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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

日本のラクビーを支える人びと
第84回
世界の重い扉を開いて日本ラガーマンの悲願実現へ

森 喜朗

日本スポーツの発展のために奔走されてきた森喜朗元首相。その功績は多岐にわたり、なかでも日本ラグビー史には欠かすことのできない立役者として寄与されてきました。

「ラグビーに出合えたことが人生で一番の幸せ」と語るほど、ラグビー愛に溢れ、その情熱が世界のラグビー界を動かしました。ラグビーとともに歩まれてきた人生について、そして悲願とされたラグビーワールドカップの招致成功への道のりなど、森元首相にお話を伺いました。

インタビュー/2019年2月7日・14日  聞き手/佐野 慎輔  文/斉藤 寿子  写真/森 喜朗・フォート・キシモト

元ラガーマンとしての意地と亡き後輩の存在

左から父・茂喜、祖父、母。母の膝に抱かれているのが1歳の喜朗

左から父・茂喜、祖父、母。母の膝に抱かれているのが1歳の喜朗

―― いよいよ今年、アジアで初のラグビーワールドカップが開催されます。関係者のみなさんにお話をうかがいますと、みなさん口をそろえて、「森元首相のご尽力が大きかった」とおっしゃいます。W杯招致にたいへん大きな役割を果たされたことは周知の事実ですが、その思いからお聞かせいただければと思います。

ラグビーワールドカップを日本で開催するというのは、正直私にとって「男の意地」でもありました。そこには様々な意味が含まれていますが、一つは父親(故・森茂喜、元石川県根上町町長、早大出)です。私は父親の影響を受けてラグビーが好きになりました。「早稲田大学でラグビーをやる」という夢を抱いたのも、もともとは父親の強い思いがあったからです。しかし、私はその父親の夢を果たすことなく、ラグビー部を辞めてしまった。つまり、私はラグビーを中途半端で辞めた「敗残兵」。自分ではそう思っています。小学生の時からラグビーに夢中で、将来は早大に入ってラグビーをすることを夢にしてきた私が、実際に早大に進学をしてラグビー部に入部したにもかかわらず、早くに挫折してしまった。そのことが本当に悔しいんですよ。あの時は、自分を責める気持ちが大きくて、もう大学も辞めようとまで考えて、毎日飲んだくれていました。とにかくお世話になった人たちに申し訳ないという気持ちでいっぱいだったんです。

スタンドで試合を見守る大西鐵之祐氏

スタンドで試合を見守る
大西鐵之祐氏

それで、父親の大学の後輩でもある当時早大ラグビー部の監督だった大西鐵之祐先生の所に行って「先生、私は大学を辞めます」と言いました。そしたら「親父さんは何と言っているんだ?」と聞かれたので、「辞めると言ったら引っぱたかれると思っていましたが、親父は何も言いませんでした」と答えました。すると大西先生がこう言ってくれたんです。「お前の親父はそういう人だよ。そんな親父をこれ以上苦しめてはいけない。何が早稲田だ、何がラグビーだ。そんなことでお前の人生が全て決まるわけじゃないんだ。ラグビーを見返してやろうじゃないか」と。要は「ラグビーに恩返ししなさい」ということを大西先生はおっしゃってくれたんです。それが私の「意地」になっているというわけです。

―― 大西先生というのはたいへん魅力的な方で、私は大学時代に体育社会学の講義を受けたり、取材でお目にかかったくらいでもそう思ったのですが、森さんにとって、大西先生とはどのような存在だったのでしょう?

父親から「イギリス型の紳士のスポーツであるラガーマンとはこういうものだ」という話を子どもの頃よく聞いていましたが、「あぁ、なるほど。こういう人のことを言うんだな」と初めて実物として見たのが大西先生でした。麻布(東京都)にある大西先生のご自宅に初めて伺った時に、田舎から出てきた私は随分と文化の違う所に来てしまった、と思いましたよ。ご自宅は決して大きくはありませんでしたが、庭に芝生が敷き詰められていて、そこにいつも学生たちが来て、先生といろいろな話をしていました。それを見て「あぁ、いいなぁ。これがヨーロッパの文化なんだろうなぁ」と思ったものです。また、大西先生は大学の先輩である私の父親を非常に大事にしてくれました。それが嬉しかったですね。ですから、私は大西先生が大好きでした。

大西鐵之祐氏(左)と日比野弘氏

大西鐵之祐氏(左)と日比野弘氏

―― そんな大西先生のお言葉をきっかけに、ラグビーとは違う道を行くことを決断されたんですね。

まぁ、そこからどうなって今があるかというと、果てしない旅が続いたわけだけれども、結局人生はラグビーと同じですよ。私はスタンドオフ(パス、キック、ランでゲームをコントロールし司令塔の役割を担うポジション)だったけれど、予測できないボールをどう処理するかを判断するのが仕事でした。人生も予測できないものですが、その時々で自分で判断した結果、国会議員となりました。そして議員になったからには、ラグビーというスポーツで育った自分は「スポーツ振興に注力しよう」という気持ちがありました。それでラグビーの普及にも力を入れてきたということです。
とはいえ、まさか自分が日本ラグビーフットボール協会の会長になるとは思ってもいなかったですよ。私を会長に押し上げたのは早大の先輩である日比野弘さん(元日本代表監督、2011年ラグビーワールドカップ招致委員会委員長)ですが、私自身は多少ラグビー経験があるものの、ラグビーの聖地である花園ラグビー場(2015年4月より東大阪市花園ラグビー場に名称変更)や秩父宮ラグビー場でプレーした経験はありません。そんな私が日本ラグビーフットボール協会の総帥になっていいのかと悩みました。ただ、もう一方では、政治家としてやってきたという自負心、一国の総理大臣を務めたという自信もありました。そう考えると、長い間、日本のラガーマンたちが一番に望んできたであろう「ラグビーワールドカップの日本開催」を実現させることは私の仕事だろうと思ったんです。それもまた、「男の意地」というわけです。

奥克彦氏

奥克彦氏

―― これはいろいろなところで書かれたり、話されたりしていますが、森さんがラグビーワールドカップ招致に並々ならぬ思いを抱かれていたもう一つの理由として、大切な存在がいらっしゃいますね。

奥克彦(故人、早大出身、外交官)くんですね。奥くんの気持ちを思うと、「何としてでもラグビーワールドカップ招致を成功させなければ」という気持ちになりました。「こんなところでくじけてちゃいけない」と。

