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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

6. パラリンピック その「奥」を見つめよう

【パラリンピックの歴史を知る】

2021.03.08

 障害者スポーツにとって、パラリンピックが最も大事な大会なのは言うまでもない。幅広い注目を集めるのがなかなか難しい現状。となれば、とにかく多くの人々に一度でも見てもらい、わずかでも知ってもらう必要がある。メディアでも頻繁に取り上げられるようになったパラリンピックは、そのための最高の機会だ。ただ、それでもまだ、一般の関心はけっして高いとはいえない。障害者スポーツを広く知ってもらうための「窓」として、パラリンピックはいま、どのような方向へと進んでいくべきなのか。

「パラリンピックの父」ルードウィヒ・グットマン博士

「パラリンピックの父」ルードウィヒ・グットマン博士

 英国ストークマンデビル病院のルードウィヒ・グットマン博士が、パラリンピックのルーツとなるストークマンデビル競技大会を創設してから70年あまり。関係者の努力によってルーツ大会は着々と規模を広げ、国際大会ともなって参加選手と競技数を増やしていった。国際パラリンピック委員会(IPC)が設立されたのち、第1回大会として認定された1960年のローマ大会からは、オリンピック開催国で開かれることも多くなり、その方向性が進んで、1988年のソウル以降はオリンピック開催都市で、その直後に開かれる形が確定した。近年ではオリンピックと同一の組織委員会のもとで開かれるまでになっている。

 参加選手数は、脊髄損傷の車いす選手に視覚障害と切断の選手が加えられた1976年のトロント大会で1000人台に乗り、ニューヨークと英アイレスベリーに分かれて開かれた1984年大会では合わせて2900選手が出場した。大会規模が一気に大きくなったのは、参加国・地域が61にまで増え、選手数が3000人を超えたソウルから。以来、回を追うごとにその数字は上昇の一途をたどり、2012年のロンドンでは164カ国・地域から4237選手が、2016年のリオデジャネイロでは159カ国・地域から4333選手が集結するまでになった。日本からもロンドンには134選手、リオには132選手が参加している。

 こうして発展を遂げたパラリンピック。最近では、オリンピックやサッカー・ワールドカップといった健常者の巨大大会に次ぐスポーツイベントともいわれるようになっている。だが、実際のところはどうなのか。世界各国の一般的なスポーツファンに、あるいはオリンピックやW杯の観戦を楽しむ人々に、その存在はどこまで知られているだろうか。確かに、大会名や、おおざっぱなイメージはだいたいどの地域でも浸透していると思われる。ただ、内容をある程度把握していて、競技もちゃんと見たことがあるかどうかとなると、多くの人が首を横に振るのではないか。そのことはパラリンピックのみならず、障害者スポーツ全般にも共通しているに違いない。

 「世界一のオリンピック好き」といわれる日本でも状況は同じだ。大会規模が大きくなってからも、新聞やテレビなどのメディアで詳しく報じられることはなく、競技結果や記録もあまり伝えられてこなかった。1998年の長野冬季大会はそれなりに報じられたものの、これは自国開催ゆえの、いわば特例。競泳の成田真由美選手のように際立った活躍をすれば、ひとつの話題として取り上げられることもあったが、パラリンピックの全体像が一般に広く知られるまでには至らなかったのが、最近までの状況である。

2013年9月、2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催が決定

2013年9月、2020年オリンピック・パラリンピックの東京開催が決定

 近ごろはそれが大きく変わってきている。夏季大会でいえば、2008年の北京あたりからは、新聞やテレビが日本勢の結果を中心として本格的に報道するようになった。ロンドン、リオとなると取材も多岐にわたるようになり、主要紙にはオリンピックと同様の特設面もつくられた。パラリンピックを取り巻く環境は一気に様変わりしつつある。2020年(21年に延期)の東京開催が決まってからは、さらにメディアによって取り上げられる回数が増えた。劇的な変化と言っていい。

