オールブラックス入りを切望された実力
単身でニュージーランドに渡り、カンタベリー州代表としてプレー
―― その試合の活躍がきっかけで、カンタベリー大から声がかかったのでしょうか?
いえいえ、希望したのは私の方でした。ニュージーランドのラグビーと触れ合う中で、「ここでやってみたいな」と思ったんです。楽しいというのもありましたし、自分の技がどこまで通用するか試してみたくなったんですね。オールブラックス・ジュニアとの試合後には、オークランド大学やヴィクトリア大学との交流試合がありまして、その時に当時の団長だった金野滋さんに「ニュージーランドでラグビーをしたいので、一度、話をしてもらえないでしょうか?」と頼み込んだんです。そしたら、「これは代表の遠征だから、個人のことはできない」と。その代わり金野さんが代表チームについてくれていた世話役の人に話をしてくれまして、その人がちょうどヴィクトリア大のOBで、早速面接に連れて行ってくれたんです。それで遠征を終えて帰国した後に、私がニュージーランドに留学に来る、と現地の新聞に載りまして、それを日本人の駐在員が日本に送ってきてくれました。それがサンケイスポーツに大きく出たわけです。
―― 近鉄は承諾したんですか?
最初は、怒られました。「何も聞いてないぞ!勝手なことをするんじゃない!」と。当然ですよね。ただ、運よく南半球だったので、シーズンの時期が重ならないことが幸いしました。日本のシーズンが終わってからニュージーランドに行けばいいということになって、「無給休暇」というかたちで許可を得ました。
ニュージーランド大学選抜に選ばれた際に着用したユニフォーム
―― ということは、自費留学だったわけですよね。費用を工面するのは大変だったのではないでしょうか?
はい、とても苦労しました。親戚を駆けまわって借金をして行ったんです。私が入ったのは、カンタベリー大のラグビーチーム。向こうは大学生でなくてもOBや私のような部外者でも入れるオープンチームなんです。当時、カンタベリー大のクラブには16軍まであって、1軍は他のクラブの1軍と試合をし、2軍は他のクラブの2軍と試合をするといったように、それぞれのレベルと目的に見合ったチームで試合をすることができました。試合が終わってお酒を飲む楽しみなどはどのチームにもありました。
日本のように1チームに100人も置いて、ほとんどの選手が試合に出られないで終わるなんことはないんですね。試合のために練習をするというのが基本的な考え方。試合に出る楽しみもないのに練習だけするなんていうことは考えられないんです。それは、とてもいいなぁと思いました。だから私は大阪体育大学の監督時代には、関西大学リーグに2軍リーグ、3軍リーグまで作って、それぞれ試合を組むようなシステムにしました。
ニュージーランドで「1969年度年間最優秀5選手」に選出される
―― そのニュージーランド留学時代には、ニュージーランド大学選抜や、世界各国から優秀な選手を集めて編成されるバーバリアンズにも選ばれました。翌年にはニュージーランド代表として南アフリカ遠征メンバー候補にも挙げられ、オールブラックス入り寸前までいきました。
私としては、特別に活躍したという実感はなかったんです。でも、現地の人たちの評価は、私が思っていたよりも高かったかもしれませんね。
27試合に出場して30トライを決めたのですが、それはカンタベリー州の中では戦後の新記録でした。そんなことを小さな日本人がやってのけたわけですから、衝撃的だったと思います。
それで1年の留学を終えて帰国するという時に、もう1年残って、ニュージーランド代表として南アフリカ遠征に行ってほしいと言われました。今だったらどんなことをしてでも残っていたと思いますが、当時はそれがどれほどのすごいことなのかを理解していませんでした。それに、日本語は通じない、日本食は食べれない、日本人が一人もいない環境から早く抜け出して、日本に帰りたいという気持ちでいっぱいでした。
就任5年目に訪れた指導者としての転機
―― 1975年1月の日本選手権を最後に現役を引退され、近鉄も退社されました。その後、指導者となるわけですが、やはりそれまで指導を受けた方々の影響はあったのでしょうか?
