって、大学卒業後はラグビー部のある企業に就職できたかもしれません。
ただ、あの時に辞めたからこそ、こうやって政界に進出して、総理大臣にまでなったわけで、人生というものは本当にわからないなと思いますね。
だから高校生や大学生に講演でよく言うのは「人生というのはラグビーボールみたいなもの」ということ。「予想した通りにボールは転がらず、思いがけないところに飛んでいってしまう。それでも繰り返し練習をしていくと、自然とボールが落ちてくる先に体が行くものだし、体が行く方向にボールが弾んでくれるもの。それを会得するには、練習あるのみ。つまり、人には必ずチャンスが訪れるのだから、希望を持って諦めずに人生を歩みなさい」と。
市民に根付いている「ラグビーの町」としての誇り
衆議院初選挙で応援に訪れた岸元首相(中央)。
その左が森喜朗氏(小松駅前、1969年)
―― 大学卒業後は、産経新聞社に入社されて、1969年に衆議院議員に初当選されました。政界に入ってすぐに教育問題を旗印に掲げられました。
「教育」という言葉はあまり好きではなくて、私がやろうとしたのは「人づくり」。人間というのは人や環境によって人間形成されます。なのに、現在の子どもたちはかわいそうですよ。小さい頃から「勉強しなければ、いい高校、いい大学に入れない」と言われて、机に向かわされてばかりですからね。本当はどの子にもいろいろな才能があるはずなのに、その才能を見る前に大人は「この問題を解きなさい」と言うわけです。こういう人間教育をやっている限り、この国の将来はないなと、私は思います。
確かに、今の若い人たちには「優秀な人」はたくさんいます。ただ、私から言わせれば「賢い人」は少ない。そういう中で、スポーツの重要性を感じています。もちろん、野球やサッカーでもいいのですが、なかでもラグビーというスポーツには、「助け合うこと」「信頼をすること」「犠牲的精神」「勇気」という人間形成の総合的な要素が詰まっている。これらを備えて社会に出たら、必ず立派な賢い人間になりますよ。しかし、これらは学校ではなかなか教えることはできない。だからこそ、スポーツをすることが大事なんです。
現在、日本には子どもたちが裸足で自由に駆け回れるグラウンドが少ないですよね。なぜ、オーストラリアやニュージーランドのラグビーが強いかというと、そこら中に芝生のグラウンドがあるからです。私がラグビーワールドカップを招致して良かったと思うのは、12の開催都市に立派なラグビー競技場が用意されたことです。そこで子どもたちが思い切り走り回ってくれたらいいなと思っているんです。それこそが、ワールドカップ開催のレガシーとなります。
この歳になって改めて思うのは、私の父親は立派な人だったなということ。若い時代をほとんど戦争に奪われて、何を楽しみに生きていたかと言えば、やっぱり息子である私なんですよね。ところが、中途半端にラグビーを辞めてしまって、父親の楽しみを私自身が奪ってしまった。本当に申し訳なかったなと今頃になって気が付きました。ですから、いつか冥土で父親に会った時には「親父、ちゃんと自分がやるべきことをやってきたよ。日本でラグビーワールドカップを開催して、これだけ盛り上がったよ」と報告したいなと思っているんです。
釜石がラグビーワールドカップ日本の国内開催都市に決定(2015年)
(写真提供:釜石市)
―― そのラグビーワールドカップが、いよいよ今年開催されます。全国12会場で行われるわけですが、特に森さんは釜石市(岩手県)への強い思いを述べておられました。「日本でラグビーワールドカップを開催するのに、釜石市でやらないという選択はない」と。