 しかし、である。実際のところ、それによって世間一般にパラリンピックの中身が広く知られるようになってきたかといえば、とてもそうは思えない。パラリンピックの名は皆が知っていても、障害者のオリンピックという曖昧なイメージを多くの人が持っていたとしても、その実像があまり知られていないのにはさほど変わりがないように思える。メディアの報道のみが上滑りしているようにも見えるのだ。

 パラリンピックには肢体不自由、視覚障害、知的障害の選手が出場し、それぞれの障害の種類や度合いによって、さらに細かくクラスが分けられている。それに合わせてルールも細かく定められている。陸上の100mに20にも及ぶクラスがあるように、ひとつの競技に多様な形が含まれているから、一見しただけではわかりにくいのは否めない。障害によって動きに制約があり、その魅力がなかなか見えてこないという側面もある。そうしたことから、一般のスポーツファンは、これを「競技」としてとらえてこなかった。従って、大きな競技大会に寄せられるはずの関心もほとんど生まれなかった。近年までメディアが詳しく報じてこなかったのもそれゆえだ。「競技」としての認知度の低さが、そのままパラリンピックの認知度が深まってこなかったことにつながっているのである。

 もちろん、障害者スポーツに、わけてもその最高峰であるパラリンピックに競技としての魅力、面白みがたっぷりと詰まっているのは言うまでもない。ただ、健常者スポーツにひけをとらないシーンもある一方で、ややもするとその面白みが見えにくい競技・種目も少なくないのがパラリンピックというものだ。とはいえ、そうしたものも、ちらりと目を向けるだけでなく、ある程度の知識を頭に置きつつ、じっくりと腰を据えて観戦すれば、じきにその面白さがくっきりと見えてくる。目をこらして見つめていれば、それはしだいに輝き出すのである。

 そのことをいかに一般のファンに伝えるか。競技としての面白さをいかに広く知ってもらうか。隠れた魅力までもあますところなく見せるにはどうしたらいいのか。華やかなスポットライトを浴びながらも、世間一般からの関心はなかなか高まらないパラリンピックには、いま、その模索こそが求められている。進化を続け、大きな存在になったパラリンピックは、進化し、大きくなったがゆえに、また新たな課題に取り組まねばならなくなったとも言えるだろうか。

 そこで直面している問題のひとつが、競技性重視の方向へと一気に突き進むかどうか、ということだ。

 障害者スポーツは年を追うごとに進歩し、幅を広げ、レベルを上げてきている。トレーニングのメソッドも健常者スポーツの場合と同様に進化しており、記録やプレー、パフォーマンスの向上が著しい。チームスポーツの戦術、戦略の緻密さも、健常者競技に劣らない。スポンサーを得てプロ的に活動する選手も目立つようになってきた。大会も増え、国際ランキングなども導入されている。

 そうしたレベルアップの一方で、選手たちを取り巻く競技環境はどうか。日本の場合をみれば、まだまだ整っているとは言えない。練習場所も練習時間も指導者も十分ではないのが実情だ。そのため、本格的にトップを目指そうとする選手もさほど増えてはいないように見える。時代に先駆けて競技に取り組み、世界で活躍してきたベテランが、一転して苦戦を余儀なくされているケースをしばしば見かけるが、それも国際的なレベルアップと、相変わらず整わない国内の競技環境とのギャップゆえだろう。

 ただ、それでも数々のハンディを乗り越えて競技力向上をはかるトップアスリートたちの進歩は目覚ましい。世界各国の競技力の進化も加速している。そこで、健常選手と同様の、あるいはそれ以上の競技者魂を持つ選手たちは、パラリンピックがいっそう競技性を重視した方向へ進むべきだと考えるようになった。障害者スポーツに対する「競技」としての認知度を上げるためにも、その最高峰であるパラリンピックの競技性をより高めていく必要があるということだ。「多すぎるクラスの数を絞って、メダルの価値を高めるべき」というのは、競技性重視を求める選手たちの主張のひとつである。