―― 奥氏とは、どのように知り合われたのでしょうか。

大西先生からの紹介でした。ある日、大西先生からご丁寧なお手紙をいただきまして、「君の後輩に奥克彦という人物がいる」と書かれてあって、経歴も記されていました。それで、こう書かれていたんです。「彼はラガーマンとして頑張ってきたが、思うところがあって外交官になると決めたようだ。しかし、ラグビーと外交官の二つを追うことは難しいと彼は判断した。私もそう思う。つまり、君と同じようにラグビーとは違うところでの志が彼にはある。そこで私は先輩である君の話をした。同じような志を持った森喜朗という先輩が、今では国会議員になっている。その先輩を見習ってしっかりやりなさい、と。だから今後何かあった時には、彼の力になってほしい」と。奥くんはイギリスのオックスフォード大学に留学をしていて、その写真も一緒に同封されていました。その手紙を読んで、一度彼に会いたい、と思っていたのですが、しばらくは私が彼に会って何かをするということはありませんでした。

首相として初の所信表明演説(2000年)

首相として初の所信表明演説(2000年)

―― 実際に奥氏にお会いになったのは、いつ頃のことだったのでしょうか。

私が総理大臣に就任した時(2000年)に、突然、奥くんが勢いよく官邸に飛び込んできたんです。当時、彼は国連政策課長を務めていました。普通、官邸で総理大臣に直接話ができるのは、担当省庁の局長以上の者だけで、複数人で会わなければいけないという決まりがあるんです。当時、官邸には秘書官が4人いまして、外務省、大蔵省(現財務省)、通産省(現経済産業省)、警察庁から1人ずつ配属されていました。ですから、例えば外務省の高官が総理大臣である私に会う時には、外務省出身の秘書官が同席するんです。当時の外務省出身の秘書官は、昨年まで駐米大使を務めていた佐々江賢一郎さん(現日本国際問題研究所理事長兼所長)でしたが、必ず佐々江さんが窓口になり、同席していました。

ところが、奥くんはそういう面倒なことをしなくても勝手に一人で官邸に来て、総理大臣である私に会うことのできる数少ない一人に、いつの間にかなっていたんです。もう最初から「先輩、入ります!」と言って、ポンとドアを開けて秘書官たちに「先輩はいます?」と(笑)。そんな感じだから、私も「出て行け」とは言えませんからね。

まぁ、そうやって彼が来た時にいろいろと話をしたのですが、そのうちに彼が話し始めたのがラグビーワールドカップのことだったんです。もうすでに彼はイギリス勤務中にいろいろな国と打診をしてきていて、その中でわかったのは「どの国も、イギリス中心で、あまりにも保守的なラグビー界への不満が募っている」ということでした。それで奥くんは「先輩、ぜひ日本にラグビーワールドカップを招致して、保守的なラグビー界に一石を投じましょう」と提言してきました。私と奥くんとの深い親交が始まったのはそれからでした。

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会

ラグビーワールドカップ2015イングランド大会

2001年に内閣総辞職をした時には、奥くんは寂しそうに「先輩、もう私、やる気を失っちゃいました」と言ってくれていましたね。しかし、その後「もう一度、私をイギリスに送ってください」と言ってきたんです。私が「イギリスに行ってどうするんだ?」と聞くと、「もう一度、ワールドカップ開催に向けて動いてみたい」と。

私もそれには賛成でしたから、奥くんをイギリスの日本大使館に送るためにいろいろと動きました。結局、その時は公使として行ったのですが、外務省はラグビーワールドカップに公使である奥くんが動くことに対して、最初は難色を示したんです。そこで私が「まぁ、せっかく行ったのだから、やらせてやってくれ」と。それで、奥くんは積極的にいろいろな国を訪れて、ラグビーワールドカップ日本開催の道を拓こうとしたんだが、それが悪い方向に行ってしまった。

奥克彦氏(右)と大東和美氏

奥克彦氏(右)と大東和美氏

―― 2003年、奥氏は戦争真っ只中のイラクに支援活動のために行かれました。

彼はイラクに何度か行くうちに情がわいたのか、イラクに一生懸命になり過ぎてしまったんです。イギリスから一時帰国した時、私に会いに来てくれたことがあったんだが、その時に「先輩、私、イラクに行くことにしました」と。「でも、君はイギリス勤務なんだから、イラクに行くなんて無理だろう」と言うと、「それがいい方法があるんです。長期出張扱いにしてもらえば行けるんです」と言うんですよ。それで私は「確かにそういう方法はあるかもしれないが、それにしても、なぜそこまでしてイラクに行きたいんだい?」と聞きました。彼はこう言っていました。「先輩、イラクに行ってみたら、日本人は一人もいなかったんです。他国はあの危険な情勢の中でも各自の国旗を立てて、戦火の中を子どもたちを助けたりして頑張っているというのに、日本だけは何もしていない。それを知って、私はとても悔しかったし、そして恥ずかしかったです」と。彼の言う通り、戦争がおさまった時、イラクは「戦争は終わった。ありがとう」というお礼の言葉を各国の新聞に出したのですが、日本にだけはありませんでした。経済的支援は日本が一番だったにもかかわらずです。奥くんは「お金を出すことも大事だけれど、やっぱり一番は人なんです。日の丸が見えなければ、支援したことにはならない。だから私が行くんです」と言っていました。

2011ラグビーワールドカップ日本招致委員会発足記者会見(左。右は日比野弘氏)

2011ラグビーワールドカップ日本招致委員会
発足記者会見(左。右は日比野弘氏)

しかし、今では後悔していますが、当時私は「それはとてもいいことだ。じゃあ、しっかりやってきなさい」と言って送り出してしまった。そうして、彼は外務省が「危険地帯」として警笛を鳴らしていたイラクへと行きました。その後、イラクの情勢はさらにひどくなっており、私も心配していました。すると、ある日の早朝に佐々江さんから電話があって、「まずいことになりました」と。「どうした?誰か亡くなったのか?」と聞くと、「奥くんです」と言うんです。

「え!」と驚いて飛び起きましたよ。佐々江さんが言うには「まだ詳しい情報は入っていませんが、日本人2人が死亡し、その1人が奥くんのようです。詳細はまたお知らせします」と言って、電話が切られました。2003年11月のことです。その時、私はひどく後悔しました。「あの時、俺が『行かしてやってくれ』なんて外務省幹部に言わなければ良かった。奥くんのイラク行きを手伝った自分もまた彼を殺してしまった一人なんだ」と。この出来事が、ラグビーワールドカップ日本開催の実現に向けてさらに強い精神的支柱となりました。「奥くんが果たせなかったことを、何としても自分がやらなければ」と心に誓ったんです。