高校、大学、社会人、日本代表と多くの方々の指導を受けてきたわけですが、実際自分が指導者になった時には、誰の影響も受けることなく、「坂田好弘」独自の考えで指導しました。それも、5年、10年、15年と年数を重ねるにつれて、その指導方法は変わっていきました。私は高校から数えて17年間現役生活を送った後に引退して、2年間の空白の時間を経て大阪体育大学ラグビー部の監督に就任したのですが、その時にまず最初に頭にあったのは、「関西で優勝すること」でした。当時、まだ学生たちは本気で関西一のチームになるなんて思ってもいなかったでしょうけれど、自分が経験してきた同志社大や近鉄での厳しい練習をかけあわせたメニューをこなせば、実現すると信じていました。ですから練習の厳しさだけはどこよりも負けていませんでした。ところが、実際の試合ではなかなか勝てなかったんです。それでも自分もやってきたんだから、厳しい練習さえすれば絶対に勝てるようになると信じていたんです。でも、選手は疲れるばかりで、試合ではまったく勝てませんでした。
大阪体育大学監督としてのラストゲーム。 大学選手権の早稲田大戦。 両チームから花道で送られる。
―― あの時代の坂田さんだったからできたけれど、誰でもできることではなかったということですね。
そうなんです。でも、それが最初はわかりませんでした。だから「まだやれる、まだやれる」と。練習が終わって、選手が少しでも元気そうにしていると、不満に思えて「まだまだ練習量が足りないんだな」と。ですから、試合に負けると、原因は練習量が不足しているか、もしくは選手が悪いとしか考えられませんでした。あの時は、「もっと練習するぞ」と押しつけでしかありませんでしたね。今ではわかるのですが、練習して逆に下手になる練習はいくらでもあるんです。
―― 「下手になる練習」とはどういうことでしょうか?
練習というのは、いい形を体に覚えさせるからこそ成果が出るんです。でも、それを形はいい加減で、ただ長時間やればいいという練習では、どんどん下手になります。体が元気な時の形と、くたくたの時の形では、全然違いますからね。それをくたくたの時の悪い形のまま繰り返し練習すれば、その形で体が覚えてしまうわけです。でも、そのことに気づいたのは、相当後になってからのことでした。
大阪体育大学監督としてのラストゲーム。大学選手権の早稲田大戦。スタンドから戦況を見守る。
―― それからは、指導方法は変わりましたか?
就任5年目の時、選手が試合中に相手と衝突して血を流してグランドに倒れたんです。その時、私はラグビーでは流血なんてよくあることだからと、「放り出せ!」と言いました。すると、隣に座っていたのが、私を学生時代から見てくれていた新聞記者だったのですが、その記者が「坂田!今何て言った?放り出せ、はないだろう!」とものすごい剣幕で怒りだしたんです。その時、私は「何を言ってるんだ?」としか思いませんでした。当時は当たり前のことでしたからね。でも、試合が終わってから少し考えた時に「そうだよな。試合をやっている選手は痛い目に遭って苦しんでいるのに、『放り出せ』なんて言う監督ってどうなんだろう?」と思ったんです。逆の立場だったらどうかなと考えた時に、自分が選手で倒れて「放り出せ!」と言われたら、そんな監督のことは絶対に信用しないなと。その時に初めて「そうだ、やっているのも痛い目に遭っているのも選手なんだ」と気づきました。それを機に、考えがガラリと変わりました。
―― それからは、どのような指導をされるようになったのでしょうか?
選手に練習メニューを考えさせるようにしたんです。そしたらメニュー自体は、私がやらせていたものと、ほとんど変わりませんでした。要はやらされているものなのか、自分たちで考えて納得したものかどうか、ということだったんです。でも、その違いは非常に大きかった。エネルギーの創出量がまるで違ったんです。選手たちから発する言葉も変わっていきました。同じ厳しいメニューのはずなのに、それまで私が「やれ」だったのが、自分たちから「やろう!頑張ろう!」と言い始めたんです。
―― 一歩引いて、視野を広げて見るようになったということでしょうか?