何も釜石市を特別視しているわけではないんです。ただ、ラグビーにおいて釜石市を無視するわけにはいかないと。釜石市は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けました。さらに、かつては実業団ラグビーの黄金時代を築き上げた新日鐵釜石の母体であった新日鐵が2001年にスポーツ事業の見直しを理由に撤退しました。にもかかわらず、その後、ラグビー愛好家が集まって、「釜石シーウェイブスRFC」としてチームは再始動した。今ではトップリーグで活躍していた選手が第一線から退くと、「仲間に入れてくれ」とシーウェイブスに入って、楽しみながらラグビーをやっていますよね。やっぱり釜石市は「ラグビーの町」。形は変わってもラグビーへの愛情は消えなかったんです。
―― ただ、被災地がラグビーワールドカップの開催地として手を挙げることは、簡単なことではなかったのではないでしょうか。
震災後、釜石市を訪れると、野田武則釜石市市長が「森さん、この釜石でラグビーワールドカップをやらせてください」と言ってこられたんです。でも、現在「釜石鵜住居復興スタジアム」がある場所は、津波に襲われた小学校の跡地で、当時は荒地があるだけでしたから、「この状態で、どうやって競技場を作るんだい?」と言いました。そしたら「それを作るのが政治家でしょう」と言われてしまいましたよ。「うん、まぁ、そうだな。できる限りのことはしてみよう」と言って、競技場建設に向けて動き始めたんです。
東大阪・花園ラグビー場
(写真提供:花園ラグビー場)
―― 釜石市に行くと、「あの時、森さんが動いてくれたおかげ」と感謝の言葉をよく耳にします。
ただ、当時は反対の意見も随分とありましたよ。「こんな大変な時に、ラグビーワールドカップどころじゃないだろう」と。でも、すっかり寂しい町になってしまった釜石市に活気を取り戻すには、やっぱりラグビーしかないわけですよ。だから本当に良かったと思います。釜石市だけでなく、熊谷市(埼玉県)や東大阪市(大阪府)も頑張ってくれて、立派な競技場ができましたよね。花園競技場がある東大阪市は野田義和市長が「ラグビーW杯を日本で開催するというのに、高校ラグビーの聖地である花園で試合をしないなんて考えられない」と言って、近鉄から花園を買い取りました。というのも、当時の競技場のままではラグビーワールドカップの試合をする基準には達していませんでしたから、大規模な改修工事が必要でした。ところが、当時は近鉄という企業の所有物でしたから、公的資金を投入することができなかったんです。そこで私が野田市長に「どうする?」と言ったら、「買いましょう。費用はなんとかします」と言ってくれました。結局、市民からも反対の声はほとんど聞かれなかった。やっぱり東大阪市民はラグビーの聖地があるということに対して誇りを持っているんですよね。
熊谷スポーツ文化公園・ラグビー場
熊谷市もそう。特に関東圏内のラグビーにとって、熊谷スポーツ文化公園はなくてはならない場所。園内には3面あって、一度に3試合を行うことができ、本当に助かっていた。「その熊谷市でラグビーワールドカップの試合を招致しないなんて、どう市民に説明するのか」と、富岡清熊谷市市長も立ち上がってくれた。ただ、ラグビーワールドカップの試合をするためには、拡充しなければならず、膨大な費用がかかった。それをどうするかというのが問題でした。
そうしたところ、上田清司埼玉県知事が「それでは、県がその費用をもちましょう」と言ってくれたんです。国立競技場の完成が間に合わず、横浜市の会場で決勝をすることになったのも、黒岩祐治神奈川県知事の協力があったからこそでした。結局は、やっぱりきちんと判断、決断することのできるリーダーがいるかどうかが重要だということです。
―― では、ラグビーワールドカップの成功とはどういうものだとお考えでしょうか?