一国の総帥が投じた一石が世界を動かすきっかけに

―― 初めてラグビーワールドカップの招致に挑んだ2011年大会は、2票差で日本を上回ったニュージーランドに決定しました。その翌日、当時日本ラグビーフットボール協会会長の森さんがものすごい剣幕で、IRB(国際ラグビーボード:2014年にワールドラグビー(WR)に名称変更)の会長に、ラグビー界の保守的な態度、体制はおかしいと意見具申されたと伺いました。

今は変わりましたが、当時のラグビー界はひどいものでした。「紳士的スポーツ」と謳っていながら、中身はまるで違っていたんです。

ラグビーワールドカップ日本招致活動(右から2人目)

ラグビーワールドカップ日本招致活動(右から2人目)

当時、IRBには21名の理事がいたのですが、その投票権の割り当てがひどかった。IRB創設協会であるイングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカからは2名ずつの理事がいたので、投票権も2票ずつありました。つまり、この8ヵ国・地域で過半数の16票を占めていたんです。翻って、アルゼンチン、イタリア、カナダ、日本からは理事が1名でしたから1票ずつしか割り当てられていませんでした。残りの1票はFIRA(ヨーロッパラグビー機構)が持っていました。そんなとんでもない仕組みを初めて知って「こんなバカな話があるか!」と憤慨しましたよ。いわゆる旧大英帝国が束になれば、簡単に過半数が取れてしまう。そんなひどいことをやっていたんです。

―― そこで、森さんが一喝したわけですね。

一喝したというよりも、正直に言えば、腹いせみたいなものですよ。これまで私が抱いてきたラグビーへの尊敬と畏敬の念が失われて、「こんなものに対して憧れを抱いていたのか」と思うと、悔しくして仕方なかったんです。

日本代表のユニフォームを着て(右から2人目)

日本代表のユニフォームを着て(右から2人目)

当時は「もうこれで(日本ラグビーフットボール協会会長の)お役御免」のつもりでいたこともあって、「これはしっかりと言っておかなければ」と思いました。それでシド・ミラーIRB会長(当時)が、私たちが日本に帰国する前の最後に時間をつくってくれるというので、乗り込んでいったわけです。そして、こう言いました。「国連では、経済大国のアメリカや中国も、小国のフィジーやトンガも、すべて平等に1票ずつです。なぜ、ラグビーの世界だけが、力のある国が2票で、そうではない国が1票しかないのでしょうか。これが民主主義の先導国であるイギリスがやることですか?こんな時代錯誤的なことをしていることが世界に知られたら、恥ずかしいですよ。今すぐ改めなさい」と。

そして、「ラグビーというのは、15人全員でボールを運ぶスポーツです。フォワード(スクラムを組む8人。ボールの争奪戦でボールをキープしたり、奪ったりしてボールをつなぐポジション)だけでボールを運ぶラグビーなんて、つまらないでしょう。やっぱりウイング(バックスの両翼に位置し、快足を飛ばしてトライを狙うポジション)まで、ボールが広く展開されていくから面白いんです。そのラグビーの本家であるあなた方が、世界に展開せずに内輪だけでやっているなんて本末転倒というものです。そんなことをしていたら、必ずラグビー界は衰退していきますよ」と、はっきりと申し上げました。そうしたところ、イギリスのある新聞には「(ラグビーワールドカップ開催地を)ウイングまで広げろ」というタイトルの記事が掲載されたんです。

日本ラグビーフットボール協会役員等と(中央)

日本ラグビーフットボール協会役員等と(中央)

―― その意見具申が、世界のラグビー界を動かし、IRBがワールドラグビーへとなる最大の転機となりました。これは当時の日本ラグビーフットボール協会専務理事の眞下昇さんがおっしゃっていましたが、あの時、ミラー会長は、森元首相がおっしゃった正論に恐れおののいていたと。

イギリスのような民主主義が発達している国というのは、やはり一国の総帥である総理大臣に対して尊敬・畏敬の念を抱いているなと感じましたね。ですから、その元総理大臣が日本ラグビーフットボール協会の会長を務めているということが大きかったと思います。

私個人にというよりも、日本の総理大臣ということに非常に重きを置いてくれていたのではないでしょうか。実際どこに行っても、私とは必ずみんな会ってくれて、話を聞いてくれましたからね。

森喜朗氏(インタビュー風景)

森喜朗氏(インタビュー風景)

―― ただ、ニュージーランドに2票差で敗れ、悔しい思いで帰国されたと思います。すぐに「次は2015年だ」という話になっていったのでしょうか?

当初、私はもう日本ラグビーフットボール協会会長を辞めるつもりでいましたから、「あとはみんなでどうするか考えて下さい」と言っていたんです。しかし、ラグビー界を変えるには、そう簡単に辞めることはできないなと思い直しました。というのも、私がミラー会長に正論を述べたことをきっかけにして、世界的に「ラグビー界も変わっていかなければいけない」というふうになっていったんです。それで私はIRBにまず「アジアにまでラグビーワールドカップを広げてほしい」と提言しました。そしたらIRBの理事たちから「ところで、いったいアジアにはラグビーをやっている国はいくつあるんだい?」と聞かれました。登記上、アジアは38カ国がIRBに加盟していたのですが、私がその半分ほどの国に視察に行ったところ、ラグビーができる環境は全く整っていませんでした。ラグビーのボールもスパイクもない、なんて国もよくあったんです。環境が整っていたのは、香港、マカオ、シンガポールくらい。カンボジアやベトナムに行くと「道具がないから、なんとかしてほしい」と頼まれました。それで帰国後に日本のトップリーグの選手たちが使用していたジャージやスパイク、ボールなどをかき集めて各国に送りました。実はそれが現在外務省などで行われている「スポーツ・フォー・トゥモロー*」に派生していくんです。ラグビーで成功したことで、東京オリンピック・パラリンピックの招致の時にも政府が取り上げて、「みんなでスポーツを応援していこう」という活動となったわけです。

*「スポーツ・フォー・トゥモロー」とは、開発途上国など100カ国・1000万人以上を対象とした日本政府が推進するスポーツを通じた国際貢献事業。

イングランド代表

イングランド代表

―― そうした活動もあって、2019年大会の招致に成功したわけですが、実際の"票取り合戦"はどのようなものだったのでしょうか。

いやぁ、すごいものでしたよ。あまりオープンにはできませんが、当初日本としては「あと2票あれば勝てる」という計算でいまして、そこでウェールズを説得しようとしたんです。ウェールズの協会幹部とパリで話し合いの場を設けたところ、ウェールズのラグビーの聖地と言われている「ミレニアム・スタジアム」のネーミング・ライツを買ってくれる企業を探してほしいと言われました。彼らが狙っていたのは、日本の自動車メーカーの高級車ブランドだったのですが、破天荒な金額を言ってくるわけです。「ネーミング・ライツの契約が成立すれば、本当に日本に2票いただけますね?」と念押しすると、「間違いなく日本を支持します」と。それで、その場ですぐにその自動車メーカーの会長に電話を入れました。すると「森さん、それだけの金額を今即座に返事しろというのは、いくらなんでも無理ですよ。もう少し詳しい説明が必要です」と言うので、「じゃあ、今から帰るから」と言って電話を切って、同席をしていた眞下昇(当時、ラグビーワールドカップ招致委員会委員長)には「逃げないように見張っていて下さい」と言い残して、その日に日本に帰国しました。