はい、おっしゃる通りです。大体大が強くなっていったのは、それからでした。結局、36年間、指導者をしましたけれども、最終的に行き着いたのは「選手がいてこその自分だったな」と。選手たちから学ぶことはたくさんありました。指導者が上とかではないんですよね。最後は人間同士の付き合いなわけです。
最重要課題は子どものやる気に応える環境づくり
ラグビーを楽しむ子どもたち
―― さて、来年はアジアでは初開催となるラグビーW杯があります。そこでラグビー文化を日本に根付かせていくことが大切になると思いますが、いかがでしょうか。
正直申し上げますと、今の段階では、非常に難しいなと思ってしまいます。もちろん、予定通りに大会が開催されて、試合もスムーズに行われることでしょう。しかし、それで果たしてラグビー文化が根付くかというと、どうかなと。ラグビーの本場と言われる、イングランド、ニュージーランド、オーストラリアというのは、生活の中の一部としてラグビーが溶け込んでいるんですよね。ところが日本では、例えばW杯を観た子どもが「ラグビーをしたい」と思った時に、すぐに始められる環境があるかというとないわけです。
私の自宅の目の前にも、小学校の校庭や公園がありますが、そこに芝生がしかれていて、自由に裸足で駆け回れたり、転げ回ったりできるようになっていれば、ラグビーに限らず、子どもたちがスポーツを始める土壌になると思うのですが、実際はそうではありません。それと拠点となる地域に密着したクラブも少ないですよね。まずはそういう部分での環境を整備していかないと、本当の意味でのスポーツの楽しさ、体を動かす楽しさを、子どもたちに伝えることはできないと思います。
ラグビーワールドカップ2019は9月20日から11月2日の間、日本各地で開催される
―― 今、日本のスポーツ界ではさまざまな問題が噴出しています。特に次世代のことを考えると、課題は山積しているわけですが、ラグビー界はいかがでしょうか?
私が高校でラグビーを始めて約60年が経ちますが、当時ラグビー競技場と呼べたのは東京の秩父宮ラグビー場、大阪の花園ラグビー場、名古屋の瑞穂ラグビー場の3カ所でした。それが60年経った今、どれだけ増えたかというと、ほとんど変わっていません。そういう中でW杯が開催されるわけです。サッカーは2002年にW杯を開催したのを機に競技場が増えて、その後はJリーグで使用されています。
一方、来年のラグビーW杯では12会場中9会場が2002年の時に使用したサッカー競技場なわけです。そして、W杯が終われば、再びサッカー競技場に戻るわけですよね。本来は逆にならなければいけなかったと思います。9会場は新設したラグビー競技場で、残り3会場はサッカー競技場を借りましたと。そうすれば、9会場はW杯後もラグビーに使われるわけです。とにかくやる環境がなければ、スポーツは発展しません。
―― そんな状況の中で、W杯が開催されるわけですが、W杯が終わった後のビジョンをどう描くかということが重要ではないでしょうか。
私もそう思います。今回、約90の自治体が参加国の事前キャンプ地に手を挙げてくれました。ということは、それだけラグビーができる環境があります、ということですよね。そのうち59の自治体が内定したと。落選した30の自治体は何か不備があったのかもしれませんが、それを例えば日本ラグビー協会が支援の手を差し伸べて、ラグビーができる環境の確保をすれば、それだけで違うのではないかと思うんです。そうして、W杯が終わった時に「ラグビーをやりたい!」という子どもが出てきた時に、それぞれの地域のラグビー場を紹介できるようにすれば、広がっていきますよね。そういう子どもたちこそが、W杯開催の最大の財産になると思います。
IRB(国際ラグビーボード)の「ラグビー殿堂」に 日本人初、世界で51人目に選出される
―― 坂田さんは2012年に東洋人として初めて国際ラグビーボード(IRB)のラグビー殿堂いり*を果たされています。そのような立場も含め、坂田さんにとって“ラグビー”とはどのような存在でしょうか、お聞かせ下さい。
ラグビーから数え切れない多くのことを学びました。いわば私にとって人生の師匠のような存在です。ですから、今でもラグビーから離れることはできないんです。
*ラグビー殿堂受賞理由:国際ラグビーボードは、1960年代の世界で最も優れた選手の一人で、おそらく今日にいたるまで日本で最高の選手である坂田好弘氏のラグビー殿堂(IRB Hall of Fame) 入りを決めた。坂田氏は世界で51人目日本人初の殿堂入りとなる。平成24年6月5日