 このことは、国際オリンピック委員会(IOC)と緊密な協力関係を結ぶなどして、パラリンピックの総合的な発展を目指すIPCの方針とも一致している。このところのパラリンピックは、オリンピックと同じく、標準記録を突破し、国際ランキング上位に位置していなければ出場できないエリート大会となっており、そのうえで、健常者のビッグイベントにも肩を並べる競技大会を目指して、競技性重視の道を着々と歩んでいる。その過程ではクラスの削減・統合なども行われているようだ。

 競技力の向上が発展のために欠かせないのは言うまでもない。だが、競技性重視ばかりを追い求めていくと、どうなるだろうか。たとえば、クラス削減がもたらす影響は、たとえひとつだけであろうと、けっして小さくない。見た感じがほとんど同じでも、障害の部位や程度がちょっと違えば、競技力に大差がつく場合が少なくないのだ。ひとつクラスを統合するだけでも、まったく勝負にならなくなり、出場を断念せざるを得ない選手が大勢出るのである。それが大会全般にわたってさらに進めば、多くの選手がパラリンピックから置き去りにされる事態も招きかねない。

2019年8月に行われたパラリンピック1年前カウントダウンセレモニー

2019年8月に行われたパラリンピック1年前カウントダウンセレモニー

 パラリンピック本来の精神は、障害者スポーツの可能性を広く示すことだろう。それによって多くの障害者がスポーツに触れるようになり、また、健常者も含めた社会全体に対して、共生社会の実現をアピールすることにもつながるからだ。その本来の目的を忘れるわけにはいかない。障害者スポーツを競技として確立するために、競技力を向上させるのも必須。公平性、平等性を保って多様な選手を受け入れ、それによって幅広い可能性を示していくのも大事。パラリンピックには、双方ともに必要なのではないか。相反するようにも見える二つの要素を両立させ、融合させることが、いまのパラリンピックには求められているのではないか。

 競技性と平等性の両立。何とも難しい課題だ。だが、模索の努力を怠るわけにはいかない。パラリンピックが成長し、進化し、これだけの存在になったからこその課題なのである。新時代への扉を開くためにも、障害者スポーツ界はこの難問の答えを見つけ出さねばならない。

最後につけ加えておきたいのはメディアの役割である。共生社会実現への一助として、障害者スポーツ、その象徴でもあるパラリンピックの実像を世の中に広く知らせていくのは新聞、テレビをはじめとするメディアの責務だ。

 2020(21)年東京パラリンピックの開催が決まって以来、メディアで取り上げられる件数は飛躍的に増えた。が、それで十分とはいえない。件数もさることながら、問題はその内容である。先に触れたように、障害者スポーツは、じっくりと腰を据え、目をこらして観なければ、その魅力は見えてこないものなのだ。競技や選手について、ある程度の予備知識も持っていた方がいいだろう。通り一遍の紹介やきれいごとだけの報道では何も伝わらない。障害者スポーツの真の姿、その魅力や面白みを広くわかってもらうためには、まず、どのように向き合い、どう理解すべきかということを繰り返し、丁寧に伝えていかなければならない。

 オリンピックであれば、どの競技であれ、ひと目見ればそのレベルの高さ、パフォーマンスの素晴らしさがわかる。だが、パラリンピックの場合は、「奥」や「裏」を知らなければ、そのすごさがわからない場合もある。さまざまな障害による身体的な制約がある中で、観客の目を見張らせるプレーやパフォーマンスを実現するには、どのような練習やどのような努力が必要なのか。そうした困難な挑戦を、選手たちはどのような思いを抱いてやり遂げていくのか。そうした「奥」や「裏」をできる限り伝えていくのがメディアの役割だ。それらの知識が広く共有されれば、いままで以上に多くの人々が興味と関心を寄せるようになる。障害者スポーツを本当に理解してもらうためには、何を、どう伝えるべきか。パラリンピック報道は、各メディアの意識の深さが問われる場でもある。

 コロナ禍により、2021年の東京パラリンピック開催には不透明さがつきまとっている。ただ、開催可否はどうあれ、人々が障害者スポーツの持つ意味やパラリンピック開催の意義に思いを致すきっかけとなったのは間違いない。そのきっかけを太い流れにつなげて、2021年を共生社会元年としたいところだ。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。