すぐに会長に会って話をしたところ、まだネーミング・ライツがそれほど盛んに行われていない時代でしたから、ヨーロッパ支社だけでそれだけの金額を出せば、税法上、何か隠蔽しているんじゃないかとうるさく言われるだろうと。そこで会長からは「とりあえず半額で契約をして、後々、『お金がなくなったから』と言って他の日本企業に話を持っていけば大丈夫ですよ」という提案があったので、「じゃあ、それでいきましょう」ということになりました。「これはいい方向に進みそうだ」と思って、とんぼ帰りでパリに戻りました。ところが、現地に着き、約束のホテルに向かったのですが、眞下さんから「ウェールズの幹部がみんないなくなってしまいました」と言われたんです。部屋をノックしても応答がないし、何時間待ってもホテルに戻ってこないんだと。結局逃げられてしまったというわけです。

―― 結局、2011年大会はニュージーランドが開催権を得ますが、ウェールズはニュージーランドの会社と契約したのでしょうか?

毎年、オーストラリアとニュージーランドは帯同して各国に遠征するのですが、その時に試合の興行権を売るんです。興行権のある国は、その試合での収益をすべて得られますから、どこの国も欲しがるのですが、ウェールズはネーミング・ライツではなく、その興行権の話に乗っかったようです。つまり、単年度でキャッシュが欲しかったんですね。笑えない笑い話でもありました(笑)。

―― その後、2009年のIRBの理事会で2015年大会はイングランド、2019年大会は日本と史上初めて2大会同時に決定しました。これはどのような経緯だったのでしょうか。

ロビー活動で各国を回っていてよくわかったのは、イングランドがいかに嫌われているということでした。特に連合王国のスコットランド、ウェールズ、アイルランドは、絶対にイングランドにだけはやらせまいという気持ちがあるんです。ところが、2015年大会の招致で手を挙げていたのは、その嫌われ者のイングランドと、アジアから殴り込みをかけるかのようにやってきた日本ということで、どちらもいい顔をはされていない者同士でしたから、他国も「もう仕方ないから、2015年と2019年はイングランドと日本でやりましょう。どちらが最初にやるかは、本人たち同士で決めて良し」ということになったわけです。それで私は2019年を推しました。というのは、まだ当時、日本の経済が立ち直っていない時期でしたので、少しでも後の方がいいと踏んだんです。でも実際、2019年にして良かったなと思いましたよ。2015年では、経済的にも機運を高めるにも、少し厳しかったんじゃないかなと思います。

「早慶戦」で魅了されラガーマンの道へ

自宅療養中の父・茂喜(右)と、1歳の喜朗

自宅療養中の父・茂喜(右)と、1歳の喜朗

―― 森さんの子どもの頃の話をお伺いしたいと思います。もともとは野球少年だったと伺っていますが、ラグビーに初めて触れたのはいつだったのでしょうか。

あの時代は野球しかなかったという方が正しいですね。それも野球と言っても、ビー玉に糸を巻いて食用ガエルの皮で包んだのをボールにしていた頃の時代です。他に遊ぶものなんてなかった。ただ、父親のおかげで、私はラグビーボールは物心ついた時から目にしていました。父親は昭和8年(1933年)に早大を卒業し、「支那事変」が始まった昭和12年(1937年)の前年に召集されました。私が生まれたのが昭和12年ですから、私は終戦で戻ってくるまで、父親の顔を一度も見ることなく育ったんです。

ただ、自宅の玄関には革製のキャッチャーミットとラグビーボールが飾ってあった。幼少の頃はそれが何かはわかりませんでしたが、終戦になって、昭和21年に父親が戻ってきた時に初めて「これは野球のミットで、これはラグビーボールだ」と教えてもらいました。あの頃、田舎でキャッチャーミットどころか、革のグローブを持っている子どもなんて私くらいでした。まぁ、それで小学生の頃はキャプテンになれたようなものですよ(笑)。一方、ラグビーボールはよくわかっていませんでしたね。ただ、終戦前に母親が亡くなる際「これはお父さんが大事にしていたもので、あなたが大きくなったら渡すようにと言われていたものですよ」と言い残していたんです。正直、楕円形のボールが何なのか、よくわかっていませんでした。小学校2年生の頃でした。

引退した双葉山関(前列右)を自宅に迎えて(前列中央。その左は父・茂喜)

引退した双葉山関(前列右)を自宅に迎えて
(前列中央。その左は父・茂喜)

―― ラグビー自体を見たことはあったのでしょうか。

ずっと見たことがありませんでした。初めて目にしたのは、昭和23年(1948年)、小学4年生の時。その年の夏に早大ラグビー部が私の地元に合宿に来たんです。当時は終戦からわずか3年でしたから、まだまだ食糧が乏しい時代でした。それもラグビー部員は大きな体格で食欲が旺盛な者ばかりが40~50人もいたんです。それで早大の先輩である私の父親は世話好きの性格でしたから、おそらく調子よく「うちの田舎に来なさい」と言ったんでしょうね。それで選手たちは地元の小学校に寝泊まりをして練習をしていました。

一方、私の自宅には当時総監督の西野剛三さんや大西さんらコーチが泊まっていましたので、ラグビーで始まってラグビーで終わるというくらい、一日中ラグビーに触れる毎日でした。なにしろラグビーを見るのが初めてでしたから、選手たちがぶつかり合ったりしているのが面白くて仕方なかったんです。自宅に帰れば大西先生たちがラグビーの話をしているのを横で聞いたりして、「なんだかわからないけれど、みんな楽しそうだなぁ」と思っていました。ただ合宿ですから、みんな汚い練習着を着ていましてね。終戦直後ですから、ふんどし一つの選手もいましたから「なんて汚いんだろう」と思っていました。それから、怖いというのもありましたね。当時の部員に橋本晉一という選手がいまして、みんなから「ターザン」と呼ばれていたのですが、彼はロシア系で身長180cmあったんだけれども、その巨体でドーンと思い切りぶつかっていくわけです。その迫力といったら、もう恐ろしかったですよ。ですから「いやぁ、父はラグビーをやれと言っているけれど、オレはこんな汚くて、怖いのはやりたくないなぁ。まともな人間がやることじゃないよ」と思っていました(笑)。