まずは12の開催都市の競技場が満員の観客で沸き返ること。そしてラグビーというスポーツが日本に根付き、野球、サッカーとともに日本の「3大スポーツ」だというふうになること。もう一つ、本音を言えば、日本代表チームが世界の強豪国に対抗できるような強いチームになること。
ただ、これは現実的に言えば、もう少し時間がかかるだろうなとは思いますが、「日本も強くなったね」と言ってもらえたらなと。ベスト8に入ってくれれば最高ですが、それが叶わなくても、「惜しかった。でも、本当に強くなったね」というようなことを、日本国内からも海外からも言ってもらえるような試合をしてもらいたいと思います。
日本ラグビーフットボール協会会長時代、代表キャップ授与式
(中央、2014年)
―― また、今大会はアジアで初のラグビーワールドカップ開催ということも重要な意味を持っています。これから日本はますますアジアのラグビー界を牽引するリーダー役が求められていくのではないでしょうか。
私が日本ラグビーフットボール協会会長を務めていた時にIRBの総会で述べたのは、アジアにラグビーを普及させていきたいということ。アジアでは国同士での衝突があるけれども、それこそ衝突はラグビーでやればいい。それは私自身が大西先生に教わったことですが、それを伝えるために、ラオス、カンボジア、インドなどを回りました。そうすると、どこの国でもラグビーへの期待は大きいんです。普及拡大にはまだまだ時間を要すると思いますが、将来、アジアのどこに行ってもラグビーが盛んに行われているというようになれば、日本でラグビーワールドカップを開催したことが、世界のラグビー界にとって新たな歴史の一歩となることは間違いありません。
―― アジアで普及を進めていくには、やはり金銭的支援も日本はしていく必要があるのではないでしょうか。
これはスポーツ界全体に言えることですが、もっとスポーツ振興くじ* の「toto」や「BIG」を拡充して手厚いものにしなければいけないと思います。totoが導入された当初は、「文部科学省が博打をやるのか」などと散々に言われましたが、結局totoを導入したからこそ、今日のスポーツ界があるわけです。ですから、サッカーのJリーグだけでなく、もっと他の競技にも広げていくべきです。そうすれば、スポーツに興味を抱く人も増えるはずです。totoやBIGも、今ではずいぶんと浸透、定着してきていると思いますので、これをスポーツ界の財源として、アジアのスポーツ振興にも使っていけるようになるといいと思います。
*「スポーツ振興くじ」(toto・BIG)とは、収益金を財源に誰もが身近にスポーツに親しめる、あるいはアスリートの国際競技力向上のための環境整備など、新たなスポーツ振興政策を実施するために導入されたもの。
人生で一番の幸せはラグビーで得られた出会いの数々
IOCバッハ会長と握手(中央右がバッハ会長、左が森喜朗氏)
―― ラグビーワールドカップ開催の翌年には、東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。
まさに社会的転換期と言えると思います。例えば、パラリンピックをきっかけにして共生社会を実現していこうという動きが活発化しています。そのこと一つとっても、オリンピックとパラリンピックを同じ組織にして良かったと思いますよ。それこそ、今ではパラリンピックの選手も人気が高いですよね。ただ、大事なのはこれを一過性のものにするのではなく、2020年以降も継続していかなければいけないということです。
―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場の後利用については、いろいろと意見があがっていますが、どのようにお考えでしょうか。
「球技場」として、サッカーやラグビーができるように改修されるという方向に傾いていますが、私は、国立競技場を活かす政策をもう一度、考えていかなければいけないと思っています。いずれにしても、国立競技場をラグビー場も含めるなんて、ラグビー界にとってそれは逆に迷惑な話ですよ。ラグビーの聖地は、やはり秩父宮ラグビー場ですし、せっかく建て替えの話もあがっているわけです。
じゃあ、どうするのかと言えば、私は国立競技場は陸上競技場のまま残すべきだと思います。なぜなら、2020年東京オリンピック・パラリンピックでは陸上競技で何度も日の丸が掲揚されるはずです。その競技場を、わずか1、2年で芝生を敷き詰めてサッカー場にするというのはあまりにも寂しい。オリンピック・パラリンピックで素晴らしい成績をおさめた歴史のある会場として、陸上競技の聖地とすべきです。甲子園や花園のように、若い陸上競技選手が目指すべき場所として残していかなければいけません。
―― 最後に、森さんにとって、ラグビーとはどんなものでしょうか?
私の人生そのものですよ。いつもサインをする時には「楽しく、苦しく、美しく」という言葉を添えるんです。これは大西先生のご自宅に「ラグビー庵」と題して、その言葉が飾ってあって、「あぁ、ラグビーとはこのことを言うんだな」と。ラグビーに少し触れただけかもしれないけれど、私は良い人生を送ったなと思っているんです。苦しかったこと、嫌なことはいっぱいありました。しかし、ラグビーに触れたおかげで、たくさんの出会いがあった。それが私の人生において一番の幸せだと思っています。
新国立競技場・完成予想図(内観)