ラグビーの早慶戦

ラグビーの早慶戦

ところが、その年の夏に初めて見た試合でラグビーの虜になってしまったわけです。金沢市(石川県)でオープンゲームとして早慶戦がありまして、その時に早大のえんじと黒のジャージ、慶應義塾大学の黄色と黒のジャージとが混ざった鮮やかな光景に目を奪われました。「うわぁ、小学校で見たお兄ちゃんたちとは全然違う!」と。あんなに泥だらけで汚かった選手たちが、パリッとジャージを着こなしているんですからね。「こんなに変わるのか」と衝撃を受けました。そして「ラグビーって、こんなにかっこいいんだ。よし、オレもラグビーをやるぞ!」となったわけです。試合後に父親が「どうだ?面白かっただろう?」と言うので、「面白かった!僕もやりたい!」と言ったんです。そしたら「ラグビーをやるのは大変だぞ。しっかりやれよ」と言われたのを覚えています。

―― 中学校を卒業して、ラグビーをするために金沢二水高校(石川県)に進学されました。

いわゆる越境留学でしたが、普通は勉強のためにするものなんでしょうけれど、私はラグビーをするために越境留学をしました。汽車で通学をしていましたから、朝6時頃に自宅を出て、1時間かけて金沢市まで行っていました。とにかくラグビー命でしたね。

金沢二水高校時代

金沢二水高校時代

―― 当時、金沢二水高のラグビー部は県内随一の強豪校でした。

あの頃は石川県内にラグビー部がある高校は5つほどしかありませんでした。その中では、ライバルがいないというほど圧倒的に強かったですね。実は、金沢二水高のラグビー部は私の父親が指導して創ったんです。

―― ポジションはスタンドオフでしたが、ご自身で希望されたのでしょうか。

野球ではキャッチャーをやっていましたから、司令塔というポジションが合っていたんでしょうね。それと結構、私はキックが巧かったんですよ。

スタンドオフは勘というものが非常に重要なポジション。激しい試合でも常に冷静に相手のウィークポイントを見つけてチームを動かすのがスタンドオフとしての一番の面白さでしたね。自分のキックでフォワードを走らせ、バックス(最前線でパスなどでボールをつないだり、サインプレーを駆使するなどしてトライを狙うポジション)にどうつないでいくか。そして一番の理想は、最後に自分がボールを取って、トライすると(笑)。

―― 残念ながら花園で行われる全国大会には行けませんでした。

当時は、花園には北陸の3県(富山県、石川県、福井県)から1校しか行けなかったんです。それで、いつも北陸地区の決勝で魚津高校(富山県)に負けていました。ただ、私の父親が「第三者的に公平に見ても、喜朗たちの代が一番強かった」と言ってくれました。それが嬉しかったですね。とはいえ問題の多いチームでしたよ。私が2年生の時には「喫煙事件」がありました。3年生の先輩はほとんど煙草を吸っていたんです。古い校舎でしたから、のこぎりで部室の床をくりぬいて、そこに煙草の吸殻を隠していました。それである日、部室に入ったら校長先生が立っていたんです。みんな「まずいな」と思いましたが、案の定、校長先生は穴が開いている床を指して、「これは何だ」と。結局、煙草を吸っていることがばれてしまったんです。

早大時代

早大時代

煙草を吸っていたのは3年生でしたが、私たち下級生も含めて部員全員が校長室に呼ばれまして、「ラグビー部は当分の間、休部だ」と言われてしまいました。ところが、その後に生徒指導課長の先生に私一人呼ばれて「こんなことになって、君はお父さんに対して恥ずかしくないのか?」と言われたんです。その通りだな、とは思いましたが、私がやったわけではないですから「でも、仕方ないです」と答えました。

そしたら「一つだけ条件を出す。君がキャプテンになって、もう煙草を吸わないという実績が残せたら、本校の校技と言われているラグビー部の活動を認めてあげよう。ただし、一人でも吸っている者がいたら、今度は休部ではなく廃部だからな。どうだ、やれるか?」と。

そう言われたら、やるしかないでしょう。やらなければ、ラグビーができないわけですから。ですから「はい、やります」とキャプテンを引き受けました。それで部員全員を集めて「煙草を吸うなとは言わない。学校の外で吸う分には好きなだけ吸えばいい。ただし、校内では絶対に吸わないようにしてくれ」と言いました。それでもやっぱり、我慢できずに吸う選手はいましたね。ラグビー部は廃部にはなりませんでしたが、見つかった選手は優秀な選手でも退部させました。

国会内で早大・雄弁会時代の先輩議員と(中央)

国会内で早大・雄弁会時代の先輩議員と(中央)

―― 高校卒業後、子どもの頃から憧れ続けてきた早大ラグビー部の一員になられました。

嬉しかったですよ。ですから意気揚々と入部したわけですが、言い方は悪いけれど、全くと言っていいほどチャンスをもらえませんでした。もう初めから「今年はこのポジションには誰々」というふうに全て決められてしまっていて、一軍、二軍、三軍とありましたが、三軍にさえも入れてもらえない我々のような「その他大勢の選手」には、いつまでたっても何も声がかからなかったんです。いつもボール拾いのようなことばかりさせられていました。それに耐えるべきだったのかもしれないけれど、やっぱりラグビーをするために入ったわけですから、だんだんとイライラが募りまして、それが胃にきて体調を崩してしまったんです。それで大西先生に相談すると「少し休みなさい」と言われました。でも、それでなくてもメンバーに入れてもらえないのに、休んでしまったらなおさら入れてもらえなくなってしまう。それで「もう、ダメだな」と思ったんです。
今思えば、少し結論を出すのが早すぎたかもしれないけれど、その時は「いつまでたっても状況が変わらないのに、続けていても仕方ない。ここでラグビー以外の次の道を考えなければいけないな」と思いました。もし、その時にやめずに最後まで続けていたら、どこかのタイミングで起用してもらって、大学卒業後はラグビー部のある企業に就職できたかもしれません。

ただ、あの時に辞めたからこそ、こうやって政界に進出して、総理大臣にまでなったわけで、人生というものは本当にわからないなと思いますね。
だから高校生や大学生に講演でよく言うのは「人生というのはラグビーボールみたいなもの」ということ。「予想した通りにボールは転がらず、思いがけないところに飛んでいってしまう。それでも繰り返し練習をしていくと、自然とボールが落ちてくる先に体が行くものだし、体が行く方向にボールが弾んでくれるもの。それを会得するには、練習あるのみ。つまり、人には必ずチャンスが訪れるのだから、希望を持って諦めずに人生を歩みなさい」と。

市民に根付いている「ラグビーの町」としての誇り

衆議院初選挙で応援に訪れた岸元首相(中央)。その左が森喜朗氏(小松駅前、1969年)

衆議院初選挙で応援に訪れた岸元首相(中央)。
その左が森喜朗氏(小松駅前、1969年)

―― 大学卒業後は、産経新聞社に入社されて、1969年に衆議院議員に初当選されました。政界に入ってすぐに教育問題を旗印に掲げられました。

「教育」という言葉はあまり好きではなくて、私がやろうとしたのは「人づくり」。人間というのは人や環境によって人間形成されます。なのに、現在の子どもたちはかわいそうですよ。小さい頃から「勉強しなければ、いい高校、いい大学に入れない」と言われて、机に向かわされてばかりですからね。本当はどの子にもいろいろな才能があるはずなのに、その才能を見る前に大人は「この問題を解きなさい」と言うわけです。こういう人間教育をやっている限り、この国の将来はないなと、私は思います。

確かに、今の若い人たちには「優秀な人」はたくさんいます。ただ、私から言わせれば「賢い人」は少ない。そういう中で、スポーツの重要性を感じています。もちろん、野球やサッカーでもいいのですが、なかでもラグビーというスポーツには、「助け合うこと」「信頼をすること」「犠牲的精神」「勇気」という人間形成の総合的な要素が詰まっている。これらを備えて社会に出たら、必ず立派な賢い人間になりますよ。しかし、これらは学校ではなかなか教えることはできない。だからこそ、スポーツをすることが大事なんです。

現在、日本には子どもたちが裸足で自由に駆け回れるグラウンドが少ないですよね。なぜ、オーストラリアやニュージーランドのラグビーが強いかというと、そこら中に芝生のグラウンドがあるからです。私がラグビーワールドカップを招致して良かったと思うのは、12の開催都市に立派なラグビー競技場が用意されたことです。そこで子どもたちが思い切り走り回ってくれたらいいなと思っているんです。それこそが、ワールドカップ開催のレガシーとなります。

この歳になって改めて思うのは、私の父親は立派な人だったなということ。若い時代をほとんど戦争に奪われて、何を楽しみに生きていたかと言えば、やっぱり息子である私なんですよね。ところが、中途半端にラグビーを辞めてしまって、父親の楽しみを私自身が奪ってしまった。本当に申し訳なかったなと今頃になって気が付きました。ですから、いつか冥土で父親に会った時には「親父、ちゃんと自分がやるべきことをやってきたよ。日本でラグビーワールドカップを開催して、これだけ盛り上がったよ」と報告したいなと思っているんです。

釜石がラグビーワールドカップ日本の国内開催都市に決定(2015年)(写真提供:釜石市)

釜石がラグビーワールドカップ日本の国内開催都市に決定(2015年)
(写真提供:釜石市)

―― そのラグビーワールドカップが、いよいよ今年開催されます。全国12会場で行われるわけですが、特に森さんは釜石市(岩手県)への強い思いを述べておられました。「日本でラグビーワールドカップを開催するのに、釜石市でやらないという選択はない」と。

何も釜石市を特別視しているわけではないんです。ただ、ラグビーにおいて釜石市を無視するわけにはいかないと。釜石市は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けました。さらに、かつては実業団ラグビーの黄金時代を築き上げた新日鐵釜石の母体であった新日鐵が2001年にスポーツ事業の見直しを理由に撤退しました。にもかかわらず、その後、ラグビー愛好家が集まって、「釜石シーウェイブスRFC」としてチームは再始動した。今ではトップリーグで活躍していた選手が第一線から退くと、「仲間に入れてくれ」とシーウェイブスに入って、楽しみながらラグビーをやっていますよね。やっぱり釜石市は「ラグビーの町」。形は変わってもラグビーへの愛情は消えなかったんです。

―― ただ、被災地がラグビーワールドカップの開催地として手を挙げることは、簡単なことではなかったのではないでしょうか。

震災後、釜石市を訪れると、野田武則釜石市市長が「森さん、この釜石でラグビーワールドカップをやらせてください」と言ってこられたんです。でも、現在「釜石鵜住居復興スタジアム」がある場所は、津波に襲われた小学校の跡地で、当時は荒地があるだけでしたから、「この状態で、どうやって競技場を作るんだい?」と言いました。そしたら「それを作るのが政治家でしょう」と言われてしまいましたよ。「うん、まぁ、そうだな。できる限りのことはしてみよう」と言って、競技場建設に向けて動き始めたんです。

東大阪・花園ラグビー場(写真提供:花園ラグビー場)

東大阪・花園ラグビー場
(写真提供:花園ラグビー場)

―― 釜石市に行くと、「あの時、森さんが動いてくれたおかげ」と感謝の言葉をよく耳にします。

ただ、当時は反対の意見も随分とありましたよ。「こんな大変な時に、ラグビーワールドカップどころじゃないだろう」と。でも、すっかり寂しい町になってしまった釜石市に活気を取り戻すには、やっぱりラグビーしかないわけですよ。だから本当に良かったと思います。釜石市だけでなく、熊谷市(埼玉県)や東大阪市(大阪府)も頑張ってくれて、立派な競技場ができましたよね。花園競技場がある東大阪市は野田義和市長が「ラグビーW杯を日本で開催するというのに、高校ラグビーの聖地である花園で試合をしないなんて考えられない」と言って、近鉄から花園を買い取りました。というのも、当時の競技場のままではラグビーワールドカップの試合をする基準には達していませんでしたから、大規模な改修工事が必要でした。ところが、当時は近鉄という企業の所有物でしたから、公的資金を投入することができなかったんです。そこで私が野田市長に「どうする?」と言ったら、「買いましょう。費用はなんとかします」と言ってくれました。結局、市民からも反対の声はほとんど聞かれなかった。やっぱり東大阪市民はラグビーの聖地があるということに対して誇りを持っているんですよね。

熊谷スポーツ文化公園・ラグビー場

熊谷スポーツ文化公園・ラグビー場

熊谷市もそう。特に関東圏内のラグビーにとって、熊谷スポーツ文化公園はなくてはならない場所。園内には3面あって、一度に3試合を行うことができ、本当に助かっていた。「その熊谷市でラグビーワールドカップの試合を招致しないなんて、どう市民に説明するのか」と、富岡清熊谷市市長も立ち上がってくれた。ただ、ラグビーワールドカップの試合をするためには、拡充しなければならず、膨大な費用がかかった。それをどうするかというのが問題でした。

そうしたところ、上田清司埼玉県知事が「それでは、県がその費用をもちましょう」と言ってくれたんです。国立競技場の完成が間に合わず、横浜市の会場で決勝をすることになったのも、黒岩祐治神奈川県知事の協力があったからこそでした。結局は、やっぱりきちんと判断、決断することのできるリーダーがいるかどうかが重要だということです。

―― では、ラグビーワールドカップの成功とはどういうものだとお考えでしょうか?

まずは12の開催都市の競技場が満員の観客で沸き返ること。そしてラグビーというスポーツが日本に根付き、野球、サッカーとともに日本の「3大スポーツ」だというふうになること。もう一つ、本音を言えば、日本代表チームが世界の強豪国に対抗できるような強いチームになること。

ただ、これは現実的に言えば、もう少し時間がかかるだろうなとは思いますが、「日本も強くなったね」と言ってもらえたらなと。ベスト8に入ってくれれば最高ですが、それが叶わなくても、「惜しかった。でも、本当に強くなったね」というようなことを、日本国内からも海外からも言ってもらえるような試合をしてもらいたいと思います。

日本ラグビーフットボール協会会長時代、代表キャップ授与式(中央、2014年)

日本ラグビーフットボール協会会長時代、代表キャップ授与式
(中央、2014年)

―― また、今大会はアジアで初のラグビーワールドカップ開催ということも重要な意味を持っています。これから日本はますますアジアのラグビー界を牽引するリーダー役が求められていくのではないでしょうか。

私が日本ラグビーフットボール協会会長を務めていた時にIRBの総会で述べたのは、アジアにラグビーを普及させていきたいということ。アジアでは国同士での衝突があるけれども、それこそ衝突はラグビーでやればいい。それは私自身が大西先生に教わったことですが、それを伝えるために、ラオス、カンボジア、インドなどを回りました。そうすると、どこの国でもラグビーへの期待は大きいんです。普及拡大にはまだまだ時間を要すると思いますが、将来、アジアのどこに行ってもラグビーが盛んに行われているというようになれば、日本でラグビーワールドカップを開催したことが、世界のラグビー界にとって新たな歴史の一歩となることは間違いありません。

―― アジアで普及を進めていくには、やはり金銭的支援も日本はしていく必要があるのではないでしょうか。

これはスポーツ界全体に言えることですが、もっとスポーツ振興くじの「toto」や「BIG」を拡充して手厚いものにしなければいけないと思います。totoが導入された当初は、「文部科学省が博打をやるのか」などと散々に言われましたが、結局totoを導入したからこそ、今日のスポーツ界があるわけです。ですから、サッカーのJリーグだけでなく、もっと他の競技にも広げていくべきです。そうすれば、スポーツに興味を抱く人も増えるはずです。totoやBIGも、今ではずいぶんと浸透、定着してきていると思いますので、これをスポーツ界の財源として、アジアのスポーツ振興にも使っていけるようになるといいと思います。

*「スポーツ振興くじ」(toto・BIG)とは、収益金を財源に誰もが身近にスポーツに親しめる、あるいはアスリートの国際競技力向上のための環境整備など、新たなスポーツ振興政策を実施するために導入されたもの。

人生で一番の幸せはラグビーで得られた出会いの数々

IOCバッハ会長と握手(中央右がバッハ会長、左が森喜朗氏)

IOCバッハ会長と握手(中央右がバッハ会長、左が森喜朗氏)

―― ラグビーワールドカップ開催の翌年には、東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。

まさに社会的転換期と言えると思います。例えば、パラリンピックをきっかけにして共生社会を実現していこうという動きが活発化しています。そのこと一つとっても、オリンピックとパラリンピックを同じ組織にして良かったと思いますよ。それこそ、今ではパラリンピックの選手も人気が高いですよね。ただ、大事なのはこれを一過性のものにするのではなく、2020年以降も継続していかなければいけないということです。

―― 2020年東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとなる国立競技場の後利用については、いろいろと意見があがっていますが、どのようにお考えでしょうか。

「球技場」として、サッカーやラグビーができるように改修されるという方向に傾いていますが、私は、国立競技場を活かす政策をもう一度、考えていかなければいけないと思っています。いずれにしても、国立競技場をラグビー場も含めるなんて、ラグビー界にとってそれは逆に迷惑な話ですよ。ラグビーの聖地は、やはり秩父宮ラグビー場ですし、せっかく建て替えの話もあがっているわけです。

じゃあ、どうするのかと言えば、私は国立競技場は陸上競技場のまま残すべきだと思います。なぜなら、2020年東京オリンピック・パラリンピックでは陸上競技で何度も日の丸が掲揚されるはずです。その競技場を、わずか1、2年で芝生を敷き詰めてサッカー場にするというのはあまりにも寂しい。オリンピック・パラリンピックで素晴らしい成績をおさめた歴史のある会場として、陸上競技の聖地とすべきです。甲子園や花園のように、若い陸上競技選手が目指すべき場所として残していかなければいけません。

―― 最後に、森さんにとって、ラグビーとはどんなものでしょうか?

私の人生そのものですよ。いつもサインをする時には「楽しく、苦しく、美しく」という言葉を添えるんです。これは大西先生のご自宅に「ラグビー庵」と題して、その言葉が飾ってあって、「あぁ、ラグビーとはこのことを言うんだな」と。ラグビーに少し触れただけかもしれないけれど、私は良い人生を送ったなと思っているんです。苦しかったこと、嫌なことはいっぱいありました。しかし、ラグビーに触れたおかげで、たくさんの出会いがあった。それが私の人生において一番の幸せだと思っています。

新国立競技場・完成予想図(内観)

新国立競技場・完成予想図(内観)

ラグビー・森 喜朗氏の歴史

  • 森 喜朗氏略歴
  • 世相

1871
明治4
イングランドでラグビーフットボール協会(ラグビー・フットボール・ユニオン)が創設
初の国際試合がイングランドとスコットランドの間で行われる
1883
明治16
初の国際大会であるホーム・ネイションズ・チャンピオンシップ(現・シックス・ネイションズ)が開催
1886
明治19
国際統括団体である国際ラグビーフットボール評議会(現・ワールドラグビー)創設
1899
明治32
慶應義塾大学の教授でケンブリッジ大学のラグビー選手でもあったクラーク氏と、
同大学の選手でもあった田中銀之助が日本で初めてラグビーの指導を開始
1900
明治33
ラグビーが夏季オリンピックに採用される (1924年のオリンピックで終了)
1911
明治44
同志社大学でラグビー部が創部される
1918
大正7
早稲田大学でラグビー部が創部される
1919
大正8
第1回日本フットボール大会(現・全国高等学校大会)開催
1921
大正10
京都帝国大学、東京帝国大学(現・京都大学、東京大学)でラグビー部が創部される
1924
大正13
関東ラグビー蹴球協会(現・関東ラグビーフットボール協会)創設
1926
昭和元
西部ラグビー蹴球協会(現・関西ラグビーフットボール協会)創設
日本ラグビーフットボール協会が、関東ラグビーフットボール協会と、関西ラグビーフットボール協会の統一機関として創設
1928
昭和3
高木喜寛氏、日本ラグビーフットボール協会の初代会長に就任
第1回東西対抗ラグビー、甲子園球場にて開催
1929
昭和4
近鉄花園ラグビー場が完成
全日本学生対全日本OBの試合を、秩父宮両殿下が台覧
1930
昭和5
日本代表、カナダで初の海外遠征を行う(6勝1分)

  • 1937森 喜朗氏、石川県に生まれる
1942
昭和17
日本ラグビーフットボール協会、大日本体育大会蹴球部会に位置づけられる

  • 1945第二次世界大戦が終戦
1947
昭和22
秩父宮殿下、日本ラグビーフットボール協会総裁に就任
九州ラグビー協会(現・九州ラグビーフットボール協会)創設
東京ラグビー場(現・秩父宮ラグビー場)が竣成

  • 1947日本国憲法が施行
1949
昭和24
第1回全国実業団ラグビー大会開催
1950
昭和25
第1回新生大学大会開催
「全国大学大会」の名称となる

  • 1950朝鮮戦争が勃発
  • 1951安全保障条約を締結
1952
昭和27
全国実業団ラグビー大会、第5回から全国社会人ラグビー大会に改称
1953
昭和28
田辺九萬三氏、日本ラグビーフットボール協会の2代目会長に就任
東京ラグビー場を秩父宮ラグビー場に改称

  • 1953森 喜朗氏、金沢二水高校に入学。
     小学生の時に、早稲田大学ラグビー部が地元の根上町で合宿を行ったことがきっかけで、「早稲田大学のラグビー部に入る」と決意。
     石川県下でラグビーが強かった同校に入学し、ラグビー部キャプテンを務める
  • 1955日本の高度経済成長の開始
1956
昭和31
香山蕃氏、日本ラグビーフットボール協会の3代目会長に就任

  • 1956森 喜朗氏、早稲田大学に入学。
     ラグビー部に入部するも4か月で退部し、早大雄弁会に所属。自民党学生部に入党
  • 1960 森 喜朗氏、早稲田大学を卒業し、産経新聞社に入社
1961
昭和36
第1回NHK杯ラグビー試合(現・日本選手権)開始

1962
昭和37
秩父宮ラグビー場、国立競技場に移譲

  • 1962森 喜朗氏、産経新聞社を退社し、衆議院議員 今松 治郎氏の秘書を務める
1963
昭和38
日本代表、戦後初の海外遠征(カナダ)

1964
昭和39
第1回日本選手権試合開催

  • 1964東海道新幹線が開業
1965
昭和40
第1回全国大学選手権大会開催

1968
昭和43
湯川正夫氏、日本ラグビーフットボール協会の4代目会長に就任

1969
昭和44
第1回アジアラグビー大会開催され、日本は全勝で優勝

  • 1969森 喜朗氏、衆議院選挙に立候補し、トップ当選。自民党から追加公認を得る。
     政治家として「教育問題」に力を注ぎ、その一環としてスポーツ振興にも積極的に取り組む
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
1970
昭和45
横山通夫氏、日本ラグビーフットボール協会の5代目会長に就任
1971
昭和46
第1次・高校日本代表のカナダ遠征

1972
昭和47
椎名時四郎氏、日本ラグビーフットボール協会の6代目会長に就任

1973
昭和48
全国高校選抜東西対抗試合開始

  • 1973オイルショックが始まる
  • 1976ロッキード事件が表面化
  • 1978日中平和友好条約を調印
1979
昭和54
阿部譲氏、日本ラグビーフットボール協会の7代目会長に就任

1982
昭和57
代表キャップ制度を発足

  • 1984森 喜朗氏、自民党教育改革特別調査会会長、スポーツ振興特別委員長に就任
  • 1969アポロ11号が人類初の月面有人着陸
  • 1982東北、上越新幹線が開業
1987
昭和63
第1回ワールドカップが開催(オーストラリア・ニュージーランドの共同開催) 以後、第7回大会まで日本代表チームは連続出場を果たす

1990
平成2
磯田一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の8代目会長に就任

1992
平成4
川越藤一郎氏、日本ラグビーフットボール協会の9代目会長に就任


1993
平成5
第1回ジャパンセブンズ開催

1995
平成7
金野滋氏、日本ラグビーフットボール協会の10代目会長に就任

  • 1995阪神・淡路大震災が発生
  • 1997香港が中国に返還される
2000
平成12
IRBワールドセブンズシリーズ日本大会開催

  • 2000森 喜朗氏、自民党総裁、第85代内閣総理大臣に就任
2001
平成13
町井徹郎氏、日本ラグビーフットボール協会の11代目会長に就任

  • 2001森 喜朗氏、内閣総理大臣を退任
2002
平成14
女子ラグビーが日本ラグビーフットボール協会に加入
女子ラグビーは、第4回女子ワールドカップに初参加

2003
平成15
ジャパンラグビー トップリーグが社会人12チームで開幕

2005
平成17
  • 2005 森喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会の12代目会長に就任
      森 喜朗氏、日本体育協会(現・日本スポーツ協会)会長に就任
2006
平成18
ジャパンラグビートップリーグチーム数は12チームから14チームへ増加

  • 2008リーマンショックが起こる
2009
平成21
U20世界ラグビー選手権(IRBジュニアワールドチャンピオンシップ2009)開催
2019年ラグビーワールドカップが日本で開催決定

2010
平成22
2019年ラグビーワールドカップ日本開催組織委員会の設立準備を開始

  • 2010森 喜朗氏、ラグビーワールドカップ2019組織委員会 副会長に就任
  • 2011森 喜朗氏、日本体育大学名誉博士に就任
  • 2011東日本大震災が発生
  • 2012森 喜朗氏、衆議院議員引退
2013
平成25
日本ラグビーフットボール協会が公益財団法人へ移行

  • 2014森 喜朗氏、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 会長に就任
2015
平成27
岡村正氏、日本ラグビーフットボール協会の13代目会長に就任

  • 2015森 喜朗氏、日本財団パラリンピックサポートセンター最高顧問に就任
     森 喜朗氏、日本ラグビーフットボール協会 名誉会長に就任
2016
平成28
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピック開催
7人制ラグビーが正式種目